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第4章 嘘(1)

   第4章 嘘(1)



「お母さん」

 夜九時半を過ぎて、良太はやっと切り出した。

「これから、ちょっと出てきていいかな…?」

 母は驚いた。

「友達と、月の観察をしようって約束してたんだ」

 母には、もちろん、それが嘘だとすぐにわかった。けれど、

 良太も、嘘がばれていることを知りながら、嘘をついている。つまり、

 ――理由は聞かないで。

 そう言っている。母はもちろん良太が何をしに行くのか心配だったけれど、良太を信じようという父との約束を守ることにした。そう、この子は、悪いことをする子じゃない。親ばかではなくて、心から、そう思う。

「…あまり遅くならないようにね」

 母は、それだけ言うと、家事に戻った。けれどその手に持ったスポンジは、同じ皿をいつまでもこすっている。

 ごみ箱に入っていたケーキ屋の箱。良太がお小遣いで買ってくるとは思えないから、昼間、誰かが訪ねてきたのだろう。大人だろうか? どうして子供だけの留守中に大人が訪ねてくるのだろう? どうして良太はそのことを黙っているのだろう? そして、

 ゆうべ、良太の枕元にあった、見覚えのない、鍵。

 子供が他愛もないものを宝物のように大事にすることはよくある。とはいえ、良太がそんなことをするとは、あまり思えない――。

 考え事をしているうちに、母の手から皿が滑り落ちた。洗いかけの湯のみに当たって、どちらも欠けてしまった。

 かちゃりかちゃりと、破片を片付ける切なそうな音が聞こえる。

 ――お母さん、ごめん。

 大丈夫、行って、鍵を返して、帰ってくる。それだけだから。

 父は寝転がってテレビを見ていて、良太を気にしているそぶりもない。

 美咲はもう寝てしまっている。

 良太はなるべく音を立てないようにドアを開け、家を出た。

 こんな遅くに一人で外に出たのは、初めてだった。

 夜だというのに、蝉がじいじいと鳴き続けている。まわりが静かだから、昼間よりもうるさく感じるくらいに。昔は、蝉は昼間しか鳴かなかったらしいけれど、今では朝でも夜でも鳴いているのがあたりまえだ。

 あの家の門の裏、この茂みの陰、道ばたに停められた車の運転席。あちこちに何かが隠れていそうで、良太の足は自然に速まった。

 ――なんでこんな夜遅くに待ってるなんて言うんだ。

 良太は、なるべく怖いことを考えないように、怪獣の木がある空き地に向かった。街灯に照らされて夜の道を歩くのは心細いけれど、この先に待っていてくれる人がいると思うと、それがたとえ般若でも悪魔でも、心強い。

