前編
京都の大学生と話をする機会が有り、男のための生花やフラワーアレンジメントの学校を作るのが夢と言っていたことにインスピレーションを得たこと、また、未だに学歴社会の日本とはいえ、年功序列や終身雇用という保証が危うくなる社会で、あえて大学に行かないオプションで夢を実現できる人々が増えたら、経歴だけで人を判断する人々が減ったら、世の中楽しいと思い、この小説を書きました。
彼女は走っている。ジミ・ーチュウの8・5センチヒールを履いているのに、朝、鼻の上、若気の至りで作った小さな日焼け跡の染みを、コンシーラーとお粉を駆使して完璧にカバーしたのに、散々迷って、ようやく決心して買ったディオールのベージュのスカートのスリットが破れそうになりながら、心臓が破裂しそうに息を切らして走っている。
彼女は今年の四月に三十五になった。桜が散り、スーツがまだサマにならない新入社員が配属され、逆に古参が移動、昇格や左遷など、新顔と知る顔が入れ替わる時期である。彼女の勤務する大手保険会社の商品開発部でも、同期の男性が財務部に移動になり、新卒の男子が一名配属され、寿退社の穴埋めに契約社員が一名やって来た。
今年で十三年、変わらずこの部署に居座っている。総合職として、時代にあった新しい商品の開発や、それに伴う厚生労働省の認可申請などの業務まで一貫して行うやりがいのある仕事だ。与えられた以上の仕事をこなす優秀な社員だし、自分で言うのもなんだが、綺麗な方だし長身でスタイルも悪くない。強いて言えば胸が小さいが、昨今は高性能のプッシュアップブラという武器がある。恋人もいる。学生時代の友人の結婚式でたまたま隣に座っていた大手銀行東京営業部、桜田亮介という、少女漫画に出てきそうな名前の男だ。彼女の名前は安倍貴子。キコと読めば、皇室に嫁げたかもしれないが、残念ながらタカコと読む。アベタカコ、少女漫画では絶対使われない名前だ。三十過ぎてから出会った彼は顔もまずまず、百七十二センチの貴子より十センチ背が高く、石川県の旅館の次男で東大卒という釣り書きも完璧だ。だが、彼はなんでも自分の思い通りにしないと気が済まないという性格、ようするに典型的なボンボンである。
「だから、どういう風にボンボンなのよ。」
貴子が唯一心を許せる高校からの親友の香織に聞かれた。昨年、思い切って購入したマンションのリビングで、白いカウチにその小枝のような足を組んで座っている。
「単に我儘っていうなら可愛いというか許せるんだけどね、一応私の意見を尊重するフリしながら、自分の意見を通しちゃうのよ。」
「よくわかんないけど、具体的に言うと?」
「例えばね、レストランに行くでしょ、前菜を何にするか決めるときに貴子は何がいい?って一応聞くんだけどね。私がイサキのカルパッチョが美味しそう、とか言うでしょ。そうすると、うんいいねえ、美味しそうだね、でもここはやっぱり王道でカラマリ・フリットもいいんじゃないかな、とか言うわけ。そこで私が、いいえ、イサキの方がいい、なんて固執するのも大人気無いじゃない。だからカラマリに決定するのよ。」
「なるほどね。」
「つまり、万事が万事そういう感じなの。旅行に行こうと計画する。私は修善寺のあさば旅館にしない?って言う、いいねえ、落ち着くし、って言いながら、でも快適なのは箱根のハイアットだと思わないか、アクセスもいいし、素敵なバーもあるしって返してくる。で、結局はハイアットで決まり。これから先も、ずっとそうやって、やんわりと彼の意見に従って生きて行くのかなあって思うと、なんだかストレスたまりそう。」
貴子はキッチン・カウンターの前の、背もたれがついたベージュ色のレザーのバースツールに横向きに座ったまま、カウンターの上に片肘をついた。
「でもさあ、さっきから聞いてると、どちらにしても高級レストランや高級ホテルに連れていってくれるわけだし、私から見れば結婚相手としては合格だと思うけどね。イサキとイカ、老舗旅館と近代的ホテルの違いはあっても、エルメスのケリーが欲しいのにバーキンをプレゼントされたって文句言ってるみたいに聞こえるけど。」
そうお叱りを受けた。ちなみに香織は貸しビル業を営む富豪の男性と結婚した優雅な専業主婦である。語学を生かして外資系の証券会社に入社し、三十になる二歩手前、顧客の実業家に見初められあっさり輿入れした。今では両親のいいとこ取りの可愛らしい顔立ちの娘の母親、主婦と呼ぶにはあまりに贅沢な暮らし、港区の一等地、瀟洒な外国人向けマンション(それも夫の持ち物だ)の一階部分を住居にしている。小柄だが香織は彫りの深い美人で、黒髪和風顔の私とは正反対、金髪にしても似合いそうな大きな瞳と筋の通った鼻、折れそうに細い身体に反して、ちょっと生意気そうな雰囲気が男心をくすぐるのか、学生時代からとにかくモテた。
実は香織には付き合っていた社内恋愛の男がいて、しばらくは二股状態にあったが、現在の夫にプロポーズされると、元カレをあっけないほどバッサリとフって会社を辞めた。「香織がそんなに計算高い女だとは思わなかった」と言うと、「良い結婚って就職活動みたいなもの。要領の良い女ってつまり頭がいいってこと。貴子はお勉強は人一倍出来るけど、女としてストリートスマートじゃないのよ。良く言えばナイーブ、はっきり言えば不器用。その旅館の息子でいいじゃない。エルメスじゃなくてコーチで我慢しろって言われてるわけじゃないんだから。」
貴子は三十三年間生きて来て不器用だと言われたことは無い。勉強は小学校から常にトップクラス、スポーツはあまり得意では無いが、自慢じゃないが料理もプロ並みに作れる。遊び人の父親と、その埋め合わせのように仕事に追われる母親という家庭で、おかずもお弁当も子供の頃からずっと自分で作って来たし、ボタンが取れればそれも自分で直したし、三つ編みも自分で覚えた。それに学生時代から決してモテなかったわけでは無い。それなりの男性経験もしてきた。けれど、なぜか誰も「結婚」という二文字を口にしてくれない。
「つまり、貴子って俺が支えてあげなきゃって感じさせない女なのよ。高学歴高収入高身長、男に生まれていれば引く手あまただったんだろうけど、貴子みたいな女が待っている家に帰ったら、威圧感半端じゃないし、仕事の延長みたいに感じちゃうだろうね。もっと甘え上手になりなさい。」
ということだそうだ。
亮介に関して言えば、自分の意見を押し通すことだけが問題では無いのだ。声を出して言えない問題点がある。
「エッチが、つまらないの。」
声を出して思わず言ってしまった。
「えっ?」
香織が顔を上げた。
「下手なの?」
「下手って言うんじゃないけど、いつもおんなじ。」
「貴子ってセックスにバラエティーを求める人だったんだ。」
人は見かけによらないわねえ、ガラスのコーヒーテーブルの上のカップからハーブティーをひとくち飲んで、香織が含み笑いをした。
「そういうんじゃないの。」
貴子は慌てて否定した。
「じゃあ、何なのよ。」
「いつも、いわゆる正常位ってやつ。で、一度私が上に乗って始めようとしたら、彼が起きあがって言ったの。君がそんな下品な女だとは思わなかった、って。」
香織が高らかに笑った。
「珍しい男もいたもんね。ウチの夫だったら狂喜乱舞だわ。私はもう面倒だから、最近勝手に乗って勝手に済ませてよって感じだし。」
香織の言葉ははっきり言って、ちょっと癇に障る。こういうセリフは子供を持った女の安定自慢のようなものなのだから。桜田亮介と今年の六月で丸三年の付き合いになるが、プロポーズの言葉どころか、将来の話など一切口にしない。一度だけ、ふたりで食事の後に銀座をぶらぶら歩いていて、ティファニーの前で立ち止まりウインドウのディスプレイを覗き、「若い頃はあのティファニーブルーの袋に入った指輪でプロポーズされるのが夢だったのよね」と、思い出話のように言ったら、亮介は意外とミーハーだったんだなと前を向いたまま言って、何も無かったように歩きだした。屈辱だった。それ以来、結婚の二文字を例え話としてすら口にすまいと心に誓った。
彼とは同い年だ。男の三十五と女の三十五は決定的に違う。二十代の恋ならとにかく、三十路を過ぎた女と付き合うということは責任を伴う、そう考えるのが普通の男だろうと大声で言いたくなる。でもプライドが邪魔して言えない。ハシタなく声を張り上げることに対するプライドでは無く、じゃあ、別れようとフラれる可能性が怖いのだ。この歳でフラれたら細い線一本で辛うじて繋がっている女としてのプライドが、断頭台に乗せられて切断されてしまう。四捨五入で繰り上がる三十五歳の女への死刑宣告だ。
その気持ちを、ハンサムで財閥の夫を悠々とゲットした香織に伝えることも、別のプライドがブロックする。プライド、プライド、プライド。そんなものにしがみついて馬鹿じゃないと言われるかもしれない。でも優等生、美人、出来る女、そう言われ続けて生きてきた若く無い独身女がプライドを捨てたら、いったい何が残ると言うのだろう?
「いつ来ても思うんだけど、あんたの部屋ってさ、高級感あるし、インテリアのセンスだって悪く無いんだけどね、乾いてるっていうか、女を感じないんだよね。」
突然、香織が言った。
「どういう意味?」
貴子はバースツールから立ち上がり、歩きながら部屋を見回した。壁一面の本棚、窓辺にはロールスクリーン。オフホワイトのカウチ。いつ誰が来てもいいようにきちんと掃除も整理も行き届いている。無駄な物は置いていないが、お気に入りの絵画や写真をいくつか飾っている。
「完璧過ぎるって言うのかなあ、寛げない。壁の絵だって花とかじゃなくて抽象画だし。パステルなのはいいんだけど意味不明。」
そう言いながら、香織は立ち上がって廊下を歩き、断り無く、寝室の扉を開けた。
チェリーウッドのダブルベッドとお揃いのドレッサー。ベッドサイドのナイトスタンドの下にタブレットがふたつ。SNSや映画を観るためのアイパッドと仕事用のサーフェイス・プロ。香織がドレッサーの上に目をやった。
「フェラーリのミニチュアカーって有り得ない、まるで男の一人暮らしみたいじゃない。」
フェラーリGTOは、二十代の一時期、F1レースにハマって、友人たちとイタリアにレース観戦に行ったときに記念に買ったものだ。茶と白を基調にした寝室に赤のアクセントが素敵と思って、同じフェラーリの写真とともにドレッサーの上に飾ってある。
「香織の家みたいに子供の玩具をそこらへんに置いとけばいいってこと?」
ちょっと皮肉を込めて言った。
「やだ、それやったら、亮介くんへの脅迫、果たし状になるわよ。」
香織がケラケラ笑った。香織を睨みつけたまま黙っていると、
「花を活けたら?」
香織が言った。
「花?」
「そう、花。生のアレンジメント。それだけで空気が潤って部屋が女になる。」
「部屋が女になる?」
香織がベッドに腰をかけた。
「女を感じさせる部屋にするのに、リバティープリントのコンフォーターやレースのティッシュカバーとかもいいかも。」
「勘弁してよ、そんな部屋じゃ私自身が寛げないわ。」
香織が笑った。
「冗談よ、例えば、の話。だから花。貴子だって花は嫌いじゃないでしょ?ピンクの薔薇やパステルカラーのチューリップを飾らなくても、枝物でもグリーンと白のアレンジメントだっていいのよ。花があるだけで、女が香るのよ。三十路を過ぎた女が女で有り続けるために絶対欠かしてはいけないもの、それはセックスと部屋の花。これは結婚前の私の哲学。」
「香織は三十路にはママになってたけどね。」
「私は二十五過ぎてから実行してたわ。」
目の前に立つ私を見上げて、香織が言った。
「断言出来るわ。私もそうやって夫をオトしたから。」
ランチを早々に切り上げ、オフィスから日比谷公園まで歩き、公園の一角にある日比谷花壇を訪れた。どんなに反発しても香織が言うことはいつも正しい。昔から勉強は貴子の方が出来たけれど、香織はみんなの人気者でいつも輪の中心にいた。ふたりとも目立つ存在だったけれど、貴子が先生に気に入られていた理由と香織が先生に気に入られていた理由が違う。貴子は出来の良い生徒で香織は可愛い生徒。人生の選択も確実で、ちゃんと未来を見極めて選んでいる。受験勉強に必死だった貴子を尻目に、美人や芸能人が多く通うことで有名なセレブ系の大学に推薦入学をあっさり決め、貴子が英単語や代数の数式と格闘している間に、香織は英会話のスキルを磨き、美容に勤しみどんどん綺麗になっていった。
