第4章 嘘(2)
第4章 嘘(2)
美咲は良太の姿をした勝義に駆け寄る。
「お兄ちゃーん!」
「美咲! だめだ、止まれ!」
マーナの鋭い叫びに、美咲は止まった。というより、あまりの恐ろしさに硬直してしまった。
ぎぎぎ、と美咲の首がぎこちなくマーナを向く。
マーナは、こちらもぎこちなく今までの人生で最高の微笑みを作り、「美咲、こっちへおいで」と手招きした。
美咲はその引きつった笑顔に多少怯えたけれど、お兄ちゃんのお友達だから大丈夫なはず、と一歩ずつマーナに近づいた。
早く、早く、早く。
マーナの焦りが、さらに笑顔を引きつらせる。
視界の端のほうでは、良太が静江に向かってふらりと足を踏み出している。
もし良太が静江に近づきすぎれば、木に流している電流が良太を襲う。
まずい、まずい、まずい。
早く、美咲、早く、来い!
「お…お姉ちゃん…、お顔、こわい…」
………。
な
ん
だと?
人生最高のわたしの微笑みが、こわ、怖い…?
マーナはがくりと膝をつき、うなだれた。美咲はさすがにまずいことを言ったと気づいたのか、心配そうにマーナの前にしゃがみ込んだ。
「えと…お姉ちゃん?」
「…んあ?」
「えと…えと…、いつものお姉ちゃんがいい…」
むす、とむくれた顔をあげるマーナ。それを見て、すこし怯えた様子だけれど笑顔を見せる美咲。
「美咲、お前…、まあいい、そこは危ないからこっちへ来い」
その時、激しい火花が飛んだ。木からほんの少し離れたところで、良太がうずくまっている。
「しまった! 良太!」
静江に触れようとして、良太は電撃を受けていた。はじき飛ばされるように倒れた良太に静江は駆け寄りたい気持ちだっただろうけれど、木に束縛されているから動けない。良太は、良太の姿をした勝義は、執念で立ち上がる。
「俺は、約束したんだ。必ず静江の元に帰ると」
数十年の間に濃縮されたその想いだけに突き動かされ、良太の体は一歩ずつ前に進む。静江は戸惑いを隠せない。
「良太ーっ! 目を覚ませ! 良太!」
マーナの呼びかけが聞こえていないのか、聞こえていても無視しているのか。良太は時々ふらつきながら静江に近づこうとする。
どうする、どうする、どうする?
電源を切るか? いや、それでは良太は乗っ取られたままで解決にならない。だいいち、目の前から静江が消えたら、良太――勝義がどういう行動に出るかわからない。戦時中の教育を受けた勝義であれば、それこそ、何をするか――。
それならば、良太を助ける方法は、
発破。
マーナは、父から受けた指導を必死で思い出していた。
――いいか、麻奈菜。もし人が『想い』を浴びてしまったら、
そうだ、そんなことを言っていた。
――その人は、暴走することがある。古い『想い』は濃いからな。そのぶん強い。
そう、そんなときどうすればいいのだったか。
――どうしても、というときにはな。発破で気絶させるしかねえ。
瞬間的に強い電圧をかけ、周辺の小さな『想い』を吹き飛ばす、発破。
――出力は四十%。それ以上高いと黒こげだ。
怖い、怖い、怖い。もし失敗したら。
――俺は、三十年以上この仕事してるが、人に発破かけたことはねえ。だがな、
だが?
――やるときは、ためらうな。一瞬遅れれば、その人を助けられねえこともある。
「うがっ!」
良太が再びはじき飛ばされた。間をおかず、マーナは発破スイッチを充電側に倒す。
キィィィィ、という高い音と共に、少しずつ充電計の針が進む。
出力は四十%? いや、良太はまだ子供だ。その場合、もっと出力を下げる必要があったはず。 三十%? 三十五%?
高ければ黒こげ、低ければ気絶させられない。
この道三十年以上の父でさえ、経験したことのない非常事態。だから、マーナはその話を真剣には聞いていなかった。
マーナの後悔を見抜いたように、
がるっ、と発電機が一瞬だけ不安定になる。
どくん、とマーナの心臓が縮む。
ガソリンが切れかかっている。発破充電にかかる時間を考えれば、二回目はない。一回目で成功させないと。
出力は? どうする? 思い出せない!
