大学は広く、自分の世界は狭い②
体育館はキャンパスの端にあり、自分の学部とは真逆に位置する。
結果、毎週この時間は、端から端への大移動を余儀なくさている。
もしこのバスを見かけた人がいれば、こんなふうに書き遺すだろう。
『そのバス、初夏というべき六月の心地好い風をかき分け、木漏れ日から木漏れ日へと移動す』と。
きっと車内の様子は、反射した窓で見えなかったのだろう。
知らずに済んだその人は全くもって幸せ者だ。
爽やかな外の様子とはうってかわって、車内は全く別の様相を呈していた。
自分の席からは、バスが定員オーバーだと一目瞭然。
辺り一帯が体育会系に埋め尽くされ、蒸し暑くなっている気がする。
極めつけに、人との距離はどう測ってもゼロ距離、完全な密である。
ソーシャルディスタンスの概念は、ここには存在しないらしい。
バスを待っている段階から混むことは分かっていた。
並ぶ人は多く、その中盤に構えていた自分には策が必要だった。
乗り込む際は、気まずさを承知で先客のいる二人掛けに座り、完璧な策だと高を括っていた。
今思えば、甘い考えだったと認めよう。
この超満員に対しては、策を弄したところで無意味だったと言わざるを得ない。
バスが無料なのはいい。
歩けば十五分はかかる距離を迅速に移動できるうえに、タダときている。
これはとても、とても素晴らしいことだ。
これほどの僥倖には不信心の自分でも思わず、手頃な教会に飛び込み、いるかは分からぬ神に自分の全てを捧げてしまうかもしれない。
厚待遇なのは頭で分かっている。
だが、このギュウギュウ詰めは解せん。
どう見ても何らかの規定に引っ掛かっているとしか思えない。
訴訟を起こせば勝てそうな気すらする。
梅雨入り前の六月だから良いものの、これを真夏にやろうものなら大惨事は確定だ。
夏の自分が思いやられる。元気にしているだろうか。
日焼けとは無縁の白い肌を晒した自分は、ここではマイノリティ。
もういろんな息苦しさを感じる。
マスクをしているのもあって、巡り巡って社会の息苦しさまで感じる始末。
気持ちを和らげようと読書を試みたが、数行ほど目を通してそっと本を閉じた。
同乗する学生たちが騒がしく集中した読書など不可能だった。切ない。
手持ち無沙汰に堪えられず、数少ない友人の一人を探してみる。
顔を上げると視界が全面的に塞がれてることに気付き、秒で無理を覚った。
失敗し続けて人間は学んでいく。
こうなってしまうと自分に残された手は少ない。
ここは精神統一のための瞑想(寝たふり)を敢行し、短い道のりを乗り切ることにした。