店に足を踏み入れた途端に、花の匂いが全身を包む。ここに数分いるだけで身体に匂いが定着するんじゃないかと思うくらい濃厚だ。花で溢れた店内は数人の客がいるだけでとても静かだった。有名な花屋だからもっと混み合っているのではと思ったが、企業配達がメインなのだろうか。多分、夕方、会社帰りの時間に混み合うのだろう。貴子は花を買っているところを会社の誰かに見られたくなかったからほっとした。二十代の小娘なら、花を買っている可愛い女の子と評判になるだろうが、三十路の女が自分で花を買っていると逆に男に贈ってもらえないから自分で買うしかない空しい女と言われかねない。そう思いながら、つくづくいじけているなあと自嘲する。が、性格というものは一日で変えることなど出来ない。ローマは一日にして成らず、なのだ。
ゆったりとした店内をゆっくり散策していると、
「何かお探しですか?」
後ろから声を掛けられて振り返った。上半身は白いシャツとベスト、腰回りに紺色のエプロンをつけたひょろっと背の高い若い店員が人懐こい微笑みを浮かべ立っていた。端正な顔をしているが、美し過ぎてどこか中性的である。胸のネームプレートに「鹿沼」と記載されている。
「あの、部屋に花を飾りたいんですが。玄関、リビング、寝室に置く。」
なんだか英語の文法みたいな喋り方になってしまった。
「承知しました。どういうイメージがお好きですか?それとも僕があなたのイメージで選ぶことも出来ますけど。」
少女趣味じゃなくて落ち着いてシックな、そんな感じの要望を伝えようとした途端に、あなたのイメージで、そう言われて好奇心が押し出される。
美形の若い男が感じる私のイメージってどうなんだろう?貴子は興味を持った。
「それじゃ私のイメージでお願いしようかしら。お昼休みなので後で自宅に届けて頂くことって出来ますか?」
青年はまた、人懐こい微笑みを浮かべ、
「承知いたしました。あなたのイメージぴったりに、もし宜しければ今夜、お届け、大丈夫ですけど。」
「それは助かるわ。」
貴子は一万円札を三枚渡した。玄関と寝室にシンプルなアレンジメント、リビングは豪華に。込み込みで一万円という予算を提示し、あとの二枚で花瓶を三つ適当に選んでほしいと告げた。彼は花瓶のセレクトのためにモダンかクラシックか、部屋のトーンは等、いくつかの質問を投げた。
配達は八時がラストと言われたので、今日は残業無しで早々に帰宅することにした。と言っても、五時や六時に帰れるご身分では無い。なんだかんだで時計はあっという間に七時を回っている。慌ててデータを保存してデスクを片付け、バッグを持って席を立った。
「あれ、安倍さん、珍しい、もう帰るんですか?週中日にデートだったりして。」
派遣の加藤由香里が声を掛ける。
「そんなんじゃないわよ。ちょっと野暮用。」
「なあんだ。安倍さんみたいな出来る美女、どんな彼だったら釣り合うんだろうって気になるんですよね~、なんか家でふたりでスーツ着てそうで。」
「私は家に帰ったら即パジャマよ。」
そう言って作り笑いを浮かべると、加藤由香里がチロッと舌を出した。新しい派遣さんはこうやって積極的に残業もするし、仕事も早い。悪い子では無いが、上下関係など飛び越えてズケズケ物を言うところがある。課長、最近、ベルトひと穴大きくなりましたねえ、とか、作田さん、昨日と同じネクタイ、お泊りですかあ、など。観察力が鋭いのは良いことだが、これを逆に言えば完全なセクハラになる。大企業において、若さゆえの失言に法的制裁は加えられないのが日本の現状だ。事実、けなされながらも男たちは「正直でいいよなあ。なんか清々しいよ。」なんて逆に褒めたりしているのだから。ベビーフェイスで小柄なのに意外にグラマーというアンバランスがそれに拍車をかけている。
そう思いながら、貴子はふと、自分が加藤由香里の歳だった時のことを思い出した。若いから正直なんて言われたことは一度も無い。男たちにとって総合職の女はライバルなのだ。おまけにヒールを履くとほとんどの男性社員より背が高い。そのせいか、自分の意見を主張すればおっかない女として扱われたし、お茶を入れようと給湯室に行くと、一般職の女たちに変に気を遣われ、少し短いスカートを履けば「プロ意識が無い」と注意された。貴子はそうやって、だんだんと「近寄り難い女」というラベルを額にピタッと張られた女になって行ったのだ。
腕時計を見て、慌ててタクシーを拾った。ほぼ衝動買いだった貴子のマンションは目黒川に近い三階建ての低層マンションだ。部屋の間取りやインテリア、駅から続く目黒川沿いの桜並木、その途中にある天然酵母の美味しいベーカリー、貴子の求める条件をほぼ完ぺきに満たしている。即決で決めた契約の日、こんな風に求める条件をほぼ完ぺきに満たしてくれる男ともタイミング良く出会い「結婚」という契約を結べればどんなにいいだろう、そう思ったのを今でも覚えている。
部屋はすこぶる快適だ。残業が多いから、今日のように日比谷からタクシーで十五分で帰宅出来る点も便利だし。まあ、香織に言わせれば、「三十路の独身女がマンション買うってことは結婚に見切りをつけた女と男に認識されるから覚悟しなさい。で、間違ってもペットはダメよ、マンションとペット、女の人生はそこで完結してしまうから。」と忠告を受けたが。
タクシーを降りてマンションのエントランスに降り立つと、ゲスト用のパーキングスペースに大型の、ジープのような不思議な形の車が停まっていて、その車に寄りかかるように細長い人影が見えた。良く見ると昼間の店員だ。貴子を見ると、またあの人懐こい微笑みを浮かべてお辞儀をした。両手に抱えきれないほどの花を抱え、麻のショルダーバッグを肩から下げ、床には段ボールが置かれている。貴子も軽く会釈をした。
「この車、配達の車?」
「私用です。」
微笑んだまま、青年が言った。
「え?」
貴子が首を傾げると、
「本当は配達は六時までなんです。でもそう言ったら新規のお客様を逃してしまうと思ったから。
「それで八時。」
「だって、さすがに九時や十時に女性の部屋へ配達って、警戒されるでしょ。」
そう言って頭を掻いた。やっぱり若い男からも、一人暮らしとバレてしまうんだ、貴子は頭の中でそう呟いた。
「珍しい車に乗っているのね。」
「アメリカのハマーです。僕が持ってる唯一の贅沢品です。中古車ですけど、こいつがあるとどこに行っても車で寝泊まり出来るし、そういう意味では、まあ、コスパいいから。」
「なるほどね。それにしても、私用車出すなんて、仕事熱心なのね。」
「いつも熱心ってわけじゃないですけど。」
貴子はその言葉に対するリアクションを避け、オートロックのセンサーにカードをかざし、ガラスのドアを開けた。
「どうぞ。」
彼は軽く頭を下げ、貴子の後に続いた。大荷物の彼に手を差し伸べようとすると、仕事ですからとやんわり拒否された。貴子は彼の前を歩き、エレベーターで三階に上がり、玄関のドアにキーを差し込む。そしてもう一度「どうぞ」と言い、彼を招き入れた。
「素敵な部屋ですね。」
彼がリビングを見渡して呟いた。
「殺風景で男の一人暮らしみたいに色気の無い部屋だから、せめて花を活けて主人が女であることを主張しなさい、そう悪友に言われたのよ。」
貴子はバッグをカウチに落とし、手を洗いながら言った。彼は
「いいえ、逆ですよ。花にとって理想的な空間です。」
そう言って、テーブルに新聞紙を広げてその上に花を置き、麻のショルダーバッグから花鋏を取り出した。サツキ、オレンジ色の薔薇、アマリリス、クレマチス、シャクヤク、その他に名前を知らない花もある。
「大きめのボウル有りますか?」
貴子はキッチンに行き、言われた通りにガラスのボウルに水を入れ、青年に差し出した。彼はシャツの腕を捲り上げ、手際よく花々を水切りし、また新聞紙の上に戻し、段ボールのテープを切って開けた。平たい花器がひとつ、一輪挿しのような細い花瓶がひとつ、そして黒い円錐形のモダンな花瓶。
「部屋の様子がわからないので、取りあえず想像で持って来ましたが、合わないようなら交換しますから。」
青年は手を動かしながらそう言って貴子を見て、また微笑んだ。ひょろっとしていると思ったのに、彼の腕は骨太で、腕を動かすたびに引き締まった筋肉が綺麗な曲線を描いた。貴子は目を逸らし、新聞の上の花々に目を移した。青年はサツキと薔薇を優しく掴み、平たい花器に乾山を立て形を作っていく。
「サツキと薔薇?」
青年は頷いた。
「和洋折衷。お客様のイメージ。和風の顔立ちなのに背がすらっとして外国人みたいなプロポーションだから。」
ああ....。私は曖昧に頷きながら彼が投げ入れる花々を眺めた。サツキのピンクと黄緑の葉、オレンジ色の薔薇が見事に調和して多国籍でコンテンポラリーなアレンジメントが出来上がっていく。
彼はリビングのアレンジメントを仕上げると、玄関用にいくつもの曲線を描く枝をバックにアマリリスを活け、寝室には大輪の赤いシャクヤクを活けた。
「フェラーリに合わせたの?」
彼が頷いた。
「それもありますが、寝室くらい、大胆で情熱的な花にして、本能を発散させてもいいでしょう?」
「え?」
「お客様、なんか隙が無いっていうか、無理して感情を抑えているみたいに見えるから。寝てる時も目を開けたまま、まわりを気にしているかもしれないって感じ。」
そう言って笑った。貴子は彼の顔を見上げた。
「あなたからもそんな風に見えるんだ、私って。」
「あ、気を悪くなさったなら謝ります。単なる比喩っていうか、あくまでイメージですよ。」
青年が頭を下げた。
「実は今日、派遣の子に、私は家にいるときもスーツ着てるように見えるって言われた。」
「背が高くて美人だから、余計にそう見えてしまうんですよ。褒め言葉として捉えた方が人生楽ですよ。」
青年はそう言ってにっこり笑い、リビングと玄関に戻り、アレンジメントひとつひとつ確認するように指して、少し枝の向きを変えたり、花を足したりして、また寝室に戻って来た。
「黒い花瓶はちょっとキツく見えますね。失敗だったな。コントラストが強すぎる。クリスタルのにすると、部屋とソフトに調和しますから、宜しければ明日、交換させて頂いていいですか?」
「明日は早く帰れないと思うんですけど。」
「じゃあ、ご都合の宜しい時、いつでもいいですから。」
青年は切り落としたステムや葉を新聞紙に包み、花瓶を運んだ段ボールに入れた。
「ゴミなら出しておくけれど。」
彼は顔の前で手を振った。
「完成した花だけを置いていきます。」
そう言って、段ボールを持ち上げた。
「あなたって若いのにしっかりプロ意識持ってるのね。それにアレンジメントのセンスも抜群だわ。」
貴子が感心して、そう告げた。
「男の癖にって言われるかもしれないけど、花が好きなんです。実家が花の栽培農家でずっと花に囲まれて育ったからかな。ウチは日比谷花壇にも花を卸してて、その関係で雇ってもらったんですけどね。」
「そうだったんだ。どうりで花の扱いに慣れているはずだわ。」
「今日活けたのは全て5月の花です。今はハウス栽培が盛んですからオールシーズン、色々な花々を楽しめますけれど、旬の野菜や果物を味わうように、僕はお客様に季節の花を愛でて欲しいんです。僕たちの地球には四季があり、その四季に沿って生活することが一番自然な暮らしだから。庭の無い部屋に庭の季節感を運んであげたいんです。」
彼はまたのご注文をお待ちしておりますとお辞儀をして、キッチンのカウンターの上に名刺を置き、部屋を後にした。
彼が去ったあと、ひとりになってリビングのカウチに身体を埋め、青年が活けたサツキと薔薇のアレンジメントを眺めた。たかが花屋の店員くらいに思っていたのに、彼の活ける花は、まるで華道家の作品みたいに美しい。そして何よりこの部屋にも驚くほど調和している。
シンプルな空間に花が咲いた。その途端に部屋が呼吸を始めたような気がする。香織が言っていたように部屋が花の芳香を吸って、それを部屋全体にまき散らす。貴子は空気が揺れるような心地良いそよ風を感じた。
「花を活けたんだ。」
亮介がジャケットを脱いで、カウチに掛けながら言った。
「うん、ちょっと殺風景だったから。」
貴子はそのジャケットをゲスト用のコートハンガーに掛けた。
「実家にもいつも花が飾ってあった。」
「そう言えば、旅館だものね。旅館に花は必需品ですものね。」
「まあね。オフクロが毎朝、庭の花を切って各部屋に飾るんだ。ロビーの花だけは巨大だから専門家に任せてたけどな。」
「庭の花ってことは、季節の花を活けるってことよね。」
「そうなるね。ウチの庭はけっこう広くて、そう、こんな風にツツジもサツキも咲いてたな。」
「じゃあ、花のある部屋って故郷を思い出す?」
「う~ん、ちょっと違うな。実家のは百パー和風だったし。それより、貴子も女なんだなあって再確認しちゃうな、部屋に花があると。」
(やった!)
