第3話 窓口の壁
管轄の法務局出張所は、事務所から歩いて十五分の場所にある。
角田は九時の開庁に合わせて出た。手帳と赤ペンとクリアファイルを鞄に入れた。クリアファイルには鉄男の戸籍謄本と、帰化申請書の控えのコピー。原本は事務所の机の引き出しに鍵をかけて入れてある。
三月の風が冷たかった。隅田川を渡る手前で、角田は足を止めた。川面に朝日が反射していた。橋の向こうに法務局の建物が見えた。
戸籍の訂正。帰化によって編製された戸籍の生年月日に、存在しない日付が記載されている。これを正すには、家庭裁判所に戸籍訂正の許可を申し立てるか、法務局長の職権による訂正を求めるか。
職権訂正を求める方が早い。法務局に対して「戸籍の記載に錯誤がある」と申し出て、法務局長が認めれば、家庭裁判所を経ずに訂正できる。
ただし、法務局が認めるかどうかは別の問題だった。
*
二階の戸籍課窓口。角田は来意を告げた。
「帰化による戸籍編製の生年月日に錯誤がある件で、ご相談に来ました。戸籍法二十四条の職権訂正の可否について伺いたい」
受付の職員は奥に引っ込んだ。しばらくして別の人間が出てきた。
猪瀬という名札をつけた男だった。五十代。眼鏡。髪が短く、顔が四角い。シャツの第一ボタンまで留めている。
「戸籍課の猪瀬です。帰化の戸籍に錯誤があるとのことですが」
「はい。帰化許可に基づいて編製された戸籍の生年月日が、昭和三十三年二月二十九日になっています。昭和三十三年は西暦一九五八年で、閏年ではありません。二月二十九日は存在しない日付です」
猪瀬は角田を見た。一秒。それから角田が差し出したクリアファイルを受け取り、戸籍謄本を見た。
「……確かに。昭和三十三年は平年ですね」
「はい」
「帰化申請書の控えはありますか」
「こちらです」
猪瀬は帰化申請書のカーボンコピーを見た。目が細い。文字を追う速度が一定だった。端から端まで、飛ばさずに読んでいる。角田と同じ読み方だった。
「申請書の生年月日も昭和三十三年二月二十九日。帰化許可に基づく届出の際に、この日付がそのまま戸籍に記載されたわけですね」
「そうです。帰化申請書の作成者は当時の行政書士で、外国人登録原票記載事項証明書では昭和三十五年二月二十九日——一九六〇年——となっています。年が二年ずれている」
「外国人登録の原本は」
「手元にあるのは帰化申請時に取得した記載事項証明書の写しです。外国人登録原票の原本については、出入国在留管理庁に開示請求する予定です」
猪瀬は書類を机に置いた。眼鏡を押し上げた。
「角田先生。この戸籍は、帰化許可の決定に基づいて編製されたものです。帰化許可の際に法務大臣が認定した生年月日が記載されている。つまり、この記載は法務大臣の行政行為の結果です」
「はい」
「職権訂正は、市区町村長が管轄法務局長の許可を得て行うものです。しかしこの件は帰化に基づく戸籍ですから、通常の記載錯誤とは性質が異なる。帰化許可の際に法務大臣が認定した事項を、法務局長の判断で書き換えることになる」
角田は黙った。
「端的に言えば、法務大臣の決定を法務局長が覆す形になります。これは簡単には認められません」
「存在しない日付が記載されている。これは客観的な錯誤です」
「客観的な錯誤であることは否定しません。しかし、錯誤であることと、訂正の権限があることは別です」
猪瀬の声は低かった。感情がない。事実を述べている。
「帰化許可の内容に誤りがあった場合、原則として帰化許可自体の修正を法務省に求めることになります。法務局から法務省本省に上申し、法務大臣が帰化許可の内容を修正する。その修正に基づいて戸籍を訂正する。手順としてはそうなります」
「その手続きにはどれくらいかかりますか」
「申し上げにくいですが、通常の帰化申請の審査でも半年から一年かかります。帰化許可の修正となれば、前例が少ない。相当の時間を要する可能性があります」
角田は手帳にペンを当てていた。書いていなかった。ペンの先が紙に触れたまま止まっていた。
「金子さんは余命半年です」
「……承知しています」
猪瀬が「承知しています」と言った。言い方が変わっていなかった。声の高さも速度も同じだった。だが、猪瀬は一度だけ、書類から目を上げて角田を見た。
「角田先生。一つ確認します。ご依頼者が求めているのは、正しい生年月日への訂正ですか。それとも、現在の記載のままで相続手続きが滞りなく進むことですか」
角田は猪瀬を見た。
「どちらもです」
「であれば、二つの手続きを並行する必要があります。戸籍の訂正については法務省への上申。相続手続きについては、戸籍に存在しない日付が記載されていることを前提に、登記官や金融機関に対して説明する書面を準備する。後者は先生のお仕事です」
「戸籍訂正の上申に必要な書類は何ですか」
「帰化許可時の申請書類一式。外国人登録原票。本国の身分関係を証する書面。正しい生年月日を裏付ける証拠です。全て揃えていただければ、こちらから法務省に上申します」
「本国の書類は韓国の除籍謄本を大使館に請求しています。まだ届いていません」
