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第3章 鍵(1)

   第3章 鍵(1)



 久しぶりに晴れて、夏らしい暑さと夏らしい蝉の声が戻ってきた。

 良太と美咲は、暗い空にぽつりと、名残惜しそうに夕日を反射している雲を見上げながら家に急いでいた。



 昨日の夜、珍しくヤマカワから電話がかかってきた。美咲を連れて遊びに来いという。

 ヤマカワの家には何度か行ったことがあるけれど、もちろん美咲を連れて行ったことはない。

「いや、別に、なんて言うか」

 ヤマカワはジュースを注ぎながら、言いにくそうに切り出した。

「あのお姉さんとは、その、あれから」

「会ってないよ」

「そうか…」

 美咲はヤマカワの背中にまわって思い切り蹴り飛ばした。ジュースがはねてTシャツについてしまったけれど、ヤマカワは気にする様子もない。

「ゴメン」

 珍しく元気のないヤマカワを見て、良太はやっと、ヤマカワが自分を責めていることに気づいた。

「ヤマカワは悪くないよ」

「悪いよ」

「美咲は黙ってて」

「…だって」

「僕が、言っちゃいけないことを言ったから。だからマーナさんは怒ったんだ。言っちゃだめだって、わかってたのに」

 ヤマカワはしばらく黙っていたけれど、

「まあ、」

 と突然明るい声で言い放った。

「お前がなんて言おうと、俺は俺が悪いと思う。だからお詫びに、」

 立ち上がり、

「これからたっぷり三時間、ヤマカワショーで楽しんでくれ!」


 二人だけのためのヤマカワショーは、うるさいと文句を言いに来た隣のおばさんまでも観客席に座らせ、きっかり三時間続いた。

 お腹が痛くなるほど笑って、目が赤くなるほど泣いて、ヤマカワの家を出る頃にはすっかり日は傾いていた。少し遅くなってしまったけれど、家には連絡してあるから大丈夫だ。



 雲は、ふちのところだけを金色に光らせて、けれどそれは目に見えるほど急激に勢いをなくしてゆく。きらきらと何度かまたたくように輝いたあと、ふい、と光を失った。

「美咲、ヤマカワショー、おもしろかった?」

「うん」

「ヤマカワのこと、好きになった?」

「ううん。でも許してあげる」

 厳しい妹だな、と肩をすくめる良太の手が、ぐいと後ろに引っ張られた。

 美咲が引っ張ったわけではなく、

 良太と手を繋いだまま、立ち止まってしまった。

 ――そうか、ここを曲がれば、

 怪獣の木がある空き地に向かう道だ。

「美咲」

 さっきまで楽しそうだった美咲が、口を尖らせて泣きそうな顔をしている。

「おんぶしてやるから。な?」

 美咲は口を尖らせたまま、良太の背中にしがみついた。

 良太はもう何も言わず、早足で空き地の前を通り過ぎようと思った。怪獣の木が怖いわけではないけれど、

 マーナに言ってしまった酷い一言が、今は自分の胸に突き刺さっている。

 良太は足下だけを見て歩いていたけれど、空き地の前で、「あ」という美咲の声に顔を上げた。

 そこに広がっていたのは、異様な光景だった。

 怪獣の木から十メートルほど離れた所、空き地の真ん中に発電機が置いてある。その横には簡易テーブルがあり、いくつものダイヤルやメーターが付けられた操作盤が乗せられていた。

 操作盤からは一本の太い電線が怪獣の木の先端まで続いており、そこから何本かに分かれた電線が、クリスマスツリーの飾り付けのように、木を何重にも巻きながら地上まで下りている。その途中からはさらに電線が分かれていて、それらは傘を広げたように斜めに張り出し、木の周囲の地面に突き刺された金属製の杭に繋がっている。

 そしてマーナが、電線の張り具合を確かめていた。

 マーナは、良太たちには気づいているはずだけれど、何も言わない。

 良太も、言わなければならない言葉がなかなか出てこない。

 ――ごめんなさい、ってひとこと言えばいいだけなのに。

 暗がりに目が慣れるほどの時間が経ったけれど、良太もマーナも、口を開くことはなかった。マーナは作業をしていたからまだいいけれど、良太は美咲をおぶったまま黙って突っ立っているだけだ。