「じゃあ、今まではそうじゃなかったの?」
心のガッツポーズを押しとどめて、わざと口を尖らせる。
「じゃなくてさ、出来る女が女を見せる時ってさ...」
亮介が後ろから抱き着いて、うなじにキスをしながら、腕を回して、私のシャツのボタンをひとつづつ外していく。
「なんかエッチな気分になる。」
口をふさがれながら、いつもと違う展開を期待して胸が高鳴った。
亮介が帰った後、素肌にシーツを巻き付け、ベッドに横になったまま天井を眺めた。花の効用は束の間、結局いつもと変わらぬ夜が終わって行く。化粧はほとんど取れてしまったとはいえ、顔のクレンジングをしなきゃと思いながらなかなか行動に移せない。ふと壁に目をやり、真紅のシャクヤクに目を止めた。亮介は寝室の花に気づいただろうか。外で食事をして、自分のペースでメニューを選び、お互いの仕事の話をして、避妊を徹底して、やることやって(正常位で)さっさと帰っていく。いつものことだ。約束の言葉も無く、最近は愛してるという言葉も聞けなくなった。恋人というより、セックス付きの友達みたいな関係になって行く。セックス自体も抑えきれない衝動では無く、食後のデザートみたいに、甘いものを食べないと食事が終わらないフルコースの〆め、決まり事のようになって行く。
まるで東京の交通地図みたいだ。皇居を中心にぐるぐる回る幹線道路や山手線。終着駅が無くてずっとずっと走り続ける列車やタクシー。貴子は心の中で呟いた。
私は彼の、終点の無い乗り物になっている。そして彼がいつか突然、慌てて降りる日が来ると怯えている。
それでも花のある暮らしは思ったより快適だ。水を替え、膨らみ始めた蕾を確認したり、散りそうな花を選別したり、毎日愛でていたわってあげる。ペットのように遊んでご機嫌を取る必要な無いし、糞尿の始末もいらない。プラントと違って肥料も植え替えもいらない。その命は一週間、枯れる前に蕾の膨らんだ瑞々しい花に入れ替わる。何となく古女房を若い女と取り替える男の心境がわかる気がする。
貴子はカウンターの上の名刺を手に取り、そこに書かれた文字を読んだ。
日比谷花壇、フラワー・コーディネーター 鹿沼賢治
フラワー・コーディネーター。名前の下に角ばった手書きで携帯の番号が添えてある。彼の美しい顔と賢治と言う硬い名前と手書きの文字がどうも一致しない気がしてちょっと笑った。
貴子はコードレスフォンのボタンをプッシュして名刺の番号に電話をした。
そうやって、彼は貴子のフラワー・コーディネーターとして、週一回貴子の部屋にやってきて花を交換する。毎回自分の車で残業は可哀想だし、週末指定にすれば今度は貴子が家で待っていなくてはならない。それも面倒なので、スペアキーを作って渡すことにした。日比谷花壇という大手の看板がバックにあることもそうだが、あんな若い美青年が好き好んで中年女に悪さするわけが無いという思いもあった。その彼、賢治君は花を変える度、注文票の他に、小さなメッセージカードに花の説明と貴子へのメッセージを添えてカウンターの上に置いていく。
トルコキキョウの花言葉は優美。あなたそのものです。ブルースターは幸福な愛。あなたの一週間が幸福な愛に包まれますように。
今週は白と紫のクレマチスをあなたの髪の流れのように上から下に活けてみました。紫と言えば、源氏物語に登場する紫の上は完璧な女性でしたけど、完璧な女性は陰でとても努力しているものです。そんなあなたが少しでも寛げますように。
ひょっとしたらピンクはお嫌いかもしれませんが、たまにピンクが好きだった少女の自分を思い出してみては?梅雨に入る前に、一足先に紫陽花はいかがでしょう。ピンク色でも紫陽花ならそんなに甘くならないから、あなたのシャープな部屋にもよく合うと思いました。ところで紫陽花の花って子供の頭みたいだと思いませんか?よかったら、その頭を優しく撫でてあげてください。
貴子はそれらのメッセージに微笑んだ。誰かに見守られているという感覚にとても安堵する。花と一緒に添えられるそのメッセージカードを心待ちするようになっていった。
「で、どうなの?花のある暮らしは。」
香織が聞いてきた。今日は彼女のマンションにお邪魔している。旦那はゴルフで留守だという。
「週末のゴルフ、いつもは一緒に行くんだけど、今日は年寄り集めて接待ゴルフらしいから。」
と言ってシャンパンを開けた。テーブルにはマティーニ・グラスにたっぷり盛られたベルーガ産のキャビアがミニパンケーキ、サワークリーム、チャイブのみじん切りと一緒にジノリの長方形のお皿に美しく盛り付けられている。
「昼間っから豪勢ね。」
「知り合いからキャビア、箱で頂いたから、ふたりで一杯やろうよ。」
そう言ってアストラッド・ジルベルドの「シャンパン&キャビア」を口ずさんだ。香織の少しハスキーな声はジャズによく合う。これを箱でと言ったら、数十万単位のギフトということになる。さすが財閥は違う、そうコメントすると、だから数えきれない求婚者を振り払って結婚したんじゃない、とウインクした。
「そうか、生花で生女を連想して、盛りのついた猫ちゃんになっちゃうんだ、亮介君は。」
「っていうか、何も変わらないっていうかね。なんかもうルーティンになちゃってるのよ。会って食べて話して・・・」
「やって、じゃあ、また来週、みたいな?」
香織が続けた。
「男にとって非常に気楽で都合のいい相手になってるんじゃないかって焦ってる?」
「まあね。」
シャンパングラスの泡を見ながら言った。
「貴子は亮介君と結婚したい?」
「そりゃあね、だってお互いもう歳だし、彼だって銀行員って立場考えると、上司に言われているはずだし。」
「それなのに一向にその気配が無い?」
「ええそうよ。」
貴子は両手を上げた。
「全然将来の話とか皆無なの。旅館に戻って、どっかの若~いお嬢様とお見合い結婚でもするつもりなのかなあ、とか思ったりしてね。地方の老舗旅館ってそんなイメージじゃない?」
「それはどうかなあ。次男坊でしょ?社会勉強のために腰掛けで銀行で修行っていうならまだしも彼の場合、本店の出世コースだし、東京にいたいと思うけどなあ。」
「一応、旅館は兄貴に任せて、俺は自分がどこまで出世できるか試したいとは言ってるんだけどね。」
「ね、海外勤務とか無いの?それがきっかけになってプロポーズになるってよく聞くけど。銀行ってわりと多いんじゃない?」
「彼は、最初、石川の支店勤務で、私と付き合う前にニューヨークに五年行って、その後帰国してからはずっと東京営業部、つまり本店勤務。この先は左遷で飛ばされる以外、ほとんど無いそうよ。」
「そっか。」
貴子はキャビアをパンケーキの上に乗せ、サワークリームを落とし、チャイブを散らし、それを丸ごと口に入れた。噛むとキャビアが潰れてサワークリームと混ざり、頬がとろけるような美味が口全体に広がった。そしてその味が消えないうちにシャンパンを注ぎ入れる。こういうものを普通に食べられる暮らしというのはものすごい特権だ。
香織のリビングを見回した。白とダークブラウン、落ち着いたモノトーンのインテリアはこれ見よがしでは無いが、床のライムストーンもその上のペルシャ絨毯も、パティオに続く壁一面の大きなガラスも、その先に続く高い壁に囲まれた中庭のジャグジーも、ステンレスの暖炉も、サントモヤマのオークションでゲットしたという十四世紀のパーソナルチェアも、それぞれがサラリーマンの年収波の価格だろう。ひがんでいるわけではない。富豪で無くても、貴子だって八桁プラスの年収があるのだ。ボーナスで海外旅行に行ってシャネルのバッグを買っても充分過ぎるお釣りがくる、それなりに満足できる暮らしをしている。でも、三十代後半で独身という女に、世間は揶揄の目を向けて来るのだ。そして貴子はいつもそんな目を睨み返してしまう。
貴子はいつから近寄り難い女になり、都合の良い恋人になり、友人の暮らしをうらやむ卑屈な女に成り下がってしまったのだろう。投資目的と割り切って買ったマンションだって、その居心地の良さに慣れてくるとますます男が遠巻きに後ずさりする。頭も悪くない、顔もそれなりで、なぜ結婚されたがらないのだろう、その自問を既婚者に会うたび、恋人に会うたびに口に出さずに心の中で繰り返す。そうやって自分を攻め、自分を庇い、結論として自分を肯定するために他人を拒絶しているだけなのだ。
その日、貴子は厚生労働省に打ち合わせに行き、そのまま直帰することになった。まだ四時過ぎで、陽も明るい。社に電話を入れると「今から帰社したら残業になだれ込むだろう。たまにはお天道様が笑っているうちに仕事放棄してもいいんじゃないか?」、部長に言われた。ちょうど大きなプロジェクトが終わって一息ついたところだったからだろう。歩きながら、お言葉に甘えて、と言って携帯を切った。
さて。
声に出して呟いた。亮介は今頃の時間は忙しさを極めているだろう。銀行は閉まってからが戦争だ。学生時代に銀行勤務は九時三時で楽そうだなあ、と言っていたのを思い出してひとりで笑った。世の中、大人にならないと知らないことがたくさんある。自分が二十代半ばになればごく「自然」に結婚して子供を作るものだと想像していたこともそのひとつだ。
香織に電話を入れたが生憎、ママ友と青山で会食があると言う。銀座でぶらぶらショッピングでもしようとも思ったが、今、どうしても欲しいものは無いし、銀ブラなら昼休みにだって出来る。結局、早く退社したところで時間を持て余している。私の人生って仕事以外に何があるのだろう。みゆき通りのウインドウを横目で見ながらため息をついた。向かい側からデパ地下のショッピングバッグを重そうに抱えて歩く主婦が目に入った。そうだ、たまには早く家に帰ろう。スーパーに寄って新鮮な食材を買い、久しぶりに凝ったものを作ってもいい。時間をかけて美しいお料理を作って、亮介を呼んでもいい。部屋についたらメールしよう。そう決めて、スーパーでスズキ、浅蜊、ローズマリー、ディル、ジャガイモ、ルッコラ、そしてお気に入りのベーカリーでパン・ド・カンパーニュを買ってマンションに向かった。
マンションに着くと黒いハマーが止まっていた。そうか、今日は木曜日、花を交換する日だった。木曜日を勧めたのは賢治君だ。
「恋人やお友達が来るのはだいたい週末でしょう?毎週木曜日にすれば、切り花は土日に一番美しくなるから。」
何から何まで気配りの利く青年だ。
貴子はスーパーの茶色い紙袋を抱えてエレベーターに乗り、三階のボタンを押し、ドアの前に紙袋をいったん置いて、鍵を開けた。一瞬、呼び鈴を押そうかと迷ったが、自分の部屋の呼び鈴を押すのも変なので、そのまま開けて、中に入った。
賢治君は今日は日比谷花壇のユニフォームでは無く、Tシャツにジーンズというスタイルだった。花を選別するために中腰になって裸足の足が突き出している。彼はその姿勢のまま、振り返った。一瞬、驚いた顔を見せ、そして人懐っこく笑った。
「びっくりした。あ、お帰りなさい。」
「ただいま。」
賢治君は立ち上がり、ジーンズのベルトに挟んであったタオルで手を拭いた。亮介とは違う、若い青年の腰は硬く膨らみ、Tシャツから引き締まった二の腕が伸び、裸足の足は大きかった。痩せていてもやっぱり男、黒い制服の時とは別人のように健康的だ。
「また自分の車で来てるのね。」
「実は僕の部屋、ここからわりと近いんです。だから店のワゴン使って来て、また銀座に戻って車を返してって返って面倒なので。」
「そうなんだ。」
「随分早いんですね。」
賢治君が作業に戻り、鋏で枝の選別をしながら言った。
「ええまあ、外出先から直帰だったから。」
「それで食料品の補充ですか?」
貴子が抱えるスーパーの袋を顎で指して言った。貴子は、我に返ったようにそのスーパーの袋をキッチンのシンクの隣に置き、
「たまには時間のかかるものを料理しようと思って。」
と言いながら、シンクで手を洗った。
「料理なんてするんですかあ?」
彼が驚いたように言う。
「失礼ね、はっきり言ってプロ並みよ。」
貴子は腕を腰に当てて言った。
「ウソ、キッチン、ピカピカだから完全に使って無いと思ってた。」
「けなしてるんだか褒めてるんだか、ビミョウだわね。」
腰に当てていた腕を組んで、賢治君を睨み付けた。
「プロの味か。安倍さんがキッチン使うところを見たら信用しますよ。」
賢治君はそう言って笑った。貴子は手を洗い、食材をカウンターに並べ、料理に取り掛かることにした。
カウンターからコの字に広がるキッチンは広々としている。元々、キッチンの隣にクローゼットの無い六畳のボーナスルームがついていたが、オリジナルのオーナーが壁を取っ払って大きなキッチンに改造したのだそうだ。大型の食洗器とトラッシュ・コンパクターも備え付けてあるので、シンクに汚れた食器が溜ることもゴミを頻繁に集積場に持って行く必要も無い。そのオーナーはアメリカ駐在帰りの若い夫婦で、それらを購入時に特注したらしい。結局、数年住んだだけで、再び赴任の辞令が出たらしい。しばらくは長期のアメリカ駐在になるということで売りに出された。それを貴子がたまたまウェブで見つけて購入したのだ。寝室は大小二つあって、小さい方は一応親やゲストのために空けてあるが、まだ使われたことは一度も無い。
「料理しない女みたいに言われるの癪だから、よかったら食べていかない?」
賢治君は一瞬驚いた顔をしたけれど、意外なほどすんなり、
「いいんですか?」
と即答した。
亮介を呼ぶつもりが、貴子は、私、どうしちゃったんだろうと一瞬迷ったがもう遅い。若い男に料理をしない女と思われることがそんなに悔しかったのだろうか。せっかくの料理を恋人以外に食べさせる自分に呆れるが、賢治君の花に毎日癒されているのだからまあいいか、という結論で自分を納得させた。
料理を作りながら、そんな自分が可笑しくてつい笑ってしまう。
「何がおかしいんですか?」
リビングの花を活け終わった賢治君が尋ねた。
「別に。年増のオバさんが花屋の店員とは言え、若い男の子のために夕飯を作っているという事実がちょっと不思議だっただけ。」
「安倍さんはおばさんじゃありませんよ。」
「じゃあ、お姉さん。」
「僕からみるとすげえいい女だけど。」
そう言ってから慌てて、
「寝室の花、活けてきま~す。」
と言って花を抱え、廊下に歩いていった。
すげえ、というカジュアルな言葉使いといい女という台詞に、ちょっとドキッとした。
そして若い男のお世辞に反応した自分に頭を振った。これこそオバさんの反応だ。
「料理、本当にすごく上手なんですね。」
スズキの香草焼きを口に入れながら賢治君が言った。
「スズキもだけど、このジャガイモ料理もすごく美味しいし。」
そう言って、フォークでポテトを指した。
「ポテト・オウ・グラタン。生クリームを使ってコクを出しているの。」
「こんな洒落た料理、食べたこと無いし。」
貴子は彼の顔を見た。正真正銘のハンサム君である。背も高いし、ちょっと綺麗過ぎるけど最近の若い女の子たちは、こういう線の細い男のコが主流だと聞いたことがある。
「そんなこと言って、彼女とイタリアンとか、ロマンティックなお店とか、行くことはあるでしょ?」
「全く無いです。」
賢治君はそう言ってフォークを持ってない方の手を振った。
「嘘ばっかり。」
「嘘じゃないですよ。彼女とかとは居酒屋とか定食屋に行きます。」
「嘘だ。」
「だから、安倍さんに嘘ついたってしょうがないじゃないですか。美味しいイタリアンとか別に嫌いで行きたくないっていうより、雰囲気が面倒なんですよ。そういうのを期待されるのも嫌だし。」
「なるほどね。」
「好きな女とは普段着で寛ぎたいし。」
貴子は頷いて、亮介の顔を頭に思い浮かべ、フォークを持つ手を止めた。亮介は、着るものにとても気を遣うし、いつもお洒落で美味しい店に連れていってくれる。
(亮介は私の前でもカッコつけてるのかな。そうだ、唯一、セックスして、その最後の瞬間だけ、無防備な顔になる。その時の亮介の顔が大好きだ。とても愛おしいと思う。)
貴子がそんな亮介を思い浮かべていると、
「どうしたんですか?」
賢治君の声が聞こえた。
「え?」
「いや、なんかぼーっとしてたから。」
貴子は慌ててワイングラスをつかみ、ぐいっと飲み干した。
「ごめんなさいね。」
「彼氏のこと考えてた、とか。」
賢治君は顔を近づけ、下から覗きこむように私の目をみつめて、笑った。
「うん、まあね。私の彼って、いつもカッコつけてるタイプだなあって。」
「安倍さんの彼、きっとスーツが似合う、ばりばりエリートって感じなんでしょうね。」
「東大卒の銀行員。」
「うわっ、絵に描いたようなってやつ。」
「あなたの彼女は?」
「別れました。」
賢治くんが即答で答えた。
「それはご愁傷さま。」
「別にいいですよ。」
「お洒落なイタリアン、連れていかなかったからじゃない?」
今度は貴子が彼の顔を覗き込んだ。
「他に、気になる人が出来たから。」
