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書類は嘘をつかない  作者: れーやん
三回死んだ相続人

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第9話 幽霊の診断書

 翌朝六時に、スマートフォンが鳴った。


 角田は炬燵から手を伸ばした。画面に「黒田」とある。通話ボタンを押す前に、廊下の底冷えが足の裏を噛んだ。


「検視が出た」


 黒田の声は低く、乾いていた。背後で誰かが怒鳴っている。横手署の中にいるのだろう。


「一酸化炭素中毒。ヒーターの不完全燃焼で、室内のCO濃度が致死量を超えた——というのが横手署の見解だ」


「見解」


「ああ。見解な。事故で処理する気満々だ。ただし俺は署の連中に一つ聞いた。ヒーターの給排気口を調べたかってな」


「……結果は」


「排気口に灰が詰まってた。ファンヒーターの排気口ってのは外に出てる。外側から灰を押し込めば、排気が逆流する。部屋の中にCOが溜まる。本人は寝てりゃ気づかない。朝には冷たくなってる」


 角田は何も言わなかった。


「それと、もう一つ。俺は地面師の件で秋田地方法務局に捜査関係事項照会をかけてる。そのついでに、平成二十六年の死亡届の届書も閲覧させてもらった。法務局が保管してる原本だ」


「……平成二十六年の」


「ああ。お前が法務局から取った記載事項証明書は、届出人の部分だけ請求したんだろう。原本の右半分——死亡診断書に、医者の署名がある」


 角田の背筋が伸びた。


「診断書に署名してる医者の名前。小野寺忠明。小野寺医院。横手市鴉森」


 角田は手帳を開いた。赤ペンのキャップを外した。インクはまだ出た。


 ——小野寺。


 昨日、公証役場で遺言の証人欄に見た名前。善造の主治医。そして今、平成二十六年の死亡診断書の作成者。


「角田。死因は肝硬変だ。だがな、一郎は昭和六十二年から行方不明だ。平成二十六年の時点で、二十七年間消息がない人間の肝臓を、誰が診たんだ」


「……診ていない」


「そういうことだ。医師法二十条。自ら診察しないで診断書を交付した。この診断書は——」


「紙屑です」


 黒田が短く笑った。


「お前の言い方だとそうなるな。俺は今日、慎二の足取りを追う。慎二は須藤の件の前後に鴉森にいた形跡がある。お前は小野寺に当たれ。志織さんの名義で善造の診断記録を請求できるか」


