終章 もう一度、約束のはじまり
終章 もう一度、約束のはじまり
次の日、良太と美咲は河川敷に向かっていた。
「お兄ちゃん、川に行ったら危ないよ、叱られるよ」
「大丈夫、でもお母さんには内緒だよ。美咲も、お姉ちゃんにバイバイしたいだろ?」
美咲は小さく頷いてしばらく黙っていたけれど、ふいに顔を上げた。
「お姉ちゃん、いなくなっちゃうの?」
答えを聞くのが怖い。そんな表情に、良太はすぐには答えられなかった。
けれど、少なくともマーナのことは、美咲との間に嘘や隠し事はしたくなかった。
「…たぶんね」
ゆうべ、家に帰って玄関を開けると、両親が飛び出してきた。最初に驚いたのは寝ていると思っていた美咲が良太と一緒に帰ってきたことで、これには良太もあたふたと言い訳をするしかなかった。連れて行ったのではなく、気が付いたら勝手についてきていたということを納得してもらうのが大変だった。
その後は父も母も心配そうな顔をしていたけれど、「月は見えたか?」と尋ねる父に良太が大きく頷くと、それ以上何も聞かれることはなかった。
もっとも、良太が黙っていても、美咲が今見てきたことを身振り手振りを交えながら得意げに話してしまった。それはかなり正確で、良太が感心するほどの臨場感溢れる熱演だったけれど、父と母は顔を見合わせて苦笑いをするばかりだった。
――そうだよな。
僕だって、自分がその場にいなければ、こんな出来事は信じられないだろう。
お父さんやお母さんにいくら美咲が熱弁をふるっても、それはただのおとぎ話にしか聞こえない。想像力が豊かな子だな、と感心して頬を緩ませるのがいいところだ。
それにしても。
美咲がこんなに詳しく覚えていてくれたのは、とてもうれしい。
マーナさんとのことは、いつまでも僕と美咲だけの秘密にするだろう。この先、幼い美咲がどこまで覚えているかはわからない。でも、いつか二人で語り合いたい。それまで、
大切に、そっとしまっておきたい。
ゆうべは、そんなことを考えながら、なかなか寝付けなかった。
今日も朝から暑い。神社までの道は茂る木々に覆われていて少し涼しいけれど、そのかわり蝉たちが一斉に鳴いてうるさいほどの音のアーチを作っていた。
神社の脇を抜けると、木々が途切れて視界が開けた。再び強い日差しに襲われて、良太は思わず手をかざす。美咲は「しがいせんだ!」と言って良太の陰に隠れる。
ずっと向こう、土手の上を見ると、白い軽トラックが一台停まっていた。マーナを迎えに来た車だ。
荷台に荷物を積み込んでいるマーナが見えたので、良太は呼んでみた。
「マーナさーん」
その瞬間、マーナはものすごい勢いで駆け寄ってきた。
「大声で呼ぶな! 恥ずかしいだろう、バカっ!」
「あれは、お父さんの車?」
「…うん」
目をそらし、なぜかふてくされたように答えるマーナの気持ちは、まだ良太にはわからなかった。父親を見られるのがなんとなく恥ずかしくなるのは、もう少し先の話だ。
「お前たち、見送りにでも来てくれたのか?」
「うん。それから、謝ろうと思って。仕事の邪魔して、ごめんなさい」
「…まあ、いい。こっちこそ、危ない目に遭わせてしまったしな」
マーナは遠くを見るふりをして、横を向いた。
「それで、あの…、おばあさんは?」
「今朝、会ってきた。まあ、ほとんど眠ったままなんだけどな、寝顔が少し安らかになった、と家族の方が言ってくれた」
「良かった。…僕は、少しくらい役に立てたのかな」
マーナは何も答えなかった。かわりに、しゃがみ込んで、美咲に話しかけた。
「美咲、元気でな」
「お姉ちゃん、今度はいつ来るの?」
「んー、わからない。でも、きっとまた会える」
良太は安心した。マーナさんは、嘘はつかない。きっと、本当に会いに来てくれるだろう。
車の方から、マーナを呼ぶ声がした。
「もう行かないと。じゃあな」
「うん、じゃあ」
「お姉ちゃん、バイバイ」
マーナは走って戻っていった。父親が白い歯を見せて何かを言っている。どうやら、マーナをからかっているらしい。マーナは父親の背中を叩くと、車に飛び乗って乱暴にドアを閉めた。がっはっは、と父親の豪快な笑い声が聞こえた。
結局マーナは、一度も良太に目を合わせようとしなかった。たぶん、ゆうべ泣き顔を見られたことが恥ずかしかったんだろう。その気持ちはよくわかるけれど、このまま別れてしまうのは寂しすぎる気がした。だから、
――最後に、ちょっと意地悪しておこうかな。
良太は、車が走り出すと、いちにのさん、で美咲と一緒に叫んだ。
「マーナさーん、バイバーイ!」
助手席の窓から拳を振り上げるマーナがとても嬉しそうに見えたのは、きっと気のせいではないだろう。