マーナは焦りの中で、きっ、と美咲を見た。
少しはマーナの顔に慣れていた美咲だったけれど、「ひや」と妙な声を上げて尻餅をつく。
「美咲、いくつだ」
「え」
「とし。いくつだ」
「よ…よっつ…」
「そうか。じゃあ、三十…四%だ」
マーナは発破スイッチを充電位置から中立位置に戻した。五十%近くまで進んだ充電計の針が、少しの間をおいて戻り始める。良太は再び立ち上がる。もうやめて、と静江が叫ぶ。
三十七%、三十六%、三十五%、三十四%、
今だ!
発破スイッチを発破側に倒せば、
――黒こげだ。
!
一瞬のうちに、黒こげになった良太の姿が思い浮かぶ。泣き叫ぶ美咲の姿が思い浮かぶ。呆然と立ちすくむ、自分の姿が思い浮かぶ。
スイッチに添えた指が、氷のように冷たく固く感じられる。
ぎり、とマーナの歯が軋む。指が、動かない。
マーナは、硬直した右手を左手でむしり取るように操作盤から離した。
充電計は二十三%まで下がってしまっている。
発電機が不安定になる。いよいよガソリンが底をつく。
もう発破充電は無理か。たとえ充電したところで、
――人間に、良太に発破をかけることは、わたしにはできない。
でも、良太を、良太を助けなければ。
何とかしないと――。
その時、叫んだのは静江だった。
「勝義さん、やめて…! やめてください、私が間違っていたのです!」
――間違い?
「私は、あなたを待っているべきじゃなかった。私はあなたを失ってから、両親の言うままとはいえ結婚し、すばらしい家庭を築くことができました。幸せな人生を過ごすことができました」
――これは、嘘だ。
震える声で、
「息子も、その嫁にも、かわいい孫たちにも恵まれました。だから、私は、あなたを待っているべきじゃなかった。あなたは――」
絞り出すように、
「あなたは、私の人生に必要な人ではなかったのです。だから、」
――静江さんは、嘘をついている。
「だから、もう、やめて…、来ないでください…」
マーナは、体が震え出すのを止められなかった。
会いたいという気持ちだけを深く濃く煮詰めながら、
何十年もこの木の下で人を待ち続け、どうして、
どうして、
待っているべきではなかったなどと、
必要な人ではなかったなどと、
本心で言えるだろうか?
静江さんは、だから、嘘をついている。
信じることが『想い』の存在そのものだから、『想い』は嘘をつけないはず。
それでも、嘘をつこうとするのは、
おそらく自分のひ孫と同じくらいの年のこの少年を、
守るために。
――なんという…、
繊細で、しかし強く太い人。
自分の数十年の存在を否定してまでも、少年を助けようとする心――。
けれど、
勝義の煮詰まった想いは、良太の足を確実に静江に向けて進める。
「うるさい…、俺は生きて帰ると約束した、だから、静江、俺は」
「勝義さん、やめてください! もう来ないで!」
良太の体を、三度目の電撃が襲った。
「お兄ちゃん!」
電撃にはじき飛ばされる良太に、美咲が駆け寄る。怖いけど、怖いけど。
「美咲っ! 待て美咲!」
マーナの制止を、しかし今度は聞こうとしない。
電線のあちこちから火花が飛び、静江の姿がゆがむ。
マーナは美咲を追おうとした。しかし、さらに自分までもがフィールドに入ってしまうと、美咲も、良太も、自分も、それから静江も、危険だ。
「くっ!」
マーナは、操作盤に戻ってダイヤルを調整した。しかし、どんなに調整しても静江の姿は安定しない。子供とはいえ、人間二人の影響はとてつもなく大きく、不安定だ。美咲が一歩進むたびに木を囲む電線から火花が飛び散る。操作盤の中でも何かが弾ける音が響き、マーナの鼻を焦げ臭い煙が刺激する。
周囲の火花に怯えながら一歩ずつ近づく美咲を、良太は睨みつけた。
「なんだお前は! 来るな! 邪魔をするな!」
美咲はそれでも、良太に近づく。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
小さな手を良太のTシャツに伸ばし、裾をつかんだ。
「お兄ちゃん、痛くない? 痛くない?」
