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第1章 少女(2)

   第1章 少女(2)



 夏休み初日の朝。

 良太が薄目を開けると、蝉の声がじいじいと響いていた。今年は蝉の当たり年だ、とテレビで言っていた。何年かに一度、蝉が大発生することがあるそうだ。

 台所からは美咲の下手な鼻歌が聞こえる。リズムは絶えず変わり、音程にも規則性がなく、つまりはでたらめなのだけれど、良太にとっては聞き慣れたものだから特にどうとも思わない。

 たっぷりと汗がしみこんだTシャツを着替えながら台所に向かうと、朝食が用意されたテーブルには、母のメモがおいてあった。

 涼しいうちに宿題を済ませること。

 わかってるけど、難しいんだよな。良太は苦笑いをしながら、メモを丸めて捨てた。

「美咲、おはよ」

「おはよー」

 美咲は、クレヨンでチラシの裏に絵を描いていた。そう言えば昨日、裏が白いチラシが何枚か新聞に折り込んであって、美咲が「大漁だ!」とはしゃいでいたっけ。

 チラシには、テーブルにはみ出しそうなくらい大きく、縦長の茶色い楕円形のものが一つ。

「何、書いてんの?」

「かいじゅう」

 あれほど毎晩のように怪獣に怯えて泣いているのに、どうして怪獣の絵なんか描くんだろう。

「怪獣、怖くない?」

「いいかいじゅうだもん」

 ふうん、と良太は曖昧な返事をして切り上げる。

 美咲のことはかわいいと思うけれど、どうしても理解できない部分だって、ある。

 美咲は、絵を描いている間はおとなしい。妙な鼻歌は聞こえてくるけれど、それは決して耳障りじゃない。今のうちに、宿題を済ませてしまおう。

 良太は自分の机から宿題の山を取り出し、でたらめにその中の一冊を抜き出した。

 算数。

 良太はがっくりと肩を落とし、それでも他の教科を選び直そうとはしなかった。どうせ、どれを選んでも同じように肩を落とすから。

 それでも、今日の良太には、算数は都合の良い教科だった。

 一問答えては美咲を想い、一問答えては恐ろしい顔をした少女に震え、一問答えては怪獣の木の謎を想像し、一問答えては暑さに閉口する。いろいろ考えてしまって集中できないから、時間を細切れにできる算数がちょうどいい。

 蝉の声は、ますます賑やかになる。

 良太と同い年くらいの少年の声が聞こえてくる。

 角の家の犬が、それに応えるように吠える。

 三十分もしないうちに、良太は鉛筆を放り投げた。もちろん暑さのせいもあるけれど、あまりにもいろいろ考えることがあって、宿題がはかどらない。

 美咲は相変わらず絵を描いている。

 怪獣は三体に増えているように見える。みんな「いいかいじゅう」なのだろう、美咲はご機嫌でクレヨンを走らせている。

 良太は、ごろ、と床に寝ころんだ。天井を見つめて、考えをまとめてみようとする。


 怪獣の木、がある。

 美咲がそれを怖がる。

 逆三角形の目をしたお姉さんが現れて、「木が怖いか」と聞く。

 翌日、美咲の保育園にそのお姉さんが現れる。

 それから──、


 それだけだ。

 そこから先は、何を考えても、すべては、あのお姉さんが何者なのか、というところで行き止まりになってしまう。

 確かめる必要がある。

 美咲を守るために。

 兄として?

 兄として。

 あのお姉さんが何者で、美咲に近づいて何をしようとしているのか。

 セーラー服に騙されちゃいけない。かわいいスニーカーに騙されちゃいけない。

 保育園を突き止めてくるなんて普通じゃない。

 そのうち、この家にも来

「どーん!」

 ごふっ。

「み、美咲…、どーんってしちゃダメって…言っただろ?」

 美咲はまだ軽いけれど、さすがに不意打ちで腹の上に乗られると、一瞬息ができなくなる。

「たいくつー!」

 馬乗りになり、不満顔で両腕を振り回す美咲。

 仕草のひとつひとつが、かわいくて仕方ない。

 良太は美咲の脇を支え、持ち上げた。そのまま立ち上がり、くるくる回って美咲を振り回す。

 それだけで美咲の機嫌は直り、一転してはしゃぎ出す。一瞬ごとに表情を変える美咲は、良太にとってもいいおもちゃだった。美咲と遊んでいるあいだ、良太は不安を忘れることができた。



