後編
これまでこんなに激しく誰かに抱かれたことなど無い、まさに直球のセックスだった。前回のように微笑み続ける優しい賢治君では無く、真剣な顔のままひたすら求めてくる。誰かを思い切り求める、どうしてもふたつの身体をひとつにしたいとは、こういうことなんだと全身全霊で伝えるように。貴子はそんな彼が心底愛おしいと、初めて感じた。
全てが終わると、半身を私に向け、肘で頭を起こし、
「謝らないよ。悪いことをしたとは思ってないから、謝らない。」
そう言った。
「どうして?」
自分のかすれた声が恥ずかしくなる。
「今夜だけ我慢するの、やめた。そしてあなたも俺を求めていると感じたから。」
賢治君が初めて貴子を安倍さん、では無く、あなた、と呼んだ。貴子が彼を求めているか否か、あの夜からずっとずっと混乱してばかりで、自分が賢治君に何を求めて何を求めていないのかもわからない。亮介への思いと賢治君への感情がシーソーのようにばったんばったん揺れている。そしてシーソーを揺らす風は一向に止まない。
突然、お腹が鳴った。賢治君が起きあがった。そして、いつもの人懐こい微笑みを向ける。
「ひょっとして、夕飯まだだったりして。」
「何か食べるつもりが、いきなり襲われたから。」
貴子は、元に戻った声でそう言った。
「ごめん。それには謝る。じゃあ、その謝罪として今夜は僕が料理するから。」
賢治君はベッドを降りて背中向きに立った。全裸の幅広い肩、贅肉が全く無い背中、形の良い尻が窓からの月明りに白く輝き、貴子は思わず目を逸らした。
彼は下着とジーンズを履き、Tシャツを腕に通しながら寝室のドアを半分開け、振り返って
「冷蔵庫の具材、勝手に使わせてもらうよ。」
と言って、キッチンに向かった。
賢治君が作ったのは明太子スパゲティとブロッコリーとアボカド、プチトマト、竹輪のサラダ、ゴマ・ドレッシング。冷蔵庫の中のものを組み合わせたようだ。
明太子スパゲティーを一口食べて、私は叫んだ。
「何これ!」
「ウソ、こういう庶民的な料理はダメ?」
賢治君が心配そうに貴子の顔を覗いた。
「逆、めちゃめちゃ美味しい。竹輪とアボカドとゴマのドレッシングの相性も抜群だし、パスタの味付け、バター、お醤油、味醂の他に何か入れた?」
「昆布茶とレモン。」
「あなたって料理上手なんだ。」
「調理師の免許持ってるからね。言ってなかったけど、週3回レストランでウエイターのバイトもしてる。」
「マジで?」
「日比谷花壇だけじゃ三十までに開店資金を溜められないってのもあるけど、花屋にカフェを隣接する予定で資格を取った。アレンジメント待っている間に寛げるような、男がひとりでも照れずに入れるような。」
「女がひとりでも入れるような、っていうのが普通なのに。」
「仕事の帰りがけに彼女や奥さんに花を買って帰る。本屋にカフェが隣接するように花屋にカフェがあってもいいはず。花ってギフトが多いから、アレンジの待ち時間を有効に使えるようにしたいし。」
「居酒屋、定食屋が好きだっていう君の発想とは思えないんだけど。」
「今ってちょっと目に洒落た店構え、でも料理やサービスはがっかりって店が多いでしょ。巷では女がひとりで牛丼屋に行く時代にシフトし始めてるのにね。」
「確かに箱は人目を惹くけれど中身がっかりって店は多くなったわね。でも女が牛丼屋にひとりで行く?」
「行く行く、モツ料理の店とかも人気だし。あなたみたいなスノッブな人種は例外だけどね。」
「スノッブと言われて光栄だけど。」
「だろうね。話がちょっと逸れたけど、とにかく、花束を待つ間にメールでもしながら、メタボ防止に胃にも目にも優しいものを花に囲まれて食べてもらう、そんな感じかな。」
「そこで、ローズヒップのクッキーも出すのね。」
「ああ、あれはサービスで出すつもりだったんだけど、売れるかな?」
「あれは売れる、私が保証するわ。花とクッキーって女性が喜ぶセットだし。」
「そうか。女性の意見も貴重だな、有難う。」
「どういたしまして。ね、今度賢治君がバイトしてるレストラン、食べに行ってもいい?」
「止めた方がいいと思うよ。ウチの店もご多分に漏れず、ペイはけっこういいんだけど見た目ばっかで味は大したことないんだ。俺が作った方がいいと思うくらい。免許持ってるから調理場で働けないか聞いたけど、君は接客してくれって却下されたし。」
「あなたのルックスじゃあそう言われるでしょうね。若い女のコ、集客出来るし。」
否定も肯定もしない賢治君を見ていて、ふと投資家の件を思い出した。
「そう言えば、名古屋で会った投資家の話ってどうだったの?」
「ああ、あれ、まだ決めて無い。」
賢治君はスパゲティをフォークに絡ませながら、何でも無いように言った。
「大きな資本に振り回されるのって嫌だし。」
「でも、チャンスなんじゃない?」
賢治君が食べるのを止めて貴子を見た。
「あなたの言うチャンスって、どういうチャンス?」
「三十まで待たないでジャンプスタート出来るし、資金的に余裕が出来る。」
賢治君が苦笑いした。
「いかにも大手勤務の発想だよね。僕は無理しないで自分の出来る範囲で小さく始めて、溜めたら少しずつ広げる。借金って借金を呼ぶから。」
「投資なんだから借金とは違うでしょ。」
「同じことだよ。先方だって慈善事業じゃないんだから、先方は自分に有利なように契約を持って行くよ。」
「じゃあ、あの日、どうしてスーツなんか着てわざわざ会ったの?」
「話だけは聞いておきたかった。別に意固地に絶対聞かないって言ってるわけじゃないし、オプションは多い方がいいし。」
「成人式以来スーツは着ない主義だと思った。」
「そういう無駄な主義は持たない主義だから。」
賢治君はそう言って、大きく伸びをした。
「そろそろ帰るよ。」
「もう少し、いてもらってもいい?」
ん?賢治君がこちらを向いて、貴子の顔を正面から見据えた。
「食後にもう一回?」」
貴子は目を逸らし、咳払いをした。
「賢治君っていくつなの?」
「二十五。」
間髪言わずに言われた。予想通りだが、実際に音で聞くとグサッとくる。
「若いなあ。」
思わず口にした。
「若いよ。大学行かないで働き始めたから、たいがいの人より若いし。」
そうだよね。貴子は曖昧に笑った。
「私の歳知ってる?」
「知らないけど、自分のこと三十路って言ってたでしょ。」
「三十五。」
「ぴったり十歳上だあ。」
「計算しなくて宜しい。」
「計算しなくてもわかるでしょ、それくらい。」
そう言っていきなりお姉さまぁと甘い声で抱きついてきた。貴子は彼の頬をぴしゃりと軽く叩いた。賢治君は痛え、と言って、仕返し、と笑いながら、今度は頭を掴んで髪をぐちゃぐちゃにした。そして急に真面目な顔になり、
「帰りたくないけど、泊まるわけにはいかないよね。」
そう言って貴子を見つめる。
「ごめんなさい、やっぱり・・・」
「ああ、そうだった、僕は安倍さんの想定外で範疇外だし。」
賢治君はそう言って寂しそうに笑った。貴子は賢治君を思い切り抱きしめたくなる。ずっとこのまま一緒にいたい。もう一度抱き合いたい、朝まで一緒にいたい。そして別の自分がそれを押しのけるように否定する。貴子は突然泣きたくなった。そんな表情を見て賢治君が貴子の頭を優しく撫でた。
「いいよ。いつか、安倍さんが誰かのためじゃなくて、自分のためのチョイスが出来るまで、僕は安倍さんのトランキライザーに徹するから。」
その夜から、賢治君は時々部屋にやって来るようになった。もちろん亮介の存在は承知しているので、あの夜のように突然中で待っているようなことは無い。事前に連絡してくるし、セックスもあれ以来していない。
「じゃあ、エッチはその時だけ?」
香織が聞いてきた。昼休みにアルマーニ・リストランテで待ち合わせた。香織は浅蜊とトマトのパスタ、貴子はやりイカのリゾットを食べている。
「私が亮介と別れるまでは、もうああいうことはしない、って言ってる。」
「激しく抱いておいて、お預けってわけ?やるわねえ、若造。」
「間男になりたくないだけでしょ。けっこうプライド高いのかもしれない。」
「けっこうどころか、話聞いてると自信家ね。しかもプライドにしがみつくタイプじゃなくて、むしろ余裕、みたいな。意外と手強いタイプかも、年下くん。」
「いつもいきなり驚かされる。名古屋で急に腕を掴まれて、旅館にいきなり現れて、今度はウチで。」
「それが計算されたものだったら、怖いくらい女を知ってるよねえ。」
「そうやって男のコから男にシフトした。なんか、喋り方まで変わって来たような気がする。」
「そりゃ、男と女、肉体関係以前と以降では親密度が変わるもの。亮介君とだってそうじゃなかった?」
「彼は、あんまり変わらない人だから。」
「へえ、そうなんだ。ウチの主人なんて直後から俺の女って感じになったけどなあ。」
賢治君の態度は、そういうのとも違う。恋人じゃないっていうスタンスはわきまえて、でも以前より親密、そういう変化なのだ。香織にそう告げると、
「逆よ、彼が変わったんじゃなくて、そう貴子が感じるようになったのよ。アブナイなあ、年下君を男として認識するようになった証拠。」
「かもしれない。でもね、賢治君といるとすごく楽しい。普通に楽しいことを教えてくれる。全然気を遣わないし、恋人じゃないから嫌われる恐怖とか全然無い。なんか、昔からずっと家族だったみたいな気がする。」
「それって恋愛感情?それとも家族愛みたいなもの?」
「わからない、何だろう。」
「でも貴子もアブないことしてるよねえ。もし年下君が来てる時に突然亮介君が現れたらどうするつもり?」
「それは無い。亮介って突然来たりしないもの。そういうところ律儀なのよ。」
「そうかなあ。旅館には突然来たじゃない。」
「旅と日常は別っていうか、自分の家にも突然来て欲しくない人だから。そういうことが下品だみたいなこと言ってるし。」
「つまり今の貴子には都合がいい関係なわけね。で、これから亮介君とはどうするの?別れるの?」
「もちろん別れない。」
「じゃあ、二股続けるの?」
「そういうわけにも行かないし。」
「ああ、貴子、何やってんだか。」
自分でも何やってんだかわからないのだ。
極端に量の少ないパスタの最後のひと口を食べながら、香織が言った。
「ところで、ふたりで部屋にいて、エッチしないで何してるの?まさかゲームでもしてるとか?」
賢治君が部屋に来ると、よくふたりで料理をする。貴子が得意料理を作るときは賢治君が前菜やデザートを作る。彼がメインを作る時、貴子はそれに合わせてスープやサラダを作った。
「ねえ、ソースパンって有る?」
「あるわよ、ガストップの下のキャビネットの中。」
「そこのバジル、洗っといてくれる?」
「了解。」
「ねえ、そのサーモン、レモンゼスト加えたら美味しいかも。」
「いいねえ。じゃあ、オニオンスライスは少なめにするよ。」
賢治君との料理はとても楽しい。味の好みが似ているし、ふたりで調理すると思いがけない味が作れたり、意外な組み合わせが絶妙に決まるとふたりで抱き合って喜んだ。作りながらカウンターで料理をつまんだり、貴子が残業で疲れた夜は、テーブルでは無くカウチで床に座ってだらだら食べたり、ふたりで自由に食事をした。
「子供の頃、ひとりで料理作ったって話したでしょ。」
「うん、ご飯だけは炊いてあったって話。」
「そう。田舎だからスパゲティなんて洒落たの無くて、あったのはナポリタン。」
「あ、うちも同じ。缶詰のマッシュルーム、ピーマンと玉ねぎが入ったやつ。」
「そうそう、目玉焼き乗っけて。」
「半熟の奴だよね、それぐちゃぐちゃにして混ぜて食べるとめちゃ美味しくて。」
「わかるわかる、で、ある日、ご飯食べたくなくて、戸棚からスパゲティ出して、でもマッシュルームもピーマンも無くて、どうしようかなあって冷蔵庫探して方向転換、キャベツ茹でて、塩辛で合えて和風に作ってみたら意外に美味しくて、今思えば、塩辛ってアンチョビに味が似てるのよね。」
「俺なんか、鰻でスパゲティ・ア・ラ・ひつまぶし作ってたよ。」
「さすが愛知、それ美味しそう。」
「うん、山椒でもワサビでもイケるけど、生クリーム使うとコクが出て鰻の旨みが増すんだ。」
今度、スパゲティの和風アレンジ、色々試そうと、ふたりで盛り上がる。
「ねえ、安倍さんって小さい頃、あだ名ってあった?」
「何よ、急に。」
「別に。子供の頃のあなたが冷蔵庫開けて、あれこれ探す姿想像したら、なんて呼ばれてたのかなあって。」
「タラちゃん。」
「えっ?」
「子供の頃、舌ったらずでタカコって言えなくて、タラコって言ってたらしいの。だからタラちゃん。」
賢治君が笑った。
「サザエさんとこの子供だね。これからタラちゃんって呼ぼうかな。」
「やめてよ。そういう君はなんて呼ばれてたの?」
「うちではケンにい。兄貴より俺の方が背が高いけど、小ちゃい兄ちゃんとかも。学校ではケンちゃんとかケンジとか。
「ケンちゃんもタラちゃんもマンガだね。」
「そうだね。マンガ同盟。」
何それ、貴子は笑った。
「実はケンちゃんは薔薇が大嫌いだった。」
賢治君がぽつりと言った。
「え?そうなの。」
「薔薇の収穫って言うと手伝わされるんだけど、子供って不注意だから薔薇の棘であちこち流血して、もう嫌だって泣いたこともある。」
「あはは、ケンちゃん、どんクサかったんだ。」
「ちっちゃかった子供の頃だけだよ、で、ある日ふと思ったんだ。どうして薔薇に棘があるんだろうって。で、その答えがわかった。」
「どうして?」
「実は薔薇ってめちゃ弱いんだ。触られるとすぐ花びらが落ちてしまう。出荷前に棘を全部取り除くんだけど、棘を無くした薔薇ってすごくデリケートでね、それがわかったら、そうか、薔薇が人を傷つけるのって、実は弱さを隠してただけなんだなって。そしたらなんか憎めなくなった。」
「なんか、いい話。」
いい話でしょ?賢治君がそう言って、それから貴子の頭を引き寄せた。
「それが、僕があなたを好きになった理由。」
「え?」
貴子は賢治君を見た。賢治君はにこにこ笑っている。
賢治君はあれ以降、迫ることも無いしキスもしない、それどころか亮介のことは一切言及しない。ただ、一緒にご飯を作り、一緒に食べて、カウチでデザートを食べたり、食後酒を一緒に飲む。物足りないと感じることもあるけれど、だからと言って真剣に付き合うつもりかと言われれば、それは有り得ないと思う。
だって。
百歩譲って高卒でもいいと決断したとして、賢治君は十歳も下の先が見えない若者だ。彼が三十になると貴子は四十、その事実は天地がひっくり返っても変えられない。
亮介とは定期的に会っている。フルコースのデートだ。会い方の種類があまりにも違うので、思ったより罪悪感は無い。強いて言えば隠し事をしている後ろめたさを感じるくらいだ。賢治君が来る夜は、貴子はとことんリラックスする。亮介と会うときは適度の緊張が心地良い。亮介は相変わらず、結婚の「け」の字も口にしない。けれど、そのことで貴子が焦れたり、不安になることは無くなった。もしかしたら、それが罪悪感の証なのかもしれない。
桜田亮介は自動車部品メーカーに対する融資の稟議書を作成していた。ここは一昨年粉飾決算で新聞の見出しにも載った企業だ。その後、同族経営に引導を渡し、銀行から取締役が派遣され、昨年、従業員のレイオフを含めた大幅な経費節減が決行された。今期もまだ赤字の後を引いてはいるが、新製品であるエンジン内部の精密部品の特許も通り、ヒットすれば来季にはかなりの利益が期待される。
