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-前編-

前編、後編と一気に公開します。

よろしくお願いします。

   ◆ ◆ ◆




 月が妖しいほどに輝く晩のことだった。

 細い路地を歩く青年の前に、突如、黒装束に身を包んだ刺客が現れる。


「お命、頂戴いたします!」


 若い女性の声は目的を告げ、両手から人形(ひとがた)の式札を放つ。式札は小さいとはいえ意志を持ったかのように青年へと向かっていく。

 青年は動じることなく、懐から呪符を取り出した。


「〈呪符退魔、急急如律令〉」


 ぼっ。


 式札は青年に届く前に燃え尽き、刺客は一瞬動きを止める。

 青年はその隙を見逃さなかった。

 瞬時に間合いを詰め、刺客の背後へと回り込む。


「誰の差し金かは知らぬが、私を狙うにしては弱すぎる」


 青年の手刀によって、いとも簡単に刺客は気絶する。

 地面に倒れる前に青年は刺客を左腕で抱きかかえた。


「……ふむ」


 刺客は明らかに女性であり、長い髪の毛をまとめるために、珊瑚の髪飾りをつけていた。




   ◆ ◆ ◆




 ――話は少し前に遡る。


 

「小夜。お前に暗殺の才能はない」


 それは会話ではなく、威圧だった。

 薄暗い畳の間。

 髭を蓄えた初老の男は、感情のない顔で己の娘を見下ろす。


「次が最後だ。芦屋家の当主、芦屋茂彬(しげあき)の暗殺。失敗は許されない。分かっているな?」

「はい、お父様」


 小夜は平安から脈々と受け継がれてきた暗殺者の家系の末裔である。

 一族は呪いを生業とし、その時代の権力者に代々仕えてきた。


 重たい体を無理やり持ち上げて、小夜は廊下へと出た。

 すると、薄紫色の小袖姿の少女が、小夜を待っていたかのように明るい声をかけてきた。


「お姉様、綾子がとびきりの呪いを用意して差し上げましたわ。受け取ってくださいませ」

「……綾子さん」


 小夜の妹である綾子はその才能を遺憾なく発揮し、新政府に反目する人間を数多く闇に葬っている。

 扱う式神は、一子相伝の『十二神将』。女性で《《それ》》を初めて受け継いだ綾子は、間違いなく殺しの天才だった。


 姉が失敗することを前提とした呪い。

 それは、血のように赤い色をした、珊瑚の髪飾りだった。見た目自体は流行りの意匠(デザイン)であり、小夜も目にしたことがある。

 しかし、おどろおどろしい気配が滲み出る、立派な呪具だった。

 小夜は髪飾りを手にすると、すぐに結った髪へと挿した。


「ありがとうございます。最期くらいは、お父様のご期待に添えるよう頑張ります」

「応援していますわ。臓物をぶちまけて、どちらのものか分からないくらい凄絶な死を遂げてくださいませ」


 綾子がきらきらと瞳を輝かせる。

 小袖だけではなく身に着けているすべてが新しくはりのある綾子。

 妹と違って、小夜はところどころ掠れた鈍色の小袖で、髪の艶も悪い。珊瑚の髪飾りだけが眩しく目立つ。

 暗殺者として有能な妹を、両親は当然のように可愛がって育ててきた。

 しかし、姉妹仲が悪い訳ではない。ただただ、綾子は暗殺以外に興味がないのだった。




   ◆ ◆ ◆




(死んで……ない?)


 瞳を開いた小夜が真っ先に認識したのは、見知らぬ天井だった。


「おや。目が覚めましたか?」


 小夜の顔を覗き込んできたのは片眼鏡(モノクル)の青年。髪の毛は短く、口元に髭を蓄えている。軽妙な口調で矢継ぎ早に語りかけてきた。


「喋れますかね? どこか痛むところは? 貴女は三日三晩寝込んでいました。お腹が空いているでしょう? 内臓は弱っているでしょうから、粥でも用意させましょうかねぇ」

「それくらいにしておけ、春敬(はるよし)

「おや、旦那。いつの間に」


 闖入者(ちんにゅうしゃ)を認識して、小夜は息を呑んだ。


(芦屋茂彬(しげあき)……! 暗殺に失敗したどころか、標的に助けられてしまった……!)


