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書類は嘘をつかない  作者: れーやん
存在しない誕生日

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第2話 二つの正解

 翌朝、金子鉄男は一人で来た。


 事務所のドアを開ける前に、ドアの外で咳き込む音がした。長い咳だった。止まった。ドアが開いた。


 鉄男は茶封筒を持っていた。角が潰れて、表面に油が染みている。工場の金庫に入っていた封筒は、鉄と機械油の匂いがした。


「これだ。金庫に入ってた」


 角田は封筒を受け取った。重くはない。紙の束にしては薄い。


「おかけください」


「立ってていい。長くはかからないだろう」


 鉄男は立ったまま、事務所の中を見ていた。昨日と同じように窓を見た。それから机の右端に置いてある真鍮の朱肉池に目を止めた。


「……それ」


「引き出しの奥にありました。前の借り主のものです」


「佐伯先生のか」


「管理会社に確認しました。この事務所の前の借り主は佐伯誠一さんです。行政書士。二十年以上前に退去して、転居先は不明です」


 鉄男は朱肉池をしばらく見ていた。何も言わなかった。


 角田は封筒を開けた。中から三枚の書類が出てきた。


 一枚目。帰化許可通知書。法務大臣名。金子鉄男殿。日本国籍を取得したことを通知する。日付は昭和六十年六月。


 二枚目。帰化許可申請書の控え。カーボンコピー。青い複写の文字が薄れているが、読める。氏名欄。「金子鉄男(金哲男)」。生年月日欄。「昭和三十三年二月二十九日」。


 申請書の末尾、作成者の欄に名前があった。行政書士・佐伯誠一。


 三枚目。古い外国人登録原票記載事項証明書の写し。表面が黄ばんで、折り目に沿って亀裂が入りかけている。


 角田は赤ペンのキャップを外した。


 外国人登録原票記載事項証明書の生年月日欄を見た。


 一九六〇年二月二十九日。


 角田はペンを止めた。昨日の推測は半分当たっていた。月日は二月二十九日。だが年が違う。戸籍は一九五八年。外国人登録は一九六〇年。


 一九六〇年は閏年だった。二月二十九日は存在する。


「金子さん。外国人登録の生年月日は、昭和三十五年二月二十九日になっています。戸籍は昭和三十三年。二年ずれている」


「……そうなのか」


「ご自分では、どちらが正しいと思いますか」


 鉄男は腕を組んだ。


「分からない。親父は俺が小さい頃に死んだ。お袋は字が読めなかった。誕生日なんて、役所に届けた紙に書いてある通りだと思ってた」


「お母様は、誕生日を何日だとおっしゃっていましたか」


「……三月一日だと言ってた。でもあれは旧暦かもしれない。おふくろは旧正月を祝う人だった」


 角田はペンを走らせた。


 ——母の証言:三月一日(旧暦の可能性あり)

 ——外国人登録:一九六〇年二月二十九日

 ——戸籍(帰化申請書):一九五八年二月二十九日


 三つの日付。三つとも違う。


 旧暦の三月一日が陽暦の二月下旬にあたることは珍しくない。母が旧暦で覚えていて、役所が陽暦で記録した。日の食い違いはそれで説明がつく。在日コリアンの書類に暦のずれがあることは実務上珍しくない。


 だが年の食い違いは、暦の換算では生じない。


「金子さん。韓国側の記録を確認する必要があります。帰化前の戸籍——韓国の除籍謄本にあたるものを、駐日韓国大使館の領事部で取得できる可能性があります。お父様のお名前と本籍地は分かりますか」


「親父の名前は金大植。キム・テシク。本籍は——済州道のどこか。詳しいことは知らない」


 角田は手帳に書いた。金大植。済州道。


「申請の手続きは私が行います」


「頼む」


 鉄男は腕組みを解いた。封筒を見た。自分が持ってきた、油染みのついた茶封筒。


「先生。それが全部だ。佐伯先生にもらった書類は、それだけだった。俺は——佐伯先生を信じて、任せてた」


「分かりました」


 鉄男は事務所を出た。今日は娘がいなかった。一人で来て、一人で帰った。安全靴の底が廊下でゴツゴツ鳴って、階段を降りる音がして、消えた。



        *



 角田は三枚の書類を机の上に並べた。


 帰化申請書の控えを手に取った。カーボンコピーの青い文字。佐伯の筆跡は丁寧だった。丸みのある楷書。生年月日欄の「三十三年」の部分に、書き直した形跡はない。佐伯は最初から「昭和三十三年」と書くつもりだった。


 外国人登録は昭和三十五年、一九六〇年。帰化申請書は昭和三十三年、一九五八年。佐伯は二年を動かしている。


 なぜ一九六〇年をそのまま使わなかったのか。一九六〇年二月二十九日なら、閏年だ。カレンダー上に存在する日付だ。何の問題もない。


 佐伯はわざわざ年を変えた。その結果、存在しない日付が生まれた。


 帰化許可申請書の他の欄を見た。住所。職業。旋盤工。家族構成。父・金大植、死亡。母・金順子。妻・朴英淑。子・哲美(鉄男の長女、後の美香)。


 欄外に、佐伯が鉛筆で薄くメモを残していた。「登録証コピー添付」「翻訳文確認済」。実務の痕跡だった。この書類を書いた人間は、帰化申請を何件も扱ったことがある。欄の埋め方が手慣れている。