実は創業者の次男である社長は専務の学生時代からの友人である。先日ゴルフに顔を出したのは、その辺のところを考慮して有利な稟議を上げて欲しいという打診を兼ねたものだった。とは言え、この会社に何かあったら、責任を取らされるのは自分だ。片道切符でどこかの出向に回されるだろう。それが銀行と言う組織だ。だからこの数日間、決算書や事業計画を重箱をつつくように何度も何度も読み直した。
確かにこの新製品は魅力的だ。起死回生のチャンスはあるかもしれない。恩を売れば安定した大口の顧客として長期的な利益が見込める。万が一、新製品がぽちぼち程度だとしても、経費節減が功を奏して、潰れることはまず無い、そう結論づけて担当欄に判を押した。
ひと仕事が終え、肩に手をやって凝りをほぐす。背もたれに掛けてあったゼニアのジャケットの内ポケットから携帯を取り出し、いくつかのメッセージに返信し、それから席を立ってコーヒーでも飲もうと歩き始めたところで、デスクの内戦が鳴った。慌てて席に戻り受話器を取ると、全国にビジネスホテルチェーンを展開するエクセレント・グループの社長の恩林俊作から、相談したいことがあると言われた。
恩林は名古屋から始めて一代でホテルのチェーン化を成功させた人物だ。コンパクトな部屋、フリー・インターネット、何より、チェックインは全てネットか電話で前払いというシステムが昨今のネット社会にスムーズに受け入れられた。レストラン、ミニバーなどは一切無いが、一階に必ずコンビニエンスストアと、その横にイートインのコーナーを設けることもビジネスマンたちの人気に拍車をかけた。場所によっては女性客専用のフロアを作り、リピーターのために有料のストーレッジルームを用意して宅配で荷物を一時預かりするなど、痒い所に手が届くきめ細かなサービスが功を奏したわけだ。利益を生むのは大型ホテルでは無く、こういう小さなビジネスホテルだと亮介に認識させたのがこのエクセレント・グループである。
話の内容は投資のための融資だった。本社は今も名古屋で、担当も名古屋支店が扱っている。ただ、二年前、高度な買収案件が持ち上がった時に本店の専門部とやり取りがあり、その件で関わった亮介は恩林にすっかり気に入られた。本来なら投資の相談は名古屋支社の担当者に行くのが通例だが、どうも対象が東京なので亮介に白羽の矢が立ったということらしい。
「かしこまりました。社長のご都合に合わせてお時間空けさせて頂きます。」
そう告げると性急に今夜、ペニンシュラのつるやに七時と指定された。銀行側の接待では、自分のような若輩が差し向かいで行けるような店では無い。喜んで伺わせて頂きます、と電話を切って、貴子にメッセージを送った。
「ごめん、今夜のデートはキャンセル。取引先との会食が入った。また連絡する。」
携帯のバイブレーションが鈍い音を立てた。亮介からだった。デートのドタキャンだ。最近忙しいらしい。確か問題のある企業の稟議書に手間取っていると言っていた。まだ長引いているのだろうか。貴子は貴子で相変わらず残業続きだ。七月に入り、お盆に海外旅行へ行く同僚も多く、ハワイやパリやニューヨーク、それぞれのデスティネーションの話でみな盛り上がっている。
「安倍さんは海外には行かないんですか?」
加藤由香里がさっそく探りを入れて来た。
「私は国内。」
手短に答える。
「え~、やっぱり彼氏とですかぁ~?どこですかぁ?」
「金沢。」
「わあ、渋~い。」
貴子は無言で微笑した。毎年亮介はお盆に帰郷する。一家でお墓参りをすることがマンダトリーなのだ。長期の海外旅行は無理だが、お盆の前半に金沢や福井で貴子と二泊ほどして、帰りは別の飛行機で帰京ということになる。
この三年間、この時期になると、実家に一緒に行こうと誘われることを期待してきたが実現には至らない。今年は思い切ってひとりで海外でも行こうかとも考えたが、海外旅行の予約は最低二か月前には決めなくてはならないので、予約した後に親に会ってくれと言われたらと期待し、ずるずると予約を先延ばしにする。そして手配は手遅れになる。
ふと賢治君の顔が浮かんだ。彼と旅行したらどんな旅になるのだろう。五つ星のホテルは期待できないだろうけれど、きっと想像できないような美しい景色を探して、カジュアルでも飛び切り美味しいものを食べて楽しい旅になるだろう。彼がもう少し年上だったらいいのに、京大にでも行っててくれれば良かったのに、と思う。
もしも亮介に会う前に出会ったら貴子は賢治君に恋をしただろうか?いくら秀才だったと言っても高卒の花屋の店員に?しかも十歳の歳の差。冷静な自分は全面否定するけれど別の自分が自分の足を引っ張る。そして問いただす。一緒にいてあんなに楽しい男に出会ったことある?
そして現実的には冷静な方の自分が勝って、亮介を選ぶ。亮介のような男と結婚するために今まで頑張ってきたのだから、と。
亮介は畳の個室で恩林を待っている。膳の上にはすでに突き出しの鯉の荒いとビールが置かれている。時計を見た。約束の時間まで十分ほどある。恩林が現れる前に携帯をチェックする。貴子からメッセージが来ている。
「相変わらず仕事の鬼ね。でもそういう亮介が嬉しい。頑張ってね。」
貴子は気遣いの出来る女だ。しかもいつ会っても隙が無く美しい。強そうに振る舞うが、実は従順で、子供を作ることを考えても、彼女は背も高いし美人で聡明だから、容姿も頭も優れた子供になるだろう。そう、子供のことを考えると、彼女の年齢では近いうちに結婚するべきなのだろうとも思う。それなのに、プロポーズを先延ばしにしている自分がいる。どうしても結婚したいかと言うと、どうなんだろうと曖昧になってしまう。彼女が結婚相手として不十分というより、どうしても彼女と結婚したたいかと聞かれると、そうでも無いような気がする。別々に暮らす今の関係が快適で、自分の気持ちがまだ結婚に前向きになれないのだ。
「いやあ、待たせたね。」
恩林が障子戸をあけて入ってきた。
「いえ、私もたった今参ったところですから。」
そう言って立ち上がり、上座を勧めた。
「まあ、取りあえず一杯。」
恩林に言われて、亮介は慌ててビールをグラスに注いだ。
「花屋、ですか?」
「そうなんだ。花屋に投資しようと考えている。投資額は一本。」
「一億ですか。」
「本人は二千万程度の予算で始めたいようだが、私が介入するからには規模を大きくしたいと考えている。一等地でば~んとね。中途半端では意味が無い。」
「どうなんでしょう、それだけの額を花屋に投資と言うのは。」
「発想が面白い。今までに無い花屋だ。男のための花屋、男が通うフラワー教室、カフェを隣接して飲み屋ともファミレスとも違う男たちの憩いの場所、良く考えているよ。」
「男のフラワー教室。」
「面白いだろう?今までに無い発想だ。彼曰く、自分の恋人が作ったアレンジメントを貰って喜ばない女はいない。逆に女がアレンジメント作っても男は喜ばない。だから男が花を習うべきだと。どうだ、逆の発想、目から鱗だろう。しかも、その発案者はたった二十五の花屋の店員って言うんだから仰天だ。」
花屋の店員。ふと貴子と一緒にいた日比谷花壇の美青年の顔が浮かんだ。
「社長、そんな話を真に受けて一億投資するって仰るんですか?」
恩林が高らかに笑った。
「守るのが仕事の銀行さんからみたら気が違ったと思われるんだろうねえ。でも、この青年がいや、実に面白い奴でね。ブレってものが全く無いんだ。説得力もある。極めて優秀な青年だったよ。事業計画書も、開業資金から売り上げ推移表までそりゃもう細かく網羅してて、それが現実的で正確なんだ。こいつは本物だと、一代で全国十七店舗のホテルチェーンを築き上げた私の勘ってやつだ。それにそろそろ道楽のひとつで博打やらかしたいってのもあるんだがね。」
「その事業計画書というのは、今お手元に?」
「もちろん持って来たよ。勘と言ってもプロの銀行さんのご意見も聞いておかんとな。急いでるわけじゃないから、時間かけてもらっていいから。」
恩林はそう言ってビールを飲み干した。
会食を終え、千代田区の自宅のマンションに戻って、恩林に渡された事業計画書を開いた。
鹿沼賢治。
聞き覚えのある名前。
鹿沼賢治。
嫌な予感がした。亮介は玄関脇のシュークローゼットの上のトレイに置いたカードケースから名刺を一枚取り出した。
日比谷花壇
フラワーコーディネーター 鹿沼賢治。
亮介は鹿沼賢治の名刺を持ったまま、その場に立ちつくした。
こんな偶然ってあるのか・・・。
桜田亮介は、一般職の女性に会議室へコーヒーを三つ運ぶように指示した。約束の時間ちょうどに恩林が鹿沼賢治を連れて来たことを告げる内線が鳴った。席を立ち、椅子に掛けておいたジャケットを着て、事業計画書とタブレット、ペン、ノートを手に会議室に向かった。
ドアを開ける前にネクタイを正し、笑顔を作ってドアを開ける。
「社長、お早うございます。」
まず、恩林に挨拶をして、それから鹿沼賢治に微笑みかけた。
「お久しぶりでございます。」
鹿沼賢治が立ち上がり、唖然とした顔で桜田亮介を見つめている。
「なんだ、君らは知り合いか?」
恩林がふたりを見比べながら言った。
「社長、実は、彼は私の親しい友人の部屋のフラワー・コーディネーターなんですよ。先日、偶然ご挨拶を交わしたばかりで。」
「なんだ、そういうことなら話は早いな。」
恩林が手を打って笑った。鹿沼賢治は、当惑顔のまま亮介を見ていたが、すぐに人懐こい笑顔を浮かべ、
「その説は失礼いたしました。」
と深くお辞儀をした。亮介は鹿沼賢治を上から下まで見回した。スーツ姿の鹿沼はアイドル並みの美青年だ。そして頭でも恩林のような辣腕実業家の心をいとも簡単に掴んだというのか。
「さっそくなんですが。」
亮介が咳ばらいをして、事業計画書を開いた。
「男性をターゲットと言うコンセプト、価格も農家からの出荷する際のロジスティクスをなるべくシンプル押えて、季節の花を主流に低価格設定、イメージとしてはアップルストアのように、タブレットのコーナーを設け、店の在庫を使ったバーチャルアレンジをクライアントが遊びながら自由に創作し、それをシェアして個人のe-mailに保存してオンラインオーダーを可能にする。フロアにはフラワーコーディネーターがどんな質問や相談にも対応。カフェのコーナーはスクールとも兼用、グループと個人レッスン。
鹿沼の計画書と恩林の提案で決定的に違うのは恩林が店舗を銀座の一等地に設置することを条件にしている。店舗は広く、かなり金をかけた高級感のあるもので、投資額が高額なのも頷ける。カフェ部分が店舗の半分を占める上、地下にバーを設け、新進男性作家の花器を販売、花を通して銀座に男の憩いの場を作る。
「私は、鹿沼君をスターにしてみせる。男が花を活ける、そいつがカッコいいというブームを作るんだ。」
恩林が鹿沼賢治の顎を持ち上げた。
「このルックスを利用しない手は無い。実はね、彼は高校時代にラグビーで同志社推薦が決まっていたのに振った男なんだ、そこらの軟弱な花オタクとはここが違う。」
恩林は自分の頭を叩いた。
亮介は頷いた。事業計画書の後半に彼が制作したアレンジの写真が数枚含まれている。ダイナミックだが、奇をてらうことなく、どこか懐かしいような雰囲気がある。どのアレンジにも必ず野原に咲いているような草花や、ツツジやクチナシなどの日本の風景を取り入れ、そんな素朴な花と薔薇のコンビネーションがコンテンポラリーな美を生み出している。確かに鹿沼には才能がありそうだし、アイデアも面白い。
「彼はスターになれる。マスコミを使う、TVや雑誌に売る。」
鹿沼賢治は黙ったまま、書類を見つめている。
「鹿沼さんはどうお考えですか?ご自身の計画では当初必要な資金は二千万程度ですよね。」
亮介はそう言って、鹿沼の事業計画書のページを開いて、指でこつんと叩いた。
「コンセプトさえ変えなくて良いならば、投資額はお任せします。」
「鹿沼君はわかっているのだよ。今どき普通の花屋に二千万程度の中途半端な額を投資する酔狂な投資家なんていないことぐらい。それを俺は一億と言っているんだ。やるなら徹底的にやらなきゃ意味が無い。私は彼のコンセプトが気に入った。それは彼のカリスマ性をプロデュースしてこそ成り立つんだよ。男が花を活けるブームを作るんだ、ブームを。」
「承知しています。」
鹿沼賢治は言葉少なめに頷いた。
「もうひとつ、実は、来年を目途に、新しくエクセレント・プラスというホテルチェーンを立ち上げることが社内で決まった。もうすぐ記者発表だ。エクセレントは一泊六千円前後だが、プラスは一万から、かなりアップグレードしたものになる。一回はコンビニでは無く、カフェを入れる予定だ。そのメニューも鹿沼君のレシピを利用する。そしてロビーに大きな鹿沼君の花を飾る。それがシンボルになる。小さなロビーでも花をど真ん中に置くことで高級感が徹底的にアップするからね。鹿沼君にはイメージキャラクターになってもらう。全てリンクしていくのだよ。」
亮介が鹿沼を見て、口を開いた。
「おふたりが前向きにご検討なさるというのであれば、私の方でもお互いのご希望を踏まえて契約書のお手伝いをさせて頂こうと思っております。当行としましても是非融資させて頂きたく、恩林さまにはそのところも含めて、後程改めて打ち合わせさせて頂けると幸いです。」
「借りて欲しいんだろ。君に話を振るということは、最初からそのつもりで君を巻き込んだ。銀行と言うところは借り入れが必要無い会社に貸すのが手堅い商売だということくらい、長年の付き合いでわかっているからね。何、一億程度だから、名古屋支店とはもう話はついとる。まあ、その一億が何倍にも化けると私は確信しているから君にとっても悪く無い話のはずだ。」
恐縮です。桜田亮介が頭を下げた。恩林は鹿沼賢治に向かい、
「君は大船に乗ったつもりで私に任せればいい。」
と言って、肩を叩いた。
「じっくり考えさせて頂きます。」
鹿沼は深々と頭を下げた。
行内の廊下を歩き、エレベーターに案内しながら、亮介はタイミングを見計らっていた。そして恩林が足を踏み入れる手前で、口を開いた。
「すみません、鹿沼さんにお話があるのですが。」
「何でしょうか。」
鹿沼が振り返った。
「なんだね。」
恩林が怪訝な顔を向けた。亮介は恩林に、
「色々確認したいことがあるんですが、社長には後程、必ず報告させて頂きます。」
「私がいてはマズい話か?」
恩林が訝しげに顔を見て向けた。
「計画書の数字をひとつひとつ当たって行きたいので少々時間がかかりますので、ご多忙な会長にお手間を取らせるまでも無いと判断致しただけです。確認後、社長と契約の内容を詰めて行く所存です。」
恩林が頷いた。
「そういうことならあとは宜しく頼むよ、桜田君。」
と、亮介の方を向いて言い、
「お任せください。私はエクセレント・グループの利益を一番に考える立場ですから。」
「そうだったな。」
恩林は笑ってエレベーターに乗り込んだ。
二人きりになると、亮介は鹿沼を先ほどの会議室に連れ戻した。広い会議室にはまだ三つのコーヒーカップが置かれたままだ。亮介が片付けろ、というまで誰もこの会議室には入ってこないだろう。
「ひとつ質問させて頂いて宜しいでしょうか?」
亮介が鹿沼に言った。
「何でしょう?」
