第7話 代書人の矜持
母屋の居間は広かった。
十二畳の座敷に、黒い漆塗りの座卓。床の間には掛け軸が下がっている。墨で書かれた「草薙」の二文字。額装ではなく軸装。古い。
慎二が座卓の上座に座っていた。宮城がその右隣。角田と志織が下座に案内された。黒田は入口の柱に背を預け、立ったままだった。
「座りなよ」
慎二が黒田に声をかけた。黒田は首を振った。
「いい。立ってる方が性に合う」
宮城が座卓の上に、一通の書類を置いた。横置き。角田の正面に、読める向きで。
公正証書遺言。
角田は手を出さなかった。まず目だけで見た。表紙の右上に公証人の番号。その下に作成日。令和三年十一月八日。
「善造さんが、生前に残されたものです」
宮城が言った。
「公証人は横手の三浦先生。証人は二名。私と、もう一方は善造さんの主治医の小野寺先生です」
角田は書類に手を伸ばした。表紙をめくった。
第一条。遺言者草薙善造は、秋田県横手市鴉森字下川原一番地から八番地までの土地、および同所所在の建物一切を、長男草薙一郎に相続させる。
第二条。前条の長男草薙一郎が遺言者に先立って死亡した場合、前条の財産は三男草薙慎二に相続させる。
角田の指が止まった。
「……一郎さんに相続させる。先立って死亡した場合は慎二さんに」
「ええ。善造さんは一郎さんの安否を、最後まで気にかけておられた。認定死亡の後も、生存の可能性を捨てきれなかった。その万一に備えた予備的遺言です」
角田は第三条を読んだ。志織には遺留分相当額の現金を支払う。金額は明記されていない。「相続開始時の不動産評価額の六分の一」と記されている。
六分の一。角田はその数字を見た。相続人が三人——一郎、志織、慎二——を前提にした計算だった。一郎が死亡していれば相続人は二人、志織の遺留分は四分の一になる。この遺言は一郎を「生きている人間」として扱っている。
第四条。遺言執行者として宮城泰三を指定する。
角田は最後の頁を見た。善造の署名。公証人の署名と職印。証人二名の署名——宮城泰三と、小野寺某。
角田は書類を座卓に戻した。
「宮城先生。一つ確認させてください」
「どうぞ」
「この遺言は令和三年の十一月に作成されています。一郎さんの三度目の死亡届が受理されたのが、令和三年です。届出人は慎二さん。死因は交通事故。善造さんはこの届出をご存じだったんですか」
慎二の関節がミシリと鳴った。座卓の下で拳を握っているのを、角田は見ていた。
宮城は表情を変えなかった。
「善造さんは当時、認知機能が低下しておられました。日常のことは分かりましたが、書類の処理は難しくなっていた。慎二さんが代わりに手続きを行ったと聞いています」
「善造さんの認知機能が低下していた、と」
「ええ」
「認知機能が低下した方が、令和三年十一月に公正証書遺言を作成された」
宮城の右手が座卓の上で微かに動いた。
「遺言能力と日常の認知機能は異なります。角田先生もご存じでしょう。公証人が本人の意思を確認し、判断能力に問題がないと認めた上で作成しています。公正証書遺言の要件は満たしている」
「満たしている、ということは、善造さんは令和三年十一月の時点で遺言能力を有していた」
「公証人がそう判断しています」
「では、善造さんは慎二さんが一郎の死亡届を出したことを知らなかったが、遺言を作る判断力はあった。そして宮城先生が遺言の作成をお手伝いされた」
宮城は首を傾けた。座卓の上の遺言書を、人差し指でゆっくり回して自分の側に引き寄せた。
「角田先生。私は代書人です。依頼者の意思を書面に残すのが仕事だ。善造さんが『慎二に土地を残したい』とおっしゃった。私はその意思を、法的に有効な形にしただけです」
