第3話 こまち3号の賭博師
午前七時の東京駅。新幹線ホームの空気は乾いていて、吐く息が白く散った。
角田は改札を抜けてから一度も足を止めていない。鞄はひとつ。着替えと書類のコピーが入った黒いナイロンの手提げで、肩にかけると体に沿って動かない。開業の年に買った。
朝のこまちの朱色の車体が、ホームの奥に停まっていた。盛岡まではやぶさと連結し、切り離されて秋田に向かう。角田は指定席の号車を確認し、乗車口の前に立った。
「おー、角田ァ! 早えな!」
背後から声がした。振り向くと、黒田が売店の袋を両手に提げて歩いてきた。革ジャンの下にグレーのパーカー。目が充血している。
「昨日何時まで大井にいたんですか」
「最終レースまで。負けた。だがな角田、負けは次で取り返す。競馬も捜査も同じだ」
「……同じじゃないと思いますけど」
「同じだよ。張らなきゃ当たらねえ」
黒田が売店の袋から紙箱を取り出した。「鶏めし弁当」と書かれた包装紙。花善、大館の文字。
「秋田の弁当だぞ。東京駅で売ってんだ、便利な時代だな」
「……自分で買いましたけど」
角田の鞄の中には、同じ弁当が入っていた。出張先の駅弁を事前に調べるのは、角田の数少ない習慣のひとつだった。
「被ったか。じゃあ俺の分が二つだ」
黒田は自分の袋をさらに漁り、缶ビールを二本取り出した。
「朝からですか」
「新幹線は非日常だからな。非日常にルールはねえんだよ」
角田はそれに答えず、乗車口のステップを上がった。
*
こまちが東京駅を出て、上野、大宮と停車する間、角田は窓側の席で鞄から書類を出していた。
死亡届の記載事項証明書のコピー三枚。「善」の字を拡大コピーしたものが二枚。それと、昨日自分でまとめた時系列のメモ。
黒田は通路側の席でスポーツ新聞を広げていた。競馬欄にボールペンで印をつけている。角田がテーブルに並べた書類をちらりと見て、すぐ新聞に戻った。
大宮を過ぎると、高架の高さが変わった。灰色のビル群が足元へ沈み、平野が左右に開ける。角田は窓の外を見なかった。テーブルの上の「善」の字を見ていた。
「……黒田さん」
「ん?」
「地面師の件で、登記簿を確認したと言ってましたね。草薙善造名義の土地」
「おう」
「その登記簿に、抵当権の設定はありましたか」
黒田がスポーツ新聞を膝に置いた。
「あったよ。抹消されてたけどな。去年の七月に設定されて、九月に抹消。期間が短すぎるから引っかかったんだ」
「抵当権者は」
「消費者金融。都内の。で、債務者の欄が善造じゃなくて——」
「慎二」
黒田が口笛を吹いた。
「お前、知ってたのか?」
「知りません。ただ、三枚目の届出人が慎二に変わった理由として、金銭問題が最も考えやすい」
「……繋がるな」
「ただ、黒田さん。善造名義の土地に抵当権を設定するなら、善造の実印と印鑑証明書が要ります。善造の同意がなかったなら、それ自体が偽造です」
「じゃあ善造が知ってて判を押したのか」
「親子ですからね。息子の借金のために判を押す父親はいる。だが、善造が同意していたなら——なぜ二ヶ月で抹消されたのか」
「完済したか、別の担保に切り替えたか……」
「あるいは、地面師の件が表沙汰になりかけて、急いで登記を消した」
黒田が唸った。
「令和三年の死亡届。届出人が善造ではなく慎二に変わった。善造が存命だったのに。届出の義務は同居の親族が優先されるから、善造が届けられなかった理由があるか、あるいは善造が一郎の三度目の死を知らなかった。どちらにしても、慎二には善造に知らせずに動く理由があった」
「……角田よ、お前の話はいつも途中で止まるな」
「まだ足りないんです。慎二に会えば分かることがある」
「会えるのか」
「鴉森村にいるはずです。志織が言っていた。実家に住んでいると」
黒田は缶ビールのプルタブを引いた。朝の車内に、気の抜ける音が響いた。隣の席の女性がちらりとこちらを見た。黒田は気にしなかった。
「角田よ、俺はな、書類の読み方は分からん。だがこの件、匂うんだよ」
「何が」
「金の匂い。土地の匂い。あとな——」
黒田がビールを一口飲み、声を落とした。