「率直に尋ねる。私の恋人の話では、鹿沼様はこの投資話を断るつもりでいたと聞いております。エクセレント・グループは弊社の大切な顧客ですので、鹿沼さんの意思をもう一度確認させて頂きたいのですが。」
鹿沼が亮介を見た。またあの人懐こい笑みを浮かべて。
「仰る通りお断りするつもりでした。でも長く待てない理由が出来ました。正確には待たせたくない人が出来たと言うことです。」
人懐こい笑顔は消えている。
あの日、旅館のロビーで貴子を待っていて、ハマーが停まった時、助手席に乗る貴子の顔を見て察した。嬉しそうに微笑んでいる貴子の顔は無邪気で、亮介の知っている貴子では無かった。降りる寸前、鹿沼賢治は貴子の頭を撫でた。ふたりはまるで恋人同士の様に笑い合っていたのだ。
「恋人、ですか?」
聞きながら、少し、声が震える。俺は何を恐れているのだ。
「僕の片思いです。全く相手にされていない、多分、今のところは、ですが。でも絶対に恋人にしたいし出来ると確信しています。」
「君のようなハンサムな若い男を夢中にするのは、どんな女性なのだろうね。」
亮介は笑顔がこわばらないように注意しながら言葉を発した。
「ひとことで言えば、切り花の薔薇みたいな人です。人に褒めてもらうことだけのために必死に上を向いて花を咲かせている。最初に会ったときから、彼女は切り花の薔薇だと思いました。」
亮介は言葉を探した。そして、上を向いて、息を強く吐いた。
「花屋らしい表現だね。薔薇のような女性か。」
「はい。その薔薇を土に返してあげたい。」
「それは、私の知っている女性だろうか。」
「そうですね。」
鹿沼はにこりともせずに言った。
亮介は、その顔を見て、身体中の血液が沸騰していくのを肉体的に感じた。
「貴子は・・・貴子と僕は君とは違う世界に生きているんだ。」
「違う世界?僕らは地球の日本の東京で同じ空気を共有している人間どうしですよ。」
「教養も学歴も収入も全て君の届かない世界と言う意味だ。」
鹿沼が微笑んだ。
「確かに僕がこれからあなたたちの百倍努力してもあなたたちの半分の収入も得られないかもしれない。今のところは。でも、可能性は無限大ですよ。そして僕はあなたたちのように学歴や名刺に頼って生きていこうなんて思ってない。僕はそうできないんじゃなくて、そう選んだから。だからあなたたちよりずっと逞しく生きられる。」
「僕たちは逞しく生きるよりスマートに生きる人種なんだよ。ギャンブルもしない。そこが決定的に違う。」
亮介は言って、背広の襟を正した。
「でも、僕がこの投資を受け入れスターになったら、それは逆転するかもしれない。」
「彼女はもっと地に足のついた女性だ。」
「多分そうでしょうね。でも僕からもひとつだけ、言わせてもらってもいいですか?」
「何でしょうか?」
「僕は花のプロです。」
「そのようだね。」
「だから切り花の扱いは慣れてますから。知ってます?萎れかけた薔薇も水切りすると、もう一度綺麗に咲けることを。土に返してあげれば、また根が生えることを。本当に切り花のことを知っているのはあなたより僕だと言うことを。」
「肝に銘じておくよ。」
亮介はそう言って腕時計をかざした。オーティマ・ピゲのシンプルで美しい時計を。そして仕事に戻らないといけないので、と右手を上げて、会議室を後にした。
桜田亮介はデスクに戻り、事業計画書をもう一度読み直した。
確かに鹿沼賢治は単なる高卒の馬鹿では無いようだ。とても素人とは思えないほど詳細な内容で、どの数字ひとつとっても間違いが無い。恩林は商才がある男だ。だが、同時に恩林ほど金に貪欲な男もいないことは二年前のサニーサイドホテル・チェーンのレバレッジド・バイアウトの件が証明している。実態の無いシェルカンパニーを設立して資金調達をした上で、債権をサニーサイドの創始者に押し付け、まんまと乗っ取りに成功した。その後、創始者は自己破産し消息が途絶えた、何とも気の滅入る案件だった。しかし恩林にも銀行にも大きな利益が転がり込んだことは事実だ。そしてそれをうまくまとめたのが亮介だ。
計画書を捲る手が時折震える。まだ怒りが収まらない。そして、計画書を読み終えた時、自分にとっても銀行にとっても恩林にとっても最善の方法を思いついた。
携帯が震えた。
貴子は、パソコンの画面の保存アイコンをクリックして、携帯をアンロックした。
「今夜、開けてくれないか。」
亮介からだった。
「急用?今夜はちょっと遅くなるかもしれない。どうしても今日中に仕上げなくちゃいけない書類があって。」
「じゃあ、会社、一時間だけ抜け出せないか?銀座まで出るから。」
「どうしたの、急に。」
「直接会って話したいことがある。」
貴子は携帯をみつめた。
「わかったわ。了解。」
「七時に君の会社に迎えに行く」
「OK」
電話を置いて、首を傾げた。自分勝手なところが多々あることはわかっているが、仕事を抜け出して会ってくれとまで言われたのは、初めてだ。しかもウチの会社のロビー?それも初めてだ。亮介らしく無い。心臓がドキリと音を立てた。ひょっとして賢治君のことを知られてしまったのだろうか?そうだとしたら、説明を求められる?別れを切り出される?
どうしよう、どうしよう。まるであばら骨がぽきっと折れて、呼吸する度にそのシャープな切り口が心臓にちくちく刺さるような痛み。
貴子は書類を切りのよいところで切り上げ、部長には、長引きそうなので腹ごしらえしてきます、と告げロビーに走った。
亮介はすでに来ていて、貴子が近づくと手を振ってこちらに歩いて来る。表情は読み取れない。貴子は笑顔を作った。
「急に呼び出してごめん。」
顔が笑っていない。
「いいけど、どうしたの?」
「ちょっと付き合ってほしい店がある。」
「店?」
「そう。」
亮介はそう言って貴子の腕を引っ張って、待たせていたタクシーのところに連れて行く。
ビルの中は冷房が強く、外に出ると途端に蒸し暑い外気に触れ、首筋から汗が流れだした。いや、これは冷や汗なのかもしれない。貴子はジャケットを脱ぎ、コーラルピンクのノースリーブ・ブラウスとアイボリーのスカートになってタクシーに乗り込んだ。亮介もジャケットを片手に持っている。
「メルサの前で。」
亮介が運転手に告げた。
「メルサ?」
思わず尋ねた。亮介は貴子の質問を無視し、運転手に、
「運転手さん、ワンメーターですみませんね。」
と言い、運転手が
「いや、この辺りはお客さん取りやすいですから。」
と、ハンドルを握ったまま頭を下げる。
メルサに到着して、亮介が代金を払い、貴子の手を取って歩き、メルサには入らず隣のビルに連れていった。
「ここ・・・」
貴子は立ち止まって、ビルを見上げた。ふたりはティファニー銀座店の前に立っている。
「さあ、行こう。」
亮介が貴子の肩を押した。
「いらっしゃいませ。」
店員たちが一斉に会釈をする。
亮介は、真っ直ぐ歩き、
「エンゲージリングを彼女に。」
と貴子を指さした。
「亮介・・・」
「夢だったんだろ?」
「え?」
「言ってたじゃないか、ティファニーのブルーの包みをもらってプロポーズされるのが夢だったって。今でもその夢、変わってない?」
そう言って肩を抱いた。店員たちが一斉に微笑み、買い物客たちの中には拍手をするものまでいる。
貴子は口を押えた。突然のことでどうリアクションしたらいいのかもわからない。手足がバラバラになって宙に浮いて右往左往しているみたいな感覚だ。
「好きなの選んでいいよ。まあ、一千万のとか選ばれたら無理だけど。」
貴子を見て微笑んで、そして優しい声で言った。
「ずっと、待たせてごめん。」
どうしたんだろう。涙が溢れだした。亮介がポケットからハンカチを出して、その涙を拭った。貴子はずっとこれを待っていた。三年間、ずっとずっと待ち続けていた。
「おっめでとう!ついにゴールイン~!」
香織が貴子に抱き着いて言った。左手を取り、薬指の指輪を至近距離で眺める。
「ティファニーの二カラット、やるわねえ、さすがボンボン。」
「私は一カラットのを選んだんだけど、亮介が大人婚なんで、同じデザインで倍の大きさの石って言ったから。」
「わぉ!いきなり自慢話。」
「そんなんじゃないわよ。」
「いいのよいいのよ、これで念願かなってマダム友達。けっこう気ぃ遣ってたのよ、独身のあんた傷つけないように、主婦自慢を控えて。」
「どこが!散々見せつけて来たくせに。」
ふたりは同時に噴き出した。
昨日は大騒ぎだった。あの後、会社に戻り、仕事に戻ると、加藤由香里が目ざとく貴子の薬指のリングを見つけた。
「ウッソ~、ご飯食べに行くって言って、エンゲージリングお持ち帰りぃ~!」
その場で全員の手が止まった。部長が立ち上がり、
「安倍君、本当か?」
と貴子の所に歩いて来た。
「俺、見ましたよ。」
新卒の雨宮君がぼそっと言った。
「ロビーで、安倍さんが背の高いイケメン男と仲良く手ぇ繋いで出て行ったの。」
「マジ~?ね、どんな人?」
加藤由香里が雨宮に駆け寄った。
「高そ~なスーツ着た、銀行マンって感じの男だったなあ。」
貴子は思わず笑ってしまった。亮介って本当にいかにも、なのだ。
おめでとうございます!加藤由香里が大声で言ったと同時におめでとうの嵐が降って来た。それからしばらくは仕事どころの騒ぎでは無くなり、帰宅は深夜近くになってしまった。
「で、年下君はどうするの?」
香織が貴子の左手を離して、代りに腕を組んだ。
「どうって、さすがに今までみたいに会う訳にはいかないわよね。」
「当然よ。っていうかもう会っちゃだめよ、金輪際。キツいかもしれないけど、はっきり言いなさいよ、婚約したって。」
「香織もはっきり言ったの?元カレに?」
「言ったわよ。その時は怒ってたけど、結局私が辞めたあと入社した私より若い帰国子女と即出来ちゃって、今じゃ双子のパパちゃんらしいわ。結果、彼は金遣いの荒い私なんかと結婚するよりずっと幸せだったってこと。」
「へえ、そうだったんだ。」
「大丈夫だって。賢治君だって若いイケメンなんでしょ?この先、いくらでも女出来るんだから、年増につかまらなくてラッキーだって思う日がくるはずよ。」
「年増で悪かったわね。」
「貴子、十歳年下よ、そんなの考えなくたってわかるでしょ。」
「わかってる。」
「でもさ、亮介君、出張先で美少年の賢治君にご対面して、貴子取られちゃマズいって思ったのかも。まさに怪我の功名ってやつ。賢治君と会ったおかげで亮介君との結婚に繋がった、つまり人生、無駄は無いってことだよね。」
「そうだね。」
貴子は言ってしまってから、急に寂しくなってしまった。念願だった亮介からのプロポーズに貴子は感動した。それなのに賢治君のことを思うと、胸が痛む。
「でもさあ、一度会っておきたかったなあ。あのプライドの塊みたいな亮介君が嫉妬するくらいのイケメン美少年。エッチ出来なくていいから顔くらい拝んどけば良かった。」
香織に言われて、貴子は賢治君の顔を、贅肉の無い身体を思い浮かべた。香織に言う通り、彼ならいくらでも女の子が寄ってくるだろう。けれどその想像は貴子を不快にさせた。
桜田亮介は前回と同じ、つるやの個室で恩林と差し向かいで座っている。
「つまり、単なる投資では無く、私が取締役になる。」
「そうです。そして株を発行し、当然、当行も株を所有させて頂きます。鹿沼賢治氏は社長としてエクセレント・グループ、当行、鹿沼賢治氏で株を分ける形で会社を設立します。資本ゼロの鹿沼氏に30%、エクセレント・グループ40%当行で30%を持ちます。」
「鹿沼君は承諾しないのでは。彼は投資家の介入を許すとは思えないがね。」
恩林は鱧の梅肉和えを口に放り込み、噛み砕きながら言った。
「彼は承諾しますよ。まず、いくら優秀と言っても、こういうことには素人です。社長には急いでいないと言っているようですが、あれはネゴのための彼のポーズです、実は焦っている。」
「そうなのかね。」
「プライベートで色々あるようです。あの打ち合わせの後、聞き出しましたから確かですよ。」
「プライベート?」
「待たせられないかなり歳上の女絡みですよ。」
亮介は年増という言葉を飲み込んだ。さすがに自分の婚約者を卑下したくなかった。しかし恩林が容赦無くその言葉を言い放った。
「年増に骨抜きにされたか。若いねえ。」
そう言って自分の股間を指さし、大声で笑った。
下品なあんたとは一緒にしないで欲しい、亮介は思った。それに恩林のそれは現在進行中だ。東京滞在用の愛人を都内のマンションに囲っていることも知っている。しかしそんなことはどうでも良かった。
「彼には、投資金の元が取れた段階で株を100%彼に譲渡するという条件を出せばいいんです。そしてその期限を5年と定める。契約上、5年間の猶予が与えられると思わせることが出来る。しかし実際には70%保持する我々はその気になれば、好きな時に鹿沼氏をスクイーズ・アウト出来る。」
「そんなことが可能なのかね。」
「可能です。そしてその場合、彼に猶予を与える。つまりスクイーズアウトの代わりに社員として、利用すればいいんです。」
「なるほど。君もけっこう悪だね。」
恩林が不敵な笑いを浮かべた。
「社長、私はあくまで純粋にエクセレント・グループと当行の利益をプライオリティに考えているだけです。若さイコール暴走、我々のようなプロが経営という手綱をしっかり握るからこそ、一億というお金が意味を持つのです。いくらコンセプトがしっかりしていても実務経験ゼロの彼に経営権を託すのは危険過ぎます。」
恩林は深く頷き、冷酒の入ったグラスを掲げ、
「まあ、全て優秀な君に任せるよ。」
と言い、グラスの冷酒を飲み干した。
話がある、と賢治君から電話があった。会うなら外で会おうと貴子の方から提案した。私も話がある、と添えて。貴子がそういうと、賢治君は、
「何?プロポーズでもされた?」
そう、ズバリと言った。貴子が言葉を失っていると、
「いいよ、そういう話も会った時に。」
と言って電話を切った。
賢治君とレストランで会うのは初めてだ。正確には二度目、名古屋のゲートダワーを含めれば、だが。賢治君が指定して来たのは意外なことに、ホテルオークラのカメリアだった。
「居酒屋じゃないのね。」
「安倍さんは彼女じゃないし、ここは日比谷花壇が入っているから仕事でよく来てて知ってるから。コーヒーショップに入るのは初めてだけど。」
賢治君は、いつものジーンズとTシャツでは無くライトブルーのストライプのシャツを着ている。貴子は仕事帰りだが、偶然同じ淡いブルーのチュニックブラウスと同色のパンツというセットアップ姿だ。賢治君は私より先に来ていて、コーヒーを飲んでいる。貴子は、やってきたウエイターに、私もコーヒーを、と告げた。
「お腹空いてる?」
ウエイターが立ち去る前に、賢治君に聞かれた。
「話が終わってからにしましょう。」
多分楽しく食事をするような話では無いだろう。ウエイターが去り、二人きりになった。
「お祝いの言葉を言うべきなのかな。」
賢治君が私の 左手の薬指に視線を落として言った。
「別に言わなくていいわよ。」
「あ、そう。」
そう言って賢治君がコーヒーを啜った。
「どうして私がプロポーズされるって思ったの?」
「本人と話したから。」
「亮介と?」
貴子は思わず大きな声を出して、慌てて周りを見回した。誰も気に留めている様子は無い。ホテルのコーヒーショップというのは公の場で他人に最も干渉されない場所なのだ。賢治君がこの場所を指定したのは、そういう理由もあるのだろうか。
