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書類は嘘をつかない  作者: れーやん
三回死んだ相続人

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第8話 空の灰皿

 煙突から煙が出ていなかった。


 角田は足を止めた。須藤の家はトタン屋根の平屋で、昨日来た時には煙突の先から白い煙が冬空に立ち上がっていた。今日は何もない。煙突の口が灰色の空に穴を開けているだけだ。


「黒田さん」


「ああ」


 黒田も見ていた。朝八時。気温はマイナス六度。この寒さで暖房を止めている家はない。


 志織が後ろで立ち止まった。


「須藤さん、朝は早い人です。五時には起きて——」


「分かってる」


 黒田が角田の前に出た。歩く速度が変わった。肩が下がり、腕が体から離れた。足音が、雪を踏む音から、地面を確かめる硬い響きに変わっていた。


 玄関のチャイムを押した。音が家の中に吸い込まれた。返事がない。もう一度。ない。


 黒田が引き戸に手をかけた。鍵は開いていた。


「須藤さん」


 黒田が声をかけた。靴を脱がずに、土間から居間を覗いた。


 石油ファンヒーターが止まっていた。唸りがない。居間の空気は冷え切っている。吐く息が白い。


 須藤は座卓の前にいた。


 上半身が座卓の上に突っ伏している。灰色のフリース。右手が座卓の縁から垂れ、指先が畳に触れていた。みかんの籠は座卓の端に寄せられていた。


「待ってください」


 角田が前に出ようとした。黒田の腕が遮った。


「触るな。何にも触るな」


 黒田が靴のまま居間に上がった。須藤の首に二本の指を当てた。三秒。指を離した。


「冷たい。死後かなり経ってる」


 黒田が振り返った。角田がこれまで見たことのない顔だった。頬の肉が落ち、顎の線が浮いている。昨夜ビールを飲んでいた男と同じ顔には見えなかった。


「角田。志織さんを外に出せ。車の中で待たせろ。それから一一〇番しろ。秋田県警横手署だ」


「……ええ」


「通報の時に、変死の届出だと言え。俺は警視庁捜査一課の者だと伝えろ。名前は黒田」


 角田は振り返った。志織が玄関の上がり框に手をついて立っていた。顔から色が抜けていた。


「志織さん。外に出ましょう」


 志織は動かなかった。視線が須藤の背中に固定されている。


「志織さん」


 角田が志織の肘に手を添えた。志織の体が硬かった。引き戸を押し開けて外に出た。冷たい空気が顔を叩いた。志織が一歩踏み出した時、膝が折れた。角田が支えた。


「須藤さん——須藤さんが——」


 志織の声が途切れた。角田は志織を軽自動車の助手席に座らせた。エンジンをかけた。暖房が吹き出すまで三十秒かかった。


 携帯電話を取り出した。指先が、雪の冷たさとは違うものに震えていた。


 一一〇番。通話が繋がるまでの間に、角田は玄関の方を見た。引き戸は開いたままだった。黒田が中で何かを見ている。


「秋田県警横手署に繋いでください。変死の届出です。場所は横手市鴉森——」



        *



 横手署のパトカーが来るまでに二十五分かかった。その間、黒田は居間から出てこなかった。


 パトカーから降りたのは制服の巡査二人と、私服の刑事一人だった。刑事は五十代で、厚い防寒着を着ていた。名札は見えなかった。


「通報者の方は」


「私です。角田と申します」


「中は」


「同行者の黒田が中にいます。警視庁捜査一課の——」


 刑事の顔が変わった。


「警視庁?」


「ええ。別件でこちらに来ています」


 刑事が家の中に入った。巡査がその後ろに続いた。角田は外に残った。


 車の中で、志織が動かなかった。目を開いているのか閉じているのか、角田には見えなかった。


 十分後、黒田が玄関から出てきた。煙草に火をつけた。深く吸い込んで、煙を吐いた。


「角田」


「はい」


「灰皿が空だ」


 角田は黒田を見た。


「灰皿が空だった。昨日、お前も見ただろう。吸い殻が十本は溜まってた。みかんの種もあった。座卓の上にはみかんの皮が散らかってた。今は全部ない。灰皿は洗ってある。座卓の上は拭いてある」