「美咲…?」

 昼ごはんの後、眠ってしまった美咲のほほを、軽くたたいてみる。

 起きないことを確認すると、良太は、帽子を深くかぶりなおした。

 扇風機は回してある。小窓を開けてあるから、風は通る。ガスの元栓も閉めて、三回も指さし確認した。もしもの時に、押すだけで母に電話が通じるボタンは、美咲も使える。

 もっとも、そんなに家を空けるつもりはない。ちょっと怪獣の木のところまで行って、その木の周りに何か秘密がないか探して、何か見つかったら、あるいは何も見つからなくても、すぐに帰ってくる。

 ──あのお姉さんに、捕まったりしなければ。

 良太はそっと美咲から離れた。唇だけを動かし、行ってきます、と言い残す。

 外に出ると、頂点を過ぎたばかりの太陽が、良太を突き刺した。それでも、多少風があるからだいぶ楽だ。

 最初の角を曲がる。右側が畑、左側が住宅地。朝早くには、このあたりで採りたてのトマトを売っている。

 小さな酒屋がある。この道は車が少ないけれど、酒屋の角だけは、見通しが悪いから注意すること。

 その先に、分かれ道。右は駅に続く道、左は、

 林と、

 いくつかの民家の塀に挟まれた道。やがて塀がとぎれて空き地がひろがり、その奥に、

 怪獣の木が立っている。

 強い日差しの下でも、その木は決して威厳を失わず、どっしりとそこにいる。風にぎろりと眼をめぐらし、近づく者を威圧する。時に強風が渦巻けば、大口を開いてごうごうと吠える。