「なんであなたが亮介と会うことになったの?」
「名古屋で投資家に会った話はしたよね。二度目の話し合いを東京の銀行でやることになって指定されたのが安倍さんの彼氏の銀行で、担当も彼氏だった。まあ、彼氏は僕の名前を憶えていたらしく、びっくりしたのは僕だけだったけど。」
貴子は驚いて、しばし言葉を失った。
「そんな・・・偶然?。」
「偶然ってそのほとんどが必然なんだよ、僕はそう思う。どんなにこんがらがっていても糸を辿っていけば、必ず糸の端に辿りつく。」
「言ってることがよくわからないわ。」
「それを説明するために今日、安倍さんを呼んだ。」
「じゃあ、説明して。」
「まず、投資の話は受けることになるだろう。小さな店では無く、大規模なものになるけれど。」
「本気?」
「受けようと前向きに考えている、って言ったらいいかな。」
貴子は運ばれて来たコーヒーをひとくち飲んだ。
「あなたってそういう話に興味無いって言ってたのに。」
「状況が変わったから。」
「状況?」
「五年待たせたら四十歳になってしまう人を好きになったから。」
貴子は言葉を詰まらせた。
「つまり、私のために妥協してオファーを受けるってこと?」
「僕自身のチョイスだ。何が大切かを決めるのが僕自身である限り、それは僕のチョイスだ。」
「ちょっと待って、賢治君、私、婚約したのよ。」
「知ってるよ。お祝いしないけど。」
「だから、もし私のためだったら止めてほしい。君らしく無い。」
賢治君が笑った。
「何が可笑しいの?」
「確かに安倍さんの彼氏は君らしい結婚生活を提供してくれるだろうね。十分な収入で美しい住居、美味しい食事、豪華な旅行、今着てるみたいなブランドの服やバッグ。」
そう言って貴子のバッグに目をやった。ボーナスで買った三十万円以上したセリーヌのものだ。
「そして保証するよ。彼は絶対離婚しない。だからきっと君の一生は安泰、君の思い描いていたサクセス・ライフがロックされる。」
「あなたの言う通りよ。だから私は結婚を決めた。どんなに仕事が出来たって、三十過ぎた独身女の総称は売れ残りなのよ。それ以上でも以下でも無い。表面上褒めたたえても、陰ではオールド・ミスなんていう死語に近い言葉で柵の外に追いやる、それが私たちの住んでいる世界なの。」
「安倍さんはその柵の中が安全で快適だと信じているからね。毎日ちゃんと水と餌を与えらて、怖い猛獣の心配もせずに穏やかな暮らしが出来るから。冒険してその柵の外に広がる美しい景色をみたいとは思わない。」
「そうよ。そんな危険を冒す勇気は無い、私はそういう人間よ、あなたもわかっているでしょ。」
「檻の中が快適だと疑わないのは外の世界を知らないから。檻は外から見れば牢屋、自由の利かない狭い世界。でも君はあの日、ほんの少し勇気を出して、僕とポピー畑を見に行った。綺麗だったでしょ。」
「ちょっと足を延ばして花畑を見に行くのと将来を決めるのとでは例えが飛躍し過ぎだわ。」
「例えなんかじゃないんだ。チョイスってそういうことなんだよ。人生ってそういう些細なことの積み重ねだろう。あの時雨が降って雨宿りしなければ会わなかったとか、そういう話はいくらでもあるんだ。あの日、あなたが花を買いに来なければ僕らは会うことも無かった。その時、あなたは日常の何かを変えようとしていた」。
「そうよ。彼の気を引こうとね。」
「理由なんてどうでもいいんだ。安倍さんの気まぐれで僕のために料理をしたことも、ほんの少しチョイスを変えるだけで、今まで目にしたことの無い景色や人生が目の前に開けるかもしれないんだ。」
「開けるかもしれない。つまり開けないかもしれない。」
「開けなかったら、別の柵を乗り越えればいい。柵はひとつじゃないんだから。」
「あなたの話は抽象的で説得力が無い。」
貴子は腕時計を見た。八時を回っている。
「そうやって時間を気にして、わざと急いでいるってポーズを俺に見せたい?」
図星だ。そう言えば賢治君が腕時計をしているのを見たことが無い、と貴子は別のことを思い浮かべた。
「話を元に戻そう。なんで彼氏は突然安倍さんにプロポーズしたかわかる?」
「あなたが彼にあったことと関係しているようね。」
「僕が、必ず安倍さんを奪い取るって言ったから。」
貴子は驚いて賢治君の顔をみつめた。
「そんなこと言ったの?」
「僕の方が彼氏より安倍さんを大切にするって。大丈夫だよ、僕たちがインティメートな関係を持ったとは言ってないから。僕はそんな卑怯な奴じゃないから。」
「それでも疑うかもしれない。」
「あまり驚いていない風だったな、むしろ予想していたみたいな反応だった。」
どういうことだろう?亮介は感づいていた?なのにプロポーズした?
「率直に言おう。安倍さんも彼もお互いを学歴や容姿で選んで、本当に愛しあっているわけじゃない。彼も君もスーツや腕時計を選ぶみたいに伴侶を選んだだけだ。
「私はそれでもいいと思っているのよ。」
「はっきり言うよ。彼は僕が安倍さんを欲しいって言わなかったらこれからもずっとずるずる付き合っていただろう。百歩譲って、近い将来プロポーズするとして、それは愛しているからじゃなくて、ここら辺で手を打とうっていう計算。絶対離婚しないのは離婚すると彼自身が値崩れするから。お互い世間体のために結婚を続ける。離婚しないでずっと一緒にいられたら結婚生活は成功?。安倍さんが求めているのは安泰じゃなくて楽しい結婚生活だ。家族で寛いで一緒に笑い合って一緒に作っていく家庭。安倍さん、僕といると楽しくて仕方無いのに、僕の額に貼られた値段が安いから別のケースの高級品を選ぶ。彼は奥さんを大事にするような男じゃない。自分の都合で君の人生をロックするだけだ。安倍さんは彼の所有物になるだけ。高級車や時計と同レベルで。安倍さんはそうやって一生他人に褒められるだめだけに生きていく?人生をシェアする人も、家族も他人に見せびらかすために選ぶ?」
そこまで言って、賢治君冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
「僕が投資話に乗るのは、安倍さんの人生をロックしたくないから。安倍さんは自分で思っているほど打算的じゃ無い。結婚と言う魔法の言葉に酔わされて、もっともっとたくさんの楽しいことを諦めているだけなんだよ。だから 僕は妥協する。安倍さんの求めている未来に僕自身も少しは近づく必要があると思った。あなたを救いたいから。だって最初の夜に君を抱いたときに、僕には見えたから。あの時、安倍さんが僕に求めたものは人のためじゃなく、自分のためだった。人に見てもらいためだけに生きる安倍さんが自分を解放した瞬間だったんだ。」
貴子は反論する言葉を探しながら、それがみつからず途方に暮れた。そして賢治君が畳みかけるように最後の言葉を発した。
「僕といるときの安倍さんは心から笑ってた。それだけは絶対の自信をもって言える。でも彼氏と結婚したら安倍さんは世間に向けて作り笑いするだけ。そしていつか絶対後悔する。」
言いたいことはそれだけ、そう言ってポケットから小さなキーチェインを出した。貴子が渡した部屋のスペアキーだ。
「さすがに、フィアンセの手前、僕が安倍さんの部屋の鍵を持ってるのはマズいよね。」
キーチェンをテーブルに置くときのカチャっという音の余韻を残して、賢治君が席を立った。
結納の日取りや結婚式の予約などを、結婚が決まった途端、慌ただしい日々が始まった。来週にはウエディングドレスを見に桂由美のブライダルサロンに一緒に行くことになっている。貴子の実家の両親も本人以上に喜び、母は貴子のものはもちろん、自分の分まで結納のための着物を新調するとまで言いだした。三つ編み一つ編んでくれなかった母親だが、娘の結婚はやはり嬉しいものらしい。
賢治君に言われたことが心に引っかかっている。貴子、本当にこれでいいの?何回も自問してみた。でも賢治君の言っていることは全て漠然としていて、具体的に説得してくれなかった。それに貴子は今までこうやって生きてきたのだ。幼い頃から必死に勉強して、一流大学に行き一流会社に就職して一流の人と結婚すると決めて、その目標に邁進して来た。この結婚はその集大成なのだ。迷うのはいわゆるマリッジ・ブルーってやつなんだから、香織にも言われた。
「新居なんだけどさ、取りあえず僕の所に来てもらって、それからふたりでじっくり選ぼうよ。焦ることないだろ?良い物件がみつかったらふたりのマンションを売って買いかえればいいんだから。子供のために郊外に一軒家を建ててもいいし。」
亮介と貴子は結婚式の下見にホテルを回っている。今日はオークラにやって来た。コーヒーショップ、カメリアの前を通る時に、賢治君がいないか中を覗いてしまう自分にそっと苦笑した。
「やっぱり結婚式はオークラが王道だね。」
「そうね。」
貴子は頷いた。本当は帝国がいいと貴子
は思っていた。双方の会社にも近く、ふたりが出会った思い出の場所でもある。でも亮介がこう言ったらオークラに決まるだろう。ウエディングドレスも色々見たかったけれど、亮介の母親が桂由美と親しいらしい。香織が言っていたようにケリーとバーキンの違いみたいなものだからと、快く承諾した。
部屋から、花が消えた。日比谷花壇の別の担当者から電話があったが、引っ越しを理由にして断った。部屋が途端に殺風景になった。
私はこんなに寂しい部屋に住んでいたんだろうか。
花を失った部屋は呼吸を止めてしまった。家に帰ってただいまと言っても、もう誰も振り向いてくれない。今になって花がどんなに心を癒してくれていたか身に染みる。
あと少しの辛抱。ひとりじゃなくなる。毎日、亮介と同じベッドで寝る、同じ朝食を食べて、同じ部屋に戻る。
不思議なもので結婚が決まると、亮介と会えない日に会いたいと感じることが無くなった、デートをしていても前のようにワクワクしなくなった、セックスが益々ルーティンのように感じるようになった。前のように燃えない、夢中になれないのだ。
「それって、貴子が亮介君を家族と認識したからじゃない?」
「そうなのかなあ。」
「そうよ、安定期に入ったってこと。結婚生活が始まったら遅かれ早かれそういう生活になるんだから。貴子たちの場合もう中年と呼べる年齢だからそれがちょっと早めに来たってだけよ。」
貴子は曖昧に頷いた。
「賢治君のことなんだけど。」
香織が呆れ顔で貴子を見た。
「まだあの年下君の話?もう終わったんでしょ。IT‘S OVER!」
「わかってるわよ。そうじゃなくて私のせいで彼に間違った選択をして欲しくないの。」
「投資家のこと?逆じゃない。貴子がいなかったら彼は遠回りしてた。ひょっとしてセレブになるかも。貴子、失敗したって思わないでね。」
「思わないわよ。私はただ、彼がそういうことを望んでいないというのを知っているから。」
「そんなの貴子の知ったことじゃないの。貴子は貴子の幸せな結婚に突き進めばいいだけ。年下って言ったってもう子供じゃないんだから。貴子が迷ったりしたら私が許さないから。」
香織がそう言って、指輪を指さした。
「結婚なんてね、してしまえば自然に家族になるの。親の言う通り、一緒に暮らせば情が移り、子供が出来れば家族になる。恋が終われば愛が定着する。」
そうかもしれない。貴子は頷いた。そうかもしれない。香織と話すといつもこの言葉を口にしてしまう。
賢治君はひまわりを何本か手に取り、黄色い薔薇を合わせ、たますだれを足してブーケを作っている。ちょうど正午を過ぎたばかり、お見舞い用に元気が出るアレンジメントという要望を聞いて、小ぶりのひまわりを中心に形を作っていった。
「こんな感じで宜しいでしょうか?ひまわりの黄色は病室を明るくしますよ。」
「素敵だわ、自分が欲しくなるくらい。有難う。」
若い女性が代金を払いながら賢治君にお礼を言っている。
「こんにちわ。」
賢治君がエプロンで手を拭いていると、彫りの深い顔立ちの女性が声をかけて来た。とても金を賭けた服装だと言うことが雰囲気で伝わってくる。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
賢治君が爽やかな笑顔を向けた。
「賢治君という店員さんを、で、あなたでしょ。だって超美形の店員って言ったらあなたしかいないもの。」
女性が微笑みながら言った。賢治は首を傾げた。
「あの......」
「美人なのになぜか色気の無いキャリアウーマンに、せめて花を飾れってはっぱ掛けた悪友。」
賢治君は少し考えて、それからはっとしたように女性を見つめた。女性は満足そうに頷いて、
「そう、私は安倍貴子の友人、森香織って言います。」
「どうも。」
賢治君は困惑した顔のままだ。
「今、十二時、あなたお昼食べた?」
「は?」
「私にランチ奢らせて貰えない?」
そう言って一万円札を五枚出して、
「食事が終わったらこれで『私のイメージ』で飛び切り豪華なアレンジメントを作って頂くかわりにちょっと付き合ってよ。お客様のご要望は断れないのよ。」
と言い、有無を言わせず賢治君の腕を掴んだ。
「噂通り、っていうか噂以上にイケメンね、君。」
香織が差し向かいに座って言った。香織は賢治君を松本楼に連れて行った。至近距離だからお店が急に忙しくなったら開放してあげる、という条件を提示して。
「あの、何でしょう。」
「何でしょう、か。タメ口でいいのよ。敬語使われると自分がオバさんだなあって余計に感じるから。」
賢治君が噴き出した。
「安倍さんと言い、森さんと言い、三十代の女性は自分たちをオバさんって呼びたがるもんなんですね。」
「そうよ、自分から先に言っちゃえば、言われるより傷つかないから。」
「なるほど、そういうことか。」
賢治君は氷の入った水を美味しそうに飲んだ。運ばれて来たハンバーグにはまだ手を付けていない。
「貴子がすっごく気にしてたから。あなた、投資の話受けるつもり?」
「はい。実は明日、契約前の内容確認なんです。」
「そうなんだ。どんな会社?私には関係無いけど。貴子には言わないから、まあ言ってもどうなることでも無いけど、ちょっとした興味。」
「いいですよ。別に隠すことでも無いし。エクセレント・グループっていう名古屋のホテルチェーンのオーナーです。」
「エクセレントって今話題の?」
「『平成の成り上がり』って著書も売れたからけっこう有名ですよね。」
「すごい人が名乗り上げたものね。」
「みたいですね。」
「他人事みたいに言うのね。」
「誰が投資しようと僕は花屋をやるだけです。コンセプトは承諾してもらってるから。」
そう言ってハンバーグをフォークで切って口に入れた。
「でも貴子はそうは思っていない。あなたは貴子のために自分を犠牲にしているって。」
賢治君が笑い出した。
「犠牲?一生自分を犠牲にして人に認められることだけのために生きてきた安倍さんに言われたくないなあ。」
香織が顔を上げた。
「本気でそう思っているの?貴子のような人生を人は勝組って言うのよ。」
「じゃあ聞きますけど、勝組ってどういう定義なんですか?」
「好きなことやものをお財布を気にせず買ったりしたりできること。金持ち喧嘩せずっていってね、夫婦なんてお金の喧嘩が無ければ大方ラブラブでいられるのよ。私もだけど。好きなものに囲まれて自由に買い物や旅行が出来れば、日常のストレスの大半はリリース出来る、そういうものよ。」