 沈黙の重さを、いちばん感じていたのは美咲だった。そして、その重さに最初に耐えられなくなったのも、美咲だった。

「お…お姉ちゃん」

 言ってから、しまった、とあわてて自分の口を塞ぐけれど、もう遅い。

 マーナはまっすぐこっちを見ている。美咲は、ひい、と良太に強くしがみついた。

「みーちゃんね、あの…お手伝いするよ」

 驚いたのは良太。美咲が自分からこんなことを言い出すなんて。

 呆れたのはマーナ。美咲にこんなことを言わせるなんて。

「だ…だから…、仲直り…して…」

 マーナの視線は、美咲から良太に移った。その目は、何か言うことがあるだろう、と言っている。

「マーナさん、僕、酷いこと言った。…ごめんなさい」

「まったく…。妹の付き添いがないとだめなのか、お前は」

「う…」

 まったくだ。何も言い返せない。

「僕、もうマーナさんに会えないのかと思ってた」

「仕事があるから戻ってきた。それだけだ。それで、美咲」

 良太は、自分の背中で美咲が縮こまるのがわかった。

 おびえる美咲に、良太は優しく語りかける。

「大丈夫。仲直りしたんだし、もう恐くないよ」

 恐くないよ、と言われてその恐怖を打ち消せるほど簡単なものではない。美咲は警戒したまま目だけを出してマーナを覗いたけれど、やっぱりまた隠れてしまった。

「美咲、手伝うと言ったな」

 マーナの呼びかけに、美咲はさらに縮こまる。そのうち小さくなって消えてしまうんじゃないか、と良太は半分本気で心配した。

「難しいことじゃない。いくつか教えてくれればいい」

 ――もうちょっと優しく呼びかければいいのにな。

 マーナは、構わず問いかける。

「あの木が恐いと言ったな」

 ――それよりも今は、マーナさんを恐がってると思うけど。

「…うん」

 美咲はそれでもけなげに答える。

「どうして恐いんだ。怪獣が嫌いなのか」

「ううん」

 良太の鼓動が、強く、早くなる。僕の見えない物を見ている美咲。

 マーナの目が、ある確信に近づく。

「…怪獣の周りの、光ってるやつが恐いのか?」

 光? あの木の周りに?

 良太は木を見上げた。もちろん、良太にはただの木に見える。それが、美咲には、

「うん」

「どんな光だ? 四角? 三角?」

 良太には、わかった。

 マーナさんは、自分には見えなくても、知っている。美咲が、何を見ているのか。それはたぶん、マーナさんが今までにも同じことを、彼女の言う「人助け」を、何度もしているから。

 美咲が、良太の陰から顔を出した。木をじっと見て、つぶやく。

「…丸いの。ボールみたい」

「いくつくらい?」

「いっぱい」

 マーナは、納得したように木を振り返った。

 そして美咲に、最後の質問をする。

「光、だけか? 他に何か、いないか?」

 いないか? って…、その訊き方はつまり、人のようなもの、がいないか、ということだろうか。

 あの木の下に、幽霊、が…?

「いる」

 美咲の、普段よりも確かに低い声に、良太は震えた。暑いはずなのに、両腕に鳥肌が立つ。

「み、美咲…、いるって…、なに、が?」

「ボールがじゃまで、よく見えないけど…、」

 けど…?

