〜第二楽章〜 隣の国の王女さま
第2話です。
書くことがあんまりない。
冒険はもう少し待ってください。
◇◇◇
そんな、ある日のことでした。
ルイは、お母さんにお使いを頼まれました。
「ねえ、ルイ。ユキノヒ森まで、おおかみいちごをとってきてくれるかしら?」
おおかみいちご。普通のいちごよりもずっと大ぶりで、真っ赤に染められた野いちごの仲間です。甘味が大好きなおおかみのために作られたがよろしくどんな果物よりも甘いので、魔物たちも大好きな食べ物です。
ルイの住む村から西のほうにずっと進んだところにあるユキノヒ森には、たくさんのおおかみいちごが実っているのでした。
おおかみいちごと聞いて、青いサファイアの瞳が元気いっぱいに輝きました。
「えっ!もしかして母さん、パイ作ってくれるの!」
「いっぱい採ってきてくれたら、ね。余ったらジャムも作ろうかなって思ってるし」
「やったー!」
ルイは歓声を上げました。ルイはお母さんの作るパイとジャムが大好物なのです。
ルイはすぐさま、おおかみいちごを入れる大きな籠を抱えてドアを開けました。
「じゃあ、母さん!いってきます!」
言うなり、嬉々として弾丸のように飛び出していくルイ。
「迷子にならないように気をつけなさいよ!」
お母さんの声が追いかけてきました。
ユキノヒ森は、うさぎや鹿などの野生動物が住まう大きく深い森です。
実はこの森は人間の国の森と繋がっていて、行き来が可能になっています。しかし当然、行き来をするものはいません。魔物の間では、向こうへ行ってしまえば人間たちに銃で撃たれるとか、捕まってひどい実験の試験に使われるとか、色んな怖い噂がささやかれていたからです。
具体的にはたくさんの種類の噂話があるけれど、みんなが口を揃えるのはひとつ。
人間の国へと一歩踏み込めば、人間と会ってしまえば、ひどい目に遭うということです。
あれだけ「人間を滅ぼすんだ!」とは言っていてもやっぱり怖いルイは、いつもなら決して森の奥には進みませんでした。
そう、いつもなら。
今日は違ったのです。
ルイは手編みの籠片手に、意気揚々と森の小道を歩いていました。
心地よい春の陽気は雪を溶かし、氷を溶かし、気分をも明るくさせるようです。るんるんと鼻歌を歌いながら、ルイはおおかみいちごの群生地にやってきました。
大きく開けた草原の中に茂る野いちごの木。今年は豊作らしく、いつもよりもさらに大きないちごがたくさん実っています。朝露に濡れ、きらきらと輝く様子はまるで夢の中のようです。
一羽、どこからか小鳥が飛んできて、いちごをついばみました。途端、楽しそうにぴょんぴょんと跳ねては踊ります。おいしいと言っているのでしょうか。
ルイの喉がごくりと鳴りました。
今日頼まれたのは、パイとジャムにするためのいちごを採ってくること。でも、いちごはこんなに実っています。
一個くらい、いいよね。
ルイはそう割り切って、いちごを一つもぎ取って口に入れました。
途端に、甘酸っぱい香りと味、そして小さな粒の楽しい食感、それからみずみずしい果汁が口いっぱいに広がります。
「おいしいっ!」
ルイは大きく吠えました。これは、小鳥が踊るのも仕方ないようなおいしさです。
これをさくさくのパイととろとろのジャムにして、紅茶と一緒に食べようものなら。その味を想像するだけでよだれが出てきそうです。
「早くいっぱい取って、母さんに作ってもらわなきゃ!」
ルイは奮い立って尻尾をぶんと振ると、耳をひょこひょこ揺らしながら収穫に取り掛かりました。かぎ爪の生えた手で果肉を傷つけないように丁寧に、籠にいちごを積んでいきます。
茶色い籠の中に赤いいちごが積み重なっていくのが楽しくて、ルイは時間も忘れいちご狩りに没頭しました。
それから一体、どれくらい時間が経ったのでしょう。
お昼ごはんを食べたあと、ちょうどお日さまが真南より少し西に傾いたくらいに頼まれたはずが、今顔をあげると大きく西に動いていました。
要するに、日が暮れかけていたのです。
一面オレンジ色の世界の中で、ルイははっと顔を上げました。すぐに、もう夕方であることに気づきます。
「夜になっちゃう!早く帰らなきゃ!」
お母さんに怒られてしまいます。
ルイは慌てて、籠を抱えて立ち上がりました。
確かに魔物たちは夜に生きる生き物。それでも、先の見通せない夜は親にとっては不安でしかないのです。だからお母さんはルイに、
「暗くなる前に帰ってきなさい」
ときつく言うのでした。
しかし今から帰っても夕暮れまでに間に合うかどうか。ルイは焦りながら、いちごの群生地を離れました。
そう、急いていたのがよくなかったのでしょうか。
空がオレンジ色から群青色に染まっても、ルイが家に着けることはありませんでした。
道に迷ってしまったのです。
ずっときた道を歩いていたはずなのに、一体ここはどこでしょう。周りをいくら見渡しても、あるのは木ばかり。
どっちが家の方向なんでしょう?