賢治君は間髪入れずに言った。
「そうやって飽きたら交換、いいねえ、若いって。」
貴子がそういうと、
「今回のは一目惚れです。一目惚れってしたこと無かったから、自分でも驚いたんですけど、最初は素敵だなあって思って、まあ、憧れ?そんな感じで、少しづつ思いが膨らんでいって、今日、確信した。」
「今日?」
「そうです、今日。」
そう言って、貴子を真っ直ぐ見据えた。
貴子はワイングラスを持ったまま、そんな賢治君の顔を見返した。
(まさか、私のこと?でも、そう告げて、全然違う人だったら赤っ恥だし。だいたい彼は私よりかなり年下だろうし、でも今日って・・・。)
それらの言葉が頭の中で五秒間くらい渦巻いた。でも口から出た言葉は、
「ふ~ん。上手くいくといいね。」
だった。
「はい、上手くいくといいなって思ってます。」
賢治君はそう言って、またあの人懐っこい笑顔を見せた。貴子は立ち上がり、
「そうそう、デザート、アイスクリーム、コーヒー、それとももっとワイン飲む?」
お皿を片付けながら尋ねた。
「食後酒って有ります?グランマニエとか?」
貴子は噴き出した。
「居酒屋や定食屋には絶対無いメニューだと思うけど。」
「カッコつけてる彼氏に対抗したくなったから。」
賢治君はそう言って、自分のお皿をキッチンに持ってきた。背中に彼の若い体臭が届き、少し身体を竦めた。彼の顎が貴子の頭のすぐ上にある。やだ、何でドキドキしてんだろう。
彼はそんな貴子の動揺に気づく様子も無くテーブルに残る食器類を次々運んで来てくれる。貴子はその都度、サンキュー、と言って食器を受け取った。
場所を移し、貴子はグランマニエが入ったグラスをふたつ置いた。賢治君がカウチに座った。その隣に座ることにちょっと抵抗があったので、少し間隔を置いて床に腰を下ろした。食事をともにしたからと言って、隣どうしに並ぶ対等な関係では無いのだから。花屋の可愛い僕ちゃんにご褒美をあげたかっただけだった。お利口なプードルにビスケットをあげるみたいに。それだけのことだ。
「東京オリンピック、もうすぐですね。」
「何、急に。」
「どうして国はオリンピック招致にやっきになるのかなあって。」
「それは経済効果でしょう。国のメンツも多少あると思うけど、日本は戦後、東京オリンピックをきっかけに高度成長したし、アメリカに民主主義を押し付けられてから五十年以上経って、経済大国としての揺るぎない地位を獲得した、そのひとつの区切りでもあるわけだし。政治家の利権という要因も赤坂の個室辺りで談合されているのだろうけど。」
「超優等生的な回答。さすが、キャリアウーマン。」
「そうやって茶化してるあなたは、どう思うの?」
「強いて言えば対岸の火事、みたいなものかな。でもね、オリンピックに出る奴ってすごいと思う。まさに青春全部捧げて頂点極めた人々でしょ。まさに超人。だから思い切りお祭りして盛り上げてあげるべきだとは思う。安倍さんが言う通り金が動いて政治家が儲けて、反対派がデモやってっていう面倒臭いことをしないとフェスティバルにならないのは残念だけど。」
「確かにね。四年に一回しか出られなくて、出られる確証も無い。それなのに、そのために人生を丸ごと捧げているんだものね。」
「でもさ、僕、思うんですよ。安倍さんってそういう身体能力があったら、オリンピック目指しちゃう人なんだろうなあ、って。」
「何それ?」
「なんか、何でも限界ギリギリまで頑張っているって感じ。」
「そんなことないわよ。与えられたことをちゃんとしたいだけ。そうやって生きて来たから。」
「心底真面目なんですね。でも、それを自分の本能や欲求より、人に褒められるためにやっているように見える。」
そうなのかもしれない。貴子はグランマニエを口に含み、膝を抱えた。
「小学校の時にね。成績が良くて、貴子ちゃんは賢いねえ、って先生に褒められた。それが嬉しくて、もっと勉強した。中学生になると先生だけじゃなくて、生徒たちからも一目置かれて、そういう自分が誇らしかった。父は家庭を顧みない人だったし、母親はいつも忙しくて家で褒められたことが無かったせいかな、他人に認められると自分の存在感がずっと意味を持つように感じた。高校生になって、それはもっとソリッドになっていった。」
「ソリッド?」
「うん。先生や生徒っていう狭い世界じゃなくて、幅広く世間的に認められたいって思うようになった。だから大学は一番人気の大学、就職が有利で将来の素敵な旦那様もみつけられる大学、就職も安定して高収入が得られて絶対に潰れない業種。」
「あはは、ひょっとして彼氏もそうやって、人前に出して誇れる相手を選んだ?」
亮介を選んだ理由。東大卒、老舗旅館の次男坊、高身長。それ以外に彼のどこを見ているのだろう。
「安倍さんは、僕みたいな高卒の男はその時点で振るいに掛けるでしょ。つまり、それって本質より、外側が大切。例えばとんかつ食べる時、豚肉そのものじゃなくて、衣のサクサク感とかの方が重要っていうか。」
「豚にも、普通の白豚、黒豚、イベリコ豚まで色々あって、私はイベリコを選ぶ。育ちや学歴は衣じゃなくて、肉そのものだと思うけど。」
「豚肉は調理する前に、プロでも無ければ、見た目でその違いはわからないでしょ。安倍さんは肉の前のイベリコという値札を信用して選ぶ。ひょっとしたら、突然変異の白豚でびっくりするくらい美味しいのがあるかもしれないのに。」
「でも、イベリコはそれだけのプロセスを踏んで育成され、丁寧に熟成されてきた。だから価格にも反映するのよ。」
「同じ親と環境だから肉の味が全部同じとは限らないと僕は思う。同じ親から生まれても兄弟で性格や得意科目まで違ってくるじゃないですか。」
「それは・・・」
「それでも、例えば、僕が安倍さんを好きだって言っても、僕を受け入れる前に僕の学歴や家柄でゴミ箱行きですよね?」
ゴミ箱行き。貴子は心の中で呟いた、その通りだと。
「それって全部、自分のためじゃなくて、人に自慢するために選んでるってことでしょ。自分に向けた幸せじゃなくて、人に見せつける幸せ。学歴とか肩書とか、世間体とか人を納得させるためのもの。安倍さんの人生は他人のためのものじゃないのに。」
「でもそれで私が幸せなのよ。人に認められるって重要なこと。ケースに並ぶ肉を値札で判断することも、それが大方正しいから。社会生活ってそういうことだから。」
「どうかな。だから僕の目には無理してるって映るんですよ。例えば安倍さんがオリンピック選手だったらシンクロナイズド・スイミングの選手だ。汗や水でも決して落ちない鎧みたいにガチガチに固めた化粧を施して、その作られた笑顔の下、手足は物凄い努力で必死に漕ぎ続けてる。それは本当にもう、いつか倒れちゃうんじゃないかってくらい。」
「厚化粧はしないし、そこまで必死に漕いでないと思うけど。」
「厚化粧じゃなくて鎧の方。自分で気づいていないだけですよ。で、そんな安倍さんに彼は安らぎをくれますか?」
貴子は顔を上げた。
「私が欲しいのは安らぎじゃなくて、安定した未来だから。」
突然、賢治君が貴子の腕をつかんだ。貴子は慌てて立ち上がり、
「ちょっと、何するのよ。」
そう言って、彼の手を振り払おうとした。
「今夜くらい、自分を開放してあげませんか?あ、変な意味じゃなくて。心配しないでも、天に誓って、襲ったりしないから。だって僕は天下の日比谷花壇の店員で、安倍さんは大事な顧客ですから。それに僕はそんなに女に困っているわけじゃないから。」
そう言って、貴子の肩を自分の膝にもたれさせた。襲ったりしないから、という言葉より、女に困っているわけじゃないという言葉に変な対抗意識が芽生えた。
私だって男に困っているわけじゃないし、こんな坊や、どうってこと無い。
「僕は安倍さんの規定クリアしてないから人畜無害、それでいいじゃないですか。たまには何も考えないで誰かに体重を預けるって悪くないと思うけど。」
彼はそう言って貴子の頭を撫でた。彼の大きな手が温かくの頭を包んだ。彼の言う通り性的では無い優しさ。少し酔っているせいかもしれないが、確かに驚くほど心地良い。
「気持ちいい。」
素直にそう告げた。
「それは良かった。」
賢治君が優しい声で言った。
「何年ぶりかなあ。誰かにもたれかかるのって。」
「彼氏にもたれかからないんですか?」
言われてみれば、そんなことをしたことは一度も無い。甘える隙を与えてくれたことが無いのだ。この部屋に来るときも、旅行に出ても、食事を終えて、お酒を飲みながら話をして、さて、というタイミングでエッチに移行する。
「そう言えば、こんな風にただ寄りかかるだけってことって無いかもしれない。」
「僕で良ければいつでも。」
恋人以外の若い男に言われ、その手を振り払って立ち上がろうと頭で思ったけれど、身体がそれを否定する。少しの間、この気持ち良さに身体を沈めていよう。そう決めて目を閉じた。
一瞬、自分がどこにいるのかわからない。目を開けて辺りを見回し、それが自分の部屋のリビングだということに気づいた。そして誰かの足。
「誰?」
「あ、目が覚めた?」
賢治君がそう言って微笑んている。
「やだ、ごめんなさい。私いつの間に。」
貴子は時計を見た。午前三時を回ったところ。
「私のことなんか放っておいて帰ってくれてもよかったのに。」
「ぐっすり眠ってて起こすの可哀想だったし、それに酒飲んで、どっちにしろ、車の中で酔い冷ましてって思ってたから、部屋にいられて僕はラッキーでした。」
「本当に、ごめんなさいね。」
「謝らないでください。本音を言うと、安倍さん、無防備でめちゃめちゃ可愛かった、約束破って抱きしめたくなるくらい。けっこう我慢した。一目惚れした憧れの人だし。」
賢治君がそう言って、それから真面目な顔をして貴子をみつめた。その顔を見て、貴子は突然、説明のつかない愛おしさが身体の奥から湧き出してくるのを感じた。彼の顔が美し過ぎるせいだろうか。夢と現実の境目が曖昧なまま膝で立ち上がり、彼の唇に自分の唇を押し付けた。賢治君は一瞬、驚いたような顔をして、貴子を見て、それからまたあの人懐こい笑みを浮かべ、唇を受け入れた。とても優しく抱きしめながら。
「ウッソー!そういう展開になっちゃったわけ!?」
香織が叫んだ。
「叫ばないでよ、自分でも驚いてるんだから。」
「これが叫ばずにいられますかって。」
「確かに衝撃的だったと思う。」
「それで、どうなったの?」
香織が身を乗り出した。
「大丈夫よ、誰にも言ったりしないから。」
と続けながら。
「まあ、色々と、ね。」
「何よ、そこまで話して。その場で?それともお姫様みたいに抱き抱えられてベッドルームへ、きゃーっ。」
「下世話な想像しないでよ。」
香織は貴子の部屋のカウチに座って、クッションを抱きしめながらひとりで悶えている。
「品行方正、清く正しい優等生の貴子ちゃんがセフレ、とはねえ。」
「止めてよ、そんなんじゃないわよ。」
貴子はそう言いながら、あれは何だったんだろうと自問した。目が覚めて、彼の膝を見て、彼の優しい微笑み、そして頭に降りて来た大きな掌。守られている、と思った。とにかく、彼に自分の身体を全て預けてしまいたい衝動に駆られた、それだけは確かだった。
「で、どうだったの?」
「何が?」
「決まってるでしょ、若い男とのエッチ~。」
「どうって、よく覚えて無いし。」
「嘘つき、おぼえてないわけ無いでしょ、白状なさい。」
貴子は言葉を選んだ。あれを、どう表現したらいいのだろう。そして、唐突に言葉が浮かんだ。
「自分を開放できた。」
「何それ、なんかやらしい。若い男との激しい一夜に身体ぜんか~い?」
「そんなんじゃなくて、何ていうか素直になれて、安心した。」
「ああ、聞きたくない。こっちが欲求不満になりそう。」
「聞きたいってしつこく言ったのはそっちでしょ。」
「お黙り!」
香織はそう言って抱いていたクッションをこちらに投げつけた。
神様に誓って言う。貴子は今まで浮気したことも、二股をかけたことも無い、一度も。だから自分が一番驚いている。亮介に対して罪悪感が無いわけではない。大変なことをしてしまったと胸がチクチク痛む。でも結婚しているわけじゃないんだからという開き直りと、さらには結婚してくれないからこうなったんでしょという逆ギレの感情もある。どちらにしても後悔先に立たずなのに、心のどこかで満たされている自分がいる。もう自分でも何が何だかわからないのだ。
賢治君はセックスの間、ずっと貴子を見て微笑んでいた、本当に嬉しそうに。そんな男は今までひとりもいなかった。微笑みに包まれながらする、それは今まで一度も味わったことの無いとても安らげるセックスだった。穏やかで、とても気持ち良くて、このままずっとずっと永遠に続けていたい、その最中、貴子は確かにそう感じていた。
あれから数日、さすがに賢治君に自分から電話をかけることはためらわれた。彼の方も電話をかけて来ない。恋人がいると告げたのだから、若い彼から見れば据え膳食わぬは、という成り行きだったのだろう。ほっとしたような物足りないような、貴子の感情は相変わらずこんがらがったままだ。
亮介から週末は接待ゴルフで会えないと言われ、正直ほっとした。あの夜からすぐでは心の準備が整わなかったからだ。けれど翌日の月曜日、その接待相手の紹介でミシュランの星を取った寿司屋、広尾の真の予約が奇跡的に取れたという連絡があった。そして会って亮介の顔を見て嬉しい自分がいる。
清潔な白木のカウンター、突き出しの白子も、アワビの磯焼きも絶品だ。
「銀行も最近は生き残りかけて必死なんだよ。日本型金融排除って言って融資の稟議が益々厳しくなっているから。」
亮介が糊の効いたシャツの腕を伸ばし、冷酒を注ぐ。袖口からカフリングが除く。ふたりは肩がくっつく距離で乾杯をした。
「でも、銀行って昔から晴れの日にしか傘を貸さないって常識で、今に始まったことじゃないでしょ。」
「それを言うなら、生保だって長生きすればするほど損するって常識だろう。」
亮介が鮃のにぎりの上にほんの少しワサビを乗せ、指でつまみ、身の端にだけちょこっと醤油をつけて口に入れる。シャリに醤油は一切つかない。私は彼のこういう食べ方が大好きだ。
「だから、最近長生きするほど得する終身保険って売り出してるんだけど。」
「それだって実際は積立貯金の方が得って言うのも、中学生程度の数学で誰でもわかることなんだよな。それでも高齢化社会でマジョリティーになった年寄りたちには魅力的なキャッチフレーズ。生保は上手く騙してるよなあ。」
「人聞き悪いわね、時代にあったマーケティングよ。でもなんだってからくりはあるのよね。知的財産を担保に融資するヘッジファンド、実際にはパテント等、商品が絶対売れるって確信がなければ貸さない。資本の無いベンチャーに投資って言いながら、ギャンブルはしないのよね。つまり銀行と一緒。」
「だからヘッジファンドってぼろ儲けなんだよな。唯一消費者が選ぶクラウド・ファンディングはアイデアをダイレクトに換金できる。今のところは規模は塵みたいなものだけどね。ヘッジファンドはアタリそうな優良物件だと踏んだら銀行よりハイスピードで、急降下でさらってく。まさにハゲタカだよ。」
「生保もそういう意味では銀行と同じ。客のお金運営して回しておいて、身体が弱かったり病歴のある人々に審査は通さないもの。実際はそういう人が最も保険を必要しているのにね。でも生保は国民保健じゃないから、損失を出すような選択は出来ない、申し訳ないけど。」
「銀行も生保も株式会社だからな。投資家と顧客と行員と社員を守る義務がある。リスクを排他して社会的にバッシングを受けることくらい損益計算済み。今の時代、油断すれば外資に美味しいとこ、持ってかるだろ?さっき言ったクラウドだって、海外の桁違いの富裕層が目をつけ始め、規模がすごいスピードで拡大してる。銀行としてもヘッジファンドと手を組まざるを得ない。スカイマーク買収がそのいい例だ。グローバル化した分、食うか食われるかなんだよ。」
寿司と冷酒を堪能し、亮介から「部屋に行っていい?」と聞かれると思ったら、「明日は早朝から会議なんだ。」と額にキスをして、貴子をタクシーに乗せた。拍子抜けだった。どちらにしても毎回会うたびにセックスするわけでは無いし。無くってきた、と言った方がいいかもしれないけれど。賢治君とのことは事故みたいなもので、今夜はなんとなく、亮介に抱かれて身体を洗い直したいような気分だったのだ。もちろん短期間でふたりの男に抱かれることに抵抗が無いわけではない。でも今夜亮介に会って、やっぱり好きなのは亮介なのだと思う。食事の好みも会話も全てがしっくり来る。傍から見ても釣り合いのとれたお似合いのカップルなのだ。
次の木曜日が来て、遅くに帰宅すると賢治君が待っていた。
「どうしたの?」
最初に口に出た言葉だ。
「花を活け終わって、安倍さんの顔を見てから帰ろうと思って。先日のお礼も言いたかったし。」
「お礼って?」
「色々ご馳走になったから。」