「お姉ちゃんがいる。こっち見てる」

 美咲はそう言うと、良太の背中にしがみついて、完全に良太の陰に隠れてしまった。

 マーナはその様子を見て、さっきまでよりも少し穏やかに言った。

「美咲、ありがとう。もう大丈夫だ。あの恐いのは、わたしが消してやる」

「…ほんと?」

 美咲は、けれど、顔を出さずに弱く答えた。



「ちょっと、待ってよ」

 自分だけが何も知らず、何も見えない良太は、美咲を背にかばったまま、マーナに問う。

「大丈夫って、これから何をするの? それから…、美咲に見えてるものって、…なに?」

 マーナは、しばらく沈黙した後、話し出した。

「古い大きな木には、」

 ただしそれは、良太の問いへの直接的な答えではない。

「たくさんの『想い』が集まるものだ」

 良太には、マーナの話すことが理解できない。けれどマーナは構わず、感情を見せずに独り言のようにつぶやき続ける。

「想い、願い、祈り、思い出。木にはそういったものが集まる。人は古来から、木に寄り添って生きてきたから」

「ひょっとして、美咲の言ってる光が、その『想い』だってこと?」

 ――なかなか賢いな。

 マーナは良太の飲み込みの早さが嬉しかったけれど、彼女の表情からはそれが読み取れない。

「そう、『想い』というのは魂のカケラみたいなものだからな。それがいくら集まっても危険はないが…」

「ない、が?」

 マーナは黙ってしまう。良太は、その沈黙に答えを探す。

「『想い』と一緒に、幽霊がいる…?」

「幽霊じゃない」

 即座に否定するマーナに、良太は少し安堵した。けれど、

「じゃあ、なんなの?」

「この近所にな、おばあさんがいる」

 マーナは、また良太の問いに直接の答えにならない話を始めた。良太には、マーナがより話をわかりやすくするためにそうしていることがわかってきていたし、マーナは、多少遠回りをしても良太は最後まで話を聞いてくれるとわかってきていた。

「もうだいぶ弱っていて、この夏を乗り切れるかどうか、といったところだ」

 遠くに住んではいるけれど元気な祖父母を持つ良太に、老人の死は、理屈の上でしか理解できていない。寂しくて、悲しくて、ぽっかり穴が開くこと。そういう、遺される者の気持ちはなんとなくわかるけれど、去る者の気持ちは、いくら想像しても実感できるものではなかった。

「そのおばあさんがな、」

 マーナは、良太の視線を誘い、木の方に向ける。

「あの木に、強い『想い』を残して苦しんでいる。その『想い』を解き放って、おばあさんが心おきなく去れるようにする。それが、わたしの仕事だ」

 良太には、マーナの声がだんだん小さくなった理由がわからなかった。

「じゃあ、人助けっていうのは…、そのおばあさんのため?」

「そうだ」

 良太は、昨日とは違う理由で、マーナの横顔を見つめた。

 昨日は、きれいだな、と見とれてしまった。でも今日は、

 悪い人じゃなかった。――顔は恐いけど。

 これからこの世を去ろうという人を救う。なぜ、とか、どうやって、ということはわからないけれど、それはたぶん素晴らしいことなのだろう。

 マーナさんは、悪い人じゃなかった。――顔は恐いけど。

 でも、

 それならどうして、マーナさんは、

 あんな――、後ろめたそうな表情を、しているんだろう。

「それで、『想い』を解き放つって、どうやって…?」

 マーナは、触れて欲しくないところに触れられた動揺を隠せない。決して良太に目を合わせようとはせず、

「とても、酷いことをする」

 と、つぶやいた。

「え?」

 酷いこと?

「あの木に、ある種の電流を流す。そうすれば、『想い』は吹き飛んで、消える」

「ふーん」

 良太は、よくわからないけどそうなんだろう、と軽く相づちを打つ。そんな良太に背中を向け、マーナは言い放った。

「もう帰っていいぞ」

 そんな言い方はないだろう、と思うけれど、そろそろ帰らないとお母さんに叱られてしまう。良太は美咲の手を引き、家に向かった。美咲、ありがとう、というマーナの声が聞こえてきたけれど、

 ――僕には一言もなしか。

 美咲は役に立った、らしい。

 マーナさんの目的も、わかった。

 あの木に、僕には見えないけれど何かがいて、それはもうすぐいなくなるんだろう。

 僕にとっては何も変わることはない。

 美咲は、もうあの木を怖がらなくなるのかな。

 マーナさんには、もう、会わないのかな。

 僕は、

 結局、何もしなかった。

 マーナさんにおびえて、

 重い荷物を運ばされて、

 ジュースおごってもらって、

 美咲を連れてきて。

 明日からは、普通に、夏休みを過ごそう。

 良太は、美咲を背負って家へと急いだ。

 今日の美咲は、いつもより少し重く感じた。


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