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第2章 糸(2)

   第2章 糸(2)



 夕方までたっぷり遊んだ二人は、公衆電話で母にこれから帰ることを伝えた。

 ご飯の前には手を洗うこと、遊園地から出る時には連絡すること、寄り道しないで帰ること。母のいいつけはこれだけだった。市営遊園地は夕方には閉まってしまうので、この約束を守れば、帰りが遅くなることはないから。


 夏の夕日はとてもゆっくり降りて行く。

 誰も気づかないくらい緩やかに暮れて行く空に、決して追い立てられることもなく、

 バスから眺める町は、のんびりと夏の暑い夕暮れを楽しんでいる。

 雑誌で作ったわずかな日陰に隠れながら、大きなスイカを重そうに運んでいる人がいる。

 大変そうだけれど、あの人はきっと家族そろって大きく切ったスイカにかぶりつく姿を思い浮かべて歩き、だから楽しそうにも見える。

 バスのエンジン音のほんの小さな隙間から蝉の声が滑り込み、ガラス一枚の向こうが確かに夏だと知らされる。


「お兄ちゃん」

 小さな呟きが寝言だとわかって、良太はそっと美咲の頭をなでた。

 良太は、遊び疲れて眠ってしまった美咲が倒れないように肩を支えながら、今日は本当に来てよかったな、と笑みを漏らした。

 遊園地へ行くという約束を覚えていてくれてうれしかった、と美咲は言っていた。

 美咲との約束。

 そして、母との約束。

 帰るときは電話すること、寄り道をしないこと。

 良太には、

 もう一つ、

 気になる約束があった。

 約束、したわけではないけれど、

 美咲に会わせてくれ、というマーナさんの頼みに答えを、

 出さないまま、

 僕は逃げた。

 約束をしたわけじゃない、けれど。

 逃げるのは、もっと卑怯じゃないだろうか。

 そして何よりも、マーナさんは、僕の答えを待っている。それは、

 約束と同じ事だと思う。

「でも」

 ちりちりという、今までに経験のない痛みを胸に感じて、その痛みをごまかすように良太は口を開いた。

「誰でも、よかったのかな…」

 言い終わるか終わらないかのところで、良太は慌てて口を押さえた。

 ――聞こえたかな…。

 横目で見ると、ヤマカワは手を頭の後ろで組み、口笛を吹くように口をとがらせている。良太のつぶやきが聞こえたけれど、わざとらしく、聞こえてないふりをしているようだ。もっとも、バスの中だからと実際には口笛を吹いていないあたりがヤマカワらしい。

 良太は、口を押さえて遮った言葉の続きを、今度は声にならないようにつぶやいた。

「僕らじゃないとだめだったんじゃないの…?」

 ヤマカワの話がどこまで本当かはわからないけれど、マーナが良太や美咲以外にも声をかけていることは間違いないだろう。けれど、

 僕は、荷物運びをさせられた。腹が立つけど、それでマーナさんとの距離が少し縮まったとも思う。すみかを見せてくれた。僕に気を許していなければ、そんなことはしないと思う。

 僕は、

 きっと、他の人とは違う。

 良太は、バスを降りると何も言わずに美咲の手を引いて歩き出した。

 美咲は目が覚めたばかりで、ぼんやりとしている。手を引かれるまま、歩いている。

 そのすぐ後ろには、ヤマカワがついてきていた。

「なあ、どのくらい歩くんだ?」

「もうすぐ。そこの角を曲がったところ」

 そして良太は、

 立ち止まる。

 左へ行けば家、右へ行けば怪獣の木がある空き地。

 良太は、

 美咲の手を引いて、右の道を選んだ。

「お兄ちゃん? おうちはあっちだよ。帰らないと、叱られるよ」

「うん、ちょっとだけ。ね」

 そうだ。

 お母さんとの約束も大事だけれど、

 マーナさんが、人助けをするというのなら。

 それを手伝うのだって、大事だ。帰りが少し遅くなっても、バスに乗りそこねたとか、ヤマカワと話をしていたとか、少しくらい言い訳できる。ちょっと、会わせるだけ。それだけだから。

