第3章 鍵(3)
第3章 鍵(3)
翌朝、良太はいつものように美咲の下手な鼻歌で目が覚めた。
よりによって枕元で歌わなくても、とは思うものの、べつに不快ではない。
「美咲、おはよう」
「おはよ」
美咲は、絵を描くのに忙しいらしく、そっけない返事を返した。
良太は、美咲の鼻歌を聞きながら、もう少しまどろむことにした。ゆうべは結局、何時頃まで起きていたのだろう。そう考えながら、今日、マーナに鍵を返すべきかどうか、良太は悩んだ。
布団の上で何度も寝返りをうちながら、結局答えが出ないまま、いつの間にか眠ってしまった。
良太が再び目を覚ました時には、もう昼を過ぎてしまっていた。
家の中はしんとしていて、美咲の姿は見えない。
胸騒ぎがした。最近、美咲はやたらと一人で外に出たがるようになった。もちろん、一人で遊びに行かせたりはしない。神経質すぎるくらいでないと子供は守れない、嫌な時代になったと両親が話していた。
「美咲?」
どこかで寝ているのか、慌てる兄を隠れて見ているのか――。良太は、きっとそうに違いないとつぶやきながら、家中を探した。
台所、居間、父が書斎と呼んでいる押し入れの左側、母が物置と呼んでいる押し入れの右側。風呂場、トイレ、テーブルの下、洗濯機の中まで探したけれど、
美咲は、いなかった。
「美咲…?」
自分の声で、初めて全身ががくがくと震えていることに気づく。まさか、とドアを確認すると、
鍵が、開いていた。良太はそのまま家を飛び出した。
このあたりの遊び場といったら、家のすぐ近くのさわら公園。ブランコと滑り台、鉄棒と砂場があるだけの小さな公園。たまに、近所の子と一緒に遊ばせている。そこに、
美咲は、いなかった。
良太はあせった。美咲の行きそうな所なんて、たかが知れている。八割がた、この公園だ。けれど、
あとの二割を、良太は知らない。
「美咲ー!」
叫んでも返事は帰ってこない。
「良太くん? どうしたの?」
近所のおばさんが心配そうに声を掛けてきて、良太は事情を説明した。誰にも知られないで、自分だけで美咲を見つけられればそれに越したことはない。でも、そんなことを言っている場合じゃない。お母さんに叱られても、お父さんに怒鳴られても、どんなに大騒ぎになっても、
美咲を、見つけなきゃ。
良太は走り回った。コンビニ、少し遠い公園、怪獣の木がある空き地、駅前まで行ってみたけれど、美咲は見つからなかった。
交通事故。どうしよう。誘拐。どうしよう。
まだ見てない場所、まだ探していない場所。そうだ、
工事現場。
大きな道路が通るから、森林公園が潰された。公園だった場所は、今は透明なプラスチックの防音壁で囲まれてしまい、少しずつ山を削る工事が進んでいる。
良太は走る。蝉の大合唱が近づいてくる。だんだん狭くなる森に、蝉たちは身を寄せ合うように暮らしている。「森を返せ」という張り紙が何枚かあるけれど、これは蝉や鳥たちの声のような気がする。
工事現場に着くと、良太は透明な防音壁にへばりついて美咲の姿を探した。昼休みなのか休工日なのかわからないけれど、工事の人の姿はないし機械も動いていない。誰かいれば美咲も簡単には入れないだろうけれど、これなら、誰にも見つからずに工事現場に忍び込むことができる。
良太は入口を捜した。大きくなくてもいい。防音壁の隙間とか、金網の破れたところとか。まさか鉄柵を乗り越えることはないだろうから、大人が気づかないような、足下の穴。
遠くから、美咲を探す声が聞こえてくる。さっきのおばさんが、何人かに声を掛けてくれたのだろう。大変なことになった、と良太は改めて自分が二度寝したことを後悔した。
工事現場をぐるりと回り込むと、作業員の休憩所だろうか、プレハブ小屋があった。その裏の金網に、小さな穴が空いている。美咲ならなんとか通れそうな穴。
自分が通れるほどは大きくないので、良太は金網によじ登り、乗り越えた。人に見つかったらきっと怒鳴られる。良太には、工事現場の人というと大きくて強くてうるさくて乱暴というイメージがあった。それでも事情を話せば手伝ってくれるだろうから、誰かに見つかったらそれはそれでいいと思っていた。
「美咲ーっ!」
工事現場は思ったより平らで、遠くまで見渡せた。住宅地のほうからはまだ森が残っているように見えていたけれど、それはなるべく森を残しているように見せかけるため、反対側から森を削っているからだった。削られた後はほとんど平らで、数台のブルドーザーやショベルカーの陰を見ると、あとはもう探す所はない。
良太はその場にへたり込んだ。もう、どうしたらいいのかわからない。
お母さんに知らせて、どうしたらいいか聞こう。心配をさせたくはないけれど、このまま美咲が見つからなかったら心配どころの話ではなくなってしまう。
