第1話 四で割り切れない
三月の朝だった。事務所の窓を開けると、川の匂いがした。
角田は机に向かった。引き出しを開け、赤ペンの箱から一本取り出した。同じ型番。同じメーカー。秋田から戻って二ヶ月、この箱から三本目になる。キャップを外し、手帳の余白に試し書きをした。赤い線がくっきり引かれた。
九時。電話が鳴った。
「角田行政書士事務所です」
「あの、金子と申します。父の相続のことで、ご相談したいのですが」
女の声だった。三十代か四十代。声が低い。抑えているのではなく、もともと低いのだと思った。
「相続ですか。お父様はいつお亡くなりに」
「……まだ、生きています」
角田はペンを止めた。
「失礼しました。終活のご相談ですね」
「はい。父が——癌なんです。肝臓の。余命は半年と」
「承知しました。一度、お会いできますか。お父様の戸籍謄本と、不動産の登記事項証明書があれば、お持ちください」
「戸籍は手元にあります。今日、伺ってもよろしいですか」
「十時以降でしたら」
「すぐ行きます」
電話が切れた。角田は手帳に書いた。金子。相続準備。癌。余命半年。
*
金子美香は十時五分に来た。四十代前半。黒いダウンコートに、病院のスリッパを履き替えたような白い運動靴。手に茶封筒を持っていた。
「お電話いただいた金子さんですね。おかけください」
美香は椅子に座った。封筒からクリアファイルを出し、角田の前に置いた。
「父の戸籍謄本です。あと、父名義の土地と建物の登記簿——登記事項証明書です。それから、これが——」
美香はもう一枚、紙を出した。
「病院の診断書です。ステージ四で、手術はもうできないと」
角田は診断書を受け取った。墨田区内の総合病院。患者名、金子鉄男。年齢、六十七歳。病名、肝細胞癌。
「お父様のご家族構成を教えてください」
「父と、母が五年前に亡くなって、私と弟の二人きょうだいです。弟は千葉にいます」
「お父様名義の財産は」
「この土地と建物だけです。本所の、工場兼自宅。旋盤の——鉄を削る工場です。小さいですけど、父が四十年やってきた」
「預貯金は」
「あると思いますが、通帳は父が管理してて、私は把握してません」
「分かりました。では、まず戸籍を確認させてください」
角田はクリアファイルから戸籍謄本を取り出した。墨田区長発行。全部事項証明書。
本籍、東京都墨田区本所一丁目。筆頭者、金子鉄男。
角田は赤ペンのキャップを外した。上から順に読んだ。
名前。金子鉄男。
生年月日。
昭和三十三年二月二十九日。
角田の指が止まった。
赤ペンの先が、「二十九日」の上で浮いたまま動かなかった。
「……金子さん」
「はい」
「お父様の生年月日は、昭和三十三年二月二十九日で間違いないですか」
「ええ、そうです。珍しいでしょう。閏年の二月二十九日生まれ」
角田は何も言わなかった。机の横にある万年カレンダーの数表を引き寄せた。一九五八年の欄を指でなぞった。
一月。三十一日。二月——二十八日。
四で割り切れない。閏年ではない。
一九五八年に、二月二十九日は存在しない。
「金子さん。お父様の誕生日を、ご本人から聞いたことはありますか」
「いえ——昔から戸籍に書いてある通りだと。二月二十九日生まれだから、四年に一度しか本当の誕生日が来ないって、子供の頃に聞きました」
「お父様は帰化されていますね」
美香の肩が僅かに動いた。
「……はい。私がまだ小さい頃で、覚えていません」
「帰化前のお名前は」
「金——キム・チョルナムだと聞いています。父はあまりその話をしません」
角田は戸籍謄本の身分事項欄を見た。「帰化」の記載。帰化の届出日。法務大臣の許可日。
「金子さん。確認しますが、お父様はこの生年月日で、ずっと生活されてきた」