「かいじゅうの木…」

 美咲が不安そうに良太にしがみつく。

「大丈夫だよ、今日は」

 本当は、もっと恐い、逆三角形の目のマーナさんがいるのだけれど、それはあえて言わない。良太は、自分がずるくなったような気がしていやだった。

 空き地の前に出ると、

 マーナがぽつりと立っていた。

 その背中は少しさびしそうで、けれど何かと対峙するように、緊張に包まれている。

「あ…あれが妖怪っすか…。セーラー服とはまたマニアックな…」

 ヤマカワの甲高い声に気をそがれたように、マーナが振り返った。

「おい」

 マーナが呼びかけたのは、ヤマカワではない。その目はまっすぐ良太に向いていた。

「何だ、こいつは」

「あ、その、僕の友達のヤマカワ」

「どうも。山田っす」

 マーナは片方の眉をつりあげた。

「…どっちだ。いや、どっちでもいい。なぜ連れてきた」

「その…」

 連れて来たかったわけじゃない。勝手について来たんだ。

「知ってます? お姉さん、最近噂になってるの」

 ヤマカワが割り込んでも、マーナの視線は良太を貫いたままだった。

「僕も今日聞いたんだけど、最近この辺に、妖…」

「よう?」

「よう…」

「なんだ」

 ゴホン、と良太はわざとらしく咳をした。

「よう…幼稚園の帰りに、小さい子が声をかけられたって」

 なんだそのことか、とマーナはつまらなそうに鼻を鳴らした。

「ああ、何人かの子供に訊いた。美咲と同じように、見えるかどうかを」

「それそれ。それで、」

 ヤマカワがマーナの正面に立つ。マーナが鋭く睨んでも動じない。ヤマカワは度胸がある、というよりも、

 ――無神経なだけなんだよな。

「それが噂になってるんすよ。最近、妖ムグッ」

 良太が慌ててヤマカワの口を塞ぐ。

 ヤマカワはすかさず良太の手をべろりと舐める。

「ひぃやぁあぁ」

「おまえ、」

 ハンカチで念入りに手を拭う良太を冷たく見下ろして、マーナは口を開いた。

「わたしが遊びでこんなことをしているとでも思っているのか?」

「え…?」

「人助けだと言っただろう。そして、わたしに必要なのは美咲だ」

 ちら、と目を向けられた美咲が、良太に駆け寄ってしがみつく。

「こんなやつに用はないし、…正直言って、お前にも用はない。必要なのは美咲だけだ」

 用はない。その一言に、良太の心が小さくひび割れた。

「…嘘つき」

 良太はぐっと唇を噛んだ。

 それに応じるように、マーナの小鼻がぴくりと動く。

「マーナさんは嘘つきだ。美咲だけ、って、誰でもいいんでしょ? だからいろんな子に声をかけて、」

 飲み込もうとした言葉は、けれど、良太の唇を押しのけて溢れる。

 ――だめだ、これを言っちゃだめだ。言ったら、

「マーナさん、自分がなんて言われてるか知ってる?」

 ――言ったら、終わってしまう。

「この辺に、妖怪が出るって。マーナさんのことだよ」

 ――終わってしまう。

 恐る恐る、ヤマカワが良太とマーナの間に入った。

「まあ、あの。ほら、みんなガキだから。勝手なことをね。ほら、ね。イヤア、まさかこんなにきれいなお姉さんだなんて知らなかったから。あはは。良太、おまえが俺を連れて来たがらなかった訳がわかったよ。こんなきれいなお姉さん、独り占めにしたいよな。あはは、は」