 幼児には怖い姿。けど、僕には、

 ただの木だ。

 緊張しているのは、木が怖いからじゃない。

 ――お姉さんが怖いんだ。

 どっちにしろ恐がりだ、と良太は自分を情けなく思いながらも、美咲のために、と自分を奮い立たせ、空き地に踏み入った。

 あの木に、どんな秘密があるんだろう。何か埋まってるのかな。

 ――人とか。

 木のところに、何かいたりして。

 ──幽霊とか。

 良太は、考えれば考えるほど怖くなりそうだったので、早足で木に向かった。

 近づいて見上げるようになると、怪獣の姿はくずれ、普通の木になってしまう。良太は勢いを増し、木に突進する。

 とうとう木の根本までやって来ると、良太は恐る恐る幹に触れた。

 ほら見ろ。何もない。何もいない。怖がることなんか、何もないんだ。

 ――木の幹に触るなんて、久しぶりだな。

 それは、決して気温が高いせいだけでなく、温かく感じられた。

 気づけば、茂った葉に護られた木陰は、そよと吹く風だけを良太に与えてくれている。

 良太は、木に背をもたれ、足を投げ出して座った。

 温かくて、涼しくて、心地よい。


 遠くから聞こえる蝉の声、

 もっと遠くから飛行機の音。

 木陰に漏れる光の点が、

 風に揺られてくるくると踊る。


 こんなのもいいな。ここにこうして座って、

 美咲に絵本を読んであげて、

 美咲が飽きて眠ったら、僕は読書感想文を書く本を読もう。

 宿題だって、ここで本を読むなら辛くない。

 良太は帽子のつばをぐいと下げて、目を閉じた。

 怪獣の木だなんて、バカバカしい。

 こんなに気持ちいいのに。

 良太はすっかり緊張を解き、心地よさに身を委ねた。



「おい」

 頭上から聞こえた声に、良太は硬直した。恐る恐る見上げると、

 いや、見上げなくてもわかっている。

 木の上に、逆三角形の目の少女がいた。五メートルほど上、太めの枝に、安全+第一の黄色いヘルメットをかぶって立っている。

「なっ、ななななな」

 腰が抜ける、というのを、良太は生まれて初めて体験した。

 逃げたい、立てない、動けない。

 良太は、かろうじて動く右手人差し指を少女に向けた。

「ななななな、なんで、そんな所に」

「調査だ」

 少女はさらりと答える。

「ちょ、調査?」

「そんなことより」

 少女の目が、ぎん、と細くなる。ひ、と良太がのけぞる。

「お前、向こうを向け」

「えっ、な、なんで?」

 背中を向けたら食われる。間違いない。食われる。間違いない。

 どうしよう。逃げよう。どうやって。動けない。

 少女は、すっかりパニックに陥っている良太に、ため息をついた。

 スカートをつまみ、軽くひらつかせ、

「下から覗くな、と言ってるんだ」

「え?」

 良太は、少女の意外な言葉を受けて、パニックは収まったけれど、

 代わりに、頭が真っ白になった。

「え? 下から? なに?」

 そして少女は、とどめを刺すべく、もう一度スカートを振った。今度は、少し大きく。

 良太の心臓が、弾けた。

「ごっ!」

 慌てて後ろを向き、頭を抱える。

「ごめんなさいいいいっ!」

 少女は、良太が下を向いたことを確かめると、ひらりと飛び降りた。

「よっ」

「え?」

 まさか飛び降りるとは思っていなかった良太は、思わず振り返り、上を見た。

 良太の目に、それはスローモーションのように映った。

 五メートルの高さから、なんのためらいもなく飛び降りる少女。

 両手で押さえているけれど、風圧でめくれ上がるスカート。

 とす、と意外なほど静かな着地。

 着地するやいなや、目を座らせた少女は、両手を腰に当て、良太に言った。

「見るなと言っただろう。お前、意外と…」

「そっ、そんなんじゃないです! ごめんなさい!」

「まあいい」

 え、いいの?

 少女は、拍子抜けする良太の横に立ち、ヘルメットを脱いで、木を見上げる。

「いい木だな」

「え? あ、はい」

「茂り方がいい」

「はあ」

「幹も太いし」

「ですね」

「スカートも覗ける」

「はい。え、あ、いや、それは」

「美咲は、」

 不意打ちに、どくん、と良太の心臓が縮む。

「美咲は、どうしてこんなにいい木を怖がるんだと思う?」

 どうしてって。

 決まってるじゃないか。怪獣の形が、恐いんだ。

 けれど、良太は答えない。

 少女も、答えを待たずに続ける。

「何かが見えているのか、見えなくても感じているのか」

「何かって…幽霊みたいなもの、ですか?」

 少女は、ちらりと良太を見た。

「かもな。それを、調査していた」

 なんなんだこの人。なんなんだ。

 小さい子が泣いてて、この木を怖がってるから、幽霊がいないかどうか調べてる?

 何のために?

 夏休みの、自由研究かな。中学生でも、自由研究ってやるのかな。

 宿題。

 そうだ、宿題しなくちゃ。

 算数、途中で放り出して、

 ――美咲!

 そうだ、すっかり忘れていた。美咲を家に置いてきたままだった。

 あれからどのくらい経った? こんなに暑いのに。一人きりにして。帰らなきゃ!