「それは香織さんの哲学かもしれないけど、安倍さんは香織さんみたいにナチュラルじゃないから。」
「ナチュラルって?」
「ナチュラルなにマテリアリスト。」
香織が笑い出した。
「君って失礼な奴だけど、面白い。」
「安倍さんって、もっと素朴なものに一番喜ぶ。地平線まで続く花畑とか、深夜に作ってもらう明太子スパゲティーとか、小さなメッセージカードとか。俺、思うんですよね。彼氏にプロポーズされた瞬間は感激して泣き出しちゃっただろうし、それは彼女の本心だと思う。でも今頃はきっとあの豪華な指輪を見ても不安になっているだろうって。今でも彼氏の気持ちが見えないから。」
「どうしてそう思うの?」
「あの彼氏って全然安倍さんを見て無いから。彼氏が見てるのは自分の妻という所有物としての値打ちだから。」
香織が賢治君の顔を見上げた。
「森さんだったら、単純に指輪見る度に嬉しくなるんだろうけど。粒の大きさが彼の愛情の大きさだって。」
香織が噴き出した。
「はっきり言うわね。まあ、認めるけど。」
「そのこと自体を否定しているわけじゃないんです。幸せなんて人それぞれだし、森さんはそれを自分で選んで自分のためにゲットしたから幸せなんです。多分。そう言うの、伝わって来ますから。」
「確かにね。」
「でも安倍さんはきっと指輪を見る度に不安になってる。僕は最初に会った時から思ってた。安倍さんは綺麗な顔をして綺麗な服を着て背筋を伸ばして颯爽と立っているのに、ちっとも幸せそうじゃない人だって。無理して笑っているみたいだって。」
香織が笑うのを止めた。
「とにかく、貴子の幸せを君に奪う権利は無い、それだけは言っておくわ。でも・・」
伝票を掴みながら、香織が言った。
「どうしても貴子をさらいたいなら、投資家でも何でも利用して、彼女の生活レベルを支えられるくらいビッグになってから迎えに来なさい。じゃなきゃ、貴子が今まで頑張って来た全て無駄になるから。」
「言われなくてもそのつもりです。」
賢治君はそう言って、香織に人懐こい笑顔を向けた。
お盆まで後一週間と迫った。
式はオークラで翌年の五月に決まった。ジューン・ブライドも捨てがたいが、梅雨は当然降水確率が高いので、着物の参列者のために気候の良い季節にしようという結論になったのだ。お盆休みにはお墓参りを兼ね、亮介の両親に挨拶に行く。今回は顔合わせ、秋に改めて結納の運びとなった。
会社では、貴子が寿退社するかしないかの予想でまた盛り上がっている。すでに亮介が由緒ある老舗旅館の御曹司であることも伝わっている。
「焦らずじっくり大物をゲット。キャリアウーマンは結婚もバリバリに成功させちゃうんですねえ。」
加藤由香里がしきりに感心している。貴子に対する同僚の視線が近寄り難い女から羨望の眼差しにと、百八十度変わった。
仕事は当面続ける。それが亮介と話し合った結論だ。せっかく実績も積んでいるし、今辞めるのはあまりにもったいない。彼も超多忙で一緒に夕食を取れることは稀だし、週末の接待ゴルフも多い。家でじっと待っていられても返って気を遣うからその方がお互いメリットがある。ただし、子供が出来たら即退職という条件付きで。もう若く無いのだから結婚したらすぐに子作りに専念しようというのも亮介の望みだ。貴子もそれには依存は無い。となると実質的に働ける期間はそう長くないのかもしれない。子供が順調にできれば、の話だが。
実は一番町にある亮介のマンションは貴子の部屋より少し狭い。一等地だから価格ははるかに高いのだろうが、キッチンが半分以下で、食洗器はあるが食器収納スペースも少ない。
「まあ、男が女のマンションに転がり込むっていう構図は有り得ないんでしょうねミスターボンボンとしては。」
「子供が出来たらふたりのマンション売って引っ越す予定だからしばらくの辛抱なんだけどね。私の気に入っている家具や入りきらない食器、絵画なんかはその時まで貸倉庫で預かってもらうことにしたし。」
「ひとつ、またひとつと具体的になっていくわね。」
「ホントこの部屋、すっごく気に入っていたから、ちょっと寂しい。」
「何言ってるの、そのうち亮介君がすっごくお洒落な注文住宅でも建ててくれるわよ。」
「そうなっても、彼の好みに設計させるだろうし。」
「いちいちつっかかるわね。まだマリッジブルー続行中?」
そう言って、香織が貴子の顔をちらっと見て、ちょっと真剣な顔をした。
ふたりは貴子の部屋のカウチに座り、日本茶を啜っている。久しぶりに足を延ばして新橋新正堂の豆大福を買ってきたのだ。この部屋で寛げるのもそう長く無いと思うと、なるべく部屋にいたくて、最近は夕食も自宅で料理することがほとんどだ。
「貴子。」
香織が突然、かしこまったように正座した。
「何?」
「ねえ、私が何を言ってももう後戻りしないよね。」
「結婚のこと?もちろんよ。もう公になっちゃってるし、式場もドレスもオーダーしたし。」
「じゃあ、言う。」
香織が身体ごと貴子に向き直った。
「年下君、投資の件、週明けに契約になるそうよ。」
「そう。」
貴子は冷静を装ってそっけなく言いながら、すぐに気づいて尋ねた。
「ちょっと待って、香織が何でそんなこと知ってるの?」
けれど、香織は貴子の言葉を無視して続けた。
「でも、この話、辞めさせた方がいいと思う。実は私、忠告したんだけど、聞いてくれなかった。」
「会ったの?!」
今度は貴子が香織に身体ごと向き直った。
「会ったわ。二回、安心して、エッチしてないから。」
「冗談言ってる場合じゃないわ、何で会ったの?」
「最初は、あんたを翻弄した美少年の顔が見たくなって日比谷花壇に行った。単なる好奇心。噂以上のイケメンで驚いた。貴子の心が揺れるのも無理無い。」
「二度目は?」
「話せば長くなるんだけど、最初に会った時、投資家の名前を聞き出したの。エクセレント・グループの社長。」
「エクセレントって、今飛ぶ鳥の勢いってホテルチェーンね。」
「企業評価も素晴らしいし収益も凄い。ただね、評判があまり芳しくないのよ。」
「そうなの?」
「うちの夫、そういうの詳しいのよ。分野は違うけど、不動産買収という意味では同業者。あのホテルチェーンて、業績の悪いホテルや企業の入ったビルをキャッシュで買い叩いて次々ホテルにしていったでしょ。始めは正攻法で徐々にチェーンを増やしていった。でも中には意図的に手を回して、手に入れたい物件を持ってる企業に対し、非合法な連中を使って故意に業績を悪化させたりもしたそうよ。主人いわく、エクセレントに出資するならほぼ確実に利益を生んでくれるからよい投資になるけど、共同経営とかあの人の下で働くことは有り得ないって。社員の待遇も酷いって聞いたわ。」
「でも亮介の銀行が関与するくらいなら、裏社会が絡むことなんて無いでしょ。」
「そこなのよ。昨年、どうして名古屋の企業の融資が東京の本店で行われたかというと、かなり問題がある物件買収で、シェルカンパニー、いわゆるペーパーカンパニーを使って株を操作して、買収する会社を無理矢理追い出したそうよ。本店が間に入ってなんとか合法的に実行したけど、銀行自体もそれを承知で関与してたって夫が言ってた。大口の優良企業だもの、銀行としては何としても恩を売りたい。」
「ということは、亮介はエクセレント・グループのそういうえげつない部分を知った上で。」
「銀行マンとしては100%エクセレント・グループの側につくでしょうね。この件が上手くいくと、エクセレントの社長は亮介君をもっと持ち上げて行くだろうし。しかも亮介君は賢治君に嫉妬している。当然、賢治君に不利になる方に加担する。賢治君がどんなに神童だったとしても所詮素人、巨大企業と経験を積んだ有能な銀行マンの前では狼の前に差し出された羊みたいなものだわ。」
貴子は愕然とした。羊と聞いて、ブラックシープという言葉が蘇る。白い羊の中で一匹だけの黒い羊。誰にも属さず自由に生きて自由に走り回る。
「私、年下君にもう一度会いに行ってそのことを忠告したんだけど、彼、ご忠告有難う、でも僕のチョイスは変わりませんって言ってた。」
貴子は香織が帰った後、賢治君に電話を入れた。何度か鳴って留守電になったのでメッセージを入れた。大切な話がある。とにかく投資家との契約は危険だから待ってほしい。同じ内容でテキストのメッセージも送った。返信は来ない。
いてもたってもいられなくなって、翌日会社の昼休みに日比谷花壇を訪れた。
「鹿沼君、今週いっぱい有給取って休んでます。」
貴子はその場に立ち尽くしたまま途方に暮れた。
考えてみれば、貴子は賢治君の実家を知ってるけれど、彼がどこに住んでいるのかは知らないのだ。現実的に考えて、彼の何を知っているというのだろう。花屋として会いに来る以外の彼の、何を見ていたのだろう。
亮介から銀座のアピシウスで食事をしようと誘われた。他社がメインバンクの大手のアパレルブランドとの大口の融資が決まったのでそのお祝いだと言う。
「メインバンクと半々の融資なんだ。やっぱり最近は銀行も企業もリスクを分散したいんだろうな。今回も「恩を売っておけばいつか恩返しを見込めますから」なんて言っててね。銀行が恩返しをしない企業だというのは常識だけど、このご時世、ライバルとも手を組む広い懐が無いと生き残れないからね。」
亮介は上機嫌だ。
「頑張って出世しないとな。そうだ、結婚したら、さっそく銀行の夫人会にも入ってもらわないとな。貴子ならそういう付き合いも安心して任せられるし。」
「ねえ、亮介。」
「何?」
「ちょっと、香織に聞いたんだけど、エクセレント・グループと鹿沼君の投資話が進んでいるって。」
途端に亮介の顔が曇った。
「君はまだあの男のことを気にしているのか?本当に何も無かったのか?」
「無いわよ。」
すぐに否定した。すぐ過ぎて嘘だとばれるかもしれないと思えるくらいに。
「香織から、ご主人経由でエクセレント・グループってものすごく評判悪いって聞いたから。」
亮介がワインをぐいっと一気に飲み干した。
「評判が良かろうと悪かろうと、エクセレントは僕の大切な顧客でありネットワークだ。だから自分の顧客の利益を守る、それだけだ。」
「本当にそれだけ?」
「他に何があるっていうんだよ。あいつは君にとって単なる花屋の店員なんだろう?そして君は僕と結婚するんだ。あいつの心配より僕の出世を応援するのが君の務めだろう。貴子だって仕事の厳しさはわかるはずだ。僕が一番守りたいのははエクセレント・グループでも花屋でも無い、自分の勤務する銀行で僕自身だ。」
あんまりすごい剣幕でまくしたてるので、貴子は黙ったまま俯いてしまった。
気まずい雰囲気で沈黙のまま食事が終わると、無言のまま腕を掴まれて、タクシーで彼の部屋に連れて行かれた。そのまま腕を引っ張られてベッドルームに連れていかれ、乱暴に押し倒された。
亮介、痛いよ・・・
すぐに良くなるから・・・・
それはとても辛くて悲しい一方的な行為で、抱かれながら、ずっと賢治君のことを考えていた。同じように突然キスをされて、舌を入れられて激しく抱かれても、賢治君とのセックスには自分への思いが伝わって来たのに。そう思うと涙が一筋、耳に流れ込んだ。
どうしても賢治君に会いたい。貴子は狂ったように携帯にメッセージを入れ続けた。
会って話がしたい。
お願い。会って話をしましょう。投資の件、お願いだから考え直して。
会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。私のために人生を変えないで。とにかく会ってください。
賢治君が警察にストーカー被害を出せるくらいたくさん。そうやって二日後の夜、賢治君からメッセージが届いた。
「俺んち来る?」
メッセージの後に住所が記されている。慌ててジーンズを履き、部屋を飛び出し、タクシーを拾った。
賢治君の部屋は青物横丁の駅から十分くらいの場所にある小さなワンルーム・マンションだった。入るとすぐに洗濯機があり、フローロングの床、小さなキッチンの横に小さなテーブルと椅子がふたつ。ベッドは無く、床にマットレスが敷きっぱなしになっている。それでも物がほとんど無いせいか、きちんと整理されていて、清潔だ。
「適当に座って。」
貴子はテーブルの手前の椅子に座った。
「正解だろ、俺を選ばなくて。安倍さん、こんなとこ住めないもんな。」
賢治君が冷蔵庫からペットボトルの水をふたつ取り出し、テーブルに置いた。
「住めないから、五年待てないから、だから投資の話を受けるっていうの?私はもう結婚するのよ、だからあなたは自由に生きればいいじゃない。」
「そうはいかないよ。俺、人生で絶対にやらないって決めたことがふたつあるんだ。」
「何?」
「最後まで絶対あきらめない。少しでも可能性があることは全部試す。」
「でもエクセレント・グループは。」
「評判悪いんだろ。」
「知ってたの?」
「高名古屋で会った直後から調べていた。案の定、条件を変えて来た。投資じゃなくて共同経営。エクセレント・グループと君の彼氏の銀行が株を持つ。」
「亮介の銀行が?」
賢治君がペットボトルのキャップを開けて水を飲んだ。
「そう。表面上は五年後までに利益を出せば俺に全ての株を譲渡っていう、素晴らしい契約だけど、その前にのっとるかもな。」
「そんな契約、もちろん受けないよね。」
「いや、受けるよ。」
ボトルをテーブルに置き、貴子を見つめて言った。
「嘘でしょ!」
「前にも言ったよね、安倍さんに嘘ついてもしょうがないだろ。」
「じゃあ、どうして?」
「目を覚ましてほしいから。」
「目を覚ます?」
そう。賢治君はテーブルに頬杖をついた。
「君にはふたつの選択がある。僕がエクセレント・グループと契約を交わし、彼氏と結婚するか、僕の契約を止めさせて彼との縁談を破談にするか。」
「何よ、それ。」
「週明けの月曜日、午前十時、僕は安倍さんの婚約者の銀行へ行く。契約のためだ。僕を止めたければ、そこへ君が乗り込むしかない。当然、婚約者は激怒するだろうな。第三者も立ち会うから対外的にも恥をかく、婚約破棄になるかもしれない。」
「私が行かなかったら?」
「僕は契約を交わす。君は無事ゴールインに向けてブライダルエステ三昧。君は何も損をしないし、素敵な結婚生活が待っている。これ以上簡単な答えは無いだろう?」
「私を脅しているの?」
「これが脅し?まさか、こんなたやすい二者択一って聞いたこと無いけどなあ。」
「冗談よね。だって私がエクセレント・グループとの件を良い話だと信じていたら、この選択は成立しなかった。偶然、香織があなたに会いに行かなければ私がここに来ることも無かった。」
「だから言っただろう。偶然は必然なんだって。君がこのことを知ることは必然だって、森さんに会った時に察したし。まあ、どちらにしても、本当に良い話だったら、僕は契約して、五年待たずに安倍さんとあの彼氏と君を別れさせただろうな。」
「帰る。」
「えっ、せっかく来たのにもう帰っちゃうの?久しぶりに会えたのに。」
賢治君があの人懐こい笑顔では無く不敵に笑った。貴子は立ち上がった。
「あなたに私の幸せを潰す権利なんか無い。」
「そうだね。だったら僕が契約を結べば安倍さんは桜田さんになって幸せになる。ハッピーエバーアフター。」
「あなたが不幸になるってわかっているのに?私だって後味の悪い思いをしたくない。あなたは私の結婚に泥を塗ろうとしているだけでしょ。」