 春敬と呼ばれた青年が見上げた長身の青年こそ、芦屋茂彬その人だった。

 白皙(はくせき)の美貌と名高い彼は、薄茶色の髪で、はしばみ(ヘーゼル)色の瞳の持ち主。異国の血が混ざっていると噂されている。

 すっと茂彬は小夜に近づくと、感情の読めない瞳で見下ろした。


「しばらくは寝ているといい。呪いに利用されていたのだ。体調が万全に戻るまではしばらくかかるだろう」

「旦那、旦那。いきなり呪いだなんて言ったら、びっくりしちゃいますぜ。物事には順序ってやつがあるんですから」


 春敬は、小夜が挿していたはずの珊瑚の髪飾りをひらひらとかざした。


「流行りの髪飾り。これに、持ち主を巻き込んで呪い殺す術がかけられていたんでっさ。いやー、旦那がたまたま遭遇しなければ、お嬢さんを巻き込んで甚大な被害が出てたでしょうね!」

「数年前に新政府より禁じられた秘術だ。恐らく、これを身に着けてからの意識はないのでは? 私を殺す、と言って目の前に飛び出してきたのだから」


 春敬とは真逆の淡々とした口調。

 小夜は、自らの血の気が引いていくのを感じていた。


(確かに言いました。お命頂戴、と。ですが、それは自分の意志で、です)