「……誰かが片づけた」


「須藤のじいさんは一人暮らしだ。あの散らかし方を見りゃ分かる——掃除をする男じゃない。昨夜、客が来た。客が帰った後に、痕跡を消した」


 黒田が煙草を地面に落とし、踵で踏んだ。


「ファンヒーターは灯油切れで止まってた。室温が零度近くまで下がってる。死因はまだ分からん。検視待ちだ。だが——」


「だが」


「じいさんの右手の人差し指と親指に、朱肉がついてた。薄いが、ついてた」


 角田の頭の中で、何かが繋がりかけた。朱肉。捺印。須藤が何かに判を押した——あるいは押させられた。


「もう一つ。座卓の下に紙切れが一枚落ちてた。じいさんの尻の下に敷かれてて、刑事が動かした時に出てきた。便箋だ。三行だけ書いてある。『千一郎の件に関する私の記憶は事実と異なる部分があり、訂正します』」


 角田の体が動かなくなった。


「……撤回の書面だ」


「ああ。須藤のじいさんが昨日お前に話した証言を、撤回する書面だ。途中で終わってる。最後まで書けなかったのか、書かなかったのか。だが印は押してある」


 角田は雪の上に立ったまま、須藤の家を見ていた。煙のない煙突。開いたままの玄関。


 昨日、あの居間でみかんを剥いていた手が動かなくなっている。善造は悪い人間じゃなかった——そう言った声が、もう聞こえない。


「角田。お前のせいじゃない」


 黒田が言った。角田は黒田を見なかった。


「俺たちが昨日来なくても、須藤のじいさんは宮城に目をつけられてた。村が狭いってことは、じいさんが何を知ってるかも宮城は分かってたってことだ。俺たちが来たから殺されたんじゃない。じいさんが知ってることを、いつか話す可能性があったから消された」


「……まだ殺されたとは決まっていません」


「ああ。決まってない。だから調べる。それは俺の仕事だ」


 黒田が角田の肩を掴んだ。


「角田。お前の仕事は何だ」


 角田は答えなかった。


「書類だろう。じいさんは死んだが、紙は残ってる。お前の鞄の中にな。須藤の証言がなくなっても、紙だけで戦えるか」


「……戦えるかどうかは分かりません」


「分からなくていい。やるかやらないかだ」


 角田は目を閉じた。三秒。開けた。


「やります。公証役場に行きます」


「行け。志織さんも連れていけ。ここにいても辛いだけだ。俺は横手署の連中と話す」


 黒田が家の中に戻った。角田は車に向かった。


 助手席の志織は、フロントガラスの向こうの雪を見つめていた。目が乾いていた。まばたきをしない。ワイパーの動きを数えているように、一点を凝視していた。


「志織さん。横手の公証役場に行きます。運転できますか」


 志織は角田を見た。五秒ほど間があった。


「……運転は、できます」


「お願いします」


 志織がハンドルを握った。エンジンがかかった。車が動き出した。バックミラーに、須藤の家が小さくなっていった。煙のない煙突が、灰色の空に突き刺さっていた。



        *



 横手公証役場は、横手駅から徒歩八分の商業ビルの二階にあった。


 角田は受付で名刺を出した。


「行政書士の角田です。公正証書遺言の謄本交付を請求したい。遺言者は草薙善造。作成は令和三年十一月。請求者は相続人の草薙志織で、委任状と、遺言者の除籍謄本、請求者の戸籍謄本はこちらです」