色々ご馳走、その言葉にあの夜のことが蘇り、顔を染めた。
「ああ…こちらこそ有難う。」
貴子が言うと、
「あんまり有り難く無いって感じ。。。」
「そんなんじゃないのよ。まだちょっと、少し混乱しているから、気持ちがちゃんと整理出来てから連絡しようかなって思ってた。」
賢治君が笑った。
「そんな風に生きてて、疲れません?」
「私はその方が楽なのよ。私らしくいられる。そうやって生きてきたし。」
「そう思い込んでいるだけかもしれない。」
賢治君はそう言って立ち上がり、私の後ろに回った。
「ここに座って。安心してください。何もしないから。」
賢治君がまた、あの人懐こい微笑みを浮かべ、私をカウチに促し、自分はカウチの後ろに回った。
「したじゃない。」
賢治君は呆れたように貴子を見ながら瞳をぐるりと回した。
「ってか誘ったのは安倍さんですよ。」
そう言われると何も言えない。
今日はマッサージだけします。だからご要望なら目を閉じて。」
「マッサージ?」
「そう。僕得意なんです。」
そう言って、貴子の肩に両手を置いて、優しく、けれど力強くゆっくりと指を動かした。とても心地良い痛みが首から肩の神経を刺激する。不思議な事だが、賢治君に触られるととても安心する。あんなことがあった後だから、実はほんの少しドキドキする。でもそれも含めた快感が身体を包み込んだ。
「自分の肩がこんなに凝っていたなんて、気がつかなかった。」
「言ったでしょ。安倍さんは自分でも気づかないストレスをいっぱい抱えているって。」
そうかもしれない。貴子は目を閉じたまま頷いた。
「君ってマッサージ師としても稼げるわね。」
「高校の時にラグビーやってて、先輩に鍛えられたから。僕の田舎って愛知なんですけど、うち等の高校ってけっこう強豪で上下関係厳しかったですからね。」
「そうなんだ。大学にいってラグビー続ける選択ってなかったの?」
「俺、三十までに独立して店持つって決めてるんです。男の料理ってあるでしょう?男のための花屋を作る、そして男向けのフラワーアレンジのスクールを始めたい。大振りの花を活けるのって実はけっこうな力仕事、常に重いものも運ぶし、冷たい水使うしね。男のシェフがいて、男の華道家もいて、植木職人も男、なら男が花を習ってもいいでしょ。だって、男性は女性に花を贈るけど、女性は男性に花を送らない。男がアレンジメント作るのって理にかなってると思いません?」
「確かに。」
「僕は大学行って無いし、スーツを着たのは成人式くらい。まあ、何十億、何百億って金を扱ってる安倍さんの彼氏とは比べる余地も無いでしょうけど。」」
賢治君はそう言って、肩から首を丁寧にマッサージして、頭のツボをいくつか押した。
「今日はこれでお終い。」
「有難う。素直に気持ち良かった。身体が軽くなった。」
「こんなんで良ければいつでも。」
「有難う。」
貴子は同じ言葉を繰り返した。
賢治君は立ち上がり、鋏の入ったバッグと切り落とした花のステムや葉を集め、
「それじゃ、また。本当は帰りたくないけど、安倍さんのこと、こないだよりもっと思い切り抱きたいけど、今日は帰ります。」
あの日のことは忘れて、そう告げるタイミングを探していたのに、それを言えなかった。亮介を愛している、でも賢治君といるとふんわりと気持ち良い。亮介といる時のような心地よい緊張感は無いけれど、ほっとして普段着の自分になれる。
「つまり、ふたりの男がセットで完璧ってことなのね。」
香織が言った。
「企業で言えば、亮介君は経営戦略部で年下君は総務ってとこかな。華やかな一線で活躍する男と、目立たないところでボールペンや電球なんかを用意したりして、心地良い空間を維持してくれる陰の功労者。両方無いと会社は回っていかない、そんな感じ。」
「もう、会わない方がいいと思う。でも、彼にそう告げるのが悪い気がするんだ。」
貴子と香織は銀座和光のティーサロンでオムライスを食べている。
「それが本音?貴子に憧れる年下君への感情は同情?実は貴子が会いたいって思っているんじゃない?」
「本音よ。だって賢治君と会っていても将来は無いもの。非生産的だわ。」
「確かにね。不器用な貴子ちゃんも少しはお利口になったわね。」
香織はオムライスを口に運び、
「同じオムライスでもここのとデニーズじゃ別物ってこと。気まぐれなアバンチュールは貴子からエルメスもパークハイアットもビジネスクラスの海外旅行も奪っていくわ。賢治君とのことは甘美な思い出として記憶に保存。その歳で若いハンサム君にコクられて、しかもやれたんだもの。」
そうだよね。香織の言う通り、思い出にしちゃえばいいんだ。
昼休みを終え、会社に戻ると部長に呼ばれた。
「厚生労働省の根元さんの紹介で地方自治体絡みの大口がほぼ決まって、急だが、最後の詰めで明日、名古屋に飛んで欲しいんだ。」
「明日?契約を私が、ですか?」
「わかるよ、本来、商品開発の業務じゃないってことは。それを重々承知の上で、是非君にって名指しだ、根元さんは君にご執心だからな。行ってやれよ。」
厚労省の根元さんには散々お世話になっている。もちろん断るわけにはいかない。新商品認可の際の貸しを作れる絶好のチャンスでもある。
「かしこまりました。」
「急の、しかも金曜日の早朝出張だ。なんなら週末、向こうの温泉でゆっくりしてってもかまわんよ。まあ、君のような女性が好きそうな高級旅館まで経費で落とすわけにはいかんが、日帰りの「のぞみ」の往復の帰りを日曜日にするくらい、どうって事無いからな。月曜日にリフレッシュして戻って来てくれればそれでいい。」
私は部長に会釈し席に戻った。愛知と言えば、知多半島に前から行きたかった「海のしょうげつ」がある。亮介を誘ってみようか。デスクの上のパソコンで旅館の詳細を調べてみる。
「わあ、この旅館素敵、誰と行くんですかあ?」
加藤由香里が背後からモニターを覗き込んだ。
「彼と。」
貴子は単刀直入に答えた。何だか隠していることが馬鹿らしくなったのだ。みんなが一斉に振り向いた。亮介のことを隠していたわけでは無いが宣伝もしていない。例のプライド的セーフティーネットだ。振られた場合に備えてあえて言及しなかっただけだ。
「そうだよなあ。安倍君みたいな美女に男がいないわけないって思っていたんだよ。」
部長が言って高らかに笑った。
「ねえねえ、安倍さんの彼ってどんな人ですかあ?やっぱり安倍さん以上に出来るエリート?逆に可愛いペットみたいな坊やだったりして。まさか両方だったりして。最近ドラマとかでも流行ってるじゃないですか。」
「まさか。」
そう笑いながら、鋭い、心の中で囁いた。
けれど自分の言葉に頷いて、メールを開けて亮介のアドレスを受信者の欄に入れた。
「行きたいのはやまやまだけど、ちょっと急だなあ。週末は一応予定入っちゃってるし。」
「また、接待ゴルフ?」
「まあな、でもクライアントじゃなくて上司たちと内輪のプレイだからどうしても参加しないといけないってわけでも無いんだ。ちょっと返事ペンディングでいい?」
「構わないわ。エステあるし、ひとりでストレス発散っていうのも悪くないから。酔ってしつこく電話するかもしれないけど。」
電話の向こうで亮介が笑った。
「酔った貴子の声聞いたら、そのまま車飛ばして会いに行くかもしれないけどな。」
「それなら、断然酔っぱらわないとね。」
貴子はそう言って電話を切った。
結局亮介の予定が未定のまま、新幹線と宿を予約して、早朝の東京駅に向かった。賢治君には週末留守にするから、来週まで花をパスするようメッセージを入れた。
急な出張、しかも始発ということで、部長がグリーン車を取ってくれていたので比較的ゆったり出来る。貴子は空いていた隣の席にスーツのジャケットを置き、薄型のラップトップを開け、契約内容を確認した。
ひと通り目を通して、軽く伸びをして、グリーン車の車両を見渡した。通路を隔てた席に年配の男性がひとり、目を閉じて座っている。薬指の指輪が太った指にきつそうで、あれは多分もう外せないだろうな、と思った。まあ、この太り具合ではまずまず平和な結婚生活を送っていて、外す理由もないのだろう。斜め後ろには四十代くらいの女性が老眼鏡を出して書類を読んでいる。薬指に指輪は無い。あと数年したら、あの女性のように老眼鏡が必要になるだろう。貴子はそんな自分を想像して身震いした。
根元氏が待ち合わせの場所に指定して来たのはJRゲートタワーホテル内のレストラン「ゲートハウス」だった。貴子はロビーの隅にあるベルデスクに温泉用のオーバーナイト・バッグを預け、エレベーターで最上階まで登った。
化粧室で全身を鏡に映し、自分自身にオッケーマークを作る。オフホワイトのノースリーブドレスと黒いダブルフェイスのジャケット。案内係の女性に促されてレストランに足を踏み入れると、明るい店内の右側壁一面の窓からスカイガーデンの緑が見えた。仕事とは言え、旅先の素敵なレストランで朝食を食べることが出来る特権に感謝した。
約束の時間まで十分ほどあったので、テーブルについて、やって来たウエイターに取りあえずコーヒーだけを注文しようとした途端に根元氏がやって来た。
「いやあ、仕事にかこつけ、一生に一度くらい安倍さんのような美女とホテルの朝食をご一緒したかったんですわ。」
根元氏はそう言って高らかに笑った。
「そんな、東京でお誘い頂いてもいつでもご一緒させて頂いたのに。」
「嬉しいこと言ってくれるねえ。いや、こういうのは旅先っていう非日常にこそ風情があっていいんだよ。」
貴子は相槌を打ち、搾りたてのオレンジジュースを口に入れた。焼きたてのパンを盛り付けたバスケットからイーストの香ばしい香りが漂ってくる。季節のフルーツ、スモークサーモン、半熟のスクランブルド・エッグとカリカリのベーコン。明日は和朝食だからこのメニューは嬉しい。料理はシンプルだが、どれも美味しかった。意図的に堅苦しくない世間話をしながら、和やかな朝食を終え、コーヒーを飲み始めた頃合いを見計らって、トートバッグから契約書を取り出した。
「一応、契約内容のご確認なんですが、事前にお読みになっているとは思いますが。」
顔を上げた時に、根元氏の頭の向こう、入り口付近で見覚え有る顔を認めて目を止めた。貴子はリーガル・ブラインドと言われるくらい強度の近視だが、コンタクトを使用しているのでその顔がはっきり見える。賢治君だ。隣りにパステル・ブルーのドレスを着た若い女性が寄り添っている。賢治君はダークスーツ姿で、若い女はそのスーツの腕に華奢な腕を絡ませて、何か囁き、賢治君が笑顔で何か言っている。長い付き合いのような親密で自然な微笑みだ。
「どうか、しましたか?」
根元さんに言われるまで、貴子は契約書類を持ったまま、だるまさんが転んだ、と鬼に言われた子供みたいに静止していたのだ。手を横に振り、
「あ、いいえ。ちょっと知り合いに似た人を見たものですから。勘違いでしたけど。」
そう言って、A4の茶封筒から書類を出して、根元氏の前に差し出した。根元氏が書類に目を通している間に、もう一度先ほどの方向に賢治君の姿を探した。
発見。
入り口から比較的近い、窓際の席にドレスの女性と差し向かいに座っている。
朝食デートってことはつまりお泊り?
彼女と別れたって言ってたくせに。
スーツなんて成人式以来着て無いって言ってたくせに。
恋人は洒落た店には連れていかないって言ってたくせに。
一目惚れだって言ってたくせに。
あんなに優しいセックスをしたくせに。
なんだかむしょうに腹が立ってきて、コーヒーを飲み続けた。
長身の賢治君はスーツがよく似合っている。まるでモデルみたいだ。貴子ほどでは無いが彼女も比較的背が高く、少し野暮ったいドレスが返ってイノセントな若さを強調して可愛らしい。目鼻立ちのはっきりした可愛い女の子、お似合いのカップルだ。
いいじゃないか。あの夜のことは忘れて欲しい、そう言い出す手間が省けて助かったのだから。貴子はやって来たウエイターが注いだコーヒーをまた飲み干し、根元氏に視線を戻した。
「訂正のご要望がございましたら仰って下さい。パソコンを持って来ていますから、後程修正した上でプリントアウトしてお渡しできます。」
根元氏は食事の時とは打って変わって、厳しい目で書類を確認している。そして、満期受取りの年齢制限や、投資と貯蓄のバランスなど、何か所かを指さし、
「こことこの部分、もう少し優遇してもらえませんかね。それとこのグラフは年寄りにはピンと来ないだろうから、わかりやすい具体例を入れたらどうだろう。特に定年後のベネフィットに関して、国のように赤字経営というわけには行かないまでも、もうちょっとフレキシブルに対応してもらわないと。」
根元氏は東大出のキャリアである。冗談を言って普通のオジさんのように振る舞うが、実は手ごわいくらいに頭のキレる男なのだ。少し髪が後退しているが、学生時代はフェンシング部に在籍していたそうで、きっと精悍な青年だったのだろう。貴子はいくつかのポイントで譲歩すべきところは譲歩し、譲れない箇所は別の得点をつけることで話を勧めた。貴子の仕事は商品開発だから、普段、こういう契約関係の仕事をすることは無い。けれどこうやって直接クライアントのニーズを知ることが、開発の参考にとても重要だと悟った。そのことを根元氏に告げると、
「美女との朝食も嬉しいが、実は君のような優秀な人がクライアントとダイレクトに交渉することがプラスになると思ったんだ。」
根元氏はそう言ってにっこり笑った。人の良い普通のオジさんの顔に戻っている。
コーヒーを飲み過ぎたせいかトイレに行きたくなった。根元氏に断って化粧室に向かい、用を済ませ、洗面所の大きな鏡に向かってルーセント・パウダーを叩いた。口紅を塗り直している時に、目元に今まで気づかなかった小さな小皺を見つけた。ショック。貴子は慌ててポーチから携帯用のアイクリームを取り出し、皺の箇所に指先を使って薄く伸ばした。二十五がお肌の曲がり角なら三十五は後退の一方通行なのだろうか。
ため息をついて化粧道具をポーチにしまい、バックを肩にかけ化粧室を出たところでいきなり腕を掴まれた。
振り向くと、賢治君が立っている。
「驚いた。」
レストランですでに見てたから、賢治君がここにいることに驚いたのではなく、見つかって腕を掴まれたことに驚いた。
「それはお互い様。週末留守っていうのは名古屋に出張だったんだね。」
貴子のジャケットから足元まで視線を上下して賢治君が言った。
「あなたこそ、何でこんなところにいるの?」
「言わなかったっけ。俺、愛知出身だって。と言ってもずっと田舎だけどね、今、薔薇の出荷で大忙しだし。まあ今日はちょっとした野暮用でここに来たけど。」
デートでしょ、そう言おうとして止めた。卑屈にみられるのは悔しい。貴子には亮介がいるのだから。花屋の店員に恋人がいようといまいと知ったことではない。
「日帰り?」
賢治君に聞かれて、
「出張は今日までで、今夜から週末は温泉旅行、多分彼と合流すると思う。」
彼、と言う言葉を強調して言った。そして、
「クライアントが待っているから。」
と告げて、歩き出した。賢治君は何か言いたそうな顔をしていたけれど、何も言わず、スーツのポケットに両手を入れたまま、貴子を見送った。歩き出す前に見た賢治君のスーツ姿は癪に障るくらいイカしていた。
根元氏の計らいで自治体との契約はスムーズに運び、根元氏、現地の担当者と八勝館で会食をし、ハイヤーで根元氏と一緒に名古屋駅に向かい、貴子は名古屋の知り合いを尋ねると断わって握手をして別れた。そして、いったんゲートタワーホテルで荷物を受け取り、知多半島へ向かう列車に乗った。
結局、亮介からごめん、行けない、という電話が掛かって来た。
「本当に貴子と行きたかったんだけど、融資部の直属の上司だけだと思ってたら、なんと専務が参加するって言うんだ。社内人脈は大切だから、せいぜい顔を売っておくよ。この埋め合わせは絶対するから。」
それなら仕方無い。亮介にはとことん出世して欲しいのだから。一人旅になったけれど、この機会にエステと美食三昧、貴子は久しぶりにひとりで羽を伸ばそうと決めた。
旅館についた時には十時を回っていたので、部屋の露天風呂にゆっくり浸かり、マッサージを頼み、身体を揉み解してもらいながら眠りについた。
翌日は起きてすぐ露天風呂に浸かり、部屋出しの朝食を済ませてから、もう一度温泉に入り、予約していたエステで全身を磨いた。それから庭園を散策して、部屋に戻ってもまだお昼をちょっと回ったばかりだ。
もう一度温泉に入り、鏡に素肌を移してみる。肌が温泉の水分を含んで瑞々しく輝き、名古屋で発見した小皺が消えている。
ふと賢治君の言葉が蘇る。
自分でも気がつかないうちに溜っていったストレス。
それなら、たまにこういう旅も悪く無いなと思う。そう思った途端に、部屋の電話が鳴った。フロントからで、貴子を訪ねて来た人がロビーで待っていると告げられた。
まさか亮介のサプライズ?