 しかし真実を告げることはできない。

 小夜は、茂彬の推論に乗ることにした。布団の中で何度も頷いてみせる。


「秘術は禁止されたといえ、密かに横行しているのも事実だ。春敬は怪異専門の医者だ。困ったことがあれば頼るといい」

「おや? 旦那、もうお出かけで?」


 茂彬はインバネスコートを着ていた。山高帽を被ると、無表情はさらに見えなくなる。


「簪の出処はまだ分かっていない。今日は満月だ。術者を突き止めるには、絶好の日だろう」

「ご武運を」


 茂彬を見送り、春敬は首を傾げた。


「しかし、口がきけないってのは呪いの余波かねぇ」




   ◆ ◆ ◆




 正確に言えば、小夜は自らの意志で喋れないように装っていた。


「きちんと召し上がっていただけたようで安心しましたわ」


 粥を給仕してくれたのは、使用人のみつと名乗る、ふくよかな女性だった。

 小夜は首を縦に振り感謝を表す。


「また様子を窺いに参りますので、ゆっくりお休みくださいね」


 みつはにこにこしながら膳を両手で持ち、すぐに中座した。


 障子の向こうは鮮やかな夕暮れ。

 あと少しで陽が沈む。

 夜の闇は暗殺者にとって狩場となる。

 障子の隙間から小さな人形の紙が入り込んできて、敷布団の上に立った。


『驚きましたわ。お姉様は、こんな簡単なことでも失敗なさるのね!』


 予想通りだった。

 現れたのは、綾子の式神だった。

 闇に包まれた室内で、輪郭が淡く光を帯びる。


『ですが芦屋家に入り込めたのは唯一の成功だったかもしれませんわね。改めて呪具を幾つかお送りしますので、必ずや、芦屋茂彬を殺してくださいませ』 


 ところが。

 ちりちりちり、と青い火を上げて式神は消えた。

 障子が引かれて、月光が室内へと射してくる。

 立っていたのは茂彬だった。


「なるほど、藤田家の仕業だったか。合点がいった」


 小夜は息を呑んだ。

 綾子の式神を燃やしたのは茂彬だ。そして、それは恐らく綾子にも伝わっただろう。

 小夜は心臓に手を当てた。

 まるで皮膚の上から引き抜くようにして現れたのは自刃用の短刀――同時に布団を蹴り上げて飛び上がる。


「覚悟ッ!」


 布団を目眩しとして、小夜は茂彬へ間合いを詰める。


「ぬるい」


 自らの魂で練り上げた武器だったが、あっさりと茂彬に躱されてしまう。

 短刀は畳の上に落ち、細腕はしっかりと掴まれる。軽く捻り上げられ、小夜は顔をしかめた。


「すまないが、外出する(てい)を装い、見張らせてもらっていた。君が藤田家の人間と判ったからには容赦しない」

「あああああっ!」


 全身が引き裂かれそうな痛みに襲われ小夜は絶叫した。茂彬から腕を離されると、どさり、と布団の上に落ちる。


「髪飾りが呪具だった時点で、藤田綾子に何らかの関わりがあるとは思っていたが」

「……殺してください」


 綾子は裏稼業ではあまりにも有名すぎるのだった。

 言い逃れはできない。息も絶え絶えに、小夜は訴えた。

 瞳から溢れた涙が布団を濡らす。


「おっしゃる通り、わたしは藤田家の者です。そして貴方様の暗殺が課された役目でした。それが失敗した今、おめおめと実家へ戻ることはできません。ならばいっそのこと、ここで命を」

