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至高体験

作者: 弓月城太郎

 あれは自分と恭子と母の三人で、霧ヶ峰高原へピクニックに出掛けたときのことだった――。

 春の陽光が降り注ぐ緑の丘を、三人で歌を歌いながら登ってゆく。

 あの頃は、うちの隣の神学校でペテロという名の大きな犬を飼っていた。ピクニックに行くというので、牧師先生がペテロを貸してくれた。草原に着くと、ペテロは嬉しそうに飛び跳ねながら、自分たちの周りを駆け回った。まだ子犬なのにとても大きい。よくなついていた。

 恭子は途中でお花畑を見つけ、ペテロと一緒に駆けていった。

「おおい! あんまり遠くに行くと迷子になっちゃうぞう」

 恭子がお転婆なので気が気ではない。

「ねえ、私たちも行ってみましょうよ」

 母さんが楽しそうに誘う。行ってみると、小高い丘の頂上に出た。そこには敷き詰められたようにレンゲの花が一面に咲き乱れていた。結局、そこで休憩することになった。

 私がペテロを片側に座らせ抱きかかえると、ペテロは「くうん」と甘えるように鼻を鳴らした。ペテロのふさふさした毛が腕の皮膚を撫で、その奥に息づいている温もりが伝わってきた。

 いままで昇ってきた緩やかな斜面を振り返ると、そこからは雄大な景色が一望できた。ゆるやかな起伏をみせる明るい緑の丘々が遥か遠方まで連なり、さらに遠くの方には、白い残雪を戴いた北アルプスの稜線が、青空との境界にくっきりと銀色の線を描いて輝いていた。鏡のように澄んだ湖は、明るい空の色を映し出し、山の麓にはカラマツの森が広がりシラカバの林へと繋がる。遠くに臨む林の木立の中には、あちこちに点在する旅館や別荘が微かに見えた。草原を渡るやさしい春風がかぐわしい若草の香りを運び、恭子の可愛らしくお下げに結った髪を揺らしている。いつもは黒髪に見える恭子の髪がのどかな春の陽射しに透けて、栗毛色に照り映えている。恭子が微笑み、歌いだす。


 風にゆらめく金色の木漏れ日よ 我は歩みだす光の中を

 小鳥らの歌うしあわせの歌 我も口ずさむ、その歌に合わせて

 梢を渡る青嵐のように 駆け抜ける聖霊の息吹

 満つる想いは果てしなく 神よ我と共にいまし給へ


 恭子が歌った歌は、新エデン教会の聖歌二十一番だった。歌が終わりに差し掛かると、母さんがハミングをはじめた。次は私が歌う。


 いのち輝く緑の沃野よ 我は駆け出す喜び急ぎて

 谷を渡る風のさやけさ 我も渡らん、その風に乗って

 呼び交わす谺のように 響き合う聖霊の歌声

 湧き立つ力は神のため 神よ我が想いを受けとめ給え


 私は歌った。立ち上がり、両手を拡げ、空を仰いで歌った。緑萌ゆ草原の香りを、生きる喜びと共に胸いっぱいに吸い込み、神の栄光を心の限り、想いの限り讃美した。そのとき溢れるほどの喜びに私の胸は満たされ、輝ける世界は恭司の歌に応えてまわりだした。打ち震う感動の泉が、深甚と胸の奥底から湧き上がり、ささくれ立つ波のように全身へと波紋を拡げてゆく……。その漣は大地に立つ私の足から草原へと伝わり、草を、木を、森を、そして森の湖を震わせ、白い残雪を戴いた山々に谺した。

「世界が歌っていた、私と共に! 世界が輝いていた、私の人生のように!」 

 屹立と臨む峰々のように私の理想は高く、私が仰ぎ見た蒼穹のように未来は光輝に満ちていた。科学の真理を追い求める私の心は清く、銀色に輝く純白の雪よりもなお白く、私の精神は澄明で、遠い谷川のせせらぎを聴くことも、さわさわと鳴るシラカバの木が自分に何を囁いているのかを聞きわけることもできた。野に咲くひとひらの花に神の愛を見出し、そこに集い戯れる蜜蜂の生態に自然の不思議を感じた。

「おお! 神よ! 感謝いたします。あなたの夢をかき抱き、あなたの息吹を呼吸することを。あなたの胸にまどろみ、私はそこから空へと舞い立とう。草原を渡りゆく緑の風に乗って、たゆけき空の彼方、神のいます無辺の境地へと」

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