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書類は嘘をつかない  作者: れーやん
三回死んだ相続人

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第1話 墨田区の幽霊

 見上げると、巨大な鉄塔の影が路地の洗濯物を黒く塗りつぶしていた。


 錦糸町駅から徒歩十二分。角を三つ曲がった先の雑居ビルは、外壁のタイルが何枚か剥がれ落ちて、下地のコンクリートが歯抜けに覗いている。三階の窓だけにブラインドが下りていた。


 ドアの横に掲げられた看板は、文字の下半分が薄くなっている。


 角田行政書士事務所


 すみた、と読む。知っている者は少ない。


 事務所の中は、書類の匂いがした。古い紙が吸い込んだ数年分のインクの匂いが、わずかな黴の気配を連れて鼻を突く。六畳半のスペースに机がひとつ、椅子がふたつ。壁面はすべてスチール棚で覆われ、茶色いファイルが棚板を軋ませている。このビルの前のテナント——司法書士事務所だったらしい——が置いていった棚をそのまま使い続けた結果、開業三年目にして事務所はすでに飽和していた。床にも段ボール箱が積み上がり、人が通れる道は一本しかない。


 その奥に、角田はいた。


 三十一歳。白いシャツにグレーのスラックス。ネクタイはしていない。髪は短く、目は伏し目がちで、顔には表情がない。書類の山から生えた男だった。白いシャツの背中が、積み上がったファイルの背表紙に溶け込んでいる。


 机の上に戸籍謄本が五枚。左手に赤ペン、右手に付箋。ペンを持つ指だけが、生き物じみた速さで動いている。


 来客用のチャイムが鳴った。


 角田の手が止まる。壁の時計を見た。午後二時十七分。予約は入っていない。チャイムがもう一度鳴った。


 段ボール箱の間を縫ってドアを開けると、女が立っていた。三十代半ば。紺色のコートにヒールのないパンプス。化粧は薄く、目の下にうっすらと隈がある。大きめのトートバッグを両手で抱えていた。バッグの中で、何かが紙ずれの音を立てている。


「あの」


 女が口を開いた。


「角田さん、でしょうか」


「……はい」


「すみだ区の、角田さん」


「角田です。……すみた、です」


「え?」


「す、み、た」


 女はまばたきをした。


「失礼しました。かくた、さんかと」


「……よくあるんで」


 角田は半歩下がり、女を事務所に招き入れた。段ボール箱に足をぶつけないよう注意を促し、来客用の椅子を引く。椅子の上にもファイルが載っていたので、それを床に移した。


「散らかってて」


「いえ……」


 女は座り、膝の上にトートバッグを置いた。背筋が伸びている。指先がバッグの持ち手を白くなるほど握りしめていた。


「お名前を」


「草薙です。草薙志織」


「草薙さん」


「はい」


「相続の件で、とお電話では」


 志織は頷いた。バッグの口を開き、クリアファイルを一枚取り出した。中に入っていたのは、一通の死亡診断書のコピーだった。


「父が亡くなりました」


 角田はコピーを受け取った。


 草薙善造。享年七十八。死因は急性心不全。死亡日は十月十四日。秋田県旧雄勝郡鴉森村。


「秋田」


「はい。実家です」


 角田はコピーを机に置いた。


「失礼ですが、なぜ東京の事務所に」


 志織の視線が泳いだ。バッグの持ち手を指でなぞり、それから膝の上に手を戻した。


「……地元の先生には、頼めないんです」


 その言い方に、角田の指が止まった。頼めない。頼みたくない、ではない。


「事情がある、と」


「はい」


「聞いても」


「それを説明するために来ました」


 志織はバッグから二枚目のクリアファイルを出した。今度は分厚い。中身は古い戸籍謄本だった。手書きのものと、電算化された活字のものが混在している。


「父は——草薙家の当主でした。旧家です。明治から続く地主の家で、山と土地を持っています」


「相続人は」


「戸籍上は、三人きょうだいです。長男の一郎。次女の私。三男の慎二」


 角田は赤ペンのキャップを外した。


「法定相続で問題がなければ、遺産分割協議書を——」


「問題があるんです」


 志織の声が、わずかに硬くなった。


「長男の一郎は、三十年前に死んでいます」


「……死亡届が出ている」


「はい。でも——」


 志織は戸籍謄本の束を開き、角田の前に並べた。三枚。それぞれ年代の違う書式。


「一郎は、三回死んでいるんです」


 事務所の空気が変わった。


 角田の手が動いた。一枚目を取り上げる。手書きの除籍謄本。インクが褪せ、紙の端が黄ばんでいる。


 草薙一郎。昭和六十二年五月。「認定死亡」の記載。


「崖から落ちたと聞いています」


 志織が補足した。


「鴉森村の北の崖です。遺体は見つかっていません。当時の捜索で、警察が認定死亡の手続きを取ったと」


 角田は頷き、二枚目に目を移した。平成二十六年の除籍謄本。電算化された活字体。


 草薙一郎。「死亡届受理」。届出地は秋田市。


 三枚目。令和三年。


 草薙一郎。「死亡届受理」。届出地は横手市。


 三枚を並べた。


 角田の目が細くなった。赤ペンの先が、一枚目の「認定死亡」の文字の上で止まる。次に二枚目の届出日へ、そして三枚目の届出人の欄へ。赤ペンを指先で回し、その動きを謄本の上で止めた。


「認定死亡は、戸籍法八十九条。失踪宣告とは違う。反証があれば効力を失います」


 角田の赤ペンが、二枚目の余白を叩いた。


「認定死亡の後に、同一人物の死亡届が二度受理されている。しかも届出地が全部違う。秋田市、横手市——鴉森村から離れた自治体で、別々に届けが出ている」


 志織が口を開きかけたが、角田は止まらなかった。


「普通なら、戸籍の附票で住所変更を追える。だが電算化のタイミングが仇になることもある。改製原戸籍に附票が紐づかないケースが、認定死亡のような特殊な処理が絡むと生まれやすい」


 角田は三枚の謄本を扇状に広げた。左から、昭和、平成、令和。三つの時代をまたぐ、一人の男の死。


「この三枚は、同一人物の記録に見える。でも——」


 赤ペンのキャップを戻した。


「……まだ、足りない」


「足りない?」


「戸籍は事実の記録です。……建前は。ですが、紙の上では死者が生き返ることも、その逆もある」


 志織の顔が強張った。


「それは、どういう——」


「職務上請求で、改製原戸籍と附票を全部取り寄せます。鴉森村の本籍地で」


 角田は机の引き出しから職務上請求書を取り出した。


「費用の見積もりは後日郵送します。着手金として——」


「お金はいくらでも」


「……規定通りいただきます」


 志織が帰った後、角田は椅子に座ったまま動かなかった。


 三枚の戸籍謄本を、もう一度並べた。赤ペンのキャップを外し、一枚目の「認定死亡」の横に小さく書き込む。


 ——本人か?


 窓の外で、鉄塔に灯りが点った。角田の事務所には、まだ明かりが灯っていない。赤ペンで書いた二文字が、薄闇の中でじわりと滲んで見えた。

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