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第1章 少女(1)

   第1章 少女(1)



 蝉の声が、ふいに止んだ。

 夕日はすでに家々の屋根の向こうに沈んだけれど、空はまだ明るく、熱い空気はじっとりと良太にまとわりついている。

 道ばたの草が一度だけ、かさりと揺れる。けれど、目に見えない何かに咎められたかのように、それきり黙り込んでしまった。

 美咲は良太の背中から肩越しに前を見ている。良太が足を止めると、自分の汗がしたたり落ちる音さえ聞こえそうな静寂に包まれた。

 二人の行く先を遮るように立っているのは、セーラー服の少女。

 逆三角形の目は見る者すべてを射抜きそうな殺気にも似た眼光を放ち、への字の口は聞く者すべてを絶望の暗闇にたたき落とす遠雷のような声を轟かせる。

 昨日の人だ――。

 良太は、この人が母の言っていたように美咲の泣き声を心配して来たのではないことを確信した。

 僕らを、待ち伏せしていた――。

 この人とは関わらない方がいい。けれどこの道を通れなければ家に帰れない。良太は身動きがとれなくなった。

 引き返して遠回りする? いや、美咲を連れていてはすぐに追いつかれてしまう。僕が囮になって、美咲だけでも先に? いや、美咲が一人で走って帰れるとは思えない。

 良太は、短い時間でいくつかの逃げ道を考えた。けれど、

 少女はその逃げ道を、たった一言ですべて潰してしまった。

「高橋美咲」

 ばく、と良太の心臓が飛び跳ねる。「個人情報が漏れたら怖いのよ」と母が言っていたことを思い出す。

「ど、どうして名字を…?」

 そんなことはどうでもいい、とばかりに少女は良太を無視した。

「高橋美咲、聞きたいことがある」

 美咲は良太の肩にしがみつく。石になろうとでもしているように堅く目を閉じて、小さく震えている。

「ちょっ」

 良太は、自分の口からまるで自分の物とは思えないくらいうわずった声が出てきたことに驚いた。

「ちょっと待ってよ、あの…、お姉さんは…、」

 お姉さんは誰なの? というよりも、何なの?と訊いた方がいいような気がする。

 けれど少女は、良太が迷いに答えを出す時間を与えず、

「お前には関係ない。わたしは美咲に聞いている」

 と良太を睨みつけた。ひ、と良太は後ずさる。

 関係ないと言われても、簡単には引き下がれない。美咲を、守らなきゃ。

「かかか、関係なくないよ、なんで待ち伏せなんかしてたんだよ」

「美咲、何に怯えている? あの木の何がそんなに怖い?」

「どうして僕たちの名字を知ってるの? どうやって調べたんだよ」

「あれはただの木だ、お前を襲ったりしない。それでも怖いか?」

「答えてよ! ねえ、答えてよ!」

「美咲、何が怖い! 答えろ!」

 良太は少女を、少女は美咲を、それぞれ一方的に問いつめる。二人の声がだんだん大きくなり、とうとう美咲が、

 泣き出してしまった。

 良太は口を尖らせて無言の抗議をしたけれど、少女は受け入れず、泣き続ける美咲を黙って睨んでいる。

「それで、お姉さんは何なんですか? どうして、僕たちの名字を知ってるんですか?」

 少女は答えない。

「美咲はまだ小さいんだから、木が怪獣に見えるっていうだけで泣いちゃうこともあるよ」

 少女の小刻みな頷きは、納得しているわけではないけれど否定はしない、という意味だ。良太は、自分が言った言葉を確認するように、怪獣の木を見た。

「…昨日は満月だったな」

 独り言のような少女のつぶやきに誘われて、良太は木の上のほうを見る。

 普段は、月の形のことなんて理科の授業の時にしか考えたことがなかった。たまたま夜空を見上げたときに満月だったことが何度かあるけれど、それはお月様に呼ばれたのだと思う。

 ゆうべは、そうだ、


 怪獣の木は満月に照らされて、

 僕でさえ生きているのではないかと思ってしまうくらい、

 活き活きと輝いていた。


 月に特別な力があるはずない、だろうか?