「代書人」
「古い言い方ですがね。この辺りでは、行政書士よりそう呼ばれることの方が多い」
角田は何も言わなかった。
「角田先生」
宮城が身を乗り出した。声が低くなった。
「先生は東京から来たばかりだ。この辺りの冬は長い。余計な風邪を引く前にお帰りになった方がいい」
角田は宮城の目を見た。宮城は微笑を消していた。
「宮城先生。一つよろしいですか」
「どうぞ」
「この遺言で宮城先生は証人であり、遺言執行者でもある。そして現在、慎二さんの側に立っておられる。三つの立場を兼ねていることになりますが」
宮城の指が座卓の上で止まった。
「遺言執行者は相続人全員の利益のために職務を行うものです。特定の相続人の代理人ではない。法律の基本ですが」
「ええ。だからお聞きしています。どの立場でここにおられるのか」
宮城は立ち上がった。コートを手に取った。
「角田先生。戸籍は法律だ。しかしこの村には、法律の外に六十年の暮らしがある。先生が紙の上に見つけた矛盾は、あの家が生きてきた時間そのものだ」
「戸籍は法律です。暮らしが法律の外にあるとは思いません」
宮城は角田を見た。視線が剥製じみた精度で角田のネクタイの結び目に止まっていた。
「この遺言は有効です。志織さんには遺留分を保証する。それが善造さんの意思です」
角田が言った。
「遺言のコピーをいただけますか」
「公証役場で謄本を取れますよ。角田先生ならご存じでしょう」
宮城は遺言を鞄にしまった。
慎二が立ち上がった。宮城の後ろに立った。角田を見た。目が充血していた。
「姉さん。……悪いけど、親父はこう決めたんだ」
志織は宮城が遺言をしまった鞄を見つめていた。唇が白かった。何か言いかけて、やめた。
宮城と慎二が居間を出た。玄関の引き戸が閉まる音がした。
黒田が柱から背を離した。
「角田。あの遺言、崩せるのか」
「公正証書遺言は、三種の遺言の中で最も争いにくい。公証人が関与している以上、方式の不備は主張しにくい」
「じゃあ詰みか」
「いえ。遺言で処分できるのは遺産だけです。一郎が善造の実子でないことが確認されれば、一郎に関する遺言の条項は前提を失う。そして、遺言能力の問題は残っている」
「さっき宮城は、公証人が判断能力を認めたと言ったぞ」
「宮城先生がそう言っただけです。公証人の判断記録を確認する必要がある。公証役場に行きます」
志織が立ち上がった。足元がふらついた。角田が手を伸ばしかけたが、志織は自分で体を支えた。
「……角田先生。あの遺言、父の字でした」
「ええ」
「父の字だったんです。間違いなく」
角田は頷いた。
「善造さんの意思で作られた遺言だとしても、それがすべてとは限りません。遺言の内容と、戸籍の真実は、別の問題です」
志織は目を伏せた。角田はそれ以上何も言わなかった。
*
宿に戻ったのは午後五時を過ぎていた。
日はとうに落ちている。雪は午後から止んでいたが、気温が下がり、道路の表面が凍り始めていた。志織の軽自動車のタイヤが何度か滑った。
山荘かわむらの玄関を開けると、女将がストーブの横で漬物を切っていた。
「おかえりなさい。今日はお鍋にしましたよ。しょっつる鍋。ハタハタが入ったの」
「ありがとうございます」
志織は二階の部屋に上がった。角田と黒田は一階の食事処に通された。座卓の上に、すでに土鍋がのったカセットコンロが置かれていた。
女将が蓋を開けた。
薄い琥珀色の出汁が煮立っている。湯気と一緒に、鋭い匂いが立ち上がった。魚を塩で漬け込んで絞った液体の匂い。醤油とも味噌とも違う、発酵した魚の内臓の匂い。角田は一瞬、顔をしかめた。