「逆だよ。ずっと言おうと思ってたんだけど、安倍さんは言ってみれば透明な水に活けられた薔薇なんだ。そのまま飾られていることを選んだ薔薇。僕はその薔薇を自由にして土に植えてあげようとしてるだけ。」
「また比喩?わけのわからないこと言って、私を脅迫しているだけでしょ。」
「わからない人だな。あなたは自分の気持ちに正直に生きればいいんだよ。彼氏や会社や親や僕の気持ちじゃなくて自分の気持ちを優先させればいいだけ。安倍さんの本心が知りたい。安倍さんが彼氏を選ぶか僕を選ぶかを知るのにこれ以上ベストな機会は無いから。」
貴子は猛烈に腹が立って、バッグを掴むといったん玄関に向かい、それから引き返し、テーブルの所に戻り、飲みかけのペットボトルを掴んで、座っている賢治君を見下ろし、キャップを開けてボトルを逆さにして賢治君の頭に水をかけた。
「最低。」
貴子はそう言い残して、部屋を出た。
「私、どうしたらいいんだろう?」
賢治君の部屋を出たその足で香織に電話をしてタクシーを拾い、南麻布にある香織の家にやって来た。玄関のドアを開けてくれたのはご主人だ。事情を知っているようで、貴子をリビングに通し、自分はそのまま自室に行った。ドアを閉める音がばたんと小さく響く。
夜更けなので香織は柔らかそうなシルクのナイトガウンを着ている。事情を話しながら、貴子はいつの間にか泣いていた。香織が肩を抱いて優しくさすってくれる。
「ごめん、私があんなこと言わなければ貴子は何も知らず、躊躇なく亮介君との結婚につき進めたんだよね。」
香織が言った。貴子はただ首を左右に振った。
「でもね。そうじゃないかもしれないとも思った。貴子は亮介君にプロポーズされているのに、年下君が忘れられないでいる。気になって気になって仕方ない。私が元カレを振った時と全然違う。私、ひょっとしたら貴子が本当に好きなのは亮介君じゃなくて年下君じゃないかって思った。」
貴子は顔を上げた。
「だからと言って年下君を選んでも貴子は後悔するかもしれない。だって、結婚って愛してるだけじゃ成立しないから。結婚って日常生活なのよ。ハネムーン期間は顔見てるだけで幸せだし、毎日抱き合ったりするかもしれないけど、一生ハネムーン続けるわけじゃないのよ。ご飯作ればゴミも出るし、子供が出来れば時間もお金もいくらあっても足りない。若ければそれも乗り越えられるかもしれないけど。この歳で今更ライフスタイルを百八十度ひっくり返すなんて惨めだよ。」
「わかってる。だから亮介を選んだ。」
ぽつりと言った。声が鼻声になっている。
「私もそう思う。でもね。私や世間が何を言っても選ぶのは貴子自身。何が幸せか自分で考えなさい。」
貴子は頷いた。香織が抱いていた手を解き、貴子に向き直って言った。
「実はね、こないだ賢治君に会ったとき、彼がいい加減な気持ちで貴子に接していないことはわかった。賢治君が言う通り、今回は賢治君がこの先どうなるかとか、亮介君がどう思うかとか、私の意見とかじゃなくてね、自分の気持ちや都合、打算、そういう自己中心的な選択をすべきなのよ。だって誰でも無い、貴子の人生なんだから。」
「そうだね。香織の言う通り。私、ずっとずっと頑張って来た。人の何杯も努力して来た。だから幸せになる権利があるよね。」
「そうよ。貴子は本当に頑張ってる。」
香織はそう言ってもう一度貴子を抱きしめた。いつものジョーマローンの甘いフリージアの香りが貴子を包んだ。
「あのこと、貴子ちゃんに言った?」
タクシーを呼んで貴子が帰った後、香織の夫、修一郎が尋ねた。ふたりはベッドに横になって今夜のことを話している。
「香織はどう思っているんだ?」
「正直言って、賢治君に会って話をして、亮介君より賢治君の方が本当に貴子を思っているんだなあって思った。でもね、それは貴子自身が気づかなくちゃいけないことだから。」
「貴子ちゃんが気づかなかったら?」
「気づかない方が幸せになる場合もある。気づかないで亮介君と幸せになれるなら、その方がいいって私は思うし。でも中途半端な気持ちのままで貴子を結婚させたくないのも事実。あの子はいい意味でも悪い意味でも真面目で、つまり不器用だから後悔する。」
「さすが親友だね。よくわかっている。」
「それにしても賢治君、あんな二社選択、狡いわよ。」
「そうかな、賢治君もよく考えたな。彼の言う通り、貴子ちゃんの気持ちを確かめる一番確かな方法だよ。」
修一郎が香織の耳に唇をつけた。
「君はどうだったの?」
「何を?」
「僕と付き合い始めた頃に付き合ってた彼。」
「何の話?」
「とぼけなくたっていいよ。男って君たちが思っているほど鈍感じゃないんだから。」
「ウソ!」
香織が身体を起こした。
「心配しなくていいよ。どういう理由であれ、僕は彼に勝ったんだから。それが重要なんだ。香織が僕を選んだ。それが僕らふたりにとって正解だった。」
そう言って、耳たぶを軽く噛んで、香織のナイトガウンのボタンを優しく外していった。
香織は思った。恋って言うのはインフルエンザみたいなものだと。熱が出て息苦しくなるけれど、よほど重症じゃない限り、やがて熱が下がり、いつの間にか通常生活に戻れる。セックスだって心が燃えなくなってもちゃんと気持ちいい。女はそういう風に生まれているのだから。吐息を漏らしながら、夫を選んで正解だった、私の場合は、そう心の中で呟きながら。
窓からの光に起こされて、うっすらと目を開けた。
あの後、香織がタクシーを呼んでくれてマンションに戻り、そのまま寝室に直行してベッドに倒れ込んだ。窓の外からの陽射しが白く眩しい。時計を見ると十時二十分。慌てて起きて、今度は今日が土曜日だと気づき、また身体を横たえた。昨夜お酒を飲んだわけでもないのに、頭が痛い。家についたのが深夜を回った頃だったから、十時間近く寝たことになる。寝過ぎると頭痛を起こすのは昔からの体質だ。受験生の頃から五~六時間の睡眠で生きてきたから、寝過ぎると身体が拒絶反応を起こす。
貴子は起き上がり、キッチンに行って壁のキャビネットからバファリンを取り出し水と一緒に飲んだ。それから何か食べないと胃に来るかもしれないと、冷蔵庫からヨーグルトを出し、スプーンで食べた。
昨夜のことを思い出した。賢治君の言葉、香織の言葉。自分の人生を自己中心的に考えればいい。自分の思いや利益だけを考える。
自分のためにだけ考えて選択する。よくわからない。高校受験は茨城県立一番の進学校、大学も一番人気の難関を選んだ。今の会社も企業ランキングで業界トップだから選んだ。そして誰に紹介しても誇れる亮介を選んだ。そうやって条件で選んできた自分の人生の延長なら、亮介が正解なのだ。なのに賢治君のことが頭から離れない。そしてどちらを選んでも誰かを傷つけ、自分も傷つく。自分の気持ちって何だろう。正解がわからない。
貴子はシャワーを浴び、バスタブにお湯を貼ってSKⅡのシートマスクを顔に乗せたまま、半身浴で汗を流した。それから着心地の良いTシャツ素材のマキシドレスを着て自分だけのために朝食を作った。スイカをカットしてマスカットと一緒にガラスのボウルに入れ、そば粉のパンケーキを焼き、ポーチドエッグを作り、ネスプレッソマシンでカプチーノを入れた。テーブルにオレンジ色のランチョンマットを敷き、食器を並べ、頂きますと声に出して言い、パンケーキにナイフを入れる。
大好きな部屋を見回す。視界には好きな物だけが並ぶ。好きな物だけを食べるひとりの朝食も悪く無いと思った。一人でいて寂しいと思ったことは無い。
それでも恋人が欲しいのは誰かと繋がっていたいから、安定したセックス、この歳で誰もいないというのが不様だから。結婚したいのは子供が欲しいから、将来の不安、それ以上に、オールドミスというラベルが嫌だから。
どうして年増の女がひとりでいると不様なのだろう。売れ残りと思われるから、女として何か欠陥っがあると思われるから。どうして結婚したいのだろう。子供が欲しいから、家族を作りたいから。どうして? それが普通だから、それが真っ当だから。
やりがいのある仕事がある。結婚して子供が出来るとそれを放棄することになる。結婚は今まで築き上げた地位を捨てることでもある。それはそれだけ価値のあることなのだろうか?一生涯独身は本当に肩身が狭いのだろうか?
亮介と結婚して手放すもの。居心地の良いこの部屋、仕事、自由な暮らし。結婚して得るもの。子供、家族、安定した未来。
賢治君を選んで手放すもの。贅沢な暮らし、社会的ステイタス。一緒にいて得るもの、美しい風景、楽しい食卓。
比べるものがあまりに違い過ぎて比べようが無い。貴子は苦笑いをした。始めっから比べるような相手では無いのだ。誰がどうみたって亮介を選び、賢治君がこの先どうなろうと知らない場所に自分を置けばいいだけなのだ。
なのに、貴子はその決断が出来ないでいる。
その夜、亮介から電話があった。久しぶりにドライブに行こうという誘いだ。
「ゴルフは無いのね。」
ポルシェ・パナメラは関越道を滑らかに走っている。
「最近、休みっていうと結婚式絡みで出かけることが多いだろう?事務的な打ち合わせばかりでまともなデートをしていなかったから、この辺で罪滅ぼし。」
助手席をちらっとみながら、亮介が言った。
「罪だなんて、ふたりのことだし、それはそれで楽しいわ。」
「そうか?なんか仕事の延長みたいで悪いって思ってた。」
そう言って、爽やかに笑う。品の良い笑い。この人はどこまでも育ちが良く、どこまでも高級な人なのだ。
「ねえ、亮介って子供の頃、どんな風にして遊んでいたの?」
「なんだよ、突然。」
「別に、ちょっと気になった。」
「そうだなあ。リトルリーグでサッカーやる以外は、友達んち行ってパソコンでゲームやったり。」
「案外普通なのね。」
貴子は笑った。
「どういう意味だよ。僕の幼少時代は普通じゃない風に見えるってこと?」
「そうじゃなくて、なんか想像するの難しくて。」
「そういう貴子はどうなんだよ。」
「うちは前言ったように田舎の農家でしょ、学校から帰って来ても誰もいないし、お腹が空いてるから何か作って食べたり、テレビ観たり、これと言ったスポーツもしてない、あんまりアウトドア派じゃなかった。海が近かったから、夏には週末になると学校の子たちと海水浴によく言ったけど。」
「僕たちの子供は間違い無く長身になるだろうから、歩けるようになったらスキーに連れていったり、夏なら水泳はもちろん、テニス、男ならサッカーや野球、女の子ならバレエやフィギュアスケートなんかもいいし、僕たちみたいに母親不在状態じゃない家庭の愛に包んで、おおらかに育てよう。」
亮介の言葉に頷いた。それはまさに貴子が言いたかったことだから。やっぱり亮介がいい。そう思って、シフトバーに置かれた亮介の手の上に自分の掌をそっと重ねた。
パナメラは関越の碓氷軽井沢インターを下り、国道18号に入った。葉山や箱根でもいいけれど、夏休みに入っていて渋滞がひどいから、一気に軽井沢に行こうと亮介が提案したのだ。
「反対車線は駐車場状態ね。」
貴子が言うと、
「日曜日の昼過ぎ、もうみんな帰る時間を狙ったからね。」
と言って微笑んだ。少し遅めのランチのためだけに長距離のドライブ、とても贅沢なことだ。レストラン「シェ・草間」に着き、窓際の席に座って外の緑を眺める。東京の緑よりずっと濃い色だ。昼下がりの陽射しが緑のフィルターを通して、テーブルを優しく暖める。今日の亮介はネイビーカラーのサマーニットにカーキパンツ。ニットの腕を少し捲っているので焼けた腕が剥き出しになっている。
「随分焼けているのね。」
「最近、ゴルフが多かったからなあ。」
亮介はそう言って自分の腕に触っている。焼けているけれど、賢治君の腕のような筋肉はついていない、ふと、そう思う自分に首を振った。
「何?焼けた肌は嫌い?」
「そうじゃなくて、私もゴルフ始めようかなってちょっと思った。香織にも誘われているし。」
「そうすればいいよ。いつかペア二組で回りたいけど、香織ちゃんのご主人、レベル高そうだけど。」
「シングル・プレイヤー。プロと戦えるって香織が言ってた。そういう香織も90切るって言ってるけど。」
「僕が香織ちゃんとトントンってとこか。それじゃ、一緒にラウンドしたら迷惑だろうな。」
そう言って笑った。今日の亮介は本当に機嫌がいい。
前回会った時に喧嘩をして、一方的なセックスをして別れたばかりだったから、気遅れしていたのだ。
驚くほど甘いキャベツを使ったパスタや鱒のアーモンド焼き、ふたりはは結婚後の生活を夢みるように喋り、帰りの車でその続きを語り合った。そして東京に戻ると貴子の部屋に立ち寄り、いつものように肌を合わせた。何もかもいつも通り、快適な車でドライブして、飛び切り美味しいランチを食べて、お決まりだけれど、一方的では無いセックスして、ひとりになる。
亮介が帰った後、貴子はほっと溜息をついて、キッチンに行き温かいカモミールティーを作って飲んだ。
どっこいしょ。
ティーカップを持ってカウチに向かい、声に出して言って身体を沈めた。亮介とのデートは楽しい。でも我が家に戻るとほっとする。そして、ふと気づいた。亮介と会う、食事をする、セックスをする、そしてひとりになるその瞬間が至福の時なのだということを。ひとりになれると安心する。
亮介と結婚する。毎日同じ家に帰り、同じベッドで眠る。思い描いていた風景なのに、急に不安になる。去年、寿退社した一般職の同僚が言っていた言葉を思い出す。
彼がね、毎週デートしてふたり別々の家に帰るのが面倒になった、同じ家でずっと一緒にいたいから結婚しようって、そんなプロポーズだったと。
亮介と貴子の結婚はそんな暖かい理由じゃない。お互いトシだから、良いDNAを受け継いだ子供が作れるから、人より良い暮らしが出来るから。
亮介は家に帰るのが面倒になったりするのだろうか?彼の家でセックスをしても、正直お泊りは苦手だ。成り行きでそうなることもあるけれど、出来れば家に帰りたい。亮介も同じだろう。付き合い始めの頃は必ず泊まっていったけれど、最近はほとんど無い。そう言えば、ベッドをもう一つ買わないといけない、というような話もしていた。
それでも私たちは結婚する。なぜなら、それが三十代の男女にとって正しい選択だから、お互い独身では世間的に半人前だから、親を安心させたいから。
安倍さんは自分自身のために人生を生きていない。
賢治君の言葉が蘇る。違う、そうやって社会的に認められることで自分が安心して暮らしていける。でもどうして安心するのだろう?それって、やっぱり世間様に対して申し訳が立つという安心であって、自分の本当の気持ちはどうなんだろう。
親に言われなくてもちゃんと宿題をして、上司に依頼される以上の仕事をこなし、どんなに疲れて帰って来ても服を脱ぎ散らかしたりしない、ちゃんと料理をしてお皿を洗う。誰がいつやって来てもいいように部屋を綺麗に片付ける。そうやって貴子はずっと優等生でエリートで、良い奥さんにもなれることをアピールして来たけれど、本当の自分はひとりになれる瞬間にほっとしている。どっこいしょ。声に出して寛ぐ。
もしも、世間体を一切切り捨てて、それでも亮介を選ぶだろうか?亮介が老舗旅館の御曹司でも東大出の銀行マンでもなかったら、それでも好きになっただろうか?多分NO。だって恋ってやっぱりパッケージで選ぶものだのだと本来の自分が反論する。
恋ってなんだろう?