「届き次第、翻訳文を添えてお持ちください」
猪瀬は書類をクリアファイルに戻し、角田に返した。
「角田先生」
「はい」
「存在しない日付が四十年以上記載されていた。これは法務局の問題でもあります。帰化許可時に審査した法務局が、存在しない日付を見逃した。私はその責任を否定するつもりはありません」
角田は猪瀬を見た。猪瀬はシャツの第一ボタンの上で、喉仏が一度だけ動いた。
「ただし、責任を認めることと、手続きを省略できることは別です。時間がかかることをお伝えするのが、私の仕事です」
角田は立ち上がった。頭を下げた。
「ありがとうございます。書類が揃い次第、改めて伺います」
法務局を出た。三月の風が顔に当たった。冷たかった。
*
長谷川の暖簾をくぐった。いつもの席に座った。
「かけ」
卵はつけなかった。
蕎麦が来た。薄い琥珀色の汁。刻み葱。それだけ。啜った。熱い汁が胃に落ちた。
猪瀬の言ったことは全て正しい。帰化許可は法務大臣の行政行為。その内容を法務局長が訂正する権限はない。法務省への上申が必要。時間がかかる。
汁を飲み干した。丼の底に葱が一本残った。
角田は蕎麦を食べ終えた。三百八十円。いつもの値段だった。
*
午後。事務所に戻った。
まず、鉄男に電話した。法務局に相談したこと。戸籍の訂正には法務省への上申が必要で、時間がかかること。並行して、相続手続きが止まらないための書面を準備すること。韓国の除籍謄本を待っていること。
鉄男は黙って聞いていた。
「……どのくらいかかる」
「正直に申し上げます。戸籍の訂正は、半年で終わらない可能性があります」
電話の向こうで、鉄男が息を吸った。
「じゃあ俺が先に死ぬな」
「戸籍の訂正が間に合わなくても、相続手続きを止めない方法はあります。そちらの準備は並行して進めます」
「……頼む」
電話が切れた。角田は受話器を置いた。
机の上に、帰化申請書の控えが置いてある。佐伯の楷書。「昭和三十三年二月二十九日」。
佐伯が書いた日付を正すために、法務大臣の決定を動かさなければならない。行政書士一人の判断で書いた日付が、国の仕組みの中に四十年間埋まっている。掘り出すのに、もう一度国の仕組みを通さなければならない。
鉄男はその仕組みより先に死ぬかもしれない。
角田は赤ペンを手に取った。手帳に書いた。
——法務省上申。必要書類:帰化許可申請書類一式、外国人登録原票(開示請求)、本国除籍謄本(大使館に請求済み・未着)、正しい生年月日の証拠
——並行:相続手続き用の説明書面を作成
——猪瀬。敵ではない。正しいことを言っている。ただし時間がない。
*
夕方、事務所のドアが叩かれた。
「開いてます」
黒田だった。今日はスーツにネクタイ。仕事帰りか。手にはコンビニの袋。
「お茶、置いてく」
「毎日来るんですか」
「来たい時に来る」
黒田はペットボトルを机に置いて、丸椅子に座った。角田の顔を見た。
「顔色が悪い。法務局か」
角田は少しだけ口を開きかけて、やめた。
「戸籍の訂正に時間がかかります。法務省に上申する必要がある」
「どのくらいだ」
「半年から一年。もっとかかるかもしれない」
「鉄男さんの余命は」
「半年です」
黒田は黙った。ペットボトルの蓋を開けて飲んだ。
「……佐伯さんのことで一つ分かった」
角田は黒田を見た。
「行政書士会の名簿には、佐伯誠一は登録抹消済みだった。十八年前。廃業届を出してる。届出時の住所は足立区千住——事務所の移転先だ。ただし今はそこにいない」
「どうやって調べたんですか」
「この辺の古い行政書士に聞いた。佐伯を知ってる先生がいた。足立に移ったところまでは覚えてた。その後は知らないと」
「足立区千住」
「十八年前の住所だ。今は違うかもしれない」
角田は手帳に書いた。佐伯誠一。足立区千住。十八年前。登録抹消済み。
「その先生は、佐伯さんの仕事ぶりについて何か言っていましたか」
「帰化専門だったらしい。在日の帰化申請を何十件もやってたって。腕は確かだったと」
「帰化専門」
「ああ。それと——」
黒田は茶を一口飲んだ。
「『あの人は受けるべきじゃない案件も受けてた』と言ってた。意味は分からなかった」
角田は赤ペンの先を手帳に押し当てた。インクが滲んで、小さな点ができた。
「黒田さん。足立区千住の住所を教えてください」
「番地までは分からん。佐伯誠一、千住。それだけだ。住民票でも取るか」
「職務上請求で取れなくはない。佐伯先生の証言が戸籍訂正に必要だという理屈を立てれば」
「じゃあ取れるじゃねえか」
「理屈が通るかどうかは、出してみないと分からない」
黒田は角田を見た。
「それ、通るのか」
「通すしかありません」
黒田は立ち上がった。
「お前は書類で攻めろ。俺は足で探す。千住の古い町なら、行政書士事務所の跡くらい誰か覚えてる」
「非番の日に」
「非番の日に」
黒田はドアを開けて出ていった。
角田はペットボトルを見た。麦茶だった。ラベルにおじさんの顔がでかでかと印刷してある六百五十ミリリットル。角田が普段買う麦茶ではなかったが、麦茶だった。
角田は蓋を開けた。一口飲んだ。
冷たくはなかった。