家に向かって畑の横を駆け抜ける。全力で走るけれど、走っても走っても、前に進んでいない気がする。自転車に追い抜かれる。ああ、乗せてくれないかな。少しでも早く、家にたどり着きたいのに。
やっと畑を過ぎて、角を曲がる。普段は気にしていなかったけれど、ここは少しだけ下り坂になっている。良太は下り坂で勢いを増したように感じたけれど、まだ、まだ、まだ、遅い。もっと速く、もっと速く、もっと速く走りたい。
家に近づくと、さっきのおばさんも走っていた。
「おばさーん!」
「ああ、良太、くん、さっき、ね、」
おばさんはぜいぜいと息を切らしている。きっと、こんなに走ったのは久しぶりなのだろう。しかも真夏の炎天下、どれほど辛いだろう。すべて、僕のせいだ。
「さっき、人相の悪い人が美咲ちゃんを連れて歩いてたって。美咲ちゃん、泣いてたって。良太くんの家の方に歩いていったっていうから…」
おばさんの慌てぶりとは正反対に、良太の表情が少し和らぐ。
「マーナさんだ…」
「あら、知ってる人? それなら…」
良太は、おばさんが言い終わらないうちに走り出した。
最後の角を曲がって家が見えると、
玄関の前に、美咲がしゃがんでいた。その横には、
マーナがいる。美咲の肩を抱きかかえていた。マーナは、駆け寄ってきた良太を睨み付けた。
「たまたま見つけたんだ。国道を、泣きながら歩いていた」
マーナは、美咲の肩に回した腕に、ぐっと力を込めた。
「美咲…」
「お兄ちゃん…」
気が緩んだのか、美咲はわあわあと泣き出した。
「美咲、勝手に表に出ちゃダメじゃないか。探したんだぞ」
そのとき、マーナが、
良太の頬を叩いた。
「な…なにすんだよ」
「お前が何を思い悩もうと、勝手だ。しかしな」
マーナが、一段と凄みの効いた目つきで良太を睨む。
「美咲を、その犠牲にするな」
「…ごめんなさい」
「暑い。早くドアを開けろ」
こうして、良太と美咲の家に、とうとうマーナが入ってきた。
「みやげだ」
マーナは、白い箱をテーブルに置いた。
「吉倉屋の和風ケーキだ。紅茶よりも、冷たい麦茶が合うそうだ」
「ええと…」
マーナは、戸惑う良太に、いらだった。
その、いらだった表情を美咲に向けると、美咲は、ひ、と言って飛びのいた。
「美咲、おみやげのケーキ、一緒に食べよう。うまいぞ」
「う…うん」
「麦茶、あるか?」
「う…うん」
「じゃ、持ってきてくれ。美咲と、こいつと、わたしの分」
「う…うん」
美咲は逃げるように台所に走っていった。
「あ…あの…」
美咲がいなくなると、恐る恐る、良太が切り出した。
「ありがとう。あの…」
「まあ、無事でよかった。それはそれとして」
わかってるだろう、とばかりに、マーナは良太を睨んだ。
「例の鍵のこと?」
「まあな」
「勝手に持ってきたのは悪いと思ってる。けど、やっぱり、その…」
マーナは襟元を広げて、こもった熱を逃がす。
良太はあわてて視線をそらす。
「別に、鍵を返せとは言わない。スペアキーがあるからな」
──え?
美咲が戻ってきた。
「…おまたせしました」
いつの間にか、そんな言い回しを覚えた美咲に、いつもなら頬が緩む良太だけれど。
今は、そんな気になれない。
「さあ、ケーキを食べようか。あれ。そうか、皿もいるな。美咲、持ってきてくれ」
マーナが棒読みでそう言って、美咲を追い払う。美咲がいなくなると、マーナは続けた。
「スペアキーはあるがな、お前に誤解されたままなのは気分が悪い」
「誤解?」
良太は、マーナの言葉を思い出した。
――とても、酷いことをする。
そうだ、確かにそう言っていた。
「酷いことだ、ってマーナさんが言ったんじゃないか。何が誤解なんだよ」
美咲が、かちゃかちゃと三枚の皿を持ってくる。
これは焼き魚に使う皿なのだけれど、和風ケーキだから和風の皿を持ってきたわけではなく、たまたま手の届くところにあったのだろう。
「ああ、フォークもだ。美咲、悪いが持ってきてくれ」
美咲は少しむくれた様子で、それでも逆らえずに台所に向かった。
「お前、アルバム持ってるか?」
もう、マーナの不意打ちには慣れた。
「アルバムっていうか…。お父さんのパソコンの中に、デジカメのデータがあるよ」
「デジ…?」
マーナは、こういうものには疎いらしい。
「ええと。うん、アルバム、あるよ」
「…そうか。ええと。それがな、いっぺんに全部消えたらどうする?」
マーナの戸惑いを見て、良太は、少し意地の悪い言い方をした。
「パソコンのハードディスクがクラッシュしても、バックアップのCD−Rがあるから大丈夫だけど。それも消えたら、っていうことだよね?」
マーナは良太を睨みつけた。生意気なガキが自分の知らないことをしゃべっていて、気にくわない。その目つきはいつも以上に鋭かったけれど、良太にとっては、マーナを悔しがらせている優越感のほうが大きかった。
