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第1章 少女(3)

   第1章 少女(3)


 木陰の心地よさに、不覚にもうとうとしていると。

 じゃり、という音がして、良太は目を覚ました。

 ──来た?

 良太は顔を上げた。

 その視線の先に、少女がいた。

 今度は驚かない。今度は負けない。そう誓っていた良太だったけれど、

 思わず、ぽかんと口を開けてしまった。

 セーラー服に、黄色い安全+第一のヘルメット。これは昨日と同じ。

 逆三角形の目に不似合いなスニーカー。いつも通り。

 しかし今日は、

 右肩に担いだ頑丈そうな三脚と、左手に提げた大きなバッグ。

 ──何を、する、つもりなんだろう?

 あっけにとられている良太に気づくと、少女はいったん立ち止まったが、構わずに歩き始めた。

 良太は座ったまま、少女を睨む。少女は良太と視線を合わせたまま、ずんずん進む。

 とうとう、一メートルの至近距離で、二人は向かい合った。

 良太は少女を睨み続けている。少女は何も言わない。

 少女はバッグを降ろした。どさ、と重そうな音がした。肩に三脚を担いだまま、バッグのファスナーを開け、直径二十センチほどの円盤状の巻き尺を取り出す。

 巻き尺の先端を口でくわえて少し引き出すと、その先端を良太に突き出した。

 良太は、わけがわからないながらも、その先端をつかむ。それを確認すると、少女は巻き尺をのばしながら木から離れていった。

 ──なんで、ごく自然に手伝わされてるんだ。

「しっかり持ってろ」

 少女がまるで叱るように言う。その言葉には圧力があり、逆らえない。

 少女は二十メートルほど離れると、そこに三脚を立て、巻き尺を巻き取った。

 三脚に乗せられた望遠鏡のような物で、木を見上げる。

 さすがに、良太は訊かずにはいられなかった。

「あの」

 少女はノートに何かを書き込みながら答えた。

「何だ」

「何して…るん…ですか?」

 敬語を使うことに多少抵抗はあるけれど、ため口にはもっと抵抗があった。

「木の高さを測っている」

 良太は、今度も驚いた。まさか、ちゃんと答えてくれるなんて思わなかった。

「距離と角度がわかれば、木の高さがわかる。学校で習わなかったか」

「習った…かも」

「十二メートル三十センチ、と」

 少女は良太の質問に答えてくれたけれど、それで何かがわかったわけでもない。

「木の高さを測って、それで、どうするんですか?」

 今度は、少女は答えない。

 ――ほら、これだ。

 都合の悪いことには答えない。意地悪だ。

 しかし、少女の胸の内は、良太の考えていることとは少し違っていた。少女は少し間をおいて、ためらいがちに、答えた。

「…まだ、わからない。ひょっとしたら、何もしないかもしれない」

 良太には、理由はわからないけれど、少女の行動の鍵になるものが見えてきた。

「美咲、ですか?」

 少女は黙ってうなずく。良太は、やっぱり、と歯がみをする。

「美咲には会わせません。お姉さんみたいな、その、恐い、あの、顔の、ええと」

 だんだんしどろもどろになってしまう。さすがに、本人に向かって「お姉さんみたいな恐い顔の人」とは言いにくい。

 良太の言いたいことは伝わったはずだけれど、少女は気にも止めず、黙々と作業を続けていた。木から空き地の端までの距離や、木の枝の広がりの幅を測っている。

 どうも事態が進展しない。良太にはいろいろ聞きたいことがあるけれど、なかなか聞き出せない。たとえ聞きたいことを箇条書きにして読み上げても答えてくれないだろうと思えたし、だからといって相手にうまく答えさせるような話術を、良太は持っていない。