「うるさいっ!」
良太が、拳を高く振り上げる。
美咲は良太の拳を見あげる。
拳が、強く振り下ろされる。
しかし美咲は、
良太の拳が自分を襲うとは、
ひとかけらも、
思っていない。
まさに、その拳が、
自分に向かって、振り下ろされているというのに。
風圧で、美咲の髪が、ふわ、と揺れる。
拳は美咲の頭のすぐ上で止まっている。
美咲はまるでそうなることを知っていたように、
良太の拳に手を添え、ほほえんだ。
拳を解いた良太の手のひらが、
美咲のほほを、
優しく、柔らかく、
包み込む。
「美咲…!」
正気に戻った良太は、美咲を抱きしめた。
「お兄ちゃん? どうしたの? どうしたの?」
二人が動きを止めたおかげで、少しずつ静江の姿が安定する。
静江は何かを言いたげだったけれど、自分の姿が安定するのを待って、
小さな声で、
「ありがとう」
と、つぶやいた。
「良太さん、ありがとう。おかげで、勝義さんの気持ちがよくわかりました。あの人は本当に正直で…、きっと私との約束を守れなかったことが、よほど辛かったのでしょうね」
静江は、自分に向いた良太の目を、じっと見つめて言った。
「私はやはり、間違っていませんでした。待っていてよかった。…こうして、あなた方に会えたから」
静江の気持ちが固まったことを知ると、マーナは美咲を呼んだ。
「美咲、良太を連れて、こっちにおいで」
呆然と静江を見ている良太を、美咲が、驚くほど強い力で引っ張ってくる。
「お姉ちゃん、来たよ」
「うん、ありがとう」
ダイヤルを調整しながら、マーナは礼を言った。
逆三角形の目を、美咲は、もう怖がらなかった。
「静江さん、これからあなたを、」
「はい。覚悟はできています。もう、消えてしまっても後悔はありません」
マーナは、一瞬の間をおいて、かぶりを振った。
「それは違う。消えるんじゃない」
「え?」
マーナは、
深く息を吸い込み、少し大きい声で言った。
「あなたは、この木の束縛から、解放されるんです。勝義さんは、向こうで待っています。これから、あなたがこの木から離れて、そこに行けるようにするんです」
静江は、うつむき加減でほほえんだ。ほんとうに幸せそうな、笑顔だった。
「ありがとう」
静江がそういうと、マーナは、スイッチを一つ切り替え、小さなダイヤルを回した。
「第三臨界まで、ベータ変流、昇圧…」
発電機が息をつく間隔が短くなる。一瞬、電圧が降下する。
静江と木の光がいっそう強くなり、赤みを帯びる。
さらにダイヤルを回すと、耳鳴りのような音が高まる。
静江が少しつらそうに、顔をしかめる。けれどその表情も、赤から白に変わりつつある光に埋もれ、ぼんやりとした輪郭しか見えなくなってしまう。ふちだけを赤く残して全体が白くなると、マーナはダイヤルから手を離した。
「第三臨界、安定。アルファ流、ベータ変流、異常なし。消…いや、解放」
中央のボタンを押すと、
パシッ、
という乾いた響きを残して、静江の姿が消えた。
マーナはゆっくりとダイヤルを戻す。それにつれて木の光も青く、弱くなっていった。
ふう、と大きく息を吐き、
「…解放、完了」
マーナは、操作盤のメインスイッチを切り、ヘルメットを置いた。
息をつきながらも最後の力を振り絞っていた発電機は、ほんのしばらく足掻いたあとに止まった。
月明かりは、木の光に慣れた良太たちの目には暗すぎる。光も音もなく、排気ガスの匂いだけが、あたりに漂う。
そうして訪れた静寂と闇の中、マーナはずっと後ろから見ていた良太たちに、振り向かずに言った。
「──わたしは、嘘をついた。わたしは、この世に想いが残ることは知っている。けれど、あの世があるかどうかなんて、知らない」
マーナの声が、だんだん小さくなる。
「わたしは、嘘をついた。静江さんに、気休めの嘘を」
すっかり落ち着いた良太は、わざと明るい声で言った。
「嘘じゃないと思うよ」
「え?」
「僕は、信じてる。きっと静江さんは天国に行って、そしたら勝義さんと会えると思うよ。だから──」
良太は、ハンカチを差し出して言った。
「だから、泣かないで」