 自販機に照らされながら、シャッターの降りている酒屋を通り過ぎる。自分の影に、すい、と追い越されてどきりとする。たばこ屋の先の分かれ道を少し下りながら左に進んで、

 あの緩く曲がった道の先に、空き地がある。

 もう、迷いはない。

 空き地に行って、鍵を返す。そしたら帰る。それでおしまい。家に戻って、お風呂に入って、寝る。それでおしまい。



 空き地に着くと、マーナがいた。木に巻き付けた電線を引っ張って、たるみを直している。約束の時間までまだ間があるせいか、マーナは良太に気づいていないようだった。

 マーナは、真剣な顔つきで作業を続けている。

 あたりは月の光に青白く照らされいて、すべてが色を失っているように見える。けれど、紺色の空気の中で、草木は確かに鮮やかな緑色の葉を揺らしている。

 一段と鮮やかに見えるのは、マーナの黄色いヘルメット。

 月に照らされているマーナは、昼間よりも、きれいに見えた。

 ――ヘルメットで、目が影になって見えないからだな。

 良太はそう納得しようとしたけれど、本心では、そうではないことがわかっていた。

 何となく声を掛けづらく所在なげに突っ立っていると、いつ気づいたのか、マーナが口を開いた。ただし、手は止めず、良太に背中を向けたままだ。

「ゆうべ、お前がめちゃくちゃに引っ張ったから、電線があちこちに引っかかって…。外すのが大変だった」

「う…、ごめんなさい」

「枝も何本か折れてしまった。いちおう継いでおいたが…、付くかどうか」

「…ごめんなさい」

 半分は、木に対して謝った。

 うなだれている良太に、マーナは汗を拭きながら右手を差し出した。

「じゃ、鍵を返してくれ。試運転しておきたくて、待ってたんだ」

「スペアキーがあるんでしょ?」

 良太はポケットから出した鍵をマーナに返した。

「そんなものはない。鍵はこれ一本だ」

「…騙したんだ?」

 責めるような良太の口調に、マーナはさらりと答える。

「鍵を返さなきゃ、って来てもらっても嬉しくない。わたしの言うことに納得して、それで来てもらえれば…、」

「…れば?」

「まあ、その。嬉しい」

 マーナは発電機を始動しながら、ぶっきらぼうに言い放った。けれど、だだだだだ、という発電機のエンジン音に、その言葉はかき消される。

「ん…?」

 燃料計を見ると、ガソリンが残り少ない。そういえば、とマーナは思い出した。

 ――昨日、ガソリンを買いに行く途中で、泣いている美咲を見つけたんだった。

 良太とけんかして、いちど家に戻ったけれど、補充しておくのを忘れていた。それで、少し遠かったけれど、給油すればティッシュを五箱もくれるという店まで歩くつもりだった。その途中で美咲を見つけて、手を繋いでケーキ屋に寄って、良太の家へ連れて行って。

 ガソリンの携行缶は、ケーキ屋の前に置いてきてしまった。

 ――まさか、ガソリンの缶をぶら下げてケーキ屋に入るわけにもいかないしな。

 近くの店で済ませていたら美咲は見つからなかったかもしれないから、ガソリンと引き換えに美咲を見つけたと思えば、幸運だったと言えるだろう。

 操作盤に鍵を挿して右にひねると、いくつかのランプが灯る。続いて操作盤のスイッチを入れると、木に巻き付いた電線のあちこちから、バチバチと激しい火花が飛んだ。

「うわっ」

 良太は思わず身を屈めた。

「大丈夫だ。…通電ヨシ、と」

 スイッチを切り、鍵を抜くと、マーナは再び電線のチェックを始めた。

 鍵は返した。もう、家に帰っていいんだろうけれど。

「マーナさん、」

「んー?」

 鍵さえ返してもらえれば用はない、とでも言いたげに、マーナは作業を続けている。

「こないだは、本当にごめんなさい。次の日、すぐに謝ろうと思ったんだけど」

「しつこいな。わたしはもう気にしてない」

「でも、あのあと何日かいなかったでしょ? よっぽど怒ってるんだと思って」

 やっと電線から手を離し、マーナは月を見上げて目を細めた。

 暗い手元に比べれば、今夜の月は眩しいくらいに明るい。小さな雲が二つ三つ浮いているけれど、それは月を遠巻きにしていて決して重なろうとはしない。じっと見つめて初めてわかるくらいに、雲はじわりと北東に向かって流れている。

「天気が悪かったからな。いったん家に帰っていた。電気を使うから、少しでも雨が降りそうなら仕事はできないんだ。それに」

 視線を落とすと、雑草に月の残像が重なる。草はゆらゆらと月を撫で、すぐに月の姿を拭き消してしまう。マーナは、もう一度月を見上げて、父から聞いた言葉を思い出す。

 ――せっかくの旅立ちだ、きれいな月夜に見送ってやろうじゃねえか。

「…いや、なんでもない。ただ消えるだけ、だからな」

 マーナの言葉の意味が、良太にはよくわからなかった。けれど、目をそらすマーナに、あらためて訊く気にはなれなかった。

「僕は、このままここにいていいの?」

 風の気まぐれで、発電機の排気ガスが良太を包む。思わず口を覆って、けれど良太はマーナの答えを待ってそこを動かない。

 マーナは何も言わずに作業に戻ってから、小さく「ああ」と答えた。

 やがて全てのチェックが終わると、マーナは木から離れて操作盤の前に立った。ヘルメットの顎ひもを締め、目つきが鋭くなる。良太は緊張感に突き飛ばされるように、小走りに数歩下がった。

 蝉たちが、一匹また一匹と気配に押されて鳴きやむ。今のうちに、とぬるく湿った風がそそくさと通り過ぎる。

「さて、始めようか。危ないから、そこから動くなよ」

 マーナはそう言うと、再び鍵を挿して右にひねった。



「アルファ流、昇圧」

 主電源を入れ、数回の火花が収まると、マーナはそう言って操作盤の一番大きなダイヤルをゆっくりと右にひねる。それに従って、怪獣の木全体がぼうっと青白く光り出す。月明かりだけに晒されていた空き地は明るく照らされて、良太とマーナの影が長く伸びる。