「遺言能力を争うための資料として、相続人からの開示請求は可能です。正面から行きます」


「正面から行け。裏口は俺の担当だ」


 電話が切れた。角田は赤ペンで手帳に書き加えた。


 ——小野寺忠明。診断書の作成者=遺言の証人=善造の主治医。三つの顔。



        *



 車は県道を南へ走った。志織が運転し、角田は助手席で手帳を見ていた。


 横手の市街地に入る手前で、角田が「止めてください」と言った。


 道沿いに食堂があった。屋根の低い木造の建物で、暖簾に「比内地鶏」と書いてある。駐車場に軽トラックが三台。地元の客が入る店だった。


「食事を取ります」


「……今、ですか」


「空腹で書類を読むと行間が飛びます。小野寺先生と話す前に、頭を動かせる状態にしておきたい」


 志織は何か言いかけたが、やめた。車を停めた。


 カウンターに並んで座った。壁のメニューに「親子丼」「焼き鳥定食」「地鶏うどん」。角田は親子丼を二つ頼んだ。


「私は——」


「頼みました」


 角田は茶を啜った。志織はカウンターの木目を見ていた。


 七分後に丼が出てきた。


 蓋を取ると、炭火の匂いがした。地鶏の皮に焦げ目がついている。卵は半熟で、箸を入れると黄身が崩れて飯に染みた。出汁の醤油が甘い。秋田の醤油だった。


 角田が箸をつけた。肉が硬い。噛まなければ味が出ない。角田は黙って噛んだ。


 志織が丼を見ていた。箸を持ったが、動かなかった。


 角田は自分の丼を食べ続けた。何も言わなかった。半分ほど食べた時、志織の箸が動いた。一口。二口。三口目で、志織の咀嚼が少しだけ速くなった。


 二人とも、丼を空にした。


 角田が会計を済ませた。店を出ると、空気が冷たかった。息が白い。胃の中の熱が、体の芯に残っていた。



        *



 小野寺医院は、鴉森の集落から県道を一本入った場所にあった。


 木造二階建て。壁のモルタルが所々剥がれている。玄関の上に「小野寺医院 内科・外科」の看板。文字が褪せて読みにくい。駐車場に車は一台だけだった。


 待合室に患者はいなかった。長椅子が三脚、壁に沿って並んでいる。ビニールの座面が裂けて、中のスポンジが見えている椅子がある。壁に古い健康ポスターと、手書きの「インフルエンザ予防接種のお知らせ」が貼ってあった。


 受付の窓口にいた女性が、角田の名刺を見て奥に消えた。


 三分後、診察室に通された。


 小野寺忠明は、七十代後半に見えた。白衣ではなく、紺のカーディガンの上に聴診器を掛けている。頭髪は薄く、頭頂部の地肌が蛍光灯に光っていた。デスクの上に診察券の束と、黄ばんだカルテの山がある。パソコンはなかった。すべて手書きだ。


「行政書士の角田先生。……志織さんの代理で来られた」


「はい。草薙善造さんの遺言に関して、善造さんの医療記録の開示をお願いしたい」


 小野寺の目が角田の名刺に落ちた。名刺をつまむ指が、わずかに止まった。


「善造さんの記録ですか」


「ええ。善造さんは令和三年十一月に公正証書遺言を作成しています。遺言能力の有無を確認するために、作成前後の認知機能に関する診療記録が必要です」


「遺言能力を争うおつもりで?」


「可能性の一つとして、検討しています」


 小野寺は椅子の背にもたれた。カーディガンの胸元を片手で押さえた。


「……善造さんは頑固な人でしてね。八十を過ぎても頭はしっかりしておられた。物忘れは歳相応でしたが、自分の名前も住所も生年月日も言えた。遺言を作る能力は、あったと思います」


「先生は遺言の証人でもいらっしゃる。善造さんが公証人の前で自分の意思を述べた場に、立ち会われた」


「ええ。宮城先生と私の二人で」


 角田は頷いた。鞄からクリアファイルを出した。


「もう一つ、確認させてください。平成二十六年の話です」


 小野寺の指が、カーディガンの釦を握った。


「草薙一郎さんの死亡届が、平成二十六年に秋田市で提出されています。死因は肝硬変。この届に添付された死亡診断書に、先生の署名がありました」


 小野寺は動かなかった。蛍光灯の音が、天井から落ちてきた。


「……どこでそれを」


「死亡届の原本は行政機関が保管しています」


 角田の声は平らだった。小野寺のデスクの上で、カルテの山が微かに震えた。暖房の振動だった。


「先生。一郎さんを最後に診察されたのは、いつですか」


 小野寺が口を開いた。閉じた。もう一度開いた。


「……一郎さんは、私の患者ではなかった」


「患者ではない方の死亡診断書に、先生が署名された」


「善造さんに頼まれたんです」


 小野寺の声が、半音下がった。


「善造さんが来た。平成二十六年の春だった。一郎の死亡届を出したい、診断書を書いてくれと。理由は聞かなかった。聞けなかった。善造さんは——あの人は、この村で一番頑固な人間だった。頼み事をする人じゃない。その善造さんが頭を下げた。それだけで、断れなかった」


「診察せずに死亡診断書を作成された。いえ——一郎さんが先生の患者でなかったのなら、書式は死体検案書です。しかし死体も見ておられないのではないですか」


 小野寺の喉が動いた。


「……見ていない」


 角田は赤ペンを持ったまま動かなかった。


「医師法第二十条に違反します。加えて、診察も検案もせず死亡診断書を作成したのであれば、虚偽診断書の作成にあたる。先生はそれをご存じだった」


「知っていた」


 小野寺の視線が、デスクの隅に落ちた。


「……あの時の善造さんの顔が。頼みに来た時の。あの人がこの診察室で座って、膝の上に手を置いて……あんな顔は見たことがなかった。この村で一番頑固な人間が、震えていた」