「ええ。免許も保険も、全部二月二十九日です」
「閏年の」
「はい。四年に一度の」
角田は万年カレンダーを戸籍の横に置いた。
「昭和三十三年は閏年ではありません。この年に二月二十九日は存在しない。お父様の戸籍に記載されている誕生日は、カレンダー上にない日付です」
美香の顔から色が引いた。
「……どういうことですか」
「分かりません。ただ、事実として、お父様の戸籍の生年月日は存在しない日です。このまま相続の準備を進めることはできますが、戸籍の訂正が必要になる可能性がある。まず調べます」
「調べる、というのは」
「帰化申請の時の書類を確認します。帰化を申請した時、誰がこの日付を書いたのか」
美香はクリアファイルの端を指で押さえた。爪が白くなった。
「父は——これで困ることがあるんですか」
「今すぐ困ることはありません。ただ、お父様が亡くなった後、相続登記の段階で法務局が戸籍を精査します。存在しない日付が記載された戸籍で登記申請をすれば、照会が来る。手続きが止まります。場合によっては死亡届の受理にも影響する」
「相続が——止まる」
「止まります。預金の解約も、不動産の名義変更も、戸籍の問題が解消するまで動かせなくなる可能性がある」
美香は何も言わなかった。角田も黙った。事務所の外で、トラックが通る音がした。
*
美香が帰った後、角田は事務所を出た。
五分歩いた。角を曲がった。暖簾が見えた。紺色の布に白抜きで「長谷川」。暖簾の右端が擦り切れていた。
引き戸を開けた。カウンターだけの店。八席。昼前だが、二席埋まっていた。角田はいつもの席——入口から三番目——に座った。
「かけ」
店主が頷いた。釜の蓋を開け、蕎麦を湯に落とした。
蕎麦が来た。薄い琥珀色の汁。刻み葱。それだけ。角田は箸で蕎麦を持ち上げた。湯気が立った。啜った。出汁の香りが鼻腔を通り抜けた。鰹と昆布。余計なものがない。
秋田では、しょっつるの塩辛さに面食らった。親子丼の甘さに驚いた。いぶりがっこの硬さに馴染んだ。東京に帰って、かけそばを啜る。熱い汁を、ただ胃に落とした。
蕎麦を食べ終えた。勘定を払った。三百八十円。
事務所に戻った。
*
午後二時。事務所のドアが開いた。美香が先に入った。その後ろに、男が続いた。
小柄だった。百六十センチあるかないか。灰色のジャンパーに、膝が擦れた作業ズボン。靴は安全靴。工場から来たのだろう。
男の手が目に入った。太い指の関節が硬く曲がり、短い爪の間に黒い線が残っている。鉄の粉だった。四十年分の鉄が、指紋の溝に沈んでいた。
「金子鉄男さんですね」
「……ええ」
声が低かった。喉の奥で響く、削り取られたような声だった。
「おかけください」
鉄男は椅子に座った。美香がその横に立った。鉄男が美香を見た。美香が座った。
「先生。娘から聞きました。俺の誕生日が、おかしいと」
「ええ。戸籍に記載されている昭和三十三年二月二十九日は、カレンダー上に存在しない日付です」
鉄男は膝の上に手を置いた。旋盤工の手。その手が、微かに震えていた。
「俺は——帰化した時、書類は全部先生に任せた。佐伯先生っていう行政書士の先生に」
角田の指が止まった。
「佐伯先生」
「ええ。本所の、ここの近くの事務所で——」
鉄男は部屋を見回した。壁を見た。天井を見た。窓を見た。
「……ここだ」
「え?」
「この事務所だ。ここに佐伯先生がいた。この部屋で、帰化の書類を書いてもらった」
角田は鉄男を見た。鉄男は窓の方を向いていた。
「窓の位置が同じだ。あの時も、窓の外にスカイツリーは——いや、あの頃はなかった。煙突が見えた。隣の銭湯の煙突」
「この事務所は、私が七年前に借りました。前の借り主が佐伯先生だったかどうかは確認していません」