 もしも誰かが月の不思議を説いたなら、

 僕はきっと何度も頷いてしまう。

 それが、満月に限ってということなら、なおさら。


「…満月だと、何なの?」

 良太の質問には、期待が込められている。けれど少女は何も答えず、ゆっくりと視線を良太に向ける。

 その目に宿った光が、良太を震えさせる。正面から見ると、やっぱり怖い。

 逆三角形の目だけを見ると怖いだけだけれど、それとへの字の口が組み合わさると、逆らうことが許されないような威圧感を感じる。良太はまた一歩後ずさる。また家が一歩遠くなる。

 ――このままじゃ、家に帰れない…。

 良太は半円を描くように、距離を保ったままゆっくりと少女の周りを回って少しずつ家の方に近づいた。

 少女の目は、正確に良太を追ってくる。


 やっと、良太と少女の位置が入れ替わった。あとは、タイミングを見計らって走り出し、全力で逃げる――。しかし、

「わたしは、」

 少女の低い声に絡め取られ、走り出そうとしていた良太の足が硬直する。

「美咲に聞かなければならないことがある」

 まっすぐに睨みつけられ、良太は口を開くことさえできない。一歩ずつ、倒れそうになる体を支えるように下がる。

 極度の緊張で聞こえなかったのか、それとも美咲の鳴き声で聞こえなかったのか。いつの間にか、蝉の声が良太の四方を取り囲んでいることに、初めて気づいた。音の圧力は次第に高まり、頭が割れてしまうのではないかと思うくらいにじいじいじいじいと響く。

 ――逃げろ、逃げろ、逃げろ!

 良太はすべてをふりほどき、美咲を背負ったまま走り出した。

 振り返るとすぐそこに少女がいるような錯覚に怯えながら、それでも転んで美咲に怪我をさせないように確実に足を振り出して走った。

 ついてきている、あのお姉さんがついてきている。

 それが錯覚であることを願いながら、道が緩く曲がっている手前で良太は、

 立ち止まり、振り返った。

 そこに少女はいなかった。さっきの場所から一歩も動かず、おそらくは怪獣の木をじっと見ていた。

 ほ、と良太が安堵の溜め息をつくと、まるでそれが聞こえたかのように、少女が良太を睨みつけた。

 良太は情けない悲鳴を上げながら、家まで走って逃げた。

 それが情けない悲鳴だった、と気づいたのは、その夜、布団に入ってからだった。



 終業式が終わると、良太は走って保育園に向かった。

 ああもう、先生の話が長くって、遅くなってしまった。

 車に気をつけるように。川には近づかないように。暗くなる前に家に帰るように。宿題は毎日やるように。家の手伝いをするように。病気をしないように。悪いことをしないように。テレビを見過ぎないように。冷たいものを食べ過ぎないように。エアコンに当たりすぎないように。友達と遊ぶように。ゲームばっかりしないように。登校日を忘れないように。歯を磨くように。毎日風呂に入るように。