 木の光は瞬くようにときどき暗くなり、それでも少しずつ明るさを増す。徐々に瞬きの間隔が広がり、やがて光は微かに青みを帯びた涼しげな色に落ち着いた。

「第一臨界…、安定。ベータ流、昇圧」

 別のダイヤルをひねると光は黄色みを帯びてくる。すでに月の光は完全に押しやられてしまい、それでもさらに木の光は強く大きくなる。ついには目を開けていられないほどの金色の光に、怪獣の木は包まれた。

 きれいだ──。

 良太が見とれていると、

 金色の光が突然、視界全体に広がった。と思うと光は一転して急速に収縮し、最後に小さな点のようになって消えた。

「第二臨界…、安定。発破充電、開始」

 発破スイッチを手前に倒す。

 充電計の上のランプが灯り、甲高い音が微かに響く。

 怪獣の木の周りには、

 金色の光の球がいくつも浮いていた。

「マーナさん、これは…?」

「この一つ一つが、美咲に見えていた『想い』だ。まず、これを取り除く」

 ――これが、

 良太はふらふらと前に出る。

 ――これが、美咲の見ていた光…?

 無数の光の球が完全に木を覆い尽くし、ゆらりゆらりとうごめいている。

 すべてが同じ色というわけではなく、鮮やかな金色のものもあればくすんだ銅のような光り方をしているのもある。大きさと光り方には関係がないようで、明るいもの、暗いもの、大きいもの、小さいものが入り交じっている。

 この得体の知れないものがたくさん浮いていれば、美咲が怖がるのも無理はない。

 マーナは操作盤の充電計をじっと見ている。充電計の針が徐々に上がってゆく。

「お前の言うとおり、この一つ一つの『想い』は大切なものだ。誰の物かわからない古い物だとはいえ、できれば…、消したくない」

 なかば独り言のように、なかば言い訳のように。

「しかし、これを取り除かなければ、おばあさんを苦しめている『想い』にたどり着けない。だから、」

 針がゲージの赤い部分に達した。発破スイッチを中立位置に戻す。

「発破充電、完了。──だから、美咲に見てもらって、本当にこの木におばあさんの『想い』があるのか、確認したかった。無駄に他の『想い』を消したくはないからな」

 マーナは一呼吸置いて、発破スイッチに指をかけた。

「発破」

 そう言ってスイッチをパチンと向こう側に倒すと、操作盤から木に向かって伸びる太い電線に、ばりばりばりと火花が散り走る。

 それを目で追って初めて、

 マーナの視界に良太が入った。

「っておい! 下がれ!」

 ――え?

 ぼんやりと振り返った良太の後ろで、

 光の球が爆発的な勢いで八方に飛び出した。

 そのうちのいくつかが、良太に向かってくる。それに気づく暇もなく、光の球は良太を突き抜けた。

「な…」

 良太は光の球が通った自分の胸のあたりを押さえて、その場にへたりこんだ。

「なに…? 今の…」

「吹き飛ばした『想い』の一部だ。良太、大丈夫か」

 マーナは、視線を木に向けたままだ。

「だい…じょうぶ…」

 言いながら良太は、マーナの視線を追った。マーナが初めて良太の名を呼んだことには、気づかなかった。それどころではなくて、

 金色の木の根本にたたずむ、金色の少女。

「なんだ、あれ…。ゆ、幽霊?」

「幽霊じゃない。人の形をした強い『想い』だ」

 年は、マーナより少し上くらいか。

 セーラー服の上着に、だぶだぶのズボン──もんぺ、だっけ──を履いている。

 金色の少女は、左右に傾き、ゆがみ、ときおり少しにじむように、不安定だ。

 マーナは、操作盤のいくつかのダイヤルを調整しながら、金色の少女に問いかけた。

「あなたは…静江さんですね。なぜ、そこにいるのですか?」

「…ってい…の……す」

 金色の少女・静江は、突然の問いにとまどいながらも、簡潔に答えた。

 マーナは、ダイヤルを微調整する。静江の姿が、安定した。

「待っている…、と言いましたか? 誰を?」

「勝義さんを」

 今度ははっきり聞き取れた。けれど、

 ――かつよし?