「申し訳ないが、それはできない」


 小夜の願いを、茂彬は一蹴した。


「恐らく君の命そのものに呪いが仕込まれているのだろう? 私が君を殺せば、呪いが私に降りかかるようにできている」

「……」

「図星か」


 その通りだった。

 あくまでも珊瑚の髪飾りは第一段階。さらなる仕掛けとして、小夜の命そのものに呪いがかけられている。

 恍惚とした綾子に刻み込まれた、一生解けない呪い……。


「安心するといい。君を藤田家へ送り返すような無粋なことはしない」

「……え?」

「一旦、その身は芦屋家で預からせてもらおう。いいな?」


 それは小夜にとって、青天の霹靂ともいえる提案だった。




   ◆ ◆ ◆




「はっはっは! まさか、お嬢さんが藤田一族だったとはねぇ!」


 翌日、小夜の元を訪れた春敬は笑いながら言った。

 小夜は小夜で、びくびくしながら春敬へ顔を向ける。


「あの……」

「ん? 何だい?」

「わたしを咎めたりしないのですか? 騙していたことに対して」

「旦那が咎めないことを、どうしておいらが? 第一、その新品の小袖は何だい」


 春敬の指摘とは、小夜の着ている小袖にあった。

 納戸(なんど)色に矢絣(やがすり)。どこからどう見ても、新しくあつらえたものだった。


「それは……その、旦那様、が」


 呼び名は散々迷ったので、ぎこちない。

 刃を向けたのは小夜とはいえ、攻撃を直に喰らわせたことの詫びとして、茂彬がみつを通じて用意させたのだ。


「似合う似合う。正直なところ、ぼろぼろで気になっていたんだ」

「そうでしたか……」

「で、今日はこれから旦那とお出かけだって?」


 はい、と小夜は頷いた。

 藤田家が茂彬を狙う理由、つまりは茂彬の仕事について説明すると言われていた。

 小夜と春敬が話していると、そこへちょうど、茂彬が現れた。


「支度はできたか?」

「は、はい」

「では行こう。外に馬車を待たせてある」




   ◆ ◆ ◆




 エスコートされて戸惑いながらも馬車へと乗り込んだ小夜は、すぐさま外の景色に目を奪われる。

 すると、向かいに座っていた茂彬が話しかけてきた。


「目新しいものなどなかろう」

「いえ。物心ついた頃から、外に出る機会がほとんどなかったので……。不思議なのです。馬車も、視界が広がって、面白いです! ……も、申し訳ありません」

「いや。寡黙だと思っていたが、意外と喋るのだな」


 わずかに茂彬が笑みを零した。

 慌てて小夜は居住まいを正す。ぎゅっと両膝の上で拳を握りしめた。


「……わたしは、一族の出来損ないです。呪いの才はなく、誰も殺めたことがありません」


 俯いたまま、小夜は言葉を続ける。


「物心ついた頃から、地下に閉じ込められて呪いを学んでききました。こんな明るい場所にいることが、そもそも分不相応なのです」

「君は、何故藤田家が私を暗殺対象にしたか知っているか?」


 小夜は、はっと顔を上げた。

 二人の間を爽やかな風が吹き抜けていく。


「いや、藤田家というより、土御門家か」

「……平安の世から続く因縁であると聞いております。朝廷に仕えた土御門家、一方で、都を追われた芦屋家」


 新政府によって、陰陽道は禁止された。

 否、正確にいえば禁止されたのは『呪禁(じゅごん)術』だ。

 ただし、唯一、その使用を許可されている一族がある。それこそが藤田家こと、土御門家なのだ。

 古より一族は時の権力者の命を受けて、叛乱を企む者たちを闇へと葬り去ってきた。


「そうだ。そして、その確執は今、新政府を脅かす存在となりうる芦屋家を廃そうというものに捻じ曲げられている。……芦屋家は、(まつりごと)に関わるつもりなど一切ないというのに」




   ◆ ◆ ◆




 着いたと茂彬が告げるのと同時に、馬車が止まった。

 一面に広がるのは、瑞々しく白い花畑。


 小夜は瞬きを繰り返してその光景を眺めた。


「畑……?」

「薬草畑だ。芦屋家は幸いなことに多くの土地を持っているので、そのうちの幾つかで、薬となりうる植物を栽培している。雇用を創出するだけではなく、起こりうる疫病に対しての備えとして」


 つまり、茂彬は、陰陽道を用いて薬草を育てているのだった。

 呪禁だけではない。天文道や暦道など、様々な技術を統括して陰陽道と呼ぶ。


 そもそも芦屋一族自体が都を追われた陰陽師だったが、長い時間を経て市井(しせい)に溶け込み、人々のためにその力を使ってきた。


「禁止令は発布されたが、いつか必ず求められる日が来る。その日まで、正しく守り続けるのが私の責務であり使命だと考えている」


 禁止令の発布で影響が及ぶのは芦屋家のみ。

 新政府により、陰陽道は藤田家、すなわち土御門家のみが密かに受け継ぐべき、という意志が発せられたともいえる。


 その横顔を小夜はじっと見つめた。


 薄茶色の髪はやわらかく風になびく。

 瞳は真っ直ぐに花畑へと向いているように見えて、遥か遠くの未来を見据えているようだった。


(なんて美しいお方なんでしょう)


 茂彬を尊敬の眼差しで見つめれば見つめるほど、小夜は、己の貧しさに恥じ入りたくなる。


「さて、食事にしようか。先ほどの話から推察するに、外食はしたことがないだろう。行きつけの店へ案内しよう」


 茂彬が小夜へ顔を向けると、小夜は恥ずかしさから顔を背けてしまうのだった。




   ◆ ◆ ◆




 堅牢な、洋館を模した店舗には、『牛鍋屋』という看板が掲げられていた。

 

