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書類は嘘をつかない  作者: れーやん
三回死んだ相続人

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第10話 最後の一画

 宿の炬燵で、角田は書類を並べていた。


 チェックリストのコピー。改製原戸籍。死亡届の記載事項証明書三通。公正証書遺言の謄本。公証役場で取得した遺言関連書類。千蔵と千一郎の写真のコピー。小野寺忠明の証言メモ。


 赤ペンを取った。キャップを外す。紙の上に線を引いた。薄い。ほとんど跡にならなかった。角田はペンを振った。微かに赤い色が戻った。


 もう何行も書けない。


 階下で玄関の戸が開く音がした。女将の声。客が来た。足音が階段を上がってくる。廊下を歩く音。革靴だった。


 襖が開いた。


 宮城泰三が立っていた。


 グレーのコートに白いマフラー。いつもと同じ服装だった。ただ、頬のあたりに剃り残しがあった。それだけが、前回と違っていた。


「小野寺先生から電話がありました」


 角田は頷いた。予想していた。


「お入りください」


 宮城は炬燵の向かい側に腰を下ろした。座卓の上に並んだ書類を見た。書類の配列を読むように、一枚一枚、目を動かした。


「角田先生。先に一つだけ」


「どうぞ」


「須藤さんの件は、私は関与していない」


 角田は宮城の目を見た。宮城は目を逸らさなかった。


「小野寺先生の件は」


 宮城の口元が微かに動いた。笑みではなかった。


「……小野寺先生は、善造さんの主治医です。私が何かを頼んだのではない。善造さんが直接、小野寺先生に——」


「宮城先生」


 角田の声は平らだった。


「小野寺先生は証言しています。平成二十六年の死亡届は宮城先生が全て仕切った。届出先を秋田市にしたのも先生の指示だった。善造さんに土地の抵当権設定の話を持ちかけたのも先生だった」


 宮城の指が膝の上で止まった。


「小野寺先生は七十八歳です。記憶が——」


「先生。遺言書を見てください」


 角田は公正証書遺言の謄本を宮城の前に置いた。


「第三条。志織さんの遺留分相当額。不動産評価額の六分の一。この計算は、相続人が三人——一郎、志織、慎二——であることを前提にしています」


「ええ。そうです」


「一郎が死亡していれば、相続人は二人になる。志織の遺留分は四分の一です。この遺言は一郎を生きている人間として扱っている」


「善造さんが、一郎を生きていると考えていたからです」


「善造さんがそう考えていた。しかし先生は違う」


 角田は赤ペンの先で、遺言の第三条の数字を指した。


「先生は平成二十六年に一郎を殺す死亡届を仕掛けた人間です。一郎が紙の上で死んだことを、誰よりもよく知っている。にもかかわらず、一郎が生きていることを前提にした遺言を作った。なぜですか」


 宮城は黙った。炬燵の中のヒーターが、低い音で唸っていた。


「善造さんが一郎を戸籍に戻したことを、先生はご存じだった。小野寺先生の証言にもある。遺言の準備で三人で集まった時に、一郎が戸籍に載っていた、と」


「…………」


「先生は、善造さんが戸籍を操作して一郎を生き返らせたことを知っていた。知っていて、一郎を相続人に含めた遺言を作った。つまり先生は、善造さんの戸籍操作を——追認した」


 宮城の肩が、わずかに落ちた。コートの襟元に手をやった。マフラーを緩めた。


「角田先生。あなたは代書人という言葉を使わない。行政書士と言う」


「ええ」


「私は代書人です。古い呼び方だが、私にはこの方がしっくりくる。代書人の仕事は、依頼者の意思を書面にすることだ。意思の中身を判断するのは、私の仕事ではない」


「善造さんの意思が、一郎を生きている人間として扱い続けることだった」


「そうです。善造さんは——一度、金のために一郎を殺した。私が持ちかけた話で。否定しない」


 宮城はそこで口を閉じた。炬燵の中のヒーターが唸った。


「だが善造さんは自分で一郎を戻した。私が知らないところで。……あとは、遺言に書いた通りです」


「遺言に書いた通り」


「善造さんが何を願ったか。それは私が書面にした。書面の中にしかない。……先生、その先はご自分でお読みになればいい」


「その意思を、先生が書面にした」


「ええ。それが私の仕事だ」


 角田は何も言わなかった。宮城の言葉を、一つずつ、赤ペンで手帳に書き留めた。ペンの線は薄かったが、読めた。


「宮城先生。一つ聞きます」


「何ですか」


「先生は、善造さんの意思を形にしたと言う。しかし先生が形にしたものの中には、虚偽の死亡届も含まれている。小野寺先生に偽の診断書を書かせ、届出先を遠い秋田市にし、精査を逃れさせた。それも依頼者の意思ですか」