 依頼人――静江の息子夫婦や孫からの聞き取り調査では、そんな名前は出てこなかった。

 けれどそれは特に珍しいことではなくて、

 遂げられなかった想いだからこそ、強く残って自分自身を苦しめることが多い。勝義は、静江の家族に知られるような間柄にはなれないまま、静江の元を去ったのだろう。

 参ったな、とマーナはつぶやいた。

 勝義という男は、静江の夫ではない。

 依頼者である家族への報告書にはどう書いたらいいか――。知り得たことが真実であれ、それをその通りに告げるのが必ずしも正しいとは限らない。自分たちの母親が父親でない男のことをずっと想っていたという事実があったとすれば、その家庭が幸福であればあるほど、その絆を傷つけてしまう。

 もう少し、話を聞いてみるか――。

「その、勝義という人は、」

 けれど、マーナのその言葉は良太に遮られた。

「昭和十九年、だったと思う。勝義さんは、戦争に行くことになって、」

 知り得ない事実が、自分の記憶のように鮮明に甦る。良太は信じられない思いで続けた。

「静江さんと、約束したんだ。必ず生きて帰ってくるって、この木の下で。…マーナさん、なんで僕はこんな事を知ってるの?」

「さっき光の球を浴びただろう。その中に勝義さんものがあったんだ。…ただ、それで誰もが『想い』を感じ取れるわけではないがな」

 ――見える美咲に感じる良太、か。わたしにもその力があればどれだけ楽か…。

 軽い嫉妬を覚えながら、マーナは良太に続きを促す。良太はそれに応えて、思い出すままを口に出した。

「戦局はかなり悪化していて、口には出さずとも、誰もが我が国の劣勢を意識していた。それでも行かなければならなかった。そして、生きて帰らなければならなかった」

 もう良太は考えることすらせず、勝手に動く口をただ時々湿らせるだけだった。

「必ず生きて帰る。そうしたら、祝言を」

 ――僕は、静江さんと、約束したのに。

「しかし、」

 マーナが後を継いだ。

「勝義さんは帰ってこなかった、と」

 ――僕は、帰って、来なかった? …約束を、守れなかった?

 静江は、ぐっと唇をかんだ。

「関係ありません。私は、勝義さんを待つと約束したんです。たとえ、」

 胸の前で握りしめた小さな手、震える口もと。そして潤んではいるけれど、

 まっすぐに、前を見つめる、瞳。

「たとえ、彼が戦死したと聞かされても」

 そんな。

 良太には、理不尽なことを言う静江が信じられなかった。

 待っている? 死んだ人を? 何十年も、こんな木の下で…?

 ――帰るはずのない俺を、待っていてくれた…。

 マーナが、感情のこもらない声で告げる。

「もう待っていても仕方がない。今、楽にしてあげます」

 操作盤に指をかけた瞬間、

「ダメだ!」

 突然、良太が走り出し、マーナと静江の間に立った。

 電線から火花が散り、静江の姿がゆがむ。

「な…、バカ!」

 良太がフィールドに入った影響を打ち消すため、マーナは操作盤を複雑に操作しながら叫んだ。

「良太、どけ! そこにいると危険だ!」

「この人は、静江さんは、」

 良太は大きく手を広げ、

「勝義さんを信じているんだ。絶対、帰ってくるって」

 この想いを、消したくない。

「勝義さんと約束したことは、大切な、思い出なんだ」

 そう、俺は、約束したんだ。

 必ず、

 帰ってくる、と。

 それは、祈りに似た気持ちだったけれど、

 そう約束することで、

 俺は戦争の恐怖を打ち消し、

「静江を、心の支えにしようと、戦地でだけでなく、帰ってからも、一生、静江を、心の支えにしようと」

 ──まずい。

 マーナは、良太の変化に舌打ちした。

 良太は今、混乱している。自分に流れ込んだ記憶を制御できず、勝義に乗り移られたような状態になってしまっている。

 良太の目が、赤く充血し、とがり始めた。戦時教育を受けている者特有の、悲壮感を強い決意と信念で打ち消そうとする目つき。

「良太──」

 マーナの言葉は、しかし、突然響いた幼い声にかき消された。

「お兄ちゃん!」

 美咲? なぜここに?


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