「芦屋様、毎度ご来店ありがとうございます」

「あぁ。いつものを、二人分頼む」

「かしこまりました」


 ふたりが案内されたのは二階の個室だった。

 目の前の机に埋め込まれた火鉢、その上に載せられた平鍋。

 見事なまでに赤くて薄い肉が敷かれ、さらには、切られたねぎが添えられている。

 給仕係が、砂糖を肉にまぶして焼き始める。

 じゅう、という小気味いい音と、肉の焼ける芳ばしい香り。

 すぐに小夜の腹は空腹を訴えた。


「牛の肉は、初めてか?」

「は、はい」


 小夜にとって食事とは栄養を摂取するだけの行為だった。

 実家では麦飯と野菜中心の食生活。

 今まさに目の前で繰り広げられている光景に、小夜はよだれを垂らしそうになり、慌てて唾を飲み込む。

 砂糖の次は、醤油。

 ぐつぐつと煮えたぎったところで、給仕係が丁寧に小皿へとよそってくれた。


「食べてごらん」


 促されて、小夜は恐る恐る牛肉を口へと運んだ。

 噛めば噛むほど広がる甘みに瞳を閉じる。


「~~~っ!」

「お気に召したようで何より」


 今度は、茂彬はしっかりと口角が上がっていた。

 小夜は頬を染めてうつむく。


「……あの、旦那様」


 小皿と箸を置き、小夜は姿勢を正した。


「何故、わたしにここまでしてくださるのでしょうか。わたしは貴方様の命を狙った女です。もしかしたら今だって、機会を窺っている可能性もあるというのに」

「君には」


 ひと呼吸置いて、茂彬は目を細めた。


「借りがある。覚えていないだろうが、それでいい」



   ◆ ◆ ◆




 店を出る頃には、陽が沈みかけていた。

 点灯夫が長い《《さお》》を使って、ガス燈に火を点してまわっている。

 

 茂彬がガス燈を見上げた。

「文明開化の最大の恩恵だ。夜が明るいものになっていけば、おのずと、闇は人々の間から退いていくだろう」


 つられて小夜も顔を上げる。

 闇を淡く照らす光は、月や提灯のものとは違うやわらかさがある。


 店先には迎えの馬車が停まっていた。

 しかし、茂彬は乗り込もうとしない。何かを御者へ耳打ちすると、馬車はふたりを乗せずに走り去った。


「……旦那様……?」


 理由を尋ねようとした小夜だったが、口を開くより先に気づいてしまった。

 背後から感じるのは、禍々しい『何か』。

 ぞわりと背筋を撫でてくる。

 招いている。闇へと……。


「ちょうどいい。今日は、私の仕事を君へ紹介する日だと言ったのを覚えているか」

「は、はい」

「新政府以降、怪異は存在しないものとして扱われることとなった」


 小夜は息を呑んだ。

 だからこそ禁止令が発布された、というのが公の理由となっているのは、小夜も知るところである。


「信じなければ目に見えないのが怪異だ。しかし、人々の意識はそう簡単には変わらない。負の感情は怪異を呼び、心の奥底に潜む畏れが怪異を具現化する。そのとき、誰が怪異を滅する?」

 ふたりは細い路地へ入る。

 

「その役目を担ってきたのが我が一族だ」


「うっ……ひっく……おっかぁ……おっとぉ……」 


 幼子(おさなご)がうずくまって泣いていた。

 否、幼子ではない。

 人の気配に気づいたのか、ぐるり、とありえない角度で首を回転させ、背中側に顔の真正面が来る。ぎょろりと異様に大きな目で茂彬たちを認識すると、ききき、と頭が横に傾いた。


「おなか、すいたヨォ。にんげん、たべたいヨォ」


 怪異の口がぱくりと開く。歯は鋭く人間よりも多く、咥内は赤黒くぬらりと光る。

 茂彬に一切の躊躇いはなかった。


「〈呪符退魔、急急如律令〉」


 呪符は主の命に従い、怪異へと向かう。

 ばちっ!

 口を塞いだ呪符は、そのまま青い炎となって怪異を包み込んだ。

 ぶすぶす……。

 黒焦げになった怪異はそのまま灰となって風に攫われていく。


 茂彬は膝を折り、もう一枚、呪符を懐から取り出した。

 縦四本と横五本からなる、格子が描かれている。

 僅かに残った灰の上に呪符を置くと、格子は淡く発光し――地面に染み込むようにして消滅した。


「我が一族の使命とは、人々が息災に暮らせるよう、この地を守ること」


 立ち上がった茂彬は、小夜と向かい合う。

 小夜よりも頭三つ分背の高い茂彬。


「君ならどちらを選ぶ?」

「……どちら、とは」

「人を殺す道か、人を守る道か」

 小夜は弾かれたように茂彬を見上げた。


 人を殺す道。

 人を守る道。

 どちらも同じ術を使う。それなのに、対極的。

 それはまさしく、太陰太極図(たいいんたいきょくず)の陰と陽でもあった。


「……守りたい、です。わたしに、そんな力があれば、ですが……」


(わたしは、出来損ないだから)