ふとそんな疑問が沸いてくる。まず外見から入って、話をして、素性を知って、そして条件が合うと好きになる。本当にそれを恋と言えるだろうか?
賢治君は外観はまず魅力的だけれど、若過ぎるし、その外観だけに惹かれた訳じゃない。セクシャル・アトラクション、一緒にいて楽しい。でもそれ以外に何も無い。それを恋を呼べるだろうか?
ふたりの男の顔を交互に思い浮かべながら、その答えを探すけれど、結論に到達できない。ひとつだけ確かなことは、貴子はふたりの男の間で揺れながら、恋の意味さえわからないまま、社会的ステイタスを上げるために結婚相手を選んだということ、そしてそれを正しいと信じている、いや、信じて生きて来た、そのことだけだった。
いつもの朝が来て、シャワーを浴びて朝食を作り、ネスプレッソをセットし、テーブルについてタブレットでプライベートメールや国内外のニュースを確認しながら食べる。食器を軽くゆすいで食洗器に入れ、用を足して歯を磨いて、髪をブロウドライして、着替えて、家を出る。
満員電車に揺られながら、時計を見る。八時三十七分、電車はいつも通り八時四十八分に日比谷について、駅から歩いて九時五分前にはオフィスの自分の机に座ることになる。何も変わらない貴子の日常。エレベーターで知った顔に挨拶をし、デスクのパソコンを開いてビジネスメールを確認して、脳をウイークエンドからウイークデーに切り替える。ふと、薬指の指輪に目をやる。真新しい大きなダイヤが朝日を浴びて光を乱反射する。とても綺麗だ。何も変わらない日常に加わった光り輝く未来。そう、貴子の日常はこれまでの人生とさして変わらないまま、結婚というステイタスが加わることでバージョンアップして、思い描いていた通りの未来に完結していく。それで良いのだ。束の間に出会った他人に振り回されて、自分自身の人生を否定する必要なんか無いのだから。
会社について、部長から今取り組んでいるプロジェクトのプレゼンの日程が決まったと告げられた。これからますます忙しくなる。
「とにかくインパクトとわかり易さを兼ね備えて、消費者が今までと違う、得だと直感させることが重要なんだ。パワーポイントに頼りきったステレオタイプはNGだぞ。」
部長に言われなくたってわかっている。デジタル化が進み過ぎて、誰が作っても同じにしか見えない企画書が多い。若い世代の発想を期待していると、確かにデジタルのアプリを上手に使いこなすことは出来るけれど、その分誰に作らせても無難であっと驚くような発想が出来なくなっている。奇抜な企画がいいという訳ではないけれど、若いんだから年寄りが顔を顰めるくらい冒険するようなアイデアがあってもいいと思う。けれど今どき、受験も丸を黒く塗りつぶす世代、それも仕方ないのかもしれない。
部長が手を叩いてみんなのアテンションを促す。
「いいか、発想を変えろ。新商品と言っても大幅に変わったわけでは無いことはみんなわかっているだろう。それを別の角度、つまり消費者の目で逆の発想をするようなプレゼンを提案してくれ。」
男のための花屋があってもいいと思う。賢治君の発想は新鮮だった。確かに彼の言う通り、男が花を贈る機会は多い。女性にとって男性から花が届くというのはとてもスペシャルなことだし感動する。自分が特別な存在だと思える、まさに女冥利に尽きるのだ。目から鱗、逆の発想、賢治君の姿が脳裏に浮かび上がる。花を活ける時の賢治君の引き締まった腕の筋肉と、上に覆いかぶさる硬い胸襟、とても安心する大きな手、優しい笑顔、からかう時の含み笑い、真剣な眼差し。それらが頭の中でシェイクされて美味しいカクテルみたいに貴子の心に甘い酔いを促す。
腕時計を見る。九時四十分。貴子は席を立った。バッグを掴み、オフィスを出てエレベーターのボタンを押す。何処へ行くんだ、という部長の声が届いた気がする。急用です、と言った声が音として発生されたのか、心の中で自分に囁きかけたのかもよくわからない。
貴子は走っている。ジミ・ーチュウの8・5センチヒールを履いているのに、朝、鼻の上、若気の至りで作った小さな日焼け跡の染みを、コンシーラーとお粉をはたいて完璧にカバーしたのに、散々迷って、ようやく決心して買ったディオールのベージュのスカートのスリットが破れそうになりながら、心臓が破裂しそうに息を切らして走っている。
東和グループの二七階建てのオフィスビルの巨大なロビーを抜け、案内の女性にエクセレント・グループと打ち合わせをしている鹿沼賢治の弁護士だと告げた。女性が電話を入れ、短いやり取りのあと、会議室Bの場所を丁寧に告げられた。エレベーターのボタンを押し、営業部のある三階で降りた。心臓がばくばくと音を立て、歩く足元が震える。私は会議室のドアの前で深呼吸して、ドアをノックした。
亮介が唖然とした顔で、エクセレント・グループの社長が当惑した顔で、賢治君は真剣な顔で、それぞれ違う表情のまま、皆の視線が一斉に貴子に釘づけになる。
貴子は震える声で言った。
「契約をしないで。」
亮介が立ち上がった。
「貴子…何を血迷っているんだ。」
亮介はそう言ってから、慌てて言葉を飲み込むように咳払いして、
「仰っている意味がわかりませんが。」
そう、言い直した。貴子と同じように震えた声、だが亮介のそれは怒りに震えた声だ。恩林が二人を交互に見て、それから貴子に向かって言った。
「君は誰だね。」
貴子はそれには答えず、賢治君に向かってもう一度言った。
「あなたの夢を安く売らないで。」
賢治君が立ち上った。
「弁護士に反対されたので、この契約は取り止めま〜す。」
そう言って、皆にお辞儀をすると、書類を置いたまま、ドアに向かった。
静まり返った部屋に、ドアを閉めるばたんという音だけが大きく響いた。
その静寂を破ったのは恩林だ。
「君らは知り合いかね。」
「学生時代の友人です。」
亮介が咄嗟に嘘をつく。そして貴子に向かって言った。
「君は自分が今何をしたかわかっているのか?」
貴子は何も言わずに頷き、
「大変失礼いたしました。」
そう言って、賢治君と同じようにドアに向かい、なるべく静かにドアを閉めた。来た時よりももっと足が震えている。亮介は追いかけて来ない。雲の上を歩くような感覚でエレベーターに向かい、同じように震える指先でエレベーターのボタンを押してロビーに降りた。
外に出ると賢治君が待っていた。あの人懐こい笑顔を向け、貴子に近づいて来る。
「僕を選んでくれて、有難う。」
そう言って、貴子の肩に手を置いた。貴子はその手を掴んで下ろした。
「あなたを選んではいないわ。」
「え?」
賢治君が不思議そうな顔をした。
「誰も選んでいない。あなたの言う通り彼とはもうだめでしょうね、彼だけじゃなく私自身の気持ちも。だからと言って、じゃあネクスト、みたいにあなたを選ぶのは、彼に対してもあなたに対してもとても失礼なことだと思う。だから、私はひとりになるって決めた。」
「どうして君はそうやって、人のことばっかり考えて自分を否定して生きなくちゃいけないんだよ。もっと自分に正直に生きろって何度も言っているのに。」
賢治君は声を荒げた。
「それが一番私らしい、私の正直な気持ちだから。」
そう言って、手を出した。
「握手。」
「そんなの納得出来ない。」
「あなたが納得出来なくても私の結論は変わらない。この先、若いあなたと一緒に歳を重ねていく自信も無いし。」
「どういうこと?」
「これからずっと、私が常に十年早く歳を取って行くのよ、今はいいけど、それがいつか負担になる。いえ、今だって、あなたの顔を至近距離で見ると落ち込む。」
「どうして?」
「あなたにはわからないのよ。あなたの目元に皺ひとつ無い、それが私にとってどんなに残酷なことか。例え、あなたがいいって言ってくれたとしてもね、それって私の問題だから。」
「そんなつまらないことで…」
「つまらないこと?あなたにとってはね。でも私には重要なことなの。」
賢治君が当惑顔のままみつめている。
「今はひとりでいたい。それが正真正銘、正直な私の気持ち。五年後に必ず君の思い描く通りの花屋をオープンさせてね。私は四十のオバサンになって、あなたの花屋さんにお客としてこっそり薔薇を買いに行くから。」
呆然としている賢治君の手を取って無理矢理握手をして、
「サヨナラ。」
そう言って、彼に背を向けて歩き出した。
「約束する。五年後、夢を実現させる。そして君を迎えに行く。だから待ってて。」
後ろから賢治君の声が追いかけて来た。
「無理よ、この歳の女はそんなに待てないの。忘れて。」
貴子は振り向かずに歩き続けた。二十五歳と三十五歳とでは五年という時の速度が全然違うのだ。彼の五年はゆっくりと、貴子の五年はあっという間に過ぎて行くに違いない。つまり、二十五歳の彼の五年は年上の女を忘れるには充分過ぎる長さだということを、三十五歳の貴子には痛いくらいわかっていた。
「つくづく不器用な女よね。その歳で恋人も年下の愛人も両方切り捨てるなんて有り得ないでしょ。」
香織が心から呆れたという顔で言った。
「仕方ないでしょ。この歳だからよ。三十五年やっていた生き方を今更変えられないんだから。」
貴子は笑った。自分でもつくづく馬鹿だと思う。その馬鹿さ加減が自分自身でも笑える。
あの後、亮介から電話があり、婚約をペンディングにしたいと言われた。破棄ではなくペンディングなのは私を許すつもりがあるからでは無い。プライドの高い彼の怒りは想像がつく。なのに結婚式場の予約をキャンセルしなかったのは世間体があるからだろう。専務に仲人を頼んでいる手前もある。だからほとぼりが冷めたらこのまま何もなかったように結婚して、頭の裏側で一生この日のことを責めながら貴子と暮らすのかもしれない。そして貴子には亮介の気持ちが痛いほどわかる。貴子が男だったら同じことをしただろう。賢治君に会う前の貴子だったら。それでも貴子はエンゲージリングを箱に戻し、カードを添えて、彼のマンションのメールボックスに落とした。カードには「言い訳はしません、ごめんなさい。」とだけ記した。そしてすべてが終わった。完璧に徹底的にソリッドにひとりになった。
賢治君にあって、貴子は人生のチョイスを知った。正しい生き方という教本だけを信じて、脱線することなく走り続ける列車の中でロックされていた人生。列車を降りたら、今まで見えなかった景色が広がっていること、もっと自由な道があるということ、ゆったりとした時間の流れがあるということ、それらを見ないようにしてただ前だけを見つめていた。けれど賢治君と出会って気づいてしまった。貴子が見ていたのは美しい未来では無く、誰かが座っている座席の背もたれ、自分のためでは無く他人のために存在する人生だったということ。
「でも、貴子のその笑顔、なんかすがすがしいっていうか、ひと皮剥けたって感じだね。」
香織が貴子に向かって一緒に微笑んだ。
「何も無くなったから。なんかもう無理しなくていいって言うか、捨てるものが無いってある意味、強味だよね。」
「うわあ、完全に開き直ってる。」
香織が笑った。けれど、すぐに笑うのを止め、遠くを見るような目で言った。
「私が花を飾れって言わなかったら何も始まらなかったのよね。かなり責任感じてる。」
貴子は香織を見て微笑んだ。
「確かにね。世間から見たら最悪な結果かもしれないけど、私にとって手遅れにならないうちにリセット出来て良かったと思ってる、本当よ。」
「貴子がそれで納得するならね。まあ、主婦友にもママ友には当分なれそうも無いけど、嫌われても一生つきまとって、セレブな私の自慢話聞いてもらうつもりでいたし。」
「いいわよ、キャビアやツバメの巣とかのお裾分けはしっかり頂くから。」
「いつでもどうぞ。」
そう言って顔を見合わせて笑った。なんだかんだ言っても香織は貴子の一番の理解者なのだ。
貴子はお気に入りの部屋で、お気に入りのカウチに座り、大好きなネスプレッソで入れたカプチーノを飲み、信頼できる友人と週末の午後をゆっくりと過ごした。明日からまた仕事、婚約破棄の話は瞬く間に広がり、皆、腫れ物に触るように接する。きっと陰ではオールドミス、行き遅れ、イカズゴケ、お局、言いたい放題だろう。エリートで美人の敗北ほど叩きたいターゲットは無い。なんとでも言わせておけばいい。仕事だけは誰にも負けない。恋は探すものではない。突然陥るものなのだ。だからその瞬間まで、エステにも行き自分磨きは止めない。見せるためではなく自分が満足できるように。怖いものなんか無い。例え結婚できなくても、貴子には充分過ぎる収入があって、お気に入りの部屋があって、週末を過ごせる大切な友人がいる。エッチは自分で処理するしかないけれど、それも気楽でいい。女を捨てなければいい。諦めなければいい。きっといつか、そんな貴子を受け入れてくれる人が現れるはず。無理をせず安らげる場所はきっとみつかる。人生に遅すぎるなんてことは無いはずだから。
少なくとも貴子は今、他人のためじゃなくて自分のために生きているのだ。
五年の月日が流れた。
貴子は入社して以来最初の移動で総合企画部企画グループのグループ長に昇進した。開発部時代よりもっと集中的に官庁への対応を行ったりする以外に、広報の仕事も加わりますます忙しくなり、結婚に焦る余裕さえ無くなって行った。風の噂で亮介が銀行の専務の紹介で、取引先の精密機器メーカーの社長令嬢と見合い結婚したと聞いた。彼より八歳年下、芸大の大学院でハープを習っていたという絵に描いたようなお嬢様だそうだ。
ひとり身になったこと以外で以前と違うのは、自分で花を活けるようになったことだ。「男と花を絶やさない」という香織の助言の「男」抜きだが、ゼロよりはいい。それに内緒だが、五年間、全く男がいなかったわけでは無い。たまたまランチで隣のテーブルに座っていた鉄鋼会社の男性と短期間だが親しくなった。彼は結婚していたから深みにハマらないように割り切って半年ほど関係を続けたが、彼がインドに転勤になって自然消滅した。そして自分でも驚くほどその事実をあっさり受け入れ、悲しいというほどのこともなかった。