 宮城が角田を見た。


「……金が要ったのは善造さんだ。私が無理に勧めたのではない。善造さんは——」


「善造さんは最初、拒んだ。小野寺先生はそう証言しています」


 宮城の唇が一瞬、薄くなった。


「拒んだが、最終的には同意した」


「先生が説得した」


「私は選択肢を示しただけだ。判断したのは善造さんだ」


「選択肢の中に、一郎を殺す以外の方法はあったのですか」


 宮城は答えなかった。


 廊下で女将の足音がした。通り過ぎた。


「なかったのだと思います」


 角田が言った。


「一郎が生きている限り、相続人全員の同意は取れない。一郎は二十七年間行方不明だった。不在者財産管理人の選任を申し立てる方法はありますが、時間がかかる。善造さんは急いでいた。先生が用意できた選択肢の中で、最も早いのが死亡届だった」


「……ええ」


「しかし宮城先生。行政書士は——代書人は、依頼者の意思を形にする。だが虚偽の書類を作ることは、意思を形にすることとは違う。先生はそれをご存じだったはずだ」


 宮城は両手を膝の上に置いた。


「角田先生。あなたは正しい。法律上、正しい。だが——」


「法律の外に暮らしがある、とおっしゃるのなら」


 角田は宮城の目を見た。


「嘘が混じった書類は、いつか必ず破綻します。その破片が誰かに刺さる。須藤さんは死にました」


 宮城の顔が、一瞬、歪んだ。角田はそれを見た。


「須藤さんの件は、私は——」


「関与していないとおっしゃった。信じます。ただ、私は嘘の混じった書類を放置できない。それだけです」


 宮城は黙った。炬燵のヒーターの音だけが続いた。


「……善造さんは、悪い人じゃなかった」


 三度目だった。須藤が言い、小野寺が言い、宮城が言った。角田はその言葉を聞くたびに何も答えなかった。今回も答えなかった。


「先生。私がこれからすることを伝えます」


 角田は書類を一枚ずつ、炬燵の上に並べ直した。


「法務局に対して、戸籍記載の錯誤に関する申出を行います。一郎——千一郎の出生記載が事実と異なること。三通の死亡届のうち、二通目と三通目が虚偽であること。これらの資料を添えて、戸籍法二十四条に基づく職権訂正を促します。本来は親子関係不存在の審判が先行しますが、善造は死亡、千一郎は所在不明です。当事者間の手続きが取れない以上、法務局への申出しかない。職権で処理されるか、家庭裁判所の許可が必要になるかは法務局の判断です」


「一郎の名前が消えるということですか」


「消えません。訂正されるだけです。草薙善造の長男・一郎ではなく、千蔵の子・千一郎として。正しい場所に、正しい名前が戻る」


 宮城は遺言の謄本を見た。


「……遺言はどうなりますか」


「遺言の効力は別の問題です。一郎が善造の実子でないことが判明しても、虚偽の出生届に養子縁組の意思が認められれば、養子として相続権が残る可能性がある。この判断は裁判所のもので、私の業務範囲を超えます。志織さんには弁護士への引き継ぎを勧めます」


「角田先生は、ここで降りるのですか」


「降りるのではありません。行政書士の仕事は、書類を正すことです。正しい書類が揃えば、私の仕事は終わる。その先は裁判所と弁護士の領分です」


 宮城はゆっくりと立ち上がった。膝に手をついて、体を起こした。


「角田先生」


「はい」


「善造さんは最期まで、千一郎の名前を口にしなかった。一郎と呼び続けた。千一郎という名前を知っていたのに。自分が消した名前を」


 角田は手帳を見た。赤ペンで書いた文字が薄く並んでいる。千一郎。千蔵。善蔵。善造。名前の連鎖。


「私が戸籍を訂正すれば、千一郎の名前が戻ります。善造さんが消した名前が」


 宮城は何も言わず、頭を下げた。深い礼だった。コートの裾が炬燵の角に触れた。


 宮城が去った後、角田は襖を閉めた。



        *



 午後、黒田から電話があった。


「慎二が署に出頭した」


「……出頭」


「令和三年の死亡届について、虚偽の届出をしたと。まあ須藤の件で俺が締め上げたってのもあるが——自分から来たぞ。宮城に連れられて」


 角田は窓の外を見た。雪が降り始めていた。


「慎二は何と言っていますか」


「令和三年の死亡届は、慎二が自分で出した。宮城の指示じゃない。慎二は善造の土地を担保に金を借りてた。返済期限が来て、善造の土地を処分するために一郎を殺す必要があった。善造は認知が進んでて、相談できる状態じゃなかった。慎二は自分で死亡届を書いた」