 すべての想いを唇に載せることはできなかった。


 小夜は、人を殺めることにどうしても抵抗があった。

 だからこそ思うように能力を伸ばすことはできなかった。

 出来損ないと言われても、恥晒しと罵られても、仕方ないと思って生きてきた。

 せめて最期に芦屋茂彬と自爆することで、己の存在意義を確かめようと考えていた。


 しかし、今。

 ずっと葛藤してきた小夜に、敵である茂彬は、別の道を示してくれている。


「後者を選んでくれてよかった。君にはその可能性がある」


(可能性……?)


 屋敷へは歩いて戻ろう、と茂彬は提案した。

 少し距離はあるが、歩けない程ではない。

 小夜も、体力だけはあるのだ。


「血の匂いがしない夜道を歩くのもいいだろう?」

「……はい」


 大通りに出たふたり。

 小夜は喧騒を耳に感じながら、ガス燈を見上げた。

 

(わたしにも、なれるのだろうか。闇を照らすような、明かりに……)




   ◆ ◆ ◆




「お帰りなさいませ、旦那様。小夜さん」


 女中のみつがふたりを出迎えてくれた。

 みつは茂彬のインバネスコートを受け取り、主人へと告げる。


「冷えたでしょう。お風呂の支度はできておりますからね」


 ん、と茂彬は小さく頷いて廊下の奥へと歩いていった。


 茂彬の姿が見えなくなったところで、みつは残された小夜へ満面の笑みで尋ねてきた。


「小夜様。みつの選んだ小袖、よくお似合いですよ。旦那様にたくさん褒めてもらえましたか?」

「いえ、そんなことは……」


 すると、みつの眉がへの字になる。


「旦那様ったら。直接言わなければ伝わらないっていうのに」


(みつさんったら、何を言っているんだろう)


 小夜には心底、みつの不満の理由が分からなかった。


「小夜さんのお部屋も整えてありますから、ゆっくりお休みくださいね。お風呂の番が来たらお呼びしますから」

「は、はい」


 小夜は深く頭を下げる。


 みつは軽やかに仕事場へと戻っていった。

 小夜は静かに息を吐き出した。


(今日は、いろんなものを見ることができて)


 賑わう街並み。薬畑の美しい花。牛鍋。ガス燈。

 それから、茂彬の様々な一面。


(楽しかった、な……)


 たとえそれがかりそめであっても、その感情(楽しさ)に包まれるのは何年ぶりだろう、と小夜は思った。




   ◆ ◆ ◆




 芦屋家の世話になることとなった小夜。

 居候だからと家事手伝いを申し出たが、茂彬(しげあき)にすぐさま却下された。


 当然といえば当然のことだ。

 小夜が食事に毒を盛ったり、室内に罠を仕掛けないという確証はない。あくまでも小夜は人質であり、芦屋家に軟禁されているだけなのだ。

 それでも必死に食い下がった結果、小夜は、洗濯係を拝命することとなった。


 からりと晴れた、中庭の軒先。

 みつが洗濯板で肌着を洗い、受け取った小夜はそれを干す。

 すべて終わったところでみつが提案した。


「ひと段落したところですし、休憩しましょうか」


 手を出すよう促されて、小夜は素直に従う。

 ざらざらと手のひらいっぱいに散らばったのは色とりどりの金平糖だった。


(……きれい)