「届出人の署名も、先生が書かれましたか」


 小野寺の目が揺れた。


「……何のことです」


「平成二十六年の死亡届。届出人欄に『草薙善造』の署名がある。しかし筆跡が善造さん本人のものと一致しません。善造さん以外の誰かが、善造さんの名前で署名した」


 角田はクリアファイルから二枚の書類を出した。公正証書遺言の謄本——小野寺の証人署名があるもの。そして、平成二十六年の死亡届のコピー。


「先生。署名の『善』の字をご覧ください。三画目の長さ。縦の払い。死亡届の偽署名と、先生の普段のお書きぶりに——」


 小野寺がカルテの山に手を伸ばした。一番上のカルテを取り、角田に見えない角度に引き寄せた。だが遅かった。角田の目は、カルテの表紙に小野寺が記入した患者名を見ていた。


 「善」の字はなかった。だが「寺」があった。「小野寺」の「寺」。五画目の縦棒の止め方。筆圧の入り方。


 角田の視線が、死亡届の「善造」の「造」に移った。しんにょうの跳ね方。ペンが紙を離れる角度。


 同じだった。


「先生。届出人の署名も、先生がお書きになった」


 小野寺は何も言わなかった。カルテを胸の前で両手に持っていた。壁が薄い。待合室の時計の秒針が聞こえた。


「……須藤さんが亡くなったそうですね」


 角田の手が止まった。


「昨日の朝、消防の人間から聞いた。須藤さんは私の患者でもあった。血圧の薬を出していた」


 小野寺の声が低くなった。


「善造さんのことを知ってる人間が、また一人死んだ。次は私かもしれんと思った。……いや、違う。次は私の番だと思ったから話すんじゃない。須藤さんが死んで、黙ってることに耐えられなくなった」


「善造さんに頼まれたんです」


 同じ言葉が、二度目に出た。


「善造さんは診断書だけでなく、届出の全部を私に任せた。自分では一文字も書かなかった」


 小野寺の手がカルテの端を掴んだ。


「……書けなかったんだろう。自分の手では」


「なぜ、一郎さんを殺す必要があったのですか」


 小野寺の肩が落ちた。


「土地です。草薙の土地に抵当権をつける話が持ち上がった。相続人の全員の同意が要る。だが一郎は二十七年間行方不明だ。同意なんか取れない。一郎が生きている限り、土地は動かせない」


「一郎さんを死亡させれば、相続人から外せる」


「善造さんは最初、拒んだ。だが金が要った。宮城先生が——あの人が善造さんに話を持ってきた。抵当権の設定で資金を作れると。条件は、一郎の死亡届を出すことだった」


 角田の赤ペンが手帳の上を走った。


 ——宮城が土地の話を持ちかけた。善造が小野寺に診断書を依頼。小野寺が診断書+届出人署名の両方を代筆。善造は一文字も書かなかった。


「先生。では、宮城先生は平成二十六年の件をご存じだった」


「宮城先生が全部仕切った。私は診断書と届出を書いただけだ。届出先を本籍地の横手ではなく秋田市にしたのも宮城先生の指示だった。遠い役場に出せば、精査されにくい」


 角田は書類をクリアファイルに戻した。


「それで——善造さんは一郎さんを殺した後、どうされましたか」


 小野寺が角田を見た。


「先生は善造さんの主治医だった。長年診ておられた。善造さんがその後、どうされたか」


 小野寺の目に、何かが滲んだ。角田はそれが何か、名前をつけなかった。


「……後悔ですよ。善造さんは金を手にした後、すぐに後悔した。一郎を——紙の上で殺したことを、悔やんだ。それからしばらくして、善造さんは私に言った。『一郎を戻す方法はないか』と」


「戻す」


「戸籍に戻すと。一郎を、生きている人間に戻すと。私には分からなかった。戸籍のことは善造さんのほうが詳しかった。善造さんは自分で何かをした。何をしたかは聞かなかった。だが次に善造さんの戸籍を確認した時——遺言の準備で宮城先生と三人で集まった時——一郎は、戸籍に載っていた。生存者として」


