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第3章 鍵(2)

   第3章 鍵(2)



 残念なことに、晩ごはんのときに試みられた美咲によるヤマカワショーの再現は、失敗に終わった。

 美咲は歌が、控えめに言ってもご飯がまずくなるほど下手だったし、踊ろうとすると食事中はおとなしく座っていなさいと叱られてしまった。

 けれど、ショーがどれほど面白かったかは、母にも十分伝わったはずだ。

 母は楽しそうに美咲の話を聞いていた。けれど、

 視界の端には、ぼんやりと茶碗を見つめている良太がいる。美咲の話を聞きながら、それでも意識は半分以上、良太に向いていた。

 美咲は相変わらず身振り手振りを交えて熱演している。いろんな歌を歌ってくれたこと、奇妙な踊りを見せてくれたこと、面白いだけじゃなくて悲しいお話もしてくれたこと。

 けれど良太には、その声はまったく聞こえていない。

 『想い』を解き放つ。

 マーナさんは、そう言っていた。

 それが、人助けだ、と。

 この近くに住んでいるおばあさんのためだ、と。

 僕には、よくわからない。

 わからない、けれど、何か、

 何か、

 胸の奥のほう、端っこではなくて、真ん中のほうに、

 大きな石が詰まっているような、

 いやな、いやな、いやな気分。

 僕は、このまま、ぜんぶ忘れてしまって、いいのかな。

「やくそくだよ」

 そう。約束。

「お兄ちゃん」

 そう。僕と、美咲の。

「良太?」

 そう。僕と、お母さんの。

 約束。それは、

「お兄ちゃんってば」

「え」

 気がつくと、美咲が横に立っていた。良太の腕にしがみつき、心配そうに見上げている。

「良太、どうしたの?」

「ああ、ええと、なんでもないよ。ちょっと、ぼうっとしてただけ」

「お兄ちゃん、こんどヤマカワんちに遊びに行くときも連れて行ってね」

 ああそうか。

 約束だ。

 また遊びに行こう。そうだ。

「そうだね、また一緒に行こう」

「遊園地も行きたい」

「うん、行こう」

「やったー! やくそく!」

 目の前に突き出された美咲の小指を見つめて、良太は思う。

 美咲は、この細くて小さな一本の指に、何を託すのだろう。


 小さな、小さな、小さな、小指。

 それで何を信じ、何を願うのだろう。

 小指と小指で交わされた、約束。

 それは思い出の、最初の切れはし。

 約束は、降り積もった想いの、いちばん底でいつまでも温められて。

 やがて花が咲くように、実を結ぶように。

 約束は咲き、いくつもの思い出をたわわに実らせる。


 とても、酷いことをする。

 マーナさんは、そう言っていた。

 良太には、その意味が、今わかった。

 マーナさんは、大切な物を消そうとしている。

 願い。約束。記憶。──『想い』。

 それは、人と人を、いつまでも繋ぐものだ。

 大切な人を信じ、

 大切な人を想い、

 大切な人を慈しみ、

 そしていつまでも、大切な人と、共に。

 良太は突然がたんと立ち上がると、母が止めるのも聞かずに走って家を出た。

 僕は馬鹿だ。どうしてすぐ気がつかなかったんだ。『想い』を消す。それがどんなに酷いことか。マーナさん自身は、それを隠そうとは決してしていなかったのに、どうして僕は、気がつかなかったんだ。僕は、僕は、馬鹿だ。



 良太が全力で走っているころ、マーナはまだ空き地にいた。

 操作盤のいくつかのスイッチを入れ、ダイヤルを慎重に回す。ぶうん、と唸るような音に神経を集中し、徐々に電圧を上げてゆく。

 やがて、木がうっすらと青く光り出す。マーナはさらに慎重に、別のダイヤルを少しずつ少しずつ回す。そこに、

 良太が駆け込んできた。わあっ、とわめきながら、マーナにはわき目もふらずに木に突進する。

 マーナは慌てた。

「なっ、待てお前、おい!」

 そう叫びながら、主電源を切った。瞬時に木の光は失われる。直後、良太は木に巻き付けられた電線を乱暴に引き剥がした。

 もう一瞬、マーナがスイッチを切るのが遅ければ、良太は真っ黒に焦げてしまっただろう。マーナは、叫びながら暴れる良太を、呆然と見つめた。

 何本かの電線を地面に引きずり降ろすと、良太はやっとおとなしくなった。気が済んだとかそういうことではなく、叫び続けながら暴れたので体が動かなくなり、しゃがみ込んでしまったのだった。

「おい、何のつもりだ」

 良太は、そう呼びかけられて初めて気づいたように、マーナを見た。ひ、と良太は後ずさる。マーナが怒っている。いつも通りの逆三角形の目が、さらに、今はつり上がっている。薄く開いたへの字の口からは、食いしばった歯がのぞいている。今、雷でも鳴ろうものなら、良太はきっと気絶してしまう。