 金平糖を見るのは初めてだった。

 そもそも、洗濯板も含めて、芦屋家には小夜の知らないものばかり。

 芦屋家は異国とも関わりが深いようで、舶来品があちらこちらにあるのだ。


「金平糖っていいます。甘くて美味しいですよ」


 小夜は黄色の金平糖をつまんで口に放る。

 じゃり、と噛んで崩れる甘さ。


「旦那様が疲れたときに金平糖を食べたがるので、常備しているんです」

「あの……」


 小夜は問いかけて、ためらった。しかしみつは察して先回りする。

「旦那様が暗殺されかけたことなんて両手でも数え切れませんし、その度に徹底的に撃破してきましたよ」


 みつは続けた。


「今回、小夜さんをこうやってお手元に置いているのは、なんらかの意図がおありなのでしょう。しかし、それには決して、悪い意味はないと思います」

「わたし……」


 ぽろ、と小夜の瞳から涙が落ちた。


「こんな風に人から優しくされたことがなかったんです。ここの家の人たちはどうして、」

「かんたんなことです。お人好しの集まりなんですよ。旦那様もあぁ見えて、懐の広いお方ですから」


「やぁやぁ、こんにちは」

「あら、春敬(はるよし)さん」


 ふたりに割って入ったのは、片眼鏡の医師、春敬。

 飄々とした様子で、片手を挙げて挨拶してくる。


「こ、こんにちは」

「おっ? だいぶ慣れてきたみたいだねぇ」

「いろいろと手伝ってくださって助かってますよ」


 みつは、春敬にも金平糖を差し出す。

 礼を述べると同時に、彼はがりがりと豪快に嚙み砕いた。


「まぁ。春敬さんったら、もったいない食べ方をなさいますこと!」

「この食感がたまらないんでさぁ」


 頬を膨らますみつと、気に留めない春敬。ふたりのやりとりは年季が入っていて、軽妙だ。


「あ、あの!」


 小夜はここに来て最も大きな声を上げた。

 ふたりの視線が小夜へと集まる。


「春敬さまは、その……怪異専門のお医者さまなのですよね? 陰陽道の基礎があれば、習うことはできますでしょうか……」

「おやおや?」


 春敬は距離を詰めて、言葉に迷う小夜の顔を覗き込んだ。

 片眼鏡が愉快そうに光る。


「お嬢さん、やけに積極的だね?」

「いえ、その……」

「おいらは構わないけれど、旦那が何て言うかな」


「そんなに張り切りすぎてどうする」


「ほら~。って、旦那!」


 さらに現れたのは茂彬だった。


 若干、呆れを含んだ声。

 茂彬は珍しく、洋装に身を包んでいる。さらには前髪に整髪料をつけて後ろへ流し、額を露わにしている。

 はしばみ(ヘーゼル)色の瞳は、声と同じような表情をまとっていた。


「……申し訳ありません」

「いや。別に咎めているのではない。ただもう少し、余裕を持ってもいいのではないか。今まで休日らしい休日などなかったのだろう」

「旦那と同じで、真面目なんですよ」

 

 春敬がのんびりと口を挟んだ。


「そういう旦那だって、この一年ほど、休日をとったのを見たことがないですぜ」

「……それは」


 言い淀む茂彬に被せるように、春敬が両手を叩いた。


「あっ! 旦那、いっそのことお嬢さんと遠出でもしてみたらどうですか?」

 ぴくり、と春敬の眉が動く。

 慌てて小夜は手を振った。


「おやめください。旦那様がお忙しい方なのは、春敬さんがよくご存知ですよね? それに、わたしなんかと」

「分かった。すぐには無理だが、調整しよう」


 ところが、茂彬は春敬の提案を受けた。


(ど、どうして)