 良太は走り出した。

「あ、おい!」

 少女の声は、届かなかった。



「ただいまっ! 美咲っ!」

 家に飛び込んだ良太を迎えたのは、涙でぐちゃぐちゃになった美咲を膝に抱いた母だった。目を覚ました美咲が、母を呼ぼうと緊急ボタンを押したらしい。

「良太…」

 無口な母は、言葉少なに良太を責めた。最後まで言われなくても良太には母の叱責が伝わる。

「ごめんなさい…、友達のとこに行ってて…。美咲、ごめんな」

 美咲は、母の膝に顔をうずめてしまった。

「お兄ちゃん、きらい。きらい。きらい」

 くぐもった声で、何度も繰り返す。

 仕方がない。

 僕は、美咲を護るために、出かけていった。

 仕方がない。

 あの木のところで、居眠りをして、お姉さんに会って、帰りが遅くなってしまった。

 仕方がない。

 目が覚めたら、兄がいなかった。心細くなって母を呼んだ。

 仕方がない。

 だから僕は、お母さんに叱られた。

 仕方がない。

 だから僕は、

 美咲に、

 嫌われた。

 仕方がない。

「美咲…、ごめんな」

 良太は、ぼそと言い残して、自分の部屋にこもってしまった。

「お兄ちゃん、きらい」

 容赦のない美咲の声が、その背中に刺さった。


 結局、母はそのまま職場へは戻らず、美咲を連れて夕飯の買い出しに行った。

 僕は、ダメだ。

 あの木のことは何もわからず、

 お姉さんのことも何もわからず、

 中途半端に放り出して逃げてきた。

 帰ってきたら、

 これもまた中途半端に放り出しておいた妹に嫌われた。

 僕は、中途半端だ。

 子供なのに、妹を守ろうとか。

 子供なのに、お母さんを心配させないようにとか。

 幼い妹にちょっと頼りにされてるからって、いい気になって。

 保育園の先生たちにちょっとほめられたからって、いい気になって。

 結局、僕は、

 何もしてないじゃないか。

 良太は、壁際で膝を抱えたまま、窓から見える空を見ていた。


 夏の空は、夕方になってもまだ、ぎらぎらと白く明るい。

 ゆっくりと陽の力を弱めては行くけれど、

 昼の間にため込んだアスファルトの熱気と蝉の声が、

 少しずつ太陽と入れ替わるように、あたりに満ちてくる。

 いつの間にか、蝉の声に混じって、台所から包丁の音が聞こえてきている。

 いつもなら、母に構ってもらえない美咲が良太の所に来るけれど、今日はもちろん、そんなことはなかった。

 ──美咲のためを思って出かけたのに。

 良太は、理不尽に拗ねている自分がますます嫌になる。

 ずっと我慢していた涙がにじみ出てきたころ、母が部屋の戸を開けた。

 母は、黙って良太の頭に手を置く。

 反省している息子を、さらに追い込む母ではない。

 良太は、黙って頷き立ち上がる。

 許してくれた母に、いつまでも拗ねた顔を見せる息子ではない。

 食卓では、美咲が一人で待っていた。大好きなコロッケを、泣きそうな顔で見つめている。

 良太は美咲に声をかけることが出来ず、小さく「いただきます」とつぶやいた。



 翌朝、良太は母に起こされて目を覚ました。

「みーちゃん、今日は保育園に預けるから」

 良太の頭に置かれた手から、母の怒りは伝わってこなかった。美咲がそれを望んだのだろう。その証拠に、美咲はまだ良太の顔を見ようとしない。

 ──意外と執念深いんだな。

「良太は、宿題もあるだろうし。ね」

 母親の気遣いが嬉しく、情けなく、恥ずかしい。

 やっぱり僕は、お母さんを気遣っているつもりになっていただけだ。

 妹の面倒も、ろくに見られないくせに。

「お母さん、帰りは?」

「昨日早く帰っちゃったから…。お迎えに行ってくれる?」

「うん、わかった」

 それまでに、機嫌直してくれてればいいけど。

 …勝手だな。機嫌直して、って、僕が悪いんじゃないか。

 良太はそれでも、美咲に笑顔で手を振り、いってらっしゃいと見送った。

 美咲は、また、泣きそうな顔をしていた。

 静かになった家の中で、良太は一人、朝ごはんを食べた。

 トーストにマーガリンを塗るときのカリカリという音、

 牛乳が喉を通るときの音、

 静かな部屋の中で、良太はその音の大きさに、今さら気づいた。一人なんだな、と思い知らされる。のろのろと朝食を終えると、良太は家を出た。あてはないけれど、ひと気のない家は寂しくてしかたがない。

 良太は、とぼとぼと歩きながら考えた。

 これから、どうしたらいいんだろう。

 美咲と、元通り仲良くするには。

 美咲に、頼りにされる兄になるには。

 母に、頼りにされる息子になるには。

 決まってる。あの木のこと、あのお姉さんのことを明らかにする。それしかない。

 良太は、怪獣の木に向かった。



 怪獣の木がある広い空き地の前に立つと、良太はあたりを見回した。

 また、突然声をかけられるかもしれない。昨日は、みっともなくたじろいでしまった。

 でも、

 今度は、

 負けない。

 正面から立ち向かって、聞き出してやるんだ。

 あの木のことを。美咲に会って、何をするつもりなのかを。

 一歩進むたびに、ジャリが音を立てる。その都度、良太のとがった神経が、ぴり、と響く。

 良太は木を見つめる。その葉の隙間から逆三角形の目が覗いていないか。

 木の根本まで来ると、良太はいるのかどうかわからない相手に声をかけた。

「お姉さん、いますか」

 お姉さん、という呼び方はどうかと思う。

 いますか、という問いかけもどうかと思う。

 これから、対決、しようとしている相手に。

 けれど、名前は知らないし、年上だし。

 いずれにしろ、少女はいないようだった。

 良太は神経をとがらせたまま、木の根本にあぐらをかいて座った。

 ──ここはやっぱり気持ちいいな。

 陽は遮られ、風は通り、適度な木漏れ日のゆらぎは見ていて飽きない。

 良太は、少女を、待った。


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