 受付の女性が委任状を確認した。昨夜、しょっつる鍋の後に志織に書いてもらったものだ。


 十五分後、角田の手元に公正証書遺言の謄本があった。


 椅子に座り、開いた。昨夜記憶から書き写した内容と照合した。一字の違いもなかった。


 角田は最後の頁を開いた。証人欄。宮城泰三の自署。


 鞄から、もう一枚の書類を取り出した。クリアファイルに入れてある。平成二十六年の死亡届の記載事項証明書のコピー。届出人「草薙善造」の署名。


 二枚を並べた。


 宮城泰三の「泰」の字。二画目の横棒が右に長く跳ねている。「三」の字は三本の横棒の間隔が等間隔ではなく、一画目と二画目の間が狭い。


 平成二十六年の死亡届。届出人「草薙善造」の「善」の字。三画目が短く、縦の払いが深い。角田が東京で、昭和六十二年の署名と比較して「骨が違う」と判断した筆跡。


 二つの署名は——素人目にも、別人のものだった。字の骨格が違う。宮城の筆跡と、偽の「善造」の筆跡は、一致しない。


 角田の赤ペンが止まった。


 宮城ではない。


 二枚目の死亡届を善造の名前で署名した人間は、宮城泰三ではなかった。


 角田は書類を睨んだ。では、誰だ。


 善造の名前で、善造とは違う筆跡で、平成二十六年の死亡届に署名した人間。宮城でもない。善造でもない。第三の人物がいる。


 角田は椅子の背に体を預けた。ここまで積み上げてきた推論の一つが崩れた。宮城が偽署名者でないなら、宮城は何者だ。嘘を知りながら遺言を書いた男。共犯者なのか、利用された側なのか。


 角田は公正証書遺言の証人欄をもう一度見た。宮城泰三の隣に、もう一人の証人の署名がある。小野寺。善造の主治医。


 角田は赤ペンのキャップを外した。手帳を開き、一行書いた。


 ——小野寺?


 ペンを止めた。飛躍だった。主治医の署名と死亡届の偽署名を照合する手段は、今の手元にはない。素人判断で字の骨格が似ていると感じただけだ。だが、善造の認知機能の低下を証言できるのは主治医だ。遺言能力の判断にも関わっている。そしてその主治医が、遺言の証人でもある。偽署名者であるかどうかに関わらず、小野寺には会う必要がある。


 角田はクリアファイルに書類を戻した。


 公証役場を出ると、志織が車の中で待っていた。ハンドルに額を載せている。寝ているのか、起きているのか分からなかった。角田がドアを開けた音で、志織が顔を上げた。


「……角田先生。何か分かりましたか」


「宮城先生は、二枚目の死亡届の署名者ではありませんでした」


 志織の目が揺れた。


「では、誰が——」


「分かりません。まだ」


 角田は助手席に座った。


「志織さん。須藤さんの指に朱肉がついていたそうです。須藤さんは昨夜、何かに判を押した——あるいは押させられた。証言の撤回を求める書面が見つかっています」


 志織の手がハンドルの上で白くなった。


「志織さん。須藤さんは最後に、善造さんのことを『悪い人間じゃなかった』と言いました。あの言葉は須藤さんの本心です。撤回の書面は、本心ではない」


「……先生」


「はい」


「須藤さんは、父のために死んだんですか。それとも——」


「分かりません。黒田さんが調べています」


 志織はハンドルから手を離し、膝の上に置いた。指が震えていた。


「帰りましょう」


「……はい」


 車が動いた。横手の街を抜け、県道に出た。雪がちらつき始めていた。


 角田は助手席で手帳を開いた。赤ペンで、時系列の最後に一行書き加えた。


 ——須藤死亡。証言消失。書類のみ。


 ペンのインクが薄くなっていた。東京から持ってきた赤ペンの残りが少ない。角田はキャップを閉め、ペンを胸ポケットに戻した。


 フロントガラスの向こうで、雪がまた強くなった。ワイパーが左右に動いている。志織は前を向いたまま運転していた。何も言わなかった。


 角田も何も言わなかった。車内に、暖房の温風だけが回っていた。朝から何も食べていなかった。腹は鳴らなかった。

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