 小夜は戸惑う。

 医術を請うただけなのに、何故か、茂彬と出かける流れになっている。

 先日の、仕事見学とは訳が違うのではないか。

 そう言いたいのに言葉が出てこず口をぱくぱくさせていると、春敬が笑いをかみ殺した。


「お嬢さん、ほんとにかわ……面白いなぁ」


 春敬が言い換えたのは、茂彬に睨まれたからであった。


「行く場所は旦那が考えるんですよ。お嬢さんは、外のことも流行も知らないんですから」

「……善処する」

「だってさ。よかったねぇ、お嬢さん」

「い、いえ、そうではなくて」


 小夜はなんとか話題を戻そうと試みる。


「芦屋家に置いていただいているからには、人様のお役に立てるようになりたいのです。決して悪用などもいたしません」

「その点においては大丈夫だと思っている」


 ふぅ、と茂彬が息を吐き出した。

 それから、小夜をまっすぐに見つめる。


 どきん。小夜の心臓が大きく音を立てた。


(大丈夫、とは。旦那様は、わたしのことを信用してくださっている……?)


 ふたりの視線が交差する。

 茂彬の感情は読めない。


「くれぐれも、根は詰めないように」


 行ってくる、と茂彬は告げて、その場から立ち去った。


「お気をつけて~」


 春敬がひらひらと手を振った。

 茂彬の姿が見えなくなったところで大きく伸びをする。


「さて、旦那のお許しも出たことだし、また今度勉強になりそうな書物を持ってくるとするか」

「よろしくお願いします」

「そんなかしこまらなくたって大丈夫でさぁ。ま、旦那の言う通り、ほどほどに」


 にかっ、と春敬が歯を見せて笑う。


「そうですよ。あまり無理をしてはいけません」


 みつも割り込んでくる。


「はい。大丈夫です」


 大丈夫。

 大丈夫。


 この短い時間に耳にして、口にした言葉。


(それは、誰が誰に?)


 小夜は空を見上げた。

 雲ひとつない、清々しい晴れ空。




   ◆ ◆ ◆




『……夜。小夜……』


 藍色の世界だった。

 小夜は気づくと、上下のない空間にいた。


(最後の記憶は、眠る前だった。ということは、ここは、夢……?)


 紅い着物を着た女性が小夜の目の前に立っている。

 風もないのに銀色の髪がゆらゆらと揺れている様は、ふしぎな光景だった。


「あなたは……?」


 問いかけて、小夜は気づく。

 女性と認識できるのに、その顔には何もなく、まさしくのっぺらぼう。

 ざざぁ、と波打つような音が響き、空間にいくつも浮かぶのは五芒星。

 すなわち、小夜が用いる呪符。

 五芒星の輪郭は光を帯び宙に舞う。


 女性が小夜の胸元を指さした。


「……!」


 深々と突き刺さっているのは、一本の太い釘。


(これは、綾子さんがわたしに刻み込んだ呪いの具現化に違いない。ということは)


 小夜は顔を上げた。


「もしかして、あなたは」


 そこで世界は唐突に終わった。




   ◆ ◆ ◆




(……夢……いいえ、あれは)


 差し込む朝日に、微睡む思考。

 布団から出ずに小夜は天井へと右腕を伸ばした。

 手のひらを、ぎゅっと握り、拳をつくる。


(わたしが焦がれていたもの。どうして、今になって)


 小夜はのそりと布団から這い出た。

 与えられた部屋は実家の地下牢よりも遥かに立派で、人間らしい生活を小夜にもたらしていた。


 障子を開けると、眩しさのなかに朝のにおいがする。

 夜とは違う、柔らかな草木や土のにおいだ。


「欲を出してはだめよ……わたしは、出来損ないなのだから」


 ぽつりと零した言葉は朝露のように葉の上に滑り落ちた。


 小夜の感情が揺れ動いたのには、理由がある。

 綾子が持っていて小夜にないもの。

 すなわち――契約を交わした陰陽師でしか使役できない式神だ。


 小夜が契約に至っていないのは、力量不足だと言われてきた。

 しかし小夜は今、初めて見たのだ。小夜の名を呼ぶ、存在を……。




 

 

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