「一回目と二回目の経緯は」


「知らなかった。一郎が昭和六十二年に認定死亡になったことも、平成二十六年に小野寺が偽の診断書を書いたことも。慎二は一郎を『死んでるはずの人間』としか認識してなかった。善造が戸籍をいじって一郎を生き返らせたことも知らなかった」


「須藤さんの件は」


 黒田が短く息を吐いた。


「否認してる。ヒーターの排気口の灰は証拠として弱い。須藤が自分で排気口を塞いだ可能性を排除できない。横手署は事故死で処理する方針を変えてない。俺はまだ粘るが——角田。正直に言う。須藤さんの件は、立件は難しい」


 角田は何も言わなかった。


「角田」


「……聞いています」


「慎二がな。出頭する前に、署の廊下で一つだけ言った。『親父は悪い人間じゃなかった。俺が全部駄目にした』って」


 角田は電話を切った後、しばらく動かなかった。


 また同じ言葉だった。善造を知る人間が、全員、同じことを言う。


 角田は赤ペンを取った。手帳の最後の頁を開いた。


 書いた。


 ——戸籍訂正申出書。添付書類一覧。


 ペンが掠れた。角田は振った。薄い赤が戻った。


 ——改製原戸籍謄本。死亡届記載事項証明書三通。須藤証言の書面化メモ。小野寺忠明の証言メモ。千蔵・千一郎の写真。


 ペンが止まった。インクが出なかった。


 角田はもう一度振った。出なかった。


 ペンの先を紙に押しつけた。紙が凹んだだけだった。赤い線は出なかった。


 角田はペンを見た。透明な軸の中のインクが、完全に空になっていた。東京から持ってきた赤ペン。事務所の引き出しから取り出して、鞄に入れたペン。何百枚もの書類をチェックしてきたペン。


 角田はペンのキャップを嵌めた。胸ポケットに戻した。捨てなかった。


 鞄の底を探った。予備のペンはなかった。


 角田は黒のボールペンを取り出した。チェックリストの最後の項目——「法務局への申出」の横に、黒い丸を書いた。


 赤ではなかった。だが、丸は丸だった。



        *



 翌日、角田は秋田地方法務局横手支局を訪ねた。


 戸籍記載の錯誤に関する申出書。添付書類一覧。須藤の証言と小野寺の証言を整理した書面。千蔵と千一郎の写真のコピー。改製原戸籍と電算化後の戸籍の対照表。


 窓口の職員は書類を受け取り、中を確認し、角田に言った。


「確認に時間がかかります。職権訂正の可否については、後日ご連絡します」


「お願いします」


 角田は法務局を出た。空が明るかった。雪は止んでいた。



        *



 宿に戻ると、志織が一階の食事処で待っていた。テーブルの上に茶が二つ。


「角田先生。ありがとうございました」


「まだ終わっていません。法務局の回答が出るまで数週間かかります。その後、遺言の効力と遺産分割については弁護士に引き継ぐことになります。志織さん、東京に戻ったら、信頼できる弁護士を紹介します」


「……はい」


「ただ、一つだけ。千一郎という名前は、戸籍に戻ります。時間はかかりますが、戻る。善造さんが消した名前が、正しい場所に帰る。それだけは、私の仕事の範囲で保証できます」


 志織が茶碗を両手で持った。湯気が指の間から立ち上った。


「父は——最後まで一郎兄さんの名前を呼んでいました。千一郎とは一度も」


「ええ」


「千一郎という名前が戻ったら、一郎兄さんは——千一郎さんは、喜ぶのでしょうか」


 角田は答えられなかった。千一郎が生きているのか死んでいるのか、角田には分からなかった。昭和六十二年に本当に行方不明になったのか、それとも善造が何かを隠したのか。書類はそこまで語らなかった。


「分かりません」


「分からない」


「千一郎さんが今どこにいるのか。生きているのか。それは書類では分かりません。ただ、千一郎という名前が正しい場所にあることは、千一郎さんがこの世に存在した証明になります。善造さんが消した名前を、書類の上で取り戻す。それが——」


 角田は言葉を止めた。


「それが、今の私にできることの全部です」


 志織が頷いた。茶碗を置いた。立ち上がった。


「先生。帰りの新幹線のお時間は」


「明日の朝です」


「今夜、最後のお食事は宿で召し上がりますか」


「ええ」


「女将さんに、いぶりがっこを多めに出してもらうよう、お願いしておきます」


 志織が出ていった。角田は一人で茶を飲んだ。



        *



 夕食は、味噌汁と焼き魚と白米だった。特別なものは何もなかった。ただ、漬物の皿にいぶりがっこが四枚載っていた。いつもの倍だった。


 角田は一枚取った。口に入れた。


 硬かった。歯で押しても、すぐには割れない。奥歯で噛みしめると、乾いた音がした。燻製の匂いが口の中に広がった。煙の苦みと、塩の甘さ。この宿で初めて食べた朝と、同じ味だった。