「慣れますよ。最初はちょっと強いけどね」
女将が笑った。土鍋の中に、銀色の小さな魚が五、六匹、丸ごと沈んでいた。頭もついている。白い豆腐と長葱が、魚の間に詰められている。
「ハタハタは骨ごと食べられますからね。卵が入ってるのもありますよ」
女将が去った。黒田はすでに箸を割っていた。
「うめえ匂いだ」
黒田がハタハタを一匹、箸でつまみ上げた。皮が破れて、白い身が崩れかけた。そのまま口に入れた。
「……おう。こいつは」
噛んだ。骨が柔らかい音を立てた。黒田の顔が変わった。
「しょっぱい。だが、しょっぱいだけじゃねえ。魚の出汁がすげえ」
角田は豆腐を箸で取り、口に入れた。出汁を吸った豆腐は表面が茶色く染まっていた。塩味の奥に、魚の旨味が凝縮されている。匂いから想像したほどの癖はなかった。
黒田が二匹目のハタハタを取った。腹を箸で開くと、橙色の粒が詰まっていた。
「ブリコだ。ハタハタの卵。噛むとプチプチする」
黒田が口に入れた。粒が歯に当たる音が聞こえた。
「角田。食いながらでいいから聞け」
「聞いてます」
「宮城だが——あいつ、善造と組んでたな」
「断定はできません」
「できるだろ。令和三年に慎二が三度目の死亡届を出して、同じ年の十一月に宮城が遺言を作らせてる。偶然じゃねえよ」
角田は出汁を椀に注いだ。一口飲んだ。喉の奥を、発酵した塩の熱が焼いた。だが二口目には慣れた。
「黒田さん。宮城先生は、須藤さんへの訪問を知っていました」
「だな。村が狭いってだけじゃねえ。あいつ、こっちの動きを見てる」
「見ているだけではないと思います。須藤さんが何を証言したか、知りたがっているはずです」
黒田がハタハタの三匹目を取りながら、箸を止めた。
「須藤が危ねえってことか」
「分かりません。ただ、須藤さんの証言は現時点で唯一の口頭証拠です。善蔵が出生届を操作した事実を知る、最後の生き証人です」
「須藤のじいさん、地面師の件でも話を聞いてみたい。善造名義の土地がどう動いてたか、あの年代の役場の人間なら何か知ってるかもしれねえ」
「……ええ」
「嫌な予感もあるしな」
角田は答えなかった。椀の中の出汁を見つめていた。
志織が食事処に降りてきた。座卓の前に座ったが、土鍋には手を伸ばさなかった。
「志織さん。食べてください。明日も長い日になります」
志織は頷いた。箸を割り、豆腐を一つ取った。口に入れてから、しばらく噛まずに止まっていた。飲み込むのに時間がかかった。
「……角田先生」
「はい」
「宮城先生は、父の何を知っているんですか」
「それを確認するために、明日、公証役場に行きます。遺言作成時の記録を見せてもらう。善造さんがどういう状態で遺言を作ったか、公証人がどう判断したかが残っているはずです。それと、善造さんの主治医の診断記録も要る。遺言能力を争うなら、作成前後の認知機能の記録が必要です」
「それと——須藤さんのところにも、もう一度行きたい」
角田の声が低くなった。
「須藤さんに聞きたいことがある。宮城先生と善造さんの関係について。いつから、どういう形で繋がっていたのか。須藤さんなら知っているかもしれない」
黒田が最後のハタハタを椀に取り、骨ごと噛み砕いた。
「俺も行く。須藤のじいさんとは煙草仲間だ。いたほうがいい」
角田は頷いた。
土鍋の底に、出汁がわずかに残っていた。女将がやってきて、残った汁にうどんを入れた。
「〆はうどんですよ。しょっつるの出汁で食べるの、最高ですから」
黒田がうどんを二玉分食べた。角田は半玉を静かに食べた。志織は一口だけ食べて、箸を置いた。
角田が志織に声をかけた。