 どうしよう、どうしたら。

 良太が困り果てていると、少女が手を止めて口を開いた。

「恐いか」

「え?」

「わたしが恐いか」

 何を今さら。悪魔と般若の中間みたいな目つきで「恐いか」なんて、ええと、愚問、だ。かといって、「恐い」と答えるのもシャクだし。

「美咲が、怖がってるんです」

 我ながら、うまい回答だ。

「スニーカーは、かわいいとは思わないか」

「そりゃ、まあ」

「セーラー服も、かわいいだろう」

「服は、まあ」

「パンツも、かわいかっただろう」

「確かに。…え、あ、いや、そんな」

 良太は慌てて取り消そうとしたが、そんなことは気にも留めず、少女は作業を続けている。

 けれど少女は、少し肩を落としているように見えた。

 そのまましばらく作業を続けていたけれど、

「今日はもう、終わりだ」

 突然そう言い出して、後かたづけを始めた。巻き尺や水平器、望遠鏡のような物、ボタンがたくさんある機械。どかどかどかと、バッグに詰め込む。

 それが終わると、三脚を肩に担ぎ、良太に言った。

「それ、よろしく」

 良太は、少女があごで指した先に視線を移し、そこに大きなバッグを見つけると、当然の事だけれど、

「──え?」

 と聞き返した。

「よろしくって、何?」

「何って…、わたしがそんな大きい荷物を持てるわけないだろう。女の子だぞ?」

 来るときは自分で持ってきたじゃないか、という良太の反論は、最後まで聞いてもらえなかった。少女は良太の肩にバッグをかけると、黄色いヘルメットを脱いで良太にかぶせた。見た目はプラスチックだが、思ったよりも重い。そして、

 ふわ、と花が香る。

 初めてこの少女に出会ったときと、同じ香り。温かくて、柔らかくて、ちょっと切なくて。

 良太が、ぼう、としている間に、少女は歩き始めてしまった。良太は慌てて後を追う。そんな義理はないのだけれど、完全に主導権は少女にあった。

「ちょっと、待ってよ」

 もちろん少女は、待たなかった。



 重い荷物を抱えてよろよろと追いすがる良太を、少女は振り返ることもせず、歩き続けた。

 良太の全身から、汗が噴き出る。影を作るものもなく、日射しは良太に直接襲いかかる。それは焼くような気持ちのいい暑さではなくて、蒸すような苦しい暑さを良太にもたらした。

「どこまで歩くんだよう、ちょっと休ませてよ」

 とうとう良太が弱音を吐くと、少女はジュースの自販機の前で立ち止まった。

 良太はその場でへたり込み、うずくまる。がこん、とジュースが落ちる音がする。

 ──お小遣い持ってくればよかったな。

 良太が恨めしそうな顔を上げると、そこに少女がいた。炭酸飲料の缶を差し出している。

 あっけにとられている良太に、少女は缶を押しつけた。

「手伝わせているんだからな。これくらいの礼はする」

 良太は、恐る恐る缶を受け取る。缶の冷たさと、結露の潤いが良太を生き返らせた。

「あ…、ありがとう」

「うん」

 しかし、良太が缶を開けようと指をかけたとき。

「ただし、」

 思わず良太の手が止まる。

「その缶、思いっきり振ってある」

「え?」

 良太は缶を眺めた。間違いない、炭酸飲料だ。じゃ、どうして振ったりしたんだろう? 飲めないじゃないか。

 良太の気持ちを見透かすように、少女は言う。

「目の前にジュースがあるのに飲めない。悔しいだろう」

「そりゃ…悔しいよ。なんでこんなことするんだよ」

 少女は、良太の隣にしゃがみ込む。

「わたしも、悔しい」

「はあ?」

 わけがわからないことをいう少女に良太がとまどっていると、少女は良太からジュースの缶をもぎ取り、フタを開けた。わ、と良太がよけようとしたけれど、ジュースは吹き出さなかった。

 少女はジュースをひと口飲むと、何事もなかったように良太に返した。そして、もう一度つぶやく。

「わたしも、悔しい」

 良太は、極めて平静なふりをして、飲み口に口を付けた。内心は、口から飛び出た心臓がそのままぴょんぴょんと跳ねていってしまいそうなほどだったけれど。

 良太がジュースを飲み干すのを待って、少女は立ち上がった。

「もう少しだ。行くぞ」

「あ、うん」

 ジュースをもらったからというわけではなくて。一本のジュースを分け合ったからというわけではなくて。

 良太には、だんだん、この少女を避ける理由がなくなってきた気がしていた。

 今日はすべてを明らかにするくらいのつもりで来ていたんだし、こうなったら最後までつきあってやろうじゃないか。意気込んではみたけれど、どちらにしろ、このバッグを運び終えるまでは自分が解放されないであろう事は、よくわかっていた。