 帰化申請の実務に精通した行政書士が、閏年の計算を間違えるか。


 角田は赤ペンのキャップを嵌めた。手帳に一行書いた。


 ——佐伯は一九五八年を「選んだ」。理由は不明。



        *



 昼。長谷川。


「かけ。卵」


 店主が頷いた。蕎麦を茹で、丼に盛り、汁を張った。生卵を割り落とした。


 角田は箸で黄身を突いた。黄色が広がり、透明だった汁が濁った。啜った。昨日より重い。出汁の鰹が卵の下に隠れている。


 勘定。四百二十円。



        *



 午後四時。事務所のドアが叩かれた。


「開いてます」


 黒田だった。革ジャン。ノーネクタイ。コンビニの袋をぶら下げていた。


「よう」


「何の用ですか」


「用がなきゃ来ちゃ駄目か」


 黒田は丸椅子を引いて座った。コンビニの袋からペットボトルの茶を二本出し、一本を角田の机に置いた。


「秋田以来だな。痩せたか」


「変わっていません」


「俺は太った」


 黒田はペットボトルの蓋を開けて飲んだ。それから机の上を見た。帰化申請書。外国人登録の証明書。手帳。赤ペン。右端の朱肉池。


 黒田の目が朱肉池で止まった。


「……それ」


「前の借り主のものです」


「佐伯さんの」


 角田は黒田を見た。


「知っていますか」


「ガキの頃の話だ。金子の工場に出入りしてた先生がいた。俺は工場の隅っこで旋盤の火花を見てた。佐伯さんが来ると、鉄男さんが奥の部屋に入ってった。子供は来るなって追い出された」


「金子さんの工場で」


「ああ。俺は——学校から帰っても親がいない日が多かった。鉄男さんの工場に行くと、隅っこに座らせてくれた。旋盤の端材でコマを削ってくれたこともある」


 角田は黒田を見た。黒田はペットボトルを手の中で回していた。


「美香から連絡がありました、とは言わないんですか」


 黒田は少し笑った。


「勘がいいな。昨日の夜、美香から電話があった。親父の戸籍がおかしいって。泣いてた」


「刑事として来たんですか」


「非番だ」


「管轄外でしょう」


「管轄の話じゃない。あの親父は——美香の親父は、俺にとっちゃ近所のおっちゃんだ。コマを削ってくれたおっちゃんだ。それだけだ」


 黒田は机の上の書類に目をやった。角田は書類に手を置いた。


「依頼者の書類です」


「見ねえよ。お前の領分だ」


 黒田は茶を飲んだ。


「一つだけ聞く。あの親父、日本人のまま死ねるのか」


「帰化は有効です。戸籍の記載に誤りがあっても、帰化自体は取り消されません。金子さんは日本人です」


「じゃあ何が問題だ」


「記載の訂正に時間がかかる。間に合わなければ、相続手続きが止まります」


「間に合わせろ」


「そのつもりです」


 黒田は立ち上がった。ペットボトルの蓋を締めた。


「角田。もし佐伯さんの足取りで困ったら、言え。この界隈の古い連中には、個人的に当たれる」


「ありがとうございます」


「……あの親父の手、見ただろう」


「ええ」


「四十年鉄を削った手だ。あの手で作ったものは全部、ある。書類に何が書いてあっても」


 黒田はドアを開けて出ていった。


 角田はペットボトルを見た。緑茶。角田は普段、緑茶を買わない。麦茶を飲む。だがペットボトルの蓋を開けて、一口飲んだ。



        *



 夜。奥の三畳間で布団を敷いた。横になったが、寝つけなかった。


 起き上がって事務所に戻った。蛍光灯をつけた。


 帰化申請書の控えをもう一度見た。佐伯の楷書。実務的なメモ。「翻訳文確認済」。


 佐伯は本国の書類を見ている。韓国の除籍謄本の翻訳文を確認済みと、自分でメモを残している。つまり佐伯は、韓国側の生年月日を知っていた。それが何月何日だったのか——三月一日か、二月二十九日か、あるいは別の日付か——は、本国の記録を見なければ分からない。


 だが佐伯は「確認した」上で、帰化申請書に一九五八年二月二十九日と書いた。


 角田は手帳を開いた。


 ——佐伯誠一。行政書士。この事務所の前任者。

 ——昭和六十年の帰化許可申請書を作成。

 ——外国人登録の「一九六〇年」を「一九五八年」に変更。

 ——本国書類を確認した上で、この日付を「選んだ」。

 ——退去先不明。生死不明。


 そしてもう一行。


 ——韓国の除籍謄本を取得する。駐日韓国大使館領事部。金大植。済州道。


 赤ペンのキャップを嵌めた。


 朱肉池が机の端にあった。指で蓋に触れた。真鍮は冷たかった。三十年前もこの冷たさだったはずだ。


 佐伯先生。あなたは何を見て、二年を動かしたのですか。


 角田は蛍光灯を消した。三畳間に戻った。布団に入った。


 窓の外で、隅田川の方角からトラックが通る低い音がした。

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