鏡の前で浴衣の襟と帯を確認して、やや内股でいそいそとロビーに向かった。
待っていたのは賢治君だった。いつものジーンズとTシャツ姿に戻っている。
「何してるの?」
思わず、大きな声を出した。
「安倍さんに会いに来た。」
「どうして私がここにいるってわかったの?」
「だってブランド好きな安倍さんが名古屋近辺で温泉旅行って言ったら、ここだって検討つけられるよ。ある意味、すっげえわかりやすい人だから。」
貴子は言葉を失った。
「彼氏は?」
賢治君が後ろを確認するように言った。
「週末、大切な接待があるのよ。今回はひとりで羽を伸ばすつもり。」
言い訳にならないように明るく告げた。昨日の彼女は?と聞きたくてしょうがないのに聞けない。貴子はは自分でも嫌になるくらい意地っ張りらしい。
「ところで、安倍さんの素顔って初めて見た。化粧が取れ掛かってるのは見たことあるけど。」
賢治君が真っ直ぐ見つめるので、貴子は両手で自分の頬を押えた。
賢治君が突然、言った。
「ねえ、これから夕飯までの間、予定ある?無いよね、一人旅だって今言ったし。」
「良いお宿で温泉三昧、奮発したんだから、ゆっくりしたいんだけど。」
「ちょっと付き合って欲しいところがあるんだ。」
ダメ?
賢治君が上から貴子の顔を覗き込んだ。断るべきだ。それくらいわかっている。
「仕方無いわね。」
拒否する代わりに口から出た言葉だ。あの夜から混乱したままなのかもしれない。
「支度して来るからロビーで待ってて。」
そう言って部屋に戻ろうとすると、
「化粧しなくていいから。」
背中に賢治君の声が届いた。
貴子は部屋に戻り、持って来ていたJブランドのスキニージーンズと白いコットンシャツに着替え、ロビーに引き返した。賢治君は貴子を見ると口笛を吹き、
「安倍さんのジーンズ姿、初めて見たけど、スタイルいいからすげえカッコいい。ますます惚れ直した。」
そう言って、貴子の手を引き、車まで引っ張っていった。
助手席側のドアを開けられて貴子が乗り込むと、
「化粧、しなくていいって言ったのに。」
ハマーの運転席で、前を向いたまま賢治君が言った。
三十五の女は、化粧しなくていいからと言われてもしないわけにはいかない。十歳若かったら、多分、素顔に色付きリップクリームくらいでどこにでも出掛けられた。ふと賢治君が連れていた若い女は化粧をしていただろうか、と考えた。遠目だったのでよくわからないが、メイクを施していたとしても、ごく薄化粧だったような気がする。
「オバさんにとって、化粧するなって言うのは裸を人目にさらすのと同意語なのよ。」
「安倍さんの裸ならとっくに見たし。」
賢治君がさらっと言ってのけた。絶句する貴子に、
「そうやって照れる顔、すっげえ可愛い。」
と畳みかけるようにのたまう。そのコメントを無視して、
「しかし君ねえ、私が彼と一緒にロビーに現れたら、なんて言い訳するつもりだったの?」
賢治君の横顔に言った。
「安倍さん昨日、多分、とか、思う、とか曖昧に言ってたし、決定事項じゃないなら試す価値ありって思ったし。言い訳なんて、学生時代の友達の弟、とかいくらでもあるでしょ。安倍さんを窮地に陥れるような間抜けなことはしないよ。大切な人だから。」
賢治君がそう言って、右手で貴子の頭を上からそっと撫でた。この手だ。この手が本当に気持ちいいのだ。
ハマーは海岸線を気持ちよく走り続ける。賢治君が少し窓を開けたので、潮風が車内に海の匂いを運んで来た。
「海の見える景色って落ち着く。この匂いも。」
「ところで安倍さんってどこの出身?」
「茨城県。海がいつも身近にあった。だからかな。海を見るとホッとする。」
「ウソー!てっきり東京生まれかと思った。」
「実はそういうフリをしているだけ。東京でいかにも東京っぽい連中って実はほとんどが地方出身よ、私を含めて東京出身者以上に東京っぽくなろうとしてるから。」
「そういうところでも頑張っちゃうんだ。」
「歌舞伎の女形が女以上に色っぽいのと一緒、本当のお金持ちより成金の方が贅沢な暮らしをみせつけるのとかも、ね。」
「開き直りだな。そういうことわかっててもやめられない、ってわけだ。そりゃストレスたまるわけだ。」
「別に。強いて言えば演じることが三度のご飯より好きって役者と同じで、好きでそうするだけ。」
ふうん、そう言って賢治君は窓を閉めた。
「開けたままでもいいけど。潮風、気持ちいいし。」
「せっかく慌てて僕のために化粧してくれたのに、全部取れちゃったら悪いから。」
そう言ってハンドルを握りながら私の顔をちらっと見た。
「別に君のためじゃないわよ。三十路女のたしなみ。公共に向けるエチケット。」
「嘘ばっかり。」
貴子は、その悪ぶれない顔を見て、問い詰めたくなった。
「彼女、放っておいていいの?」
「へ?」
「彼女、連れて来たんでしょ。もしくは遠距離恋愛だったりして。」
「何のこと?」
「隠さなくたっていいのよ。」
賢治君は、何か言おうとして、あっ、と小さく叫んだ。
「見られてたんだ。」
「レストランでたまたま見かけただけよ。私だって恋人がいるんだから、あなたに可愛い彼女がいたって、私には関係無いし。」
賢治君は頭を掻いた。
「バレちゃったら仕方無いな。そうだよ。どんなに頑張っても安倍さんはエリートの彼と別れる様子も無いようだから、俺も元カノと元サヤにしただけ。」
「そんなとこだろうと思った。」
賢治君は貴子の顔をチラチラ見ながら、堪えきれないみたいに笑い出した。
「何よ。」
「実は妬いてくれてたりして。」
「なわけ無いでしょ。」
「いや、妬いてる。ムキになってるのが、その証拠。」
そう言って、貴子の頭を撫でた。
「止めてよ。」
「止めない。」
「そのハンドル掴んで、思い切り切るわよ。」
「無理心中してくれるんだ。それも光栄だなあ。」
そう言って、また高らかに笑った。
全くもう。そう言おうとして、言葉を飲み込んだ。彼の言う通りだ。歳を聞いていないけれど、多分二十四か五。ガキの男相手に、貴子はムキになって感情をぶつけている。
賢治君は笑うのを止めて、カーステレオのスイッチを入れた。男性ボーカルの優しい曲が流れる。
「綺麗な曲ね。」
「ちょっと前に流行った曲、エド・シーランのフォトグラフ。メロディーもだけど、歌詞がすごく良くて、ここをドライブするとき、いつも聴いているんだ。」
ふたりの愛を写真に撮って
その思い出を閉じ込めよう。
そうすれば、永遠に
目を閉じることも、心が傷つくことも無くなる。
君は僕を破れたジーンズのポケットに入れて、しっかり握りしめて、
そうすれば、君は僕に会えないときもひとりじゃなくなる。
「まさに、遠距離恋愛の曲。」
貴子が言うと、ぷっと吹き出した。
「まだ、こだわってる。」
「歌詞の感想を言っただけよ。」
「安倍さんに会えない時の俺の気持ちなんだけどなあ。」
賢治君の顔を睨み付けた時に、運転席側の窓の外の景色を見て、貴子は感嘆の声を上げた。海ばかり眺めて気づかなかった景色が広がっている。
それは一面ポピーの花畑だった。真っ青な空の下、赤、オレンジ、黄色の絨毯がどこまでもどこまでも広がる。明るい太陽光線をたっぷり浴びて元気に並んで上を向くポピーが、車で走っても走っても永遠と続く。
「凄い。」
思わず叫んだ。
「でしょ。」
賢治君は、嬉しそうにハマーを走らせた。パステルカラーの風景を見つめていると、どこか異国にいるような錯覚に陥る。賢治君のアレンジメントが美しいのは、日常的に美しい景色を眺めながら育ったせいなのかもしれない。
時折、畑で作業する人々が、ハマーに向かって手を振ったり、お~い、とか声を掛けたりする。賢治君はその都度、窓を開けて、「こんちは」とか、「爺ちゃん、元気か?」「久しぶりぃ」とか声を掛ける。
「有名人なのね。」
「田舎だからね、みんな知り合い。」
ウインカーを出して、海沿いの幹線道路からやや細い道に左折して、またしばらく走った。賢治君が再び窓を下げた。潮風の匂いが消えて、ゲランの香水JOYのような薔薇の香りが車内に充満した。フロントクラスの向こうに真紅の花畑が見える。
「綺麗!」
賢治君が満足そうに笑っている。薔薇園に近づくにつれ、香りはさらに濃厚になり、それぞれの花の輪郭が鮮やかに見えた。
「一輪一輪が大きいのね。」
「ダラスって言う種類なんだ。ドイツが原産国なんだけど名前はアメリカの都市。幻の薔薇って言われていて大きさも発色も香も最高級なんだ。」
「花弁がしっかりしてて、真っ赤なビロードの絨毯みたい。」
「ポピーは前座でこれが真打。」
賢治君はそう言って無邪気に微笑んだ。
賢治君はそのまま薔薇の畑に続く道を走らせ、路地に車を乗り入れて停めた。そして運転席を降り、助手席にまわりドアを開ける。
「どうぞ。ここが俺んち。」
いかにも農家風というのでは無い、ごく普通のモルタルの家だ。都会と違うのは家がかなり大きいことだ。貴子が育った家に似ている、それが第一印象だった。
「降りて。」
貴子は自分の鼻を指さした。私?
「遠慮しないで。」
別に遠慮しているわけではない。なんで賢治君の実家を訪れる羽目になったのだ。賢人君はとことん貴子を混乱させる。
家の中には誰もいなかった。比較的広いキッチンの隣りの和室の畳の上に不釣り合いな黒い革のソファーが置いてあり、賢治君に言われて、そこに座った。
「薔薇の出荷で家族総出で畑に出てる。」
「賢治君は手伝わないの?」
「せっかく安倍さんに来てもらったんし。今朝は五時から手伝ってたし、明日も終日。」
賢治君はそう言って台所に行き、柔らかく湯気をたてるピンクのお茶を持って戻って来た。
「うちで取れた薔薇のお茶。好みではちみつ入れて。」
そう言って、ソファーの下の畳の上にお盆ごと置いた。貴子は有難う、と言ってお茶を啜った。薔薇のアロマが湯気と一緒に顔を優しく撫でる。
「香りが良くて美味しい。」
「自家製、百パーセントオーガニック。」
そう言って笑い、貴子の隣に座った。
「俺はここで育った。」
「うちも農家だったの。」
貴子が言うと、
「マジ?」
と飛び上がった。
「ウチね、父親の実家がけっこうな地主だったらしいんだけどね。らしいっていうのは祖父も父も遊び人で、働かないで土地を切り売りして暮らしていたんだって。私が小学校くらいの時、母がこのままじゃ土地を全部無くして食べていけなくなるって危惧して、人を十人くらい雇って、残った土地を耕して、メロン農家を始めたの。今でこそ茨城のメロン栽培は全国一だけど、流行り出す先駆けみたいなことをしたのが母だった。商才があったのかもしれない。農業は軌道に乗って、家計は潰れずに済んだ。」
「君の頭の良さと生真面目さは母親譲りなんだな。」
「その通り。」
「自分で言うか。」
賢治君が貴子の頭を小突いた。
「父譲りで無いことは確かだから。そんなわけで、私は両親に宿題やったかとか、勉強しろとか、声を掛けられた思い出が無い。食事もご飯以外は冷蔵庫にあるものを見様見真似で作ってた。子供ってお腹が空くとクリエイティブになるものなのよ。でね、勉強しろって言われないと逆に、自分でしなきゃってなるものらしい。だから一生懸命勉強した。前にも言った通り、先生が褒めてくれる、同級生から尊敬の眼差しでみられる、それが嬉しくてね。実家はそうやって、比較的余裕のある暮らしは出来たけど、母はいつも忙しくて、子供の教育も化粧もファッションもそっちのけで、メロンの品質管理や従業員の世話に追われてた、多分今もね。そして私は自分に誓った。もっと勉強していつかこの家を出たら、バリバリ働いてもお化粧やお洒落も楽しみ、父親みたいな遊び人じゃなくてしっかり稼いでくれる人と結婚して、子供に美味しいものを食べさせてたくさん褒めてあげて、人が羨むような家庭を築くんだって。」
「安倍さんの人格は、他人から褒められることが軸になって形成されたんだなあ。」
賢治君が言った。
「そうやってひとつひとつ手に入れて来たから。」
結婚以外は。心の中でそう呟きながらティーカップを両手で包んだ。
「やだ、なんでこんな話してるんだろう。」
「どうしてだろうね。」
「多分、あなたの家が実家に似てるからだと思う。」
「また分析。」
賢治君が微笑んで、貴子の肩を自分に引き寄せた。貴子は目を閉じた。賢治君といるとなぜかいつも身体を預けたくなる。賢治君が肩を優しく抱いた。
その途端に、玄関で物音がした。貴子は慌てて身体を起こし、姿勢を正した。足音がしてジーンズ姿の若い女性が部屋に入って来た。
貴子は思わず、あっ、と叫んだ。
レストランで見た女性だ。貴子は賢治君と彼女を見比べ、その場で硬直した。
「お客さん?」
その女性が賢治君に尋ねた。
「僕が片思いしてる人。」
賢治君が言った。
「へえ。お兄ちゃんでも片思いするんだ。」
お兄ちゃん?