 マーナの視線は、まるでヤマカワが透明であるかのように、ヤマカワの向こうの良太に向けられている。

 ほんの数秒の沈黙のあと、

「わたしはな、」

 小さいけれど、それは、強い声だった。

「自分の目つきが少しきつい事は知っている」

「す、少し…?」

「そのせいで、たまに人を怯えさせることも知っている」

「た、たまに…?」

 マーナはうつむき加減で良太に顔だけを向ける。

「だからな、妖怪と言われても、気にはしない」

 それが本心かどうかはわからないけれど、良太は少し安心した。けれど、

 次の瞬間、マーナの眼に鋭い光が戻った。

「わたしは美咲を選んだ。誰でもいいわけじゃない。それがわからないのなら…、」

 ――言わないで。

「もう、」

 ――その次の言葉は、

「もう、いい」

 少ない言葉。けれどそれは、決別を伝えるには十分だった。

 良太にはわかっている。自分の口から出た言葉が、それを招いたこと。けれど、

 良太はまだ、誤って相手の喉もとに突きつけてしまった剣を収める方法を、知らなかった。

 何も言わずにうつむいている良太に背を向けると、マーナはそのまま立ち去ってしまった。

 ぷつり、と細い糸が切れた音が聞こえたような気がした。

「りょ…うた…くん?」

 ぽと、と良太の目から涙が落ちた。

「俺のせい…、だよね? ね。俺が悪いんだ。うん」

 美咲がヤマカワのすねを思い切り蹴る。ヤマカワは、「うわあ痛い痛い」と大げさに転げ回った後、

「じゃ…、じゃあな」

 と言って帰ってしまった。

「お兄ちゃん…、帰ろ」

「…うん」

 美咲に手を引かれて、良太はのろのろと家に向かった。

「お兄ちゃん、けんかはだめよ?」

「うん」

「明日、ちゃんと謝るのよ?」

 くす、と良太は笑った。お母さんとまったく同じことを言っている。

「みんなあのオトコが悪いのよ」

 ぶふっ。

 ドラマかなにかで聞いたセリフだろうか?

「美咲、ヤマカワのこと嫌い?」

 突然の質問に、美咲は戸惑った。

 嫌いといえば嫌い。でも、ヤマカワショーは面白い。

「うーん。はんぶん嫌い」

「半分か…」

 美咲は、苦笑いの良太をひきずるように家に向かった。


 もそもそと晩ごはんを食べる良太に、母は首をかしげた。けれど、たぶん遊び疲れているんだろう、くらいにしか思わなかった。

 美咲は、こんなにはしゃいでいるのに。母は、対照的な兄妹の様子を楽しみながら、美咲の延々と続くおしゃべりにつきあっていた。

 ジェットコースターに何度も乗ったこと、良太がふらふらになってだらしなかったこと、真っ白なウサギと茶色いウサギがいたこと、昼ごはんの前にちゃんと手を洗ったこと。

 美咲はときどき、話を止めて良太の顔をちらと見る。けれど良太はそれに気づかず、美咲は一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべてから話を続けた。話すことがなくなるまで、しゃべり続けた。けれど、

 最後まで、良太がマーナとけんかをしたことは、話さなかった。


 翌朝、目は覚めたけれど起きあがる気になれず、良太は天井を見つめていた。

 ――今朝は、少し涼しいな。

 ゆうべは晩ごはんのあと風呂に入ってすぐ寝てしまったから、目が覚めたのがいつもより早いということもある。それに、カーテンの隙間からは夏の透明な朝日のかわりに厚い雲が見えている。久しぶりの曇り空だ。

 なんだか体がだるい。きのう遊園地で遊んだ疲れなのかもしれないし、心の重さがそうさせているのかもしれなかった。

 謝ってしまえば、気が楽になるのはわかっている。けれど、

「僕だけが悪いわけじゃないし」

 もう一度寝ようと目を閉じると、台所から、かたんと物音がした。良太は喉の渇きにも気づいて、部屋を出た。

「ふふんふんふーんふんふん」

 台所から、母の妙な鼻歌のようなものが聞こえる。リズムは変幻自在、音程も微妙。美咲には音楽のセンスがかけらもないけれど、それはおそらくこの母親の遺伝だろう。

 良太は、以前にも母の鼻歌を聞いたことがある。気にもせずに声を掛けると母は慌ててしまい、真っ赤な顔をして「やっ、りょっ、こっ、」と妙な叫び声を残して逃げてしまった。美咲もそのうち自分の鼻歌を聞かれるのが恥ずかしくなるのかもな、と、母が残した片方のスリッパを見下ろして、良太は思ったものだった。

「ふあ〜あ」

 良太がわざとらしく大きな声であくびをすると、鼻歌がぴたと止まった。台所に入るとすぐに母と目が合い、ほんの一瞬だけ微妙な空気が流れたけれど、ふたりは

 ――何も聞かなかったわよね?