「佐伯先生は——もういないんですか」
「分かりません。調べます」
鉄男は膝の上の手を見た。
「先生。俺は来年の今頃、たぶんいない。医者がそう言った。いなくなる前に——正しい誕生日にしてくれ。嘘の日付のまま死ぬのは、嫌だ。四十年、鉄削って、税金納めて、子供育てた。……その鉄は誰が削ったことになるんだ。存在しない日に生まれた人間が、か」
角田は何も言わなかった。赤ペンを手帳に押し当てた。書いた。
——金子鉄男。帰化。1958/2/29。佐伯。
「金子さん。帰化申請の時の書類の控えは、お持ちですか」
「あると思う。工場の金庫に、古い書類を入れてある」
「確認してください。帰化許可の通知書、申請書の控え、それから外国人登録証明書や届出書類の控えがあれば、全部持ってきてください」
「……分かりました」
鉄男は立ち上がった。美香が手を添えた。鉄男はその手を払った。自分で歩いた。ドアの取っ手を掴む手が、旋盤のハンドルを握る形と同じだった。
二人が出ていった後、角田は椅子に座ったまま動かなかった。
*
角田は机の右端の引き出しを開けた。金子の書類を仕舞うスペースを作るためだった。
手前の文房具を奥に押し込んだ。引っかかった。何かが奥で突っ張っている。力を入れたら、ゴトン、と重い音がして、奥から転がり出てきた。
小さな金属の塊だった。
この事務所を借りた時、引き出しの奥に前の借り主の荷物が残っていた。管理会社に連絡したが、引き取り手がないまま七年が過ぎた。ボールペンの替え芯や名刺入れの空箱と一緒に、押し込んだまま忘れていた。
真鍮製の朱肉池だった。
手のひらに載る大きさ。ずっしりと重い。蓋に細かい傷がついている。何百回も開け閉めした跡だった。
蓋を開けた。朱肉が残っていた。表面が乾いて、亀裂が入っている。縁のあたりだけ、かすかに湿り気が残っている。古い朱肉特有の、油と金属が混ざったような匂いがした。
蓋の裏に、文字が彫ってあった。小さな楷書。
「佐伯」。
角田は朱肉池を机の上に置いた。自分のプラスチック製の朱肉——百円ショップで買ったもの——の横に。真鍮と樹脂。重さが違った。
佐伯。この机に座っていた男。この朱肉で、書類に判を押した男。
角田は朱肉池の蓋を閉めた。机の右端に置いた。捨てなかった。
*
深夜。事務所の蛍光灯が白い。奥の三畳間から布団を引きずり出すのは後にして、角田は手帳を開いた。
赤ペンで書き始めた。
——戸籍の生年月日:一九五八年二月二十九日(存在しない)
——帰化申請書の作成者:佐伯誠一
管理会社に電話して確認した。この事務所の前の借り主。佐伯誠一。行政書士。二十年以上前に解約し、転居先は不明。
角田はペンを止めた。
帰化申請書に記載された生年月日が、そのまま戸籍に転記される。佐伯が申請書に「一九五八年二月二十九日」と書いた。法務局はそれを受理した。戸籍ができた。以来、金子鉄男はこの日付で生きてきた。
だが一九五八年は閏年ではない。二月二十九日は存在しない。佐伯はなぜこの日付を書いたのか。
鉄男の金庫の書類を待つしかない。帰化許可の通知書。申請書の控え。外国人登録の記録。本国の書類があれば、なお良い。そこに本当の生年月日がある——はずだ。
角田は朱肉池を見た。真鍮の表面が蛍光灯の光を鈍く反射していた。
電話が鳴った。
角田は受話器を取った。
「はい。角田行政書士事務所です」
「あ、すみません、夜分に。墨田区の角田さんの事務所でよろしかったでしょうか」
「……すみだ区の、すみたです」
受話器を置いた。赤ペンのキャップを嵌めた。
手帳の上で、「一九五八年二月二十九日」の赤い文字が、蛍光灯の下で乾いていった。