 わかってる。わかってることばかりだ。そんなことより、早く保育園に行かなくちゃ。

 良太は、友達がさっそくいくつかの言いつけを破るべく、誰かの家に集まって、エアコンの効いた部屋でアイスでも食べながらゲームをしようと誘ってきたけれど、断った。

 早く美咲を迎えに行かなくちゃ。

 良太が保育園に着くと、先生が出迎えてくれた。

「良太くん、こんにちわ」

「こんにちわ。あの、美咲は」

 挨拶もそこそこに、美咲の姿を探す。

 そんな良太を、いいお兄ちゃんね、と先生は柔らかく見つめる。

「みんな、今お昼寝中なのよ。起こしちゃかわいそうだから、ね?」

 良太は、保育園の職員室に誘われて、冷たい麦茶を飲みながら待つことになった。



 すっかり顔なじみになった三人の先生に囲まれて、良太は照れていた。

「…いえ、そんなことないです」

「偉いわよう、毎日毎日迎えに来るなんて」

「うちの子なんて、良太くんより三つも年上なのに全然ダメ」

「妹さん思いなのよねえ、美咲ちゃんも幸せねえ」

 良太は真っ赤になって俯いてしまった。

 ほめられるのは嬉しい。それが、父さんやお母さん以外の人からなら、なおさらだ。でも、こんなふうに取り囲まれてさんざんほめられるのは、さすがに恥ずかしい。

 なんとか話題を逸らしたいのだけれど、共通の話題といえば美咲のことや家のことだし、それを話せば話すほど、良太はほめられてしまう。良太はさすがに逃げ出したくなった。

「あの…、ちょっと」

 そんな良太を救ったのは、職員室に入ってきた若い先生だった。助かった。この先生は恩人だ。

「高橋…さん?」

「え、あ、はい」

 滅多にさん付けの名字で呼ばれることのなかった良太は、少し緊張した。この先生にはあまり面識がない。なじみの先生は、良太くん、と呼んでくれるのに。

「あの、高橋さんに、お客さん…なんですけど…」

 僕にお客さん?

 たまたま保育園に来ている僕に?

 良太は首を傾げながら、先生に促されて入ってくる人を見た。

 それは、

 逆三角形の目をした少女。

 ぎゃ、と良太は叫んだ。

 良太は、保育園の職員室で、少女と向かい合って座ることになってしまった。



 ──こういうの、なんて言うんだっけ。一難去ってまた一難、だっけ。先生たちにほめられてたほうが、まだ良かった。

 うつむいた良太の視線は、自然に少女の足下に引き寄せられた。

 昨日と同じ、丸っこくてかわいいスニーカー。この靴と逆三角形の目が繋がっているということが、どうしても信じられない。

「…あの…、僕に用って」

 良太は、うつむいたまま切り出した。少女の表情が恐ろしくて、とても顔を合わせることなんてできない。もっとも、下を向いていても、頭をぐいぐいと押さえつけられているような圧迫感を感じている。

「お前にじゃない」

 良太には、少女の声が遠雷のように聞こえた。なんて低く、迫力のある声だろう。さっきまで、先生たちのきゃらきゃらころころという笑い声に包まれていたのが嘘のようだ。そんなことよりも、

 ──僕にじゃ、ない?

「じゃ、あの…」

「美咲に会いに来た。そうしたら昼寝中だといわれた」

 追い返してくれりゃいいのに。良太は、さっきは恩人だと思えた若い先生を憎んだ。当の先生たちは、二人の邪魔をしないように遠くから、しかし保育士として最小限の警戒心を持ち、意識だけをこちらに向けていた。

 だめじゃない、中学生でも、部外者は部外者なんだから――。

 わかってます、わかってるんですけど、その、どうしても逆らえなくて――。

 少女を招き入れてしまった先生は、怒られているようだ。

 当然だろう。最近は変な事件が多い。良太だっていつも防犯ブザーを持っているし、特に美咲を保育園から連れて帰るときには注意するように言われている。一度だけ父が美咲を迎えに行ったけれど、「身分証がないとダメって言われたよ」と一人で帰ってきたこともあった。それくらい厳しいのに。

「美咲に、何の用なんですか?」

 少女のスニーカーを見つめたまま、良太はやや警戒気味に答えた。膝の上に置いた拳に、おもわず力がこもる。

「例の、」

 そう言いながら、少女は少し大げさに足を組んだ。

 良太の視線は、無意識にスニーカーを追って上に移動した。スカートの少し奥が見えそうになって、良太は慌てて下を向く。

 少女は良太の慌てぶりをほんの一時楽しんでから、続けた。

「例の、美咲が怖がっていた木のことだが」

「だから、怪獣の形が…って、それよりも、」

 この人は、いったい、何なのだろう?

 どうしてわざわざ、美咲に会いに保育園まで来たんだろう?

 どうして美咲がこの保育園にいるとわかったんだろう?