 角田は目を閉じた。


 善造は一郎を殺した。金のために。自分の手では書けず、小野寺に全てを任せて。そして後悔した。後悔して、戸籍の知識で一郎を生き返らせた。殺して、生き返らせた。同じ人間が。同じ紙の上で。


 角田の指が、膝の上で強張った。


 書類を扱う人間として、その執念が分かった。分かることが苦しかった。善造にとって戸籍は道具ではなかった。一郎を生かしておくための、たった一つの場所だった。


 そして三度目は慎二が殺した。善造の意思ではない。善造にはもう止める力がなかった。


「先生。ありがとうございました」


 角田は立ち上がった。


「ひとつだけ。善造さんの診療記録の開示請求書を置いていきます。志織さんの署名入りです。必要な手続きを踏んでいただければ」


 小野寺は頷いた。立ち上がる時に、膝が音を立てた。


「角田先生」


「はい」


「善造さんは——悪い人じゃなかった」


 須藤と同じ言葉だった。角田は何も言わず、頭を下げた。



        *



 駐車場に出ると、空がまた曇っていた。志織は車の中で待っていた。エンジンは切ってある。窓が内側から白く曇っていた。


 角田がドアを開けると、志織が口を開いた。


「角田先生。話があります」


 角田は助手席に座った。ドアを閉めた。


「桐の箱のことです」


 角田は志織を見た。志織はフロントガラスの曇りを見ていた。


「父が亡くなった後、私は蔵の中を整理しようとしました。弟の——慎二と二人で。その時に、蔵の奥に桐の箱があるのを慎二に見せたんです」


「見せた」


「私は子供の頃から、あの箱のことを知っていました。中に産着と、何か古い紙が入っていた。紙には『千』で始まる名前が書いてあった。それだけは覚えていました。慎二には見せたことがなかった。でもあの日——父が亡くなった直後、相続のことで慎二と話していた時に、つい言ってしまった。蔵に古い書類があると」


「慎二さんが持ち出した」


「はい。翌日にはもう、箱がなくなっていました。私が角田先生に相談する前のことです」


 志織の手が膝の上で握られていた。


「須藤さんが亡くなったのは——私が先生を呼んだからです。そして桐の箱がなくなったのは、私が慎二に話したからです。全部、私が——」


「志織さん」


 角田の声は、食堂で「頼みました」と言った時と同じ温度だった。


「桐の箱の中身は、千一郎の産着と、おそらく千蔵に関する書類です。慎二さんがそれを持ち出したのは、出生の秘密を隠すためでしょう。一郎が善造の実子でないことが証明されれば、一郎名義の相続が崩れる。慎二さんにとっては不都合だった」


「はい」


「ですが、千一郎が善造の実子でないことは、須藤さんの証言と蔵に残っていた写真で既に確認しています。桐の箱がなくても、主張の骨格は崩れていません」


 志織が角田を見た。


「それから。須藤さんの件は、志織さんの責任ではありません。須藤さんは、善造さんのことを話したいと思っていた。黒田さんが尋ねなくても、いずれ誰かに話したでしょう。あの方は——」


 角田は言葉を止めた。須藤の顔が浮かんだ。みかんを剥いていた手。灰色のフリース。善造は悪い人間じゃなかった——あの声。


「あの方は、黙っていられない人でした」


 志織の目が赤くなった。唇を噛んだ。指が震えていた。


「……運転します」


「お願いします」


 車が動いた。角田は助手席で手帳を開いた。赤ペンのキャップを外した。


 三度の死。


 一度目は運命。二度目は金。三度目は慎二。


 そして二度の復活は——善造の愛。


 角田は書いた。ペンのインクが掠れた。文字が薄い。東京から持ってきた赤ペンは、もう限界に近かった。


 ——宮城は共犯者であり演出家。小野寺は実行者。善造は依頼者であり、被害者でもある。


 ペンが紙の上を滑った。インクが出なかった。角田はペンを振った。薄く、赤い線が戻った。


 あと数行分だろう。次のページに、最後の一行を書いた。


 ——残る問題:宮城が守ろうとしているものは何か。


 ペンを胸ポケットに戻した。


 車の窓の外で、鴉が一羽、雪の畑の上を低く飛んだ。

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