 少し細い道に入ると、りっぱな生け垣に囲われた、古くて大きい民家がいくつか並んでいる。その先には小さな神社があるけれど、夏の昼間だからという理由だけではなくて、人の気配は全くなかった。

 ──この道は、確か、川に続いている道だ。

 神社の横を抜けると、田んぼが広がっていた。田んぼに挟まれた道を三百メートルほど行くと土手がある。さすがに土手を登るときは、少女がバッグを運ぶのを手伝ってくれた。

 県境の大きな川は、もちろん川遊びをするような場所ではない。大きな土手の向こうに広い河川敷があるだけで。犬の散歩で来る人は多いようだったけれど、良太には縁のない場所だった。

 だから、良太がここまで来るのは久しぶりだった。来たところで特に何があるわけでもないし、何より普段から川に近づいてはいけないと、学校の先生や母に言いつけられていた。けれど、久しぶりに登った土手からの眺めは、


 なんて、きれいなんだろう。

 左手の上流には金色の空、

 右手の下流には紺色の空。

 川の流れに沿って水面を見渡せば、

 いつ色が変わったのか気づかないくらいに滑らかな、

 金から紺へのグラデーション。

 対岸の土手を走る人と、

 その足下に添う犬のシルエット。

 「何もないから」と近寄らなかった景色は、

 なんて、きれいなんだろう。


 良太が景色に見とれているから遠慮したのか、少女は少し小さな声で、

「あそこだ」

 と、土手の下、少し先の茂みを指さした。そのそばに、小さなテントがぽつんと置いてある。

「あそこって…あのテント?」

「そう」

「あそこに住んでるの?」

 少女は少しむくれたような顔をした。

「住んでるわけじゃない。一時的に、寝泊まりしているだけだ」

 ──つまり、住んでるんじゃないか。

 良太は少女を追って、テントに向かった。

 キャンプ場でもないところに建っているテントというのは、不気味で、近寄りがたい。まともでない人物が住み着いている可能性が、高い。良太は心の中で、「この場合も当てはまる」とつぶやいた。

 テントには生活臭はない。キャンプのような華やかさもなく、ただ夜露をしのぐだけという感じだった。

 良太はテントのわきにバッグを置いた。体が浮くように軽く感じられた。

 さて。

 どうやって、きりだそう。

 ここまで来たからには、根掘り葉掘り、全部聞き出してやる。なぜ怪獣の木を調査しているのか、なぜ美咲に会いたがっているのか、なぜこの町に来たのか、なぜテントで暮らしているのか、

 ――聞くことが多すぎる。けれどまずは、

「お姉さん、名前聞いてもいい…?」

 カップ麺のゴミをそそくさとテントの陰に隠そうとしていた少女は、手をぴたと止めてゆっくりと振り向いた。

「…わたしの、名前か?」

 少女は、わかりきっているくせに、なぜかもったいぶるように聞き返す。良太は不自然な緊張感に包まれる。

 そして少女は、ゆっくりと、口を開いた。

「わたしの名は…、タンゲバル」

 良太はぎょっとして、タンゲバルと名乗る少女を凝視した。

 なるほど、威圧感のある逆三角形の目には、タンゲバルという名がよく似合っている。

 彼女の口から低く轟いた、およそ人間らしくない、悪魔のような名前。どこの国の人だろうか? いや、それ以前に、

 そうだ、この人は、

 人間、なんだろうか?