困って空を見上げても、青白い月がただ冷たく輝いているだけ。北極星を見つけようにも、一体どれが北極星なのかさっぱりわかりません。
ルイは、完全に迷子でした。
「ワォ────ン」
心細さのままに、ルイは大きく遠吠えをしました。
もしかしたら、この近くに誰か住んでいるかもしれない。その人に出口を教えてもらえるかもしれない。そう思ったのです。
「オォ────ン」
月まで届くような声で、もう一度。
誰か、ぼくに気づいて………!
その時でした。
「おおかみか!」
野太い声に飛び上がりました。
はっとその声のした方を向くと、草をなぎ倒して木々の中を誰かが通り過ぎていきます。誰かきた、と喜ぶも束の間、その正体に気づきルイはさっと青ざめました。
それは魔物ではなく、人間でした。
兵隊なのでしょうか、お堅い服を着て、馬にまたがっています。手に持っている、魔力を帯びた武器の先がぎらりと鈍く輝きました。
どうしよう。あの人間はきっとぼくを探している。ぼくが吠えたりなんかしたから。
もし見つかったら、あの武器に刺されて殺されちゃう?
そう、恐ろしい考えが頭を過ぎったとき、はっとゴブリンの女の子ティニーの声がよみがえりました。
『知ってた、ルイ?人間は、おおかみが怖いんだって!』
『そうなの?』
あの時はそう聞き返したけれど、よく考えれば人間の童話ではみんなおおかみが悪いやつです。赤ずきんちゃんを食べたのも、三匹のこぶたの家を吹き飛ばしたのも、七匹のこやぎの家を襲ったのも。みんなおおかみです。
それだけ人間はおおかみを怖がっているのです。ルイは少しだけ自慢げな気持ちになりました。
しかし話はそれだけでは終わりませんでした。ティニーは言ったのです。
『だからね、人間はおおかみを何としてでも殺そうとするの!』
と。
その言葉に、背筋が凍るようでした。
赤ずきんちゃんを助けに来た猟師が、おおかみのお腹をはさみで裂いたように。
三匹のこぶたが、おおかみをぐつぐつと煮える鍋の中へ落としてしまったように。
七匹のこやぎのお母さんが、おおかみのお腹に石を詰めて溺れさせたように。
人間の作った話は、揃っておおかみは死ぬのではなくて殺されていました。
『だからさ、ルイも気をつけてね?わたし、友達が殺されるなんてやだよ!』
小さな手を握って心配そうにかけられたその言葉が、頭の中で響きました。
今置かれている状況が、一体どれだけ危険か。ルイはそれをことごとく理解しました。
ここは人間の森。そして自分はおおかみ、しかも魔物。
捕まれば、ただでは死なせてもらえまい。
もちろんどんなふうに殺されるかなんて想像もしたくなかったけれど、とにかくまずい状況なことだけは痛いほどに分かります。しかし魔法で吹っ飛ばそうものならそれこそ居場所を示しているようなもの。
ルイは身を隠すことに決め、茂みに飛び込もうと足に力を込めました。
その時。
「危ないよ!こっち!」
ぐい、と腕を引っ張られました。
「わっ」
ルイは驚いてつんのめりますが、その手の主は引っ張るのをやめようとしません。ぐいぐいとルイを引っ張り、どこかへ連れて行こうとします。
(……どうしよう……)
誰なのか、何のためにこんなことをするのか、わからずにルイは困惑しました。振り解くべきか、従うべきか。二つの選択肢の間で思考が揺れ動きます。
ついていかないほうが、いいのでしょうか。もしこれが罠で、その先に魔法の杖を構える人間がいたら、ルイに勝ち目はありません。ルイはまだ子どもなのです。
しかし、悪いひとではないのではないかとも思いました。だって助けてくれようとしているのです。罠かもしれないけど、そうじゃないかもしれないではないですか。
結局ルイは相手を信じることにしました。
いちごがたくさん入った籠を抱え直すと、ルイは導かれるまま森を駆けました。
やがて二人は、開けた場所までやってきました。
もう足音は聞こえません。匂いも感じません。どうやら撒けたようです。
「助けてくれてありがとう」
ルイはそう言って、顔を上げました。
「どういたしまして。大丈夫だった?あの人ったら、気が荒くて困っちゃうわ」
目の前に座った手の主は、おかしそうに笑いました。
そこにいたのは、女の子でした。年は、だいたいルイと同じくらいでしょうか。ふわりと広がる赤髪と、エメラルドのような澄んだ緑の目が綺麗なかわいらしい女の子です。
見に纏うドレスは上等そうで、女の子がお金持ちのお嬢さまであることを示唆していました。
女の子はこくんと首をかしげました。
「アナタはどうして、こんな森に夜ひとりでいたの?」
「母さんにいちごを採ってたんだ。そしたら、夜になって迷子になっちゃったの」
ルイはそう答えながら、内心首をかしげました。
魔力を身に纏っているのは感じますが、髪も目も、特徴はなし。角も翼も牙もなくて、尻尾も見当たりません。耳も尖っていないし、ゴブリンのように小さすぎることも巨人のように大きすぎることもありません。
彼女には、何も特徴がありませんでした。
目の前の女の子は、一体何の魔物なんでしょう?