 黒田は向かい側で黙って飯を食っていた。箸の動きが遅い。いつもの黒田ではなかった。


「須藤さんの件」


「ん」


「立件できなくても、角田の仕事には影響ないんだろ」


「影響はありません。戸籍の訂正と相続は別の手続きです」


「だろうな」


 黒田がいぶりがっこを一枚取った。バリ、と噛んだ。


「角田。お前はいい仕事したよ。書類屋としちゃ、百点だ」


 角田は何も言わなかった。


「ただな。須藤のじいさんは死んだ。あの灰が誰の手によるものか、俺にはまだ分からん。分からんまま東京に帰る。それが——」


 黒田は箸を置いた。


「それが、俺の仕事の限界だ」


 角田はいぶりがっこの二枚目を取った。最初の朝は一枚で十分だった。今日は二枚目に手が伸びた。理由は分からなかった。


 乾いた音が、二人の間に響いた。



        *



 翌朝。角田は宿の玄関で靴を履いた。革靴。東京から履いてきた靴。雪で染みができていた。


 女将が見送りに出てきた。


「角田さん。またいらしてくださいね」


「ありがとうございました」


 車が来た。志織が運転席にいた。横手駅まで送ると言った。


 車の中で、二人はほとんど話さなかった。田んぼの中の県道を走った。雪が積もった田は白い平面で、境界が見えなかった。


 横手駅の前で車が止まった。


「角田先生」


「はい」


「千一郎さんの名前が戻ったら——父の戸籍に、千一郎さんの本当の名前が載ったら。私、蔵にお花を供えようと思います」


 角田は頷いた。


「良いと思います」


 荷物を持って車を降りた。志織が窓を開けた。


「先生。赤ペン」


「え」


「新しいの、買ってください」


 角田は胸ポケットに手をやった。空のペンがまだ入っていた。


「……ええ」


 車が走り去った。角田は駅の中に入った。



        *



 六週間後。東京。墨田区。


 角田行政書士事務所。朝八時。角田は事務所の看板を布で拭いていた。看板の文字は「角田行政書士事務所」。白地に黒の楷書。角の塗装が少し剥げている。


 拭き終えて、事務所に入った。机の上にファイルが三つ。新しい案件だった。遺産分割協議書の作成が一件。建設業許可の更新が一件。帰化申請の書類確認が一件。


 引き出しを開けた。赤ペンの箱があった。同じ型番。同じメーカー。角田は一本取り出し、キャップを外した。試し書きをした。紙の上に赤い線がくっきりと引かれた。


 胸ポケットから、秋田で使い切ったペンを出した。机の引き出しの奥にしまった。捨てなかった。


 事務所のドアが開いた。蹴るように。


「おーう角田。元気か」


 黒田が入ってきた。コートの肩に雪はなかった。東京の二月は乾いている。手に茶封筒を持っていた。


「これ。お前宛てに届いてたぞ。秋田の消印だ」


 角田は封筒を受け取った。差出人は「秋田地方法務局横手支局」。


「開けろよ」


「開けます」


 角田はペーパーナイフで封を切った。中の書面を取り出した。


 ——戸籍法第二十四条第二項に基づく職権訂正について(通知)


 角田は書面を読んだ。黒田が横から覗き込んだ。


「なんて書いてある」


「……訂正が認められました。千一郎の出生記載が訂正されます。善造の長男ではなく、千蔵の子として」


 黒田が口笛を吹いた。


「やったじゃねえか」


 角田は書面を机の上に置いた。新しい赤ペンを取った。通知書の日付の横に、小さく丸を書いた。赤い丸。確認済みの印。


「まだ終わっていません。遺言の効力と遺産分割は弁護士に引き継ぎます。志織さんにはもう連絡してある」


「お前はいつもそうだな。自分の仕事が終わったら、さっさと次に行く」


「次の案件があるので」


 黒田は茶封筒を机の端に置いた。


「そうだ。角田。実はもう一つ案件がある。知り合いの——」


 事務所の電話が鳴った。角田が受話器を取った。


「はい。角田行政書士事務所です」


「あの、すみたさんのお電話でよろしかったでしょうか」


「……すみだ区の、すみたです」


 黒田が笑った。角田は笑わなかった。新しい赤ペンを手に取り、メモ帳を開いた。


 また、書類が始まる。

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