 おののく良太に、少女は続ける。

「…何を考えているか、だいたいわかるが」

「え?」

「丹頂鶴の『丹』に『下』、原っぱの『原』と書いて、たんげばる、と読む。日本人だ」

 良太は、手のひらに「丹下原」と書いてみた。

「め…珍しい名字、だね」

「下の名前は麻奈菜という。発音しにくいから、たいていマーナと呼ばれるがな。どうだ、かわいいだろう」

 逆三角形の目の上辺が、わずかに弧を描いた。笑ったのかもしれない。

 少女がとりあえずは人間らしいことを知った良太は、少し安心した。

「それで…、えと、タンゲバルさん、」

 その名で呼んでいいものかどうか、上目遣いでマーナを見る。

「その呼び方はやめてくれ。かわいくない」

「あ、うん。じゃ、ええと…まなな、マーナさん、」

 マーナは微かに満足げに頷く。

「美咲に用って、何なの?」

「あの、怪獣の木、だけどな。美咲は、本当にあの形を怖がっているのかな」

「そりゃ、怪獣、怪獣って泣いてるんだし。…あ」

 けれど、

 昨日、美咲は、怪獣の絵を描いて遊んでいたじゃないか。いいかいじゅうだからこわくない、と。

「わたしはな、」

 良太の表情に答えを見つけたように、マーナは言う。

「美咲は、わたしやお前には見えないものを見ているんじゃないか、と思うんだ」

「見えないもの?」

「わたしにも見えないし、見た記憶もないが…、確かに、子供にしか見えないものはある、らしい」

 何を言ってるんだろう? 子供にしか見えない物? だって、

「僕だって、子供だよ」

「そうか? 妹の面倒を見て、母親を気遣える男を、わたしは子供だとは思わない」

 マーナの言葉には、まるでそれが当たり前であるかのように、ためらいがない。ためらいがないからこそ、その言葉は良太をうつむかせた。

「駄目だよ。僕はお母さんが優しいからって、甘えてるだけなんだ」

 マーナは良太をじっと見ていたけれど、誰も、自分さえ気づかないくらいに微かにかぶりを振り、自分の心の中にある言葉をたぐり寄せるように、言った。

「一人で生きることができるかどうか、ではない。人と共に生きられるかどうかだ」

 良太は、何も答えられない。人と共に生きられるかどうか――。その答えを出すのは、良太には、難しすぎる。

「…何かあったのか?」

 好奇心やお節介ではない。マーナは、本気で良太を、良太と妹の仲を心配している。それがわかったから、良太は、

 何も言えなかった。自分で解決しなければならないこと、それを知っていたから。だから良太は、

「…なんでもない」

 とだけ、答えた。

「僕、もう行かなくちゃ。美咲、迎えに行かなくちゃ」

 敵に慰められ、心配されるほど惨めなことはない。

 良太は逃げるように帰ろうとしたけれど、立ち止まった。一つだけ、どうしても聞いておきたいことがあった。

「マーナさんは、美咲に何が見えるか、それを知ってどうするの?」

 良太の質問から逃げるように、マーナは川の上流を見た。

 すでに陽は、彼方の街並みに沈んで行こうとしている。

 マーナの視線を追おうとして、良太は眩しさに目を細める。

 沈む夕陽、逆光に妖しく輝くマーナの姿。

 良太は、その姿に引き寄せられるように、マーナの横に立つ。見上げる彼女の横顔が、夕陽に照らされている。

 ──きれいだな。

 良太が人の姿をきれいだと感じたのは、これが初めてだった。何も考える事ができず、ただ見つめてしまう。不思議なくらい鼓動が早くなっている事にさえ、良太は気づかなかった。

 さらさらの髪が、夕日に照らされて金色に透き通っている。

 何を見つめているのだろう、まるでその心がそうであるように、まっすぐで揺るがない瞳。

 柔らかそうなくちびるが、何かを言いたげに薄く開いて。

 え。

 気がつくと、マーナは良太の顔を見下ろしていた。

「人の顔をじろじろ見るもんじゃない」

「ごっ、ごめんなさい」

「美咲に、会わせてくれ。一度でいい。危険はないし、それに…」

 マーナは言い淀んだ。

「それに?」

「それに、これは、人助け、なんだ」

 自分を納得させるように、言い聞かせるように。そして、なんだか悲しそうに。

「頼む。美咲に、」

 良太はマーナの言葉を待たず、そして、

 答えを出さずに、走り出した。

 結局、何もわからなかった。それどころか、謎が増えた。

 人助け? どうして? 何が? 本当に人助けなら、どうして悲しそうに言うんだろう?