「志織さん。明日、公証役場で遺言の謄本を取ります。請求には相続人の委任状が要ります。署名と捺印をいただけますか」
「……はい」
志織は頷いた。角田は鞄から用紙を取り出し、その場で志織に書いてもらった。万一に備えて——明日何が起きても、すぐに動けるように。
*
二階の部屋に戻り、角田は炬燵の上に手帳を開いた。赤ペンで遺言の内容を書き写した。記憶を頼りに、条文の番号と文言を再現する。
廊下に足音がした。ドアが叩かれた。
「角田。起きてるか」
黒田だった。角田がドアを開けると、黒田は缶ビールを二本持っていた。一本を角田に押しつけた。
「飲め。顔が紙に見える」
黒田が炬燵の向かいに座った。手帳を覗き込んだ。
「何書いてる」
「遺言の中身です。コピーが手元にないので」
「そういや、あの遺言、わざわざ見せたのは何でだ」
角田の手が止まった。
「……牽制でしょう。この遺言がある限り、何を掘り出しても結論は変わらない、と」
「牽制にしちゃ親切すぎねえか。見せなきゃこっちは遺言の存在自体を知らないままだった」
「それは——志織さんに見せるためです。志織さんに遺言の存在を知らせて、争う気を失わせる。私に見せたのは、ついでだ」
黒田がビールを一口飲んだ。
「で、あの遺言、何がおかしい」
「第一条で一郎さんに土地を相続させると書いてある。第二条で、一郎が先立って死亡した場合は慎二さんに。予備的遺言です」
「ふつうだろ。長男がいなけりゃ次の奴に」
「ふつうです。ただ——令和三年に慎二さんが三度目の死亡届を出している。同じ年の十一月に、この遺言が作られている」
「三度死んでる奴に対して、『死んだ場合は』ってわざわざ書く必要があるのかって話か」
「ええ。それと、遺留分を六分の一と計算している。相続人が二人なら四分の一です。六分の一は三人のときの計算だ。つまりこの遺言は一郎を生きている人間として扱っている」
黒田が缶を置いた。
「三回死んでるのに、生きてる扱いにしないと遺言が成り立たない。だから認定死亡も死亡届も、戸籍上は『なかったことにしてある』——善造が電算化でやったのと同じだ」
「宮城先生は遺言を作る前に相続人調査をしているはずです。戸籍を取れば、一郎が電算化後の戸籍に在籍者として残っていることが分かる。認定死亡の除籍が落ちていることも。宮城先生は全部知った上で遺言を書いた」
角田は手帳をめくった。東京で書いた頁を開いた。
「もう一つ。平成二十六年の死亡届。届出人は善造の名義ですが、筆跡が違う。善造の名前で署名した別人がいる」
「そいつが誰か、だな」
「宮城先生は善造さんの代書人を自称している。善造の意思を書面にするのが仕事だと。善造の署名を代筆する立場にもいた可能性がある」
「筆跡で分かるのか」
「遺言の証人欄に宮城先生の自署がある。あの署名を手に入れれば照合できる」
「だからコピーを求めたのか。断られたが」
「公証役場に行けば謄本が取れます。志織さんの委任状で」
黒田は缶ビールの底を見た。
「角田。あの男は何者だ」
「分かりません。まだ」
角田は赤ペンのキャップを外した。手帳の余白に二文字書いた。
——宮城?
キャップを戻した。
黒田が立ち上がった。空き缶を潰して、ドアに向かった。
「明日の朝、須藤のじいさんのところに行くぞ。早えほうがいい」
「ええ」
黒田が出ていった。廊下を歩く音が遠ざかり、隣の部屋のドアが閉まった。
角田は窓を開けた。夜の冷気が流れ込んだ。雪は止んでいた。空に星が見えた。秋田の冬の星は、東京より近い。
角田は窓を閉めた。手帳を閉じ、布団を敷いた。
眠れなかった。しょっつるの塩辛い味が、まだ舌の奥に残っていた。