「紹介するよ。俺の妹。」
「えっ?」
「似てるだろ。」
言われてみれば、どことなく目とか輪郭とか似ている。いや、そういうことじゃない。
「どうして、昼間、そう言ってくれなかったの?」
隣にいる賢治君に小声で問い詰めた。
「言わない方が面白いから。」
そう言ってウインクしたので、貴子は賢治君の脇腹にパンチをいれた。
「痛えっ」
賢治君が大袈裟に脇腹を押えた。
「なんか、私お邪魔?」
妹が口を挟んだ。
「いえ、そんなんじゃないんです。どうぞ。」
貴子は自分の家でも無いのに、賢治君の妹をソファーに促した。
「オフクロは?」
「まだ、畑。私はレポートがあるってエクスキューズで帰って来た。本当は無いけど。」
そう言って、舌を出した。全く兄妹揃って。
「お母さんが、お兄ちゃんにちょっと畑に来て欲しいって言ってたよ。なんか見たことの無い害虫がみつかって相談したいって言ってた。スーパーバグかもしれないって。でも・・・」
そう言って、貴子の顔を見た。貴子は慌てて立ち上がった。
「あ、私なら大丈夫。タクシー呼んで頂ければ、宿に帰れるし。」
賢治君が妹と貴子を順番に見た。
「安倍さん、そんなに時間かからないから、多分三十分くらい、ここで待ってて、送っていくから。」
「じゃあ、私がお相手する。」
と賢治君の妹が昼間、賢治君の腕に絡めたように貴子の腕を掴んだ。
「余計心配だ。初美、余計なこと言うなよ。」
賢治君が人差し指を初美ちゃんに向け、玄関に向かった。貴子は窓から、賢治君の健康的な肩と足が、走って遠ざかって消えて行くまで眺めていた。
「ローズヒップのクッキーあるけど、食べます?」
賢治君がいなくなると、初美ちゃんが声を掛けて来た。目が大きいなかなかの美少女だ。NORMAL IS BORING と描かれたマルーンカラーのTシャツを着ている。
「美容に良さそう、頂きます。」
貴子が言うと、喜々としてキッチンに向かい、ピンク色の小ぶりなクッキーを花柄のケーキ皿に乗せて戻って来た。クッキーは粒々の触感がとても美味しいので、
「これもお手製かしら。美味しいわ。」
そう告げた。
「お茶もクッキーもお兄ちゃんが作ったの。生地は米粉を使ったグルテンフリー。」
「賢治君がお菓子作り?」
貴子は驚いてすっとんきょうな声を発した。
「あの人は何でもできるから。」
そう言って自分もクッキーを口に入れた。
「昔っから、何でも出来ちゃうんだよ、お兄ちゃん。」
「そうなの?」
「そう、子供の頃からずっと。自分でも自分のことをブラックなんとか、って言ってたな。突然変異っていう意味の英語らしい。」
「ブラックシープ。」
「それそれ。ウチのカゾク、両親は高校中退してずっと花農家。子供の頃から畑手伝ってるから、この辺りではそれが普通だったんだけどね。さすがに時代が変わって大きいお兄ちゃんもケンお兄ちゃんも私もみんな高校だけは卒業したけどね。あっ、私は名古屋の大学生。ケン兄に受験勉強、徹底的にしごかれたから合格したんだけど。」
「でも賢治君は大学に行かなかった。」
「お兄ちゃんに言わせると、私の頭は普通だから大学くらいいってハクつけないと将来困るだろうって。本人はラグビーで同志社に推薦でも行けたし、っていうか頭で京大だって受かったと思うよ。学校の先生が言ってた。お前の兄貴は集中力が並みじゃないって。」
「それなのに、行かなかった。」
「中学くらいから将来花屋をやるって決めたから。大学に行って無駄な金と時間を費やすより実戦で覚えればいいって。だから取引先の日比谷花壇に頼み込んで修行。まあ、頼み込んだっていうか、日比谷花壇では、お兄ちゃんの高校の通信簿見て仰天、普通の店員でいいんですか?ってなもんだったけど。」
「そうなんだ。」
「しかも、妹の私が言うのもなんだけど、背高いし無駄にイケメンでしょ。」
確かに。
「あなたもそうとう美少女だと思うけど。」
「まあね。」
初美ちゃんはそう言ってから照れたように笑った。笑顔が賢治君によく似ている。
「お兄ちゃんはこの辺じゃ、ちょっとした有名人。高校んときはそりゃ、モテたよ。けっこう遊んでたかも。でも、深入りしないタイプっていうか、誰かに本気になったって聞いたこと無いなあ。私が知らないだけかもしれないけど、お兄ちゃんが誰かを家に連れて来たのは今回初めて。」
そう言って、貴子を凝視した。
「お姉さんチョー美人だし、デキる女って感じ。ふ~ん、ケン兄はこういうタイプが好きだったんだ。どうりでね、この辺には絶対いないタイプだし。」
貴子は、言葉に詰まった。
初めて家に連れて来た貴子には恋人がいる。
「あのね、昼間、お兄さんと一緒にゲートタワーのレストランにいたでしょ?」
「えっ、何で知ってるの?」
「実は私、名古屋は出張で、あのレストランでパワーブレックファストだったの。」
「パワーブレックファスト?」
「あ、朝食兼ねた打ち合わせ。だからお兄さんとは偶然、あのホテルでばったり。」
「ああ、そういうことだったんだ。私たちもあのホテルで打ち合わせの予定があって。」
「打ち合わせ?」
「実は一か月くらい前、私の大学の同級生が名古屋からうちに遊びに来て、夜遅くなったからってその子の父親が車で迎えに来てね、その人が名古屋では名の知れた商業弁護士だったんだけど、私、兄の分厚い事業計画書を見せたんだ。部屋にいつも置いてあったの知ってたから。最初はぺらぺら捲ってたんんだけど、途中から興味を持ってお兄ちゃんに会いたいって。」
「勝手に見せちゃったの?」
知的財産の保護ってこの子は考えないんだろうな、と貴子は思った。
「お兄ちゃんは別に怒ってなかったし。せっかく一生懸命作ってて誰にも見せないのってもったいないって思ったし。そしたら投資家がマジで会いたいって言ってきた。あの日はその投資家とケン兄がゲートタワーのスイートルームで打ち合わせだったの。私はもちろんそのミーティングには不参加だけど、ゲートタワーって聞いてあのレストランの朝食を一度は食べたいって、無理やり連れて行かせた。たまには妹に良い思いさせろって。」
「それでおめかししてたんだ。」
「そう。珍しくお兄ちゃんもスーツだったでしょ。成人式の時以来かな。」
成人式以来、賢治君が言った通りだ。
「で、どうなったの?」
「お兄ちゃんは、人の力借りることを極端に嫌うからどうかなあ。でも、案外、真剣に聞いたよ。それでね・・・」
そう聞いた時に、玄関で音がして、賢治君が帰ってきた。
「何の話してたんだよ。」
「女とっかえひっかえだったってチクってやった。」
初美ちゃんがそう言うと、賢治君が初美ちゃんの頭を拳骨で軽くこつんと叩いた。
お邪魔虫は退散、初美ちゃんがそう言って二階へ続く階段を登っていくと、賢治君が腕時計を見て、
「そろそろ戻らないと、夕食に間に合わなくなるな。」
と言って、テーブルの上の車のキーを掴んだ。
「昨日、商談だったんだ。」
「初美が言ったのか?」
「うん。」
「ったく、あいつ、べらべら余計なこと。」
「いろいろ褒めてたわよ、あなたが優秀だったとか、大学に行けなかったんじゃなくて、行かないことを選択したとか。」
「余計なとベラベラ言って。」
「どうして?正直、惚れ直したとは言わないけれど、相当見直したけど。」
「そういうレッテルっていうかブランド志向の世の中に勝負をかけたいんだ。日本って大学って形ばっかりで、行かない方がマシな大学がばかりどんどん増えるから、ニートだとか自分探しの旅に出るやつが増えていく。証明したいんだよ。人生にはいろいろな選択肢があって、人と同じ価値観で生きなくても成功出来るし幸せになれるってね。」
「それはあなたに自信があるから。ほとんどの人がそんな勇気も能力も無いから、肩書で居場所を作る。私だってそのひとりだわ。一流企業に入れたから銀行もローン組んでくれてマンションも買えたし、将来の心配もしなくて親を安心させることも出来た。みんながみんなあなたのように生きられないわ。」
「俺は、例えばラベルを隠したワインを自分だけの好みと衝動で選びたい、そう思うだけだよ。どんな大学でも出れば高卒より偉いって勘違いしてるやつばかり。名ばかりの大学はそういう勘違いを大量生産し続けるんだ。ヒッピーたちの自給自足の方がずっと生産的だと思えるけどね。」
「つまりあなたは、肩書で生きる私や私の恋人を否定する?」
「闇雲に否定してるわけじゃない。僕は別に反社会主義というわけじゃな意志。安倍さんの彼は否定するけど。安倍さんの恋人というポジションにね。でもおたくらは自分の決めた道をみつけて、猛烈に仕事をしているんだろ。そういう人々を否定する理由は無い。でもね、僕にはチョイスがあるけど、安倍さんたちはライフしか無い。」
「チョイスとライフ?」
「安倍さんたちは一流大学に行った段階で人生の成功の半分を手に入れ、一流企業に入って残りの半分を手に入れた。つまり人生がロックされたわけだ。だから気に入られた上司が派閥闘争で敗れて、出世コースから外れても会社を辞めるわけにはいかない。ヘッドハンティングされない限り、中途採用は間違いなく条件を下げることになるし、経歴に傷がつく。一流企業の名刺を失えば値札が下がる。だからチョイスが無い。手に入れた肩書がライフそのものなんだ。僕はどんな形であれ花屋を続けられる。花屋はどこに行っても花屋だから。名刺なんかいくらでも作り変えることが出来る。チョイスは無限大だ。」
「つまり、あなたは高卒チョイス。」
「そう。人って本質じゃなくて値札や産地で人を判断する。仮に北海道産の生ハムにパロマ産ってラベルつけても、味の違いに気づく人は一握りでしょ。マジョリティの人はパロマ産のネームバリューを信じて有り難がるんだ。本当は北海道産の方が美味しいかもしれないのに比べようともしない。ベルーガ産ってラベル貼られたイミテーション・キャビアを有り難がって食うみたいに。」
貴子は香織の家で食べたベルーガ産のキャビアの味を思い出した。さすがにイミテーションとの違いはわかるけれど、舌だけであれがベルーガ産かどうかなんてわからない。
初美ちゃんにお別れの挨拶をして、帰路についた。途中、夕陽に照らされたポピー畑があまりに美しく、賢治君に頼んで、束の間、車を停めてその圧倒的な景色を眺めた。
「絵画そのものね。」
貴子が言うと、賢治君が肩をそっと抱いて、
「肩書なんて無くたって、自分のチョイスで美しいものに囲まれて暮らすことは出来るんだよ。欲しいものはいったん手に入れると飽きてしまうけど、本当に美しい記憶は飽きないし消えない。安倍さんが思い浮かべる美しい思い出って、大学や会社の合格発表じゃなくて、子供の頃に見た富士山だったり、家族で行った旅行の景色だったりしない?そういう風景が一生の宝物になるから。」
そう言って微笑んだ。
家族と行った旅行の思い出は無いけれど、学生時代に河口湖へドライブに行ったときに目の前で見た、富士山の圧倒的な存在感は目に焼き付いている。初めて飛行機でどこまでも続く太平洋を飽きもせずに眺めたことも。
貴子は並んだまま、無意識に賢治君の右手を取り、その手を握り締めて、しばらくその風景を眺めていた。不思議なくらいに心が満たされる。賢治君といると、綺麗なもの、気持ちいいことがたくさん見つかる。
「初恋は高校一年年の時だった。」
賢治君が、突然呟いた。
「随分と遅いのね。」
賢治君が振り返って微笑んだ。
「そうかもな。まあ、幼稚園の先生とか小学校の時に実習に来てた大学生のお姉さんとか憧れみたいなのはあったし、中学校の時に可愛いなとか思った子もいたけど、イマイチ盛り上がらなかった。だから彼女が初恋だな。意識したりドキドキしたりするのを隠そうとけっこう必死だったから。」
貴子は思わず微笑んだ。高校生の賢治君が目を逸らしたりドギマギする姿、ちょっと想像しにくいけれど。
「どんな人?」
「優等生。眼鏡かけてて、真面目を絵に描いたような。でも明るくてリーダー的で、一緒に学級委員やってた。」
「優等生タイプが好きなんだ。」
「そう、安倍さんみたいに優等生。まあ、彼女は安倍さんみたいな美人じゃないけど、色白でライトブラウンの綺麗な目をしてた。」
「じゃあ、あなたとは優等生カップル。」
「成績で彼女に勝ったことは無かった。」
「そうなの?」
「全ての学科の総合順位だと常に彼女がトップ。俺、理数系は勝てたけど暗記物とか嫌いだったし。暗夜行路の作者が志賀直哉とか、作品知らないのに正しい答えを線で結ぶ、みたいなことが無意味に思えた。」
「一般常識として知ってた方が社会に出て恥をかかない。」
「もちろん、そういうことだとはわかっていたけど、馬鹿らしくてね。でも彼女は律儀に覚えるんだ。そしてどんなことでもわかるまで、納得するまで根気よく勉強する。無意味な暗記が嫌ならその作品読めばいいじゃない、なんて言われたりして。」
私に似ている、と貴子は思った。
「彼女はね、親が小児科医でお姉さんとふたり姉妹、お姉さんは完全な文系だったからいずれ彼女が医院を継ぐっていうミッションを背負ってて、そのことに疑問を抱くことなど無く、律儀に従っていた、と当時の僕は思ってた。僕はというと、将来花屋やりたいって気持ちはあったけど、大学に行くという選択がゼロだったわけじゃ無かった。ラグビーを続けたいって気持ちも多少あったし。」
「迷ったりしてたんだ。」
「まあね、揺れてはいた。思春期だし。」
「彼女は小児科のお医者さんになったの?」
賢治君が下を向いたまま首を横に振った。
「彼女、明石さんっていうんだけど、美術部の部長で、県のコンクールでも何度も優勝してた。僕は彼女の絵も大好きだった。例えば花の絵、めしべの濡れたような感じとかおしべのパウダーっぽいところもリアルで、なのに雰囲気が現実離れしてて吸い込まれるような絵を描くんだ。」
「才能があったのね。」
「二年生の二学期が始まった頃だった、放課後一緒に校門に向かって歩いている時に、明石さんが突然立ち止まって言ったんだ。鹿沼君が羨ましい、親の職業と自分のやりたいことにブレが無いから。私は医者になんかなりたくない、絵描きか美術の先生になりたい。中学生の頃からずっとそう思ってたって。」
「ご両親は多分猛反対するでしょうね。画家は一握りの人しか認められない将来が見えない職業だし、美術の先生だって開業医のお嬢様には金銭的に苦労するのは目に見えてるし。」