 良太は、何から聞いていいのかわからなかったけれど、

 とりあえず目の前の疑問から片づけることにした。

「それよりも、そのヘルメットは…?」

 安全+第一。

 少女が膝の上に置いている、そう書かれた黄色いヘルメットを指さし、良太は恐る恐る尋ねた。

「これか? 工事現場とかで、見たことないか?」

「ありますけど…」

「見たとおりの物だ」

 良太は、はあ、とだけ答えた。それ以上の答えは期待できず、それ以上の質問は許されないと悟ったからだった。

「美咲は、いつごろからあの木を怖がるようになった?」

「…お姉さんには関係ないでしょう」

 そっちが質問に答えてくれないなら、こっちだって答えてやるもんか。良太は、せいいっぱいの強気で少女の目を睨みつけた。

 少女には、良太の意図が正確に伝わった。少女は、軽く咳払いをしてからヘルメットを持ち上げ、ゆっくりと、重大な事実を告げるかのように、

「これは頭部を保護するための物だ」

 と告げ、今度はお前が答える番だとばかりに口を結ぶ。

 良太には、少女の意図が正確に伝わった。けれど、

 ――これで今度は僕の番だってのは、不公平な気がする…。

 と、もっともな感想を抱き、こちらも固く口を結んだ。

 少女は、良太に答える気がないとわかると、机に置いてあった麦茶を手に取り、ぐいぐいぐい、と飲み干した。

 良太は、脈動する細いのどに見とれてしまった。


 目を閉じてさえいれば、

 この少女の、なんて綺麗なことだろう。

 コップが離れる瞬間のくちびるの、

 なんて柔らかく眩しいことだろう。


 少女はコップを机に戻すと、机の上の写真立てを手に取った。五人の園児たちが輪になって見上げている姿を、真上から撮る構図。

 子供からの信頼と憧れを、大人がまっすぐに受け止めている。大人から溢れこぼれる愛情を、子供たちがいっぱいに開いた手のひらで掴もうとしている。子供の視点に合わせるだけが愛情ではない、と先輩保育士が残していった写真だった。

「いつもお前が迎えに来るのか?」

 少女は、写真を見つめたまま言った。

「父さんは夜遅いし、お母さんも働いてるから。お母さんが帰ってくるまで待ってたら、美咲がかわいそうだし」

 答えてから良太は、しまった、と後悔した。家の事情を外で話してはいけないといつも言われていたのに。特に、家が夜まで空っぽだなんて、こんな得体の知れない人には絶対に言っちゃいけないことだった。良太は慌てて言い足した。

「別に、お母さんもそれほど遅いってわけじゃないんだけど、晩ごはんのしたくとか、いろいろあるから。そうだ、洗濯も帰ってからするんだ。だから…」

 少女は慌てる良太に特に関心を持つふうでもなく「そうか」とつぶやいて、写真を戻した。

 そのまま、自分の失敗を責めている良太を横目で見ながら立ち上がると、先生たちに「おじゃましました」と告げて、職員室から出ていってしまった。

「良太くん、今の方は…?」

「え…、あ、近所の…、お姉さんです。たまに美咲と遊んでくれて」

 嘘をつくことに、あまり抵抗はなかった。そう答えるのが、いちばん簡単だった。

「ふーん? 無愛想だけど、綺麗な子ねえ」

「はぁ…」

 良太は、また先生たちに囲まれたけれど、話は半分も聞いていなかった。

 彼女は誰だ? 彼女は何だ?

 どうして美咲に。どうしてこの保育園に。

 どうしてヘルメットを。いや、それはこのさい放っておこう。

 また美咲に会いに来るだろうか。来るだろう。

 怪獣の木が、

 どうしたっていうんだ?