そうけげんに思って、ルイはふと問うてみました。
「ねえ。君は、何の魔物?」
「魔物?」
女の子は、驚いたように目を丸くしました。
不思議そうな声音で、言葉が紡がれます。
「わたしは、人間だよ」
人間。
その言葉を飲み込んだ瞬間、
「っ!」
ルイは弾かれたように立ち上がりました。一瞬で地面を蹴り、大きく後ろに下がります。
最悪です。人間と二人きりでいるなんて。あまりに危険すぎます。
言われてみれば、人間なのは当然です。ここは人間の縄張りなのですから。
どうして、気づかなかったのでしょう。
「ぼくから離れろ!近づけば咬むぞ!」
ルイは恐怖に突き動かされ、習った魔法も何も使う気になれずにただうなり声を上げました。
『人間は、何としてでもおおかみを殺そうとするの!』
ティニーの声が頭に響きます。
どうしよう、殺されちゃう。でもどこに逃げればいいのかわからない。
ルイは、ただ牙を剥いて低くうなることしかできません。
どうしよう、どうしよう────!
その時でした。
「怖がらなくていいよ。わたし、魔物は嫌いじゃない」
女の子は、微笑んでそう言ったのです。
優しい響きに、ルイは意表を突かれました。思わず目を瞠って、うなるのをやめます。
女の子は微笑んだままルイに歩み寄ってきました。飛びかからんと構えた姿勢のままのルイのすぐ前までやってきて、そっとその手を握ります。
友好の印です。
「わたしね、ずっと魔物の友達が欲しかったの。だから怖くないし、殺そうとも思わない。そんなに怖がらないで」
女の子はそう言って笑いかけました。
「………」
ルイは黙り込みました。
信用していいのか、ルイはわかりかねていました。ずっと、人間は魔物を殺そうとする悪いやつだと思っていましたから。
急に優しい面を見せられても、戸惑うだけでした。
それでも、手は温かくて。とても想像していたような、冷酷なほどに冷たい手とはかけ離れています。
ふと思いました。
魔物の中にも、いいひとと悪いひとがいる。
じゃあ、人間にもいいひとはいるのか?
戦争を始めたひとや、じいちゃんの足を奪ったひとだけが悪いひとで。
この女の子は、いいひとなのか?
ルイは、そっとその瞳を見上げました。
エメラルドのような鮮やかな緑色の瞳は、月の光を吸い込んできらきらと輝いている。
純粋で優しいその光に、恐怖からささくれ立っていた心が落ち着いていくのを感じました。
ルイは、そっとその温かい、自分をさっき助けてくれた手を握り返しました。
手に生えたかぎ爪がその手を引っ掻かないように気をつけて、優しく握ります。
女の子がぱっと顔を明るくしました。
「仲良くしてくれる!?」
「うん。ぼくも、思い込みすぎてたみたい」
ルイはそう微笑んだ。
女の子は嬉しそうに髪をひょこひょこと揺らしました。
「やったあ!じゃあわたしたち、友達ね!」
そのくったくのない笑顔に釣られて、
「うんっ!」
ルイも頷きます。
魔物と人間、相反する二つの存在。
その二人の、和やかな笑い声が軽やかに響きました。
女の子の名前は、フェリネと言いました。
なんと、ヴェリア王国の隣にある人間の国、モンステラ帝国の王女だと言うのです。今はお城を離れて森の別荘に遊びにきているのだとフェリネは話しました。
「そろそろ行かなきゃ。母さんが心配しちゃう」
少し話をした後に、ルイはそう言って立ち上がりました。
フェリネはそっか、と少しさみしそうに呟きましたが、すぐにはっと名案が浮かんだように顔を上げます。エメラルドの瞳をめいっぱい輝かせて、フェリネは言いました。
「じゃあ、明日!明日の夜も、遊べない?」
ルイは少しサファイアの目を丸くしました。
しかしすぐに、その驚いた顔は笑顔に変わります。
「うん!明日も遊ぼう!」
二人は指切りげんまんをして、手を振って別れました。
月夜の下、誰も知らない小さな約束が交わされました。
それは幼くて、些細で、それでも何より大事な約束です。