「全部消えたら、そりゃ、悲しいと思うよ。大切な思い出だもん」
「それで、」
ちょうどフォークを持って戻ってきた美咲を、マーナの目は無意識に追う。
「アルバムがなくなったら、お前は美咲のことを全部忘れるか?」
いきなり自分の名前を呼ばれて、美咲はきょとんとしている。
マーナは、ケーキを取り分けながらつぶやいた。
「あの木に集まってるのはな、中心にいるおばあさんの『想い』以外は、持ち主からはぐれてしまった、誰の物かもわからない『想い』なんだ。アルバムから剥がれて、道ばたに落ちてる写真みたいなものだ。だから、」
いちばん大きくて派手なケーキを美咲に渡しながら、マーナは、自分自身に、言った。
「思い出を消すのは、酷いことだ。でも、それで確実に一人の人が救われる。それならわたしは、人を救う方を選ぶ」
マーナと良太は、何も言わずにケーキを食べた。
美咲はどうしたらいいかわからず、二人の顔を交互に見ている。重苦しい空気に耐えきれず、泣きそうな顔をしている。
マーナはその様子を見ると、精一杯、彼女にとっては精一杯優しい声で、
「美咲、おいしいか」
と訊いた。けれど、美咲の「うん」という短い返事の後には会話が続かなかった。
――何か話さなくちゃ。
良太は、今度は自分が沈黙を破った。
「マーナさんは、いつも、こういう事をしてるの?」
マーナは、さく、とイチゴにフォークを突き刺した。
「いつもじゃない。普段はちゃんと学校に通ってる。仕事をするのは休みの日だけだ」
イチゴを口に放り込むと、むぐむぐと味わう。おそらくマーナは、自分がケーキやイチゴを口に入れるたびに少し顔が緩んでいるのに気づいていないだろう。
「連休とか夏休みには、依頼を受けて少し遠出する。調査して、消去して、終わりだ。邪魔ものがいなければ、すぐ終わるんだが」
ぎろ、とマーナが睨む。
たじ、と良太がのけぞる。
「…一人でやってるの?」
「いままでは父の助手をしていたが、今年から一人で任されるようになった」
少しだけ得意げに見えたマーナに対しての、なんだ初心者か、という良太のつぶやきは、無視された。
「人の『想い』というのは、お前が考えているより強い。特に今回みたいに、死…この世を去ろうとしている者は、自分が残した『想い』に引きずられ、苦しむことが多い」
「苦しんで、どうなるの…?」
マーナは、ちら、と上目遣いに良太を見た。
「べつに、どうにもならない。死んでしまえば、それでおしまいだからな。ただ…」
ケーキの最後のひとかけを、名残惜しそうに弄びながら、マーナは顔を上げた。
「すがすがしい気分で去ってほしい。そうは思わないか」
相変わらず、逆三角形の目は恐い。けれど、
良太は初めて、マーナの瞳に優しさを見たような気がした。
良太は迷った。マーナの言葉を信じて、鍵を返すべきかどうか。もちろん、スペアキーがあるというから、鍵を返すかどうかというのは本当の問題ではない。つまり、
マーナを信じるかどうか、という、曖昧で形のない、気持ちだけの問題だ。だから難しい。簡単に答えが出る問題ではないし、答えを出したところで、割り切れるかどうかというのは別問題だから。
「美咲、クリームだらけだな」
マーナは、美咲に手を伸ばした。美咲は目を見開いて、硬直したままその指先を見ていた。が、
マーナの指が口の周りについたクリームをとってやると、美咲は急に体の力を抜いて、安心したようだった。
――ああ、猫みたいだな。
良太は、ときどき道ばたで出会った野良猫を撫でることがある。もちろん、近寄るだけで逃げてしまうのもいるけれど、たまに、触らせてくれる猫もいる。最初はおびえて警戒していた猫が、頭に触れた瞬間にこちらに敵意のないことを感じ取り、安心してくれる。その瞬間が、良太は好きだった。
「さてと」
マーナは、最後に美咲の口をティッシュで拭くと、立ち上がった。
「わたしはこれで帰る」
「え、あ、ええと、ケーキ、ごちそうさま」
「今夜十時、あの空き地で待ってる。鍵は、そのとき持ってきてくれ。美咲は連れてくるなよ、夜遅くに出歩いたら危ないからな」
あと何時間か。それまでに答えを見つけておけ。
良太はそう言われた気がして、急に焦った。
まだ、心を決めかねている。
マーナのことは信じている。信じていいと思う。
けれど、どこかで納得しきれない。
それは理屈ではなくて、会ったこともない誰かと会ったこともないおばあさんを天秤に掛けるという、答えが出るはずもない問題。
良太は、マーナを玄関で見送って、ゆっくりとドアを閉める。その最後の瞬間、振り返ったマーナと目があった。
ほんの一瞬だけれど、その目が語りかけた聞こえない言葉で、決めることができた。
マーナを信じる。鍵を返す。
それで割り切れるかどうかは別問題だけれど、
鍵を返してしまえば、あとは、
僕一人の問題だから。