 わかったのは、あのお姉さんの名前――たんげばる、だっけ。丹下原マーナ。

 何のヒントにもならない。

 良太は、息を切らして走った。

 マーナから、逃げるように。

 マーナの横顔を、思い出さないように。

 けれど良太は、

 なかなか、夕日に照らされたマーナの横顔を忘れることができなかった。



「ぜんぶ良太に押しつけるつもりじゃないの」

 無口なはずの母は、正座をさせた良太の前で同じように正座をして、長々と説教を続けていた。

 結局、良太が保育園に着いたのは、日も暮れて、母が美咲を連れて帰っていた後だった。

 台所から味噌汁のいい香りが漂ってくるけれど、幸せな気分はひとかけらも感じられなかった。

「お友達と遊びたいときには遊んでいいし、」

 良太は、ただ黙って下を向くしかなかった。

「夏休みの宿題だってあるだろうし、」

 美咲は、離れたところから見ている。まだむくれているようだった。無理もない、迎えに来るはずの兄が、いつまで経っても来なかったんだから。きっと、今日良太が迎えに来てくれたら仲直りして、いつもどおり手をつないで一緒に家に帰るつもりだったのだろう。

「用事があるならそう言ってくれればいいの。でも、みーちゃんを迎えに行くって、約束したでしょう?」

 ああ、お母さんに叱られているところなんて、美咲に見られたくなかったな。

 でも、仕方がない。

 あのお姉さん――マーナさんのところに行っていて、美咲を迎えに行かなかった僕が悪いんだから。

 叱られるのは当たり前だ。美咲が怒っているのも、当たり前だ。

「良太? 聞いてるの?」

「あ、はい。…ごめんなさい」

「みーちゃん、保育園でずっと待ってたんだからね」

 いつもはこんなにねちねちと怒ったりはしないのに。どうして今日は、正座までさせて。

 情けない。僕は、情けない。叱られて、情けない。妹に見られて、情けない。

 良太の目に、涙が浮かんできた。僕はやっぱり、駄目な子だ。約束を守れない、妹の世話をすることもできない、マーナさんに慰められて、心配されて、

 お母さんに、叱られて。

 そのとき、

 美咲が良太に駆け寄ってきた。良太をかばうように、良太に飛びつく。

「お母さんダメ! いじめないで! お兄ちゃんかわいそう!」

「え、ちょっと、みーちゃん?」

 母は美咲に、少し強く言う。

「みーちゃん、お兄ちゃんはね、約束を破ったの。みーちゃんを迎えに行くって言ってたのに、行かなかったのよ?」

「いいの! みーちゃん、せんせいと遊んでたから、いいの!」

「じゃあ、もうお兄ちゃんを叱らなくていいのね?」

 何度も頷く美咲を見つめて、母は口元を緩ませた。

「じゃ、晩ごはんにしましょう。すぐ支度するから待っててね、お・兄・ちゃん」

 お兄ちゃん、とわざとらしく呼ばれたことで、良太にはすべてわかった。

 お母さんは僕を叱っていたんじゃなくて、

 意地になっていた美咲の心を、少し素直にさせるために、あんな芝居を。

 ――やっぱり、僕は子供だな。でも、

 良太は、すがすがしく笑う。そうだ、

 一人で生きることができるかどうか、ではない。人と共に生きられるかどうかだ。

「美咲、ありがとな。助かったよ」

 美咲は、正座している良太の膝に覆い被さるように抱きついたまま、かぶりを振った。

「お兄ちゃん、かわいそうだったもん。お母さん、おっかなかった」

「そうだね、お母さん、おっかなかったね」

「おっかなかった!」

「うん、おっかなかった!」

 すっかり仲直りした兄妹は、大きな敵に立ち向かった自分たちを褒め称えるように、小躍りしてはしゃいだ。

 母は、その様子に苦笑しながら、揚げ上がったコロッケを皿に盛った。

 二晩続けてコロッケというのは、料理好きな母にとってはつまらない。けれど、

 ゆうべのコロッケは、きっと、しょっぱかったから。

「さあ、ごはんにしましょう」

 母のいつも通りの呼び声に、兄妹はいつも通り食卓についた。

「そうだ、」

 三個目のコロッケに手を出しながら、良太は美咲との約束を思い出した。

「美咲、明日、遊園地に行こうか。お母さん、いいでしょ?」

 駅前からバスで二十分ほどの所にある市営の遊園地は、美咲にとってはこれ以上ないくらいに楽しいところだ。美咲は、良太に連れて行ってもらう約束を忘れていたこともあって、大はしゃぎした。

「気をつけてね」

 すっかり仲直りした二人に、母は静かに微笑む。

 明日は、夏休みに入って初めて、楽しい日になりそうだ。


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