 ――何も聞いてないよ。

 という、無言のやりとりでそれを断ち切った。

「良太、今日は早いのね」

「ゆうべ、はやく寝ちゃったから。もう会社に行くの?」

「もうちょっとしたら。良太、一緒に朝ごはんにしましょうか」

 夏休みに入ってから、良太が起きるのはいつも母が仕事に出た後だった。もともと無口な母親だから会話が弾むわけではないけれど、

 ――やっぱり朝ごはんは一緒に食べた方がいいな。

「お母さん、僕、明日から早く起きるよ」

 その理由を飲み込むまでのほんの少しの間をおいて、母は穏やかに頷いた。鼻の頭にマーマレードがついていなければ、最高の笑顔と言えるだろう。

「お母さん、鼻の頭…」

「ああ、ニキビ? みっともないわよね」

 よく見ると、マーマレードの隣に確かにニキビのようなものができている。

 まあ、どうせまた付くかもしれないし、食べ終わっても気づかなかったら言おう。

 良太は目玉焼きに塩とコショウを振り、半熟の黄身に箸を刺した。つやのある黄身がとろりと流れだし、コショウの粉を巻き込みながら白身の丘を駆けおりる。

 白身を少し切り取って、黄身を絡めて口に運んだ。

 甘くて、しょっぱくて、少しピリッとして。

 あったかい目玉焼きを食べるのは、久しぶりだな。固焼きなら冷めててもおいしいけど、やっぱりあったかい半熟がいちばんおいしい。

 みんなで一緒に食べるときは、母はそれぞれの好みにあった焼き方をしてくれる。ひとつのフライパンで一度に焼き上げるのに、それぞれが好みの焼き加減になっているのが良太には不思議だった。

 良太は半熟に塩コショウ、美咲は固焼きにケチャップ。父はやや固めの半熟に醤油で、母は固焼きにソース。それぞれ思い思いの食べ方をするけれど、良太は、フライパンの大きさに焼かれた目玉焼きを四分割して食べる時に妙に家族というものを意識するのがおかしくて、好きだった。

「あら、もう行かないと。良太、」

「うん、片付けておくよ。行ってらっしゃい」

 慌ただしく家を飛び出す母を見送りながら、良太はつぶやいた。

「あ、マーマレードのこと言うの忘れた…」


 たまった宿題を片付けながら美咲が起きるのを待って、良太は怪獣の木がある空き地に向かった。

「仲直りするの?」

「うーん。お姉ちゃんがいたらね」

「ごめんなさいって言うのよ?」

「…わかってるってば」

 けれど、

 そこにマーナの姿はなかった。

 美咲が良太の背中に隠れたままちらと空き地を見回して、言った。

「いないね」

「うん」

「仲直りできないね」

「…うん」

 良太は、美咲を肩車して河川敷に行ってみることにした。ひょっとしたら、まだ寝てるのかも、と。けれどそこには、

 まるで先日のことが嘘だったように、何もなかった。

「ここに、お姉ちゃんちがあったの?」

「テントがあったんだ」

 良太は、父に連れられて何度かキャンプをしたことがある。テントをたたんだ後、父に「糸くず一つ残すなよ」と厳しく言われて、はい回るようにゴミを拾った。良太はマーナのテントがあったあたりにしゃがみ込んで地面を見たけれど、やはり何も残されていなかった。

 美咲はしばらくじっと良太を見ていたけれど、「お腹すいた」と良太の背中によじ登った。良太は、「うん」と頷きもしないで答えた。

 結局、次の日も、その次の日もマーナには会えなかった。


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