「それでね、ケンちゃんがね」

「うん」

「お砂場でね、シャベルね、なくしちゃったの」

「うん」

「それでね、みんなでね、探してあげたの」

「うん」

「…お兄ちゃん、おてて、痛い」

「うん」

 良太は、知らない間に美咲の手を強く握っていることに気づいた。

「ああ、ごめんごめん」

 保育園からの帰り道、良太と美咲は、いつものように手をつないで歩いていた。

 僕が、美咲を、守らなきゃ。

 良太は、傾いた美咲の帽子を直してやった。

 夏の日差しは、容赦がない。お母さんが子供の頃は、真っ黒になって遊べなんて言ってたらしいけど、今はなるべく紫外線を浴びないようにって言われてる。

「美咲、知らない人について行っちゃだめだよ」

「わかってるよう」

「お菓子あげるって言われても?」

「ついていかなーい」

「絶対ダメだよ?」

「お兄ちゃん、うるさい」

 美咲は、良太の手を振り払って駆けだした。

 がん。

 今日、学校の先生にさんざん分かり切ったことを注意されて嫌な思いをしたのに、同じ事を美咲にしてしまった。

 お兄ちゃん、うるさい。

 良太はショックで足下がおぼつかなかったけれど、美咲を追って走り出した。

 もちろん、多少ふらついていても、幼児の足に追いつけないわけがない。けれど、そんなこととは関係なく、

 美咲は、立ち止まっていた。

 怪獣の木の見える、少し手前で。

 ――怖がるのは夜だけかと思ったけど、これは思ったより重傷だな。

「美咲? 大丈夫だよ、行こう」

 美咲は、ふてくされたように口をとがらせている。

 よし、と良太は、美咲に背を向けてしゃがんだ。

「ほら、おんぶ」

「うん」

 美咲は、美咲にとっては大きい背中に、よじ登った。

「よっし、いっくぞーっ!」

 良太は、美咲を背負ったまま、全力で走り出した。

 美咲は、きゃあきゃあとはしゃぎながら、良太の首にしがみつく。美咲の腕は熱いけれど、それがとても心地よい。良太は風を切って、美咲が怪獣の木に気づく暇を与えずに走り抜けた。



「到着!」

 結局家まで走ってきた良太は、玄関の前でやっと美咲を降ろした。

「とうちゃーく!」

 美咲も、意味がわかっているのかいないのか、両手を上げて叫んだ。

 汗だくになった良太は、家に入るとすぐに風呂を沸かした。

 これは、先月になって、やっと母から許可されたことだ。良太の家の風呂は沸かすのに少し手間がかかる旧式のものだったので、良太がいじってはいけないことになっていた。

 しかし、母が帰るまで風呂を待っていては美咲がかわいそうだからと、母の目の前で風呂を沸かしてみせる「認定試験」を受けて合格し、それ以来、それは良太の役目になった。

 良太と美咲は、風呂が沸くまで戸棚にあったおやつを食べて待った。

 冷蔵庫にあった麦茶に砂糖を入れると、美咲は一気に飲んでしまった。もう一杯、もう一杯とせがむ美咲に、本当にもう一杯だけだからね、と麦茶を渡す。

 我ながら甘いなあ、と反省するけれど、美咲にせがまれて断る術を、良太は持っていなかった。

 いいんだ。しつけは親に任せる。僕の役目は、美咲が退屈しないように面倒を見ることと、危ない目に遭わないように守ってやることなんだから。

 ――危ない目。

 美咲が遭うかもしれない危ない目って、なんだろう。

 交通事故?

 誘拐?

 あの、鬼のような顔をしたお姉さんは、美咲に何をするつもりだろう。

 良太を、大きな不安が襲った。

 自分に向けられたものではない、やいば。

 その切っ先にいる、大切な、妹。

 僕には、美咲を守ることができるんだろうか?

 いや、守るんだ。守らなきゃ。

 良太は、美咲の頭に手を乗せて、大切な妹をじっと見つめた。

「お兄ちゃん?」

 コップから口を離して、首をかしげる美咲。

 良太は、不安を隠して笑顔を作る。この半年くらいで、ずいぶん作り笑顔がうまくなった。

「そろそろ沸いたよ。お風呂入ろう」

「うん!」

 とりあえず、家にいれば、何も不安はない。

 良太にとって、家は堅強な城も同然だった。鍵をかければ、あの般若のようなお姉さんも入ってこられない。ここにいれば、大丈夫だ。

 その日、母は遅くまで帰ってこなかった。

 良太は、今日保育園で起こったことは言わなかった。言えば、母によけいな心配をさせてしまうから。

 母のことを思っての内緒だったけれど、なぜだか、良太の胸はちくりと痛んだ。


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