その日、午後一番に厚生労働省に出向き、その後千代田線で赤坂に向かい、広告代理店での打ち合わせが夕方まで続いた。五時を回り担当者に食事に誘われたので、社に電話を入れ赤坂のイタリアンで会食をした。午後九時半過ぎ、もう一軒というオファーを丁重に断り、タクシーで都立大学に向かう。
懐かしい名前の書かれた葉書が届いたのだ。「ブラックシープ」というおよそ花屋らしくないネーミングの店は、東横線都立大学駅に続くこじんまりとした商店街の一角にあった。営業時間は午前十一時半から午後十一時まで。二階建ての店の正面が吹き抜けのガラス張りになっていて、明るい店内の中央にダイナミックに活けられた巨大なアレンジメントが鎮座する。左側に鉄道と木を組み合わせた階段があり、二階部分がカフェになっている。店内は人で溢れていた。
貴子はその盛況ぶりに驚いて、花を見ることを忘れて人々を眺めた。彼のコンセプトからは外れて客の過半数は女性である。けれど、カップルや男性も花屋というカテゴリーを考えればかなり多いことにも驚いた。いったいどんなマーケティングで集客したのだろう。レジの前、笑顔で対応する女性に見覚えがあった。賢治君の妹の初美だ。白いTシャツに黒いエプロン、エプロンには白抜きでBLACK SHEEPの文字が浮かぶ。髪を無造作なポニーテールにした初美ちゃんは賢治君の家で会った時よりずっと大人びて、化粧を施した顔はとても美しい。花を買っている男性が嬉しそうに話しかけている。貴子は階段を上り、カフェに足を踏み入れた。
カフェは中央に十人ぼど座れる大きなテーブル、壁際と窓際に四人掛けのテーブルが五席ほど、時間が遅いせいか並ぶほどでは無いが、個々のテーブル席は全部埋まっている。
賢治君はカフェのオープンキッチンのカウンター越し、そのカウンターに設置されたシンクの横でサラダを作っている。短かった髪は伸びて首を少しだけ覆っている。黒いTシャツに初美と同じエプロン、美しい顔はそのままだが以前の線の細さは無い。五年の歳月は彼をすっかり大人の男性に変えていた。
貴子は中央の大きなテーブルの空いた席に腰を下ろした。階段と同じダークブラウンの木を繋いだ素朴なテーブルがモダンな店内に温かさを与えている。はめ込まれたタブレットのモニターに、エプロンと同じ文字が浮かび上がる。画面をタッチすると美しいアレンジメントが浮かび上がり、五秒おきくらいに別のアレンジメントに変わって行く。テーブルの中央には大振りの赤い薔薇とグリーンのアレンジメントが活けられている。この大きさ、色、賢治君の実家のダラスだ。
「久しぶり。」
頭の上から降って来た声に顔を上げた。賢治君が笑っている。大人びて見えた顔が途端に昔の賢治君に逆戻りする。注文してもしないのに、目の前にローズティーが置かれた。
「お久しぶり。」
賢治君が私を見つめる。
「安倍さん、全然変わらないね、っていいうか、昔よりパワーアップしてさらに綺麗になってない?」
「お世辞でも嬉しいわ。先月大台に乗って、ついにオバサンのカテゴリーど真ん中に突入したけどね。」
賢治君はあはは、と笑った。
「言われる前に自分からオバサンって言ってしまえば傷つかないから?」
「何それ。」
「安倍さんの友達、森さんだったっけ、五年前に言ってた。なんであなたたちは自分からオバサンって言っちゃうの?って聞いた答え。」
「そんなこと考えてもみなかった。でも、うん、そうかもしれない。」
貴子はそう言ってローズティーを啜った。
「懐かしい味。」
「良かった。」
すみませ~ん。窓際の席から別の客が賢治君に向かって手を上げた。
「忙しいんでしょ。私はいいから接客して。」
小声で言うと、賢治君は時計を見て、
「あと一時間で閉店だから待ってて、少し話がしたい。」
賢治君はそう言って、貴子の席を離れ、お待たせいたしました、とテーブル席の客に頭を下げている。
結局店が閉まったのは十一時半近くだった。賢治君は最後の客を送り出し、貴子に向かって歩いて来た。続いて初美もやって来た。すご~くお久しぶりですねと言ってにっこりと笑い、お辞儀をした。それから賢治君に何か耳打ちして、貴子ににバイバイ、と小さく手を振り店を出た。
「あいつ、気を利かせたんだろうな。」
賢治君は貴子の隣に腰を下ろし、顔だけ振り向いた言った。貴子はそれには答えずに、
「初日大成功って感じね。どんな手品を使ったの?」
「ソーシャルメディア。主にユーチューブ、インスタグラムとフェイスブック。これでもフォロワーが1万人以上いるんだぜ。オープン前に雑誌の取材も入ったんだ。」
「ウソ!」
思わず叫んだ。
「知らなかった。」
「デジタル時代だからね。ネットの口コミは格安で効果てきめんだろ。この店舗もオーナーが軌道に乗るまでの一年、賃料じゃなくて売り上げの一割っていう条件で貸してくれたんだ。日比谷時代の顧客でね、この辺りの土地をいくつか持ってる地主なんだけど、俺のコンセプトを気に入ってくれた。」
「そうだったんだ。インテリアも素敵だけど、賢治君がデザインしたの?」
賢治君がにっこり笑った。
「インテリアデザイナーを雇うお金なんて無いからね。階段と家具は知多の小学校からの友達で土建屋やってる奴に格安で作ってもらった。地元の花をたくさん売るという条件で。花器類も知り合いの手作り。」
「いろいろな人に助けてもらったのね。」
「人徳ってやつ?」
賢治君が言い、貴子は彼の肩を小突いた。久しぶりに触れる彼の肩は硬く強く押しても微動だにしない。賢治君はその手を掴み、指に視線を落とした。
「独身なんだ。」
「誰かさんのせいでね。」
貴子は賢治君を睨み付けるつもりで、噴き出してしまった。
「何だよ。」
「別に。もう四十過ぎて開き直っちゃったから、怒る気にもならない。時効よ、時効。」
賢治君も一緒に笑った。少しの沈黙のあと、賢治君が口を開いた。
「五年ってあっという間だったな。とにかく金を溜めることを優先した。五年って期限を決めたから一秒でも無駄に出来ないから。昼は日比谷花壇を続けて顧客とのネットワークを増やして、夜は毎日レストランで働いた。」
貴子は頷いた。
「私は自分のための五年間だった。仕事は楽しいし、そうそう、長い休みに一人旅もしてみたのよ。アメリカやヨーロッパ。」
「楽しそうだね。」
「楽しかったわ。まあ、旅先で、朝やお昼はいいんだけど、夕食だけはちょっと寂しかったけど。」
貴子はそう言って笑った。
「安倍さんくらいの美女なら、ひとりで食べててもサマになってただろうけどね。」
「そう見られたくて精一杯お洒落したりしたわ。で、自分の部屋に帰るとやっぱり落ち着く。友人に会う以外、週末はほとんど家で過ごしていた。自分がこんなにオタクだとは思わなかった。」
「僕は前から知ってたけどね。」
そう言って賢治君が貴子の顔を見た。それから少しの間、ふたりは沈黙した。お互い前を向いたまま、テーブルの前に並んで座り、それぞれの五年間を振り返っていたのかもしれない。
正面の大きながガラスに反射してふたつの影が並んで映っている。貴子はぼんやりと思い出していた。日比谷花壇で初めて声を掛けられて振り返った時に見た人懐こい笑顔、私を抱きしめた優しい笑顔、私の顔の真上にあった真剣な眼差し、ふざけた顔、怒った顔、愛おしい顔。
その長い沈黙を賢治君が破った。
「安倍さんが十歳の時、僕が生まれた。そして安倍さんが成人式を迎えた時、僕はまだ小学生だった。」
「何よ、今更年寄り扱い?」
賢治君は貴子の言葉を無視して続けた。
「十歳と二十歳ってまさに大人と子供だよね。その差ってちょっと凄い。絶対恋愛委対象外。で、安倍さんと出会った時、僕は二十五で安倍さんは三十五だった。安倍さんは自分のことをオバサンって呼び、僕は二十五歳の青二才だった。そして今、僕は三十になり、安倍さんは四十歳になった。」
「何が言いたいの?」
「いいから聞いて。三十って立派な大人だよね。店も無事オープンさせたし。で、安倍さんは四十になったけど、五年前とちっとも変わらない、って言うかますます綺麗になってる。」
「美容にはけっこう気合い入れた。でもね、世間で言う美魔女とかどうでも良くなった。歳を取って若いコと張り合ってもイタいだけだし。そう悟って力が抜けた。」
賢治君が笑った。
「だからかな。今の安倍さん、表面的に綺麗になったっていうより、内面から溢れだすような美しさだよ。」
貴子は少し照れて微笑んだ。
「それでね、僕が四十になったら安倍さんは五十、僕が五十になったら、安倍さんは六十、僕が六十になったら安倍さんは七十、ふたりとも老人だ。」
「何?小学生の算数?」
賢治君が身体ごと私に向き直った。
「つまり、僕が言いたいのは、十歳の差って若い頃は有り得ないくらいかけ離れているけど、歳を重ねていくとその格差がどんどん狭まって行くってこと。僕が七十になったら安倍さんは八十歳、もう歳がどうのこうのっていう問題じゃなくなる。」
貴子は賢治君の言わんとしていることがようやくわかった。そんな顔を見て、賢治君がにっこり笑った。
「だからこの先、ずっと一緒に歳を重ねていけば、歳の産はどんどん無くなって最終的に消えてしまうんだ。学歴だって同じこと、その人にとって良い暮らしをしていたら、その差なんて無くなるんだ。」
貴子は静かに頷いた。賢治君が言葉を続けた。
「僕が安倍さんと一生暮らすというチョイスは五年前から決まっていた。でも、僕はこの単純な方程式の答えを五年前から知っていたわけじゃない。僕が年齢差を気にしないって言っても安倍さんはやっぱり気にしてしまう。あの時はその不安を僕は消してあげられなかった。そして三十になって気がついたんだ。自分が大人になってようやくね。それを君に伝えたくて葉書を出した。」
賢治君が立ちあがった。
「俺が三十になって、もし安倍さんがまだ独身だったらプロポーズをしようって五年前から決めていた。でも世間のスタンダードで生きてきた安倍さんはきっとそういうことを気にしてまた身を引いてしまうんじゃないかって、ずっと考えていたんだ。答えは自分が少しだけ大人になって見えてきた。あの頃見えなかったことが今ははっきり見える。歳の差なんて関係無いって喚わめかなくても、それがいつか自然に消えて行くって気づいたから。他人の目を気にする君だって、歳の差も立場の差もいつかどうでも良くなる日が来る。長くいればいるほどね。」
「逆の発想。」
貴子が言った。
「何?」
「あなたの発想っていつも逆。男のための花屋って発想も世間の逆だった。歳の差の定義。二十五と三十五ならまだしも、私は自分が五十になってもまだ四十のあなたが可愛そうだと思っていた。六十の私といる五十のあなたに申訳無いと思っていた。歳取った時にまだ男盛りのあなたを満足させられるだろうかって、一緒に歩いて恥ずかしい思いをさせないだろうかって。」
賢治君が笑った。
「それってさ、逆に言えば安倍さんは僕といると非常にラッキーってことでしょ。だったら迷うこと無いじゃん。自分にとって得なことを否定する必要なんて無いでしょ。」
「逆の逆?」
「そう、それはつまり順当ってことでしょ。」
貴子は両手を上げた。
「どうあがいても、あなたとのディベートには勝てない。」
「最初からわかってたことでしょ。」
そう言って、賢治君がポケットに手を突っ込み何かを取り出してひざまずいた。掌を開くとプラチナとダイヤの指輪が、天井からのスポットライトに反射してきらりと光った。
「安倍貴子さんは僕と結婚するべきです。」
貴子は一瞬、言葉を失った。けれど、それと同時になぜか予期していたことでもあるような気もする。
「用意周到なのね。」
「五年かけて、じっくり練った計画だから。」
貴子は賢治君に微笑みかけた。
「条件次第で検討させて頂くわ。」
「条件?」
「今すぐ私の部屋に引っ越してくること。私はあの部屋で暮らしたい。美しいアレンジメントを私のために欠かさないこと。私に仕事を続けさせて。いつも一緒に料理をすること。それと、やっぱり私は居酒屋よりお洒落なイタリアンやカウンター割烹が好きなの、ご存知の通りスノッブだから。ブランド品も買うし、お洒落もさせてもらうわ、安物は嫌いだし、アニバーサリーにはサプライズも欲しい。それから、これは店が軌道に乗ってからでいいけれど、年に一度は私が見たこともない綺麗な風景を見つけに旅行に連れて行ってくれること。でも何年も待てないからあなたは必至で働かないといけないの。子供も欲しいし、率先して子育てを手伝ってほしい。まだまだリクエストはこの先もっと増えて行くわよ。四十代の女を妻にするってことは、愛があれば何もいらない小娘を妻にするのとはわけが違うんだから。」
賢治君が笑った。
「安倍さんが初めて、自分自身のためのチョイスを口にした。」
「そうね、ロックされてないライフを試してみたくなったから。だって、失敗したら別の柵を乗り越えればいいんでしょ。チョイスは無限大。」
賢治君が微笑んだ。初めて会った時と同じ人懐こい笑顔、その目尻にほんの少し皺が寄っている。貴子はその皺にそっと唇を押し付けた(了)
私自身も含めて、気がつくと自分の人生を人に自慢したり、認めてもらうために選んでいることがあります。レストランで熱々の料理を食べる前に写真を撮って友人たちに見せびらかすように。素敵な服やバッグを選ぶようにパートナーを選ぶうちに、誰のために人生かわからなくなってしまう。自分にとっての心地良さは、マテリアルだけでは埋められない、最近そう感じています。