 良太は、けれど立ち上がり、ゆっくりとマーナに近づいていった。

「人助けなんて、嘘じゃないか」

 さらに目つきを険しくするマーナにも、良太は動じない。

「あの木の周りには、光がいっぱいあるって、美咲が言ってたよ」

 ――気づいたか。やっぱりな。

 マーナは、軽く舌打ちをする。

 隠していたことがばれたからではなくて、

 良太が、知らなくてもいいことを知ってしまうことへの悔やみ。

「約束とか思い出とか、そんなの消しちゃだめだ! おばあさんがどんな人かは知らないけど、その人のために他の人の思い出を消すなんて、許せないよ!」

 マーナにはわかっている。良太が、どれほど妹を愛し、大切に思っているか。約束と思い出の持つ意味を、どれほど深く感じているか。だから、

 マーナは、すぐには何も言えなかった。

 とても、酷いことをする。

 けれどこれは、人助けだ。

 けれどこれは、とても、

 とても、酷いことだ。

「お前の言いたいことはわかる。だがな、人の形を成さない程度の『想い』は、」

「程度の、ってどういうことだよ! 大切じゃない約束なんてない! 大切じゃない思い出なんて、ないっ!」

 マーナは、良太にどう説明しようかと悩んだ。良太なら、きっとわかってくれる。けれど、どう説明したら。

 マーナの沈黙の意味を、興奮した良太は正確に受け取ることができなかった。良太は、マーナが目をそらした隙に、操作盤に挿してある鍵を引き抜いた。

「おい、それはだめだ、返せ!」

 慌てるマーナの姿に、良太は確信した。これがなければ、大切な思い出が消されることはないんだ。おばあさんには――悪いけど、たぶんこれで、たくさんの人たちのたくさんの思い出が、守られるんだ。

 良太は逃げた。

 マーナさんから逃げるのは、これで何度目だろう。けれど今度は――。


 人から、

 物を、

 奪って、

 逃げた。


 僕は泥棒だ。

 違う、助けるためだ。

 おばあさんを犠牲にして?

 けれどたくさんの思い出を守るために。

 おばあさんを犠牲にして?

 人から物を奪って?

 助けて、助けて、助けて。

 熱い空気が、まるで粘りけを持っているように良太に絡みつく。

 頭の中がまるでぐるぐると渦巻いているようで、足がもつれる。

 良太は、必死にもがきながら走った。

 途中何度か転んで膝をすりむいたけれど、構わずに走った。

 振り返るのも恐くて、鍵を握りしめて走った。

 息を切らせて家にたどり着くと、

 ドアの前で、母が待っていた。

「良太? どうしたの? 何があったの?」

「何でもない」

「すりむいてるじゃない」

「何でもない」

「良太」

「何でも、ないっ!」

 良太は、母を押しのけて家に飛び込み、そのまま布団に潜ってしまった。



 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 返さなきゃ。謝らなきゃ。

 理由はどうあれ、人の物を取ったのは間違いだ。

 違う。これは、大切な思い出を守るためだ。

 違う。泥棒は泥棒だ。

 違う。僕は。違う。

 夏用の薄い布団を通して、低い声が聞こえてきた。

 久しぶりに聞く、父さんの声だ。どうしよう。叱られる。きっと、ものすごく、叱られる。

 わかってる。返さなきゃ。わかってるのに、叱られる。いやだ、いやだ、いやだ。

「良太、入るぞ」

 びく、と良太は硬直した。

 父は部屋の戸を閉め、こちらに歩いてくる。枕元に、どか、と座った。

「何があった」

 良太は答えない。答えられなかった。

「晩ごはんの最中に家を飛び出して、膝をすりむいて帰ってきた、か。ただごとじゃないな」

「…何でもない」

「秘密か?」

 秘密。隠し事。声に出して言えない、罪。

 良太は、ぎゅっと目を閉じた。そうすることで、世界との接点をも閉じられるような気がした。けれど父は、それを許さない。掛け布団をはぎ取って良太の肩を強く掴み、良太をこの世界に引き戻した。

「こそこそ逃げ隠れするな、堂々としていろ。秘密を持つのは悪い事じゃない」

「…え?」

 隠し事をしないこと。それが良い子の条件、だと思っていた。けれど、夏休みに入ってからというもの、良太は隠し事ばかりしている。それは悪いこと、だと思っていたのに。

「父さんにだって、お母さんにだって、隠し事くらいある。ただな、」

 やっと自分の方を向いた良太に、父は静かに語りかける。

「心配なんだ。良太がいじめられてるんじゃないか、とか。逆に、人に迷惑をかけてるんじゃないか、とか。どうなんだ?」

「そんなのじゃないよ」

「なら、自分で解決できるか」

「…うん」

 後ろめたい気持ちはあった。僕は、マーナさんから鍵を奪った。迷惑をかけている。けれどこれは僕の問題だ。鍵を返すか返さないか、僕が決めなきゃならないことだ。

「なら俺は何も言わない。お前が困ったら手を貸してやるが、まずは自分で解決してみろ」

 自分のことを、俺と言った。僕のことを、お前と言った。

 良太にはその意味がよくわかる。これは親と子の会話じゃない。父さんは、男と男の会話をしてくれているんだ。良太はそれが嬉しくて、

 泣いてしまった。

 父は黙って部屋を出た。

 あなた、どうだった?

 さあな。

 さあって、何があったか聞かなかったの?

 大丈夫だよ。

 ろくに話も聞かないで、なんでそんなこと言えるの?

 大丈夫だってば。それよりメシ…。

 良太は、泣きながら笑ってしまった。

 さっきは男らしく見えた父が、母にはたじたじだ。

 良太は、握りしめたままだった鍵を、枕元に置いた。初めて気づいたけれど、鍵に付いている小さなマスコットから、マーナと同じ、花の香りがする。型抜きしたフェルトを重ねて縫い合わせてあるそれは、動物なのは間違いないけれど犬なのか熊なのかわからない。もう何年もこの鍵と一緒に過ごしているのだろう、白いフェルトが薄く黒ずんでいて、花の香りがなければ汚く感じてしまったかもしれない。

 これを返すか返さないか、僕が答えを出さなきゃ。

 返すのは、おばあさんとマーナさんのため。返さないのは、誰のものかわからない、たくさんの思い出を守るため。

 その夜、良太が眠るまで、答えは出なかった。


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