「家族の匂いだ。家族が絡むヤマは、大体こじれる」
角田は何も言わなかった。テーブルの上の「善」の字のコピーを、クリアファイルに戻した。
*
仙台を過ぎた頃、角田は弁当の包装紙を解いた。
曲げわっぱを模した紙の容器。蓋を開けると、甘辛い醤油の匂いが広がった。新幹線の空調に乗って、すぐに散る。
茶褐色に炊き上げられた米の上に、鶏肉が並んでいる。照りのある皮目。錦糸卵の黄色と、紅生姜の赤。冷めている。駅弁は冷めているものだ。
角田は箸を割った。まず米だけを掬い、隅に寄った錦糸卵の欠片まで箸の先で拾い上げてから口に入れた。粒が立っている。冷めたことで水分が抜け、鶏の出汁が凝縮されている。
黒田はひとつめの弁当を半分で飲み込み、二つめを開けていた。
「お前と飯食うの久しぶりだな」
角田は聞こえなかったように牛蒡の漬物を齧り、また米に戻った。紅生姜を最後に残し、米と一緒に口に入れた。酢の酸味が、鶏の脂を切った。
弁当の蓋を閉じ、包装紙に包み直した。ゴミ袋に入れる前に、包装紙の文字が目に入った。花善。テーブルの上には、さっきクリアファイルに戻した「善」の字のコピーがある。角田は包装紙を畳んで、袋に入れた。
黒田は二つめの弁当を食べ終わり、缶ビールの二本目を開けていた。
「黒田さん、一つ確認しておきたいことがあります」
「おう」
「草薙善造が死んだのは十月十四日です。急性心不全。地面師が善造名義の土地を売ろうとしたのが、去年。善造の死の前ですか、後ですか」
「前だ。善造が生きてる間に、善造じゃない人間が善造のフリをして土地を売ろうとした」
「……つまり、善造自身は土地を売る意思がなかった」
「そういうことだな」
「にもかかわらず、慎二は善造の土地に抵当権を設定した。善造が判を押したとして、それは父親の善意か。それとも——」
新幹線がトンネルに入った。窓の外が黒くなり、車内が静かになった。レールの振動だけが足元から伝わってくる。
「黒田さんの地面師事件と、志織の相続案件。繋がっているとして——」
「おう」
「中心にいるのは、誰だと思いますか」
黒田はビールの缶を傾けたまま、角田を見た。
「お前に聞いてんだよ、それは」
「……書類の上では、まだ誰とも言えません」
「書類の上じゃなかったら?」
トンネルを抜けた。窓の外に、白い山肌が見えた。雪が残っている。
「鴉森村に行けば、分かることがある」
「お前さっきもそう言ったな。会えば分かる、行けば分かる。……角田、お前は書類だけの人間じゃねえよ」
角田はそれに答えなかった。窓の外の雪を見ていた。東京を出て二時間。風景がまったく変わっている。
*
盛岡駅。列車が停まり、連結部が外れる振動が座席に伝わった。
こまちが先に動き出した。窓の外で、はやぶさの緑の車体がゆっくり後ろへ流れていく。
秋田新幹線。単線区間に入ると、速度が落ちた。車窓の雪が深くなっていく。田沢湖のあたりで、空がどんよりと低くなった。
角田のスマホが振動した。
志織からのメール。
「慎二が、父の蔵から何かを持ち出しました。……誰かの戸籍かもしれません」
角田はスマホの画面を見たまま、数秒動かなかった。
黒田が横から覗き込んだ。
「何だ?」
角田はスマホを黒田に見せた。黒田が読み、低く唸った。
「戸籍ね……。蔵に戸籍を隠してる家ってのは、大体ロクなもんじゃねえな」
「蔵ではなく、善造が保管していた可能性もある」
「どっちにしろ、慎二が動いてるってことだ。俺たちが来ることを知ってるのか?」
「志織が伝えた可能性はあります」
「……先手を打たれたな」
窓の外の雪が、さらに密になっていた。
角田は窓に手を当てた。ガラスが冷たかった。
「大曲、あとどのくらいだ」
「もうすぐです」
「そこから横手まで」
「三十分ほどです」
「遠いな」
「ええ」
角田は鞄の中の書類を確認した。改製原戸籍のコピー。記載事項証明書のコピー。職務上請求書の控え。それと、志織から預かった委任状の写し。
窓の外を見た。雪の中に、黒い林が点在していた。鴉の群れが、電線に並んでいるのが見えた。
列車が速度を落とした。大曲。角田は鞄を肩にかけた。