賢治くんが頷いた。
「意を決して美大に行きたいって言ったら父親に、絵に描いた餅で生活は出来ない、医者になって趣味として続けろって言われた。」
「絵に描いた餅、お父様上手いこと言うわね。」
「彼女はそれ以上のことを言い返した。」
賢治君が思い出すように笑った。
「何て言ったの?」
「お父さんは私が本当に好きな人と結婚したいと言っても、お父さんが探して来たお見合い相手と結婚させて、その彼は愛人にしなさいって言うんでしょうねって。」
「あはは、言い得て妙。」
「カンカンになったお父さんに絵の具もキャンバスも全部捨てられたって言ってた。明石さんは観念して医学部受験するふりして、塾をサボってアルバイトしてお金を貯めた。そして、そのことをそっと僕に教えてくれた。」
「で、どうしたの?」
「高校を卒業すると家を出て、絵の専門学校に通い始めた。」
「美大じゃなくて?教師になりたかったんじゃなかったの?」
「大学なんてどうでも良くなったんだ。アルバイト先が小さな絵画教室で、そこの若い所長と恋に落ちて結婚した。今は夫婦で一緒に学校を切り盛りしながら、たまに個展を開いてるらしい。」
「じゃあ、あなたとは自然消滅?」
「だって付き合って無いから。」
「ウソ、告白とかしなかったの?」
賢治君が頭を掻いた。
「男と女っていうより同志、ソウルメイト的友達になっちゃってて、そういうタイミングがつかめなかった。」
「らしくないわねえ。」
貴子は賢治君の顔を覗き込んだ。
「大切過ぎて壊したくなかった。大して好きでも無い子には手を出せたんだけどね。だから、他の女の子とデートしたりしてた。」
「呆れた。そんな軽薄なことしてるから嫌われたんじゃない?」
「僕のことは異性として見て無かったと思う。同い年の男はガキに見えたのかもしれないな。実際、結婚相手はかなり年上だったし。でも、ひとつだけ確かなのは、彼女が自分のために人生を選んだってこと。」
「一度でも後悔しなかったのかな。他人のあなたにはわからない葛藤だってあったかもしれないわよ。」
「かもな、一度だけ、東京で一緒にお茶を飲んだことがあるんだ。相変わらず眼鏡掛けてるんだけど、四角い赤い眼鏡が黒縁の丸い眼鏡に変わってたせいかがり勉返上、マンガチックでね。ラフなシャツとジーンズで化粧っ気無し、親の期待っていう重荷を捨てて楽になって、それに子供が出来たら親とも和解したって。孫会わせたら目尻下げて降参みたいよ、って笑ったんだ。その時の笑顔がかつての笑いと全然違うことに僕は気づいた。いつも明るく良く笑う人だったけど、あの頃の笑いは脳が命令してその命令に忠実に従った笑い。でも、その日の明石さんは笑いたいから笑ってた。そのくらい自然な、皮膚の下から溢れ出したような笑いだった。」
「つまり明石さんはとっても幸せに暮らしているのね。」
「もちろん苦労はあるだろうし、経済的にはお嬢様時代とは雲泥の差、医者のステイタスとか捨てたものが大きくて、正直、親の言う通りの選択をしたらどんな人生になっていたんだろうって思うことはあるって言ってた。働きながらの子育ては大変だし、お金のやり繰りも骨が折れるしって。それでも自分の好きな道を選べたから後悔しないって。」
「ひょっとして、あなたは彼女に感化された?」
賢治君は、柔らかく微笑んだ。
「さあ、どうだろう。ただ、彼女が自分のやりたいこと貫いた意思みたいなものに感銘はした。誰でも出来る簡単なことじゃないから。それって医者になるよりはるかに難しい選択だから。世間的には医者になる方がはるかに大変だと言われるかもしれないけど、誰もがそんな風に貫けることじゃないから。」
「そしてあなたも大学に行かずに花屋になる道を選んだ。今度こそ明石さんにに負けたくなかったから。」
「その逆だよ。花屋をやりたいって気持ちはずっとあった。彼女がそのまま大学に行くって決めたら僕も迷いが生じたかもしれない。安倍さんの言う通り、学歴で格差をつけられたくなかった、同等以上でいたいって気持ち、正直あった。でも、それ以前に僕が大学に行かないって決めてたのは、やっぱり高校すら行かなかった僕の両親が丹精込めて築いた薔薇の畑を何かの形で継続したかった。僕の両親は僕に何かを強制することなんてなかったけど、子供の僕が大人になっても花屋をやりたいって強烈に思い続けるくらい美しいものを育てているから。」
優しい眼差しで語る賢治君の横顔を眺めながら、貴子はふと思った。
「逆かもしれない。」
「ん?」
「彼女があなたに感化されたんじゃないかな。」
賢治君が振り返った。
「明石さんは鹿沼君を密かに想っていた。あなたに会わなかったらそのまま医大に行ってたと思うな。」
「まさか。さすがにそれは無いだろ。」
「どうかな。あなただってそんな風に思ったこともあったんじゃない。」
私は賢治君の手を取った。
「もう一度聞く。彼女に告白しなかったこと、後悔して無い?」
賢治君が私に振り向いた。
「実はすっげえ後悔してる。ダメでもトライすべきだったって。生意気なガキだったからさ、変なプライドが邪魔した。だから、そういう後悔は二度としないって心に決めた。」
賢治君は貴子の顔を真っ直ぐ見ながら言って、少し目を細めて風に揺れるポピーたちを眺めた。
旅館に戻り、助手席のドアを開けて足元の玉砂利にジーンズの足を下ろした。
その瞬間、目の前にスーツの足が二本立っていることに気づき、顔を上げた。
亮介だった。困惑した表情で貴子を見下ろしている。
どういうことなんだ。」
亮介は貴子と賢治君の顔を交互に見ながら、腕を組んだ。
「説明してくれないかな。」
どう言いつくろったらいいだろうか。この格好で商談と言う訳にはいかないし、偶然旧知の友人に会ったと言おうか・・・。
「あの・・・」
賢治君があの人懐こい微笑みを亮介に向けた。
「僕、日比谷花壇の店員なんです。」
「は?」
賢治君が車のダッシュボードの中から名刺の入った箱を取り出し、その一枚を亮介に渡した。
「安倍様のお部屋のフラワーアレンジを担当させて頂いております。」
亮介が賢治君の顔を名刺を何度も見比べている。
「実は家業が花農家で、こちらの宿にもお納め頂いているんですが、今日、配達の際、偶然お姿をお見受けして、お声を掛けさせて頂きました。ひとり旅とお伺いして、せっかくなので、知多半島のポピー畑と薔薇園にご案内させて頂きました。」
亮介が、ああ、と小さく叫んだ。
「じゃあ、あの部屋のアレンジメントは君が?」
「亮介、彼はセンスが抜群だから全てお任せしているの。」
貴子も慌ててフォローした。
「恐縮です。」
賢治君が頭を掻いて頷いた。
「見て。」
貴子は携帯をアンロックして、ポピー畑の写真を亮介に見せた。
「そうだったんですか。それはお世話になりました。いや、急に花なんか飾るからびっくりしたんですが、確かに部屋が華やかになりましたね。」
そう言って、貴子の肩を抱いた。
「お友達からお部屋に女を感じないから花を飾るように勧められたと仰ってましたよ。」
「香織よ。」
貴子は亮介の耳元に手を押えて囁いた。亮介が笑った。
「香織ちゃんらしいな。全く君らは仲がいいね。それで貴子、宿に話して僕の分の夕食も用意してもらうことにしたから、今夜はふたりでゆっくりしよう。と言っても明日の朝は君が寝ている間に一足先に東京に帰らせてもらうけど。専務とのゴルフに間に合わせたいんでね。」
亮介はそう言って、貴子の頭にキスをした。貴子はちょっと驚いた。亮介は人前でこんなことをするタイプでは無いのだ。
「あの、僕は仕事があるので、失礼します。」
賢治君が言って、亮介と貴子に会釈をし、踵を返した。
「正直言ってちょっと妬けたな。」
亮介が冷酒を口に含みながら言った。食事の前に部屋の露天風呂で軽く汗を流し、浴衣で差し向かいに座っている。
「宿の主人から貴子が誰かと出掛けたと聞いたが、まさかあんな美形の青年とは思わなかったから、一瞬、頭に血が登った。」
「亮介でも妬くことがあると知って、ちょっと光栄かも。」
「そりゃ、一応恋人だからな。」
一応、って何よ。口に出さずに言った。
「急に来たりするから、驚いた。」
「驚かせようと思ってたんだから、まあ、それに関しては成功だな。」
「鹿沼くんって言うんだけどね。」
「えっ?」
「日比谷花壇の彼。すっごい才能あると思う。いつも私の好みストライクゾーンの花をアレンジしてくれる。家に帰って花が待ってるって悪くないなあって思わせてくれた。若いのに、将来のヴィジョンがちゃんとあって、三十までに自分の店を持つんですって。」
「それは良かった。」
お椀の蓋を開けて海老真薯に箸を入れながら亮介が言った。良かったと言いながら、あまり興味は無さそうだ。賢治君の言う通り、数十億の融資を日常的に扱う亮介に、小さな花屋の話など聞く価値も無いのかもしれない。
食事が終わると、もう一度、今度はゆっくり温泉に浸かろうと亮介に誘われた。白い月を眺めながら、湯船の中で亮介が貴子を自分の膝に乗せ、後ろから抱き寄せた。そして貴子の顔を自分に向けて、
「布団敷いてもらうまで、待てないかもしれない。」
耳元で囁き、唇を激しく吸った。
日常が戻って来た。朝起きて、せわしなく支度をして、地下鉄に乗る。電話とデスクトップのモニターと書類との間でリレーを繰り返し、また地下鉄に乗って部屋に戻る。
あれから賢治君からは連絡が無い。花の無い部屋が殺風景だ。ふと、初美ちゃんが言っていた投資家の話はどうなったのだろうと気になり始めた。あの時、賢治君が帰ってくるタイミングで答えを聞き忘れ、賢治君本人に聞くのも忘れてしまった。
それにしても、賢治君が秀才だったという話には驚いた。それと同時に衝動的とは言え、ただの高卒の花屋の店員とセックスまでする理由がそこにあったのだと納得した。貴子は彼の潜在的な能力に惹かれたのだ。
あの後、亮介は夜明け前にタクシーを呼んで、始発ののぞみで東京に戻った。露天風呂での情事は新鮮だった。いつのも正常位では無く、貴子を抱っこする形で行われたからだ。今まで何度か旅行に行き、温泉も今回が初めてでは無い。でも土曜日の亮介はいつもと違って大胆になっていた。
「そりゃあ、彼が白状したように、賢治君に嫉妬したからでしょ。」
しろたえのチーズケーキを食べながら、香織が言った。
「自分の恋人が若い青年と仲良く、レアな外車から降り立ったんだから、燃えるわよ。」
「男って単細胞ね。」
貴子が言うと、
「貴子だって、妹とは知らずに賢治君が若い女性とラブリーなブレックファスト食べてるところを見て、妬いたんじゃない。」
「そんなこと無いわよ。」
「どうだか。」
香織が貴子の顔を覗き込んで、含み笑いを浮かべた。
「それにしても賢治君、あの自信家の亮介君が頭に血が登るというくらい美形なの?紹介して欲しいなあ。」
「人に紹介するような仲じゃないし。」
「秘密のセ・フ・レ。」
香りが含み笑いをした。
「だから、もうそんなことは金輪際無いって言ったでしょ。」
「わかったわかった。それにしてもいい人ねえ。咄嗟に上手く繕ってくれちゃったりして。若いのに機転が利く。妹さんの話どおり馬鹿では無いわね。で、結果的に貴子と亮介くんは燃え上がってラブラブエッチ~、結果オーライってところね。」
まあね。貴子は言いながら、賢治君は亮介に嫉妬しただろうか、などと考えていた。
「何、黙っちゃって。エッチの回顧録ならベッドの中でひとりでやってよね。」
香織が腕をつついた。
木曜日が来た。賢治君の配達の日だ。
貴子はオフィスで腕時計を見た。今頃活け終わってもう部屋を出たところだろうか、それともこないだみたいに部屋で待っているのだろうか。
仕事をいつもより早く切り上げて部屋に帰った。新しい花はポピーと大輪の薔薇。賢治君の実家のものだろう。ドライブの思い出の花。その記憶を思い出させたいから?貴子はバッグをカウチに置いてキッチンカウンターに行ってメッセージカードを探した。
何も置いていない。
どうして?
独り言のように言って、身体をカウチに沈めた。
亮介が好きなのに、私はどうしてこんなに賢治君のことが気になるのだろう。
あれから賢治君からは何の連絡も無く、メッセージカードも置かれなくなった。それでいい、そうあるべきだと思いながらも、花が新しくなる度についついカウンターの上にメッセージカードを探してしまう自分がいる。
梅雨に入った。六月、ジューンブライドの季節。銀座のティファニーのウインドウにもプリンセスカットやクッションカットのエンゲージリングがこれ見よがしにディスプレイされる。
亮介とは相変わらず、進展の無い山手線を続けている。貴子はいろいろ考えることを放棄して仕事に没頭した。新しい企画が通り、商品化に向けて部が一体となって残業残業の目まぐるしい日々が続いていた。
その日も終日ジメジメした典型的な梅雨日だった。午後九時を回り、社屋のビルを出て傘を差そうとして、急に面倒になりタクシーを拾った。タクシーの中でお腹が鳴った。まだ夕食さえ食べていない。でも雨の中、どこかで外食することも買い物に寄って料理することもおっくう、そんな夜だった。家に着いたら、梅干し入りのお茶漬けでも食べよう、月に一度門前仲町の近為で買う絶品の梅干しだ。確かその時一緒に買った京のお漬物が残っているはずだ。そう思いながら座席に深く身を沈めた。
マンションの前でタクシーを降り、エレベーターで部屋に向かう。目をつぶったままでも辿りつける貴子の戻るべき巣だ。
玄関の鍵を回しドアを開け、リビングに向かった。電気をつけようとした瞬間、いきなり誰かに抱きすくめられた。叫び声をあげようと口を開けた途端に、その口を口で塞がれた。顔を上げると賢治君だった。
「ちょっと何するのよ。」
唇を離された瞬間に彼の身体を力を込めて押しのけた。賢治君はその腕を掴み、もう一度貴子をきつく抱き寄せ、濃厚なキスを仕掛けた。もがこうとしても彼はそれを許さない。絶対離さないと決心したみたいな抱き方、キスだった。全身が溶けてしまいそうな感触に、貴子は途中から彼の抱擁とキスを受け入れ、応えた。長いキスを終えると、賢治君にいきなり抱きかかえられ、寝室へと連れていかれた。