2-3 世界が、変わる。①
あの人のことは、何も知らない。
名前は知っている。加倉涼美。高校二年生の、先輩らしい。
でも何組かまでは知らないし、出席番号なんか知っているわけもない。
優しい人だということは、知っている。
わざわざ私を探し出して、折り畳み傘を届けてくれる。
こけそうになった私を庇って、下敷きになってくれる。
私の言葉を守って、話しかけもしない。
それと比べて、私はと言えば、今になって気が付くのだ。
ありがとうの、一言も言えてないことに。
○
加倉先輩もきっと、同じことをしたのだろう。
私はお昼ご飯も食べないで、二年生の教室を一つ一つ回った。
九クラスもある。加倉先輩はAクラスから回っていたとしたら、私はIクラスなので、全クラスを回っていたことになる。いや、あの時は学年も分かっていなかったはずだから、ひょっとしたら二年の教室も、三年の教室も回っていたのかも知れない。
「馬鹿だな、私は……」
自分が変わることが怖い?
悲劇のヒロインか、私は。
結局、自分のことが大好きなだけだった。
一つ一つ、二年生の教室を覗き込んでいく。
誰だろうなんて、興味津々に見られるのが気恥ずかしい。
全てのクラスを回り終えたけれど、加倉先輩はいなかった。
見逃したのだろうか。もう一度、Aクラスから順番に回る。
恥も外聞も捨てて、教室にいた先輩たちに聞き込んだ。
そうして辿り着いたIクラスで、ようやく加倉先輩の足取りを掴んだ。
「凉美なら、風邪で休んでるよ」
「風邪、ですか!?」
「明日には来ると思うけど、凉美に何か」
「家、知ってますか!」
加倉先輩の、女友達と思しき人は、怪訝そうに私を見る。
「まさか、押しかけるつもりか?」
「そのつもりです」
「馬鹿なこと言うんじゃねえよ」
鋭い二つの双眸が、私を見下ろす。
「同じ学校のやつとは言え、なんで見ず知らずのやつに……」
「宮下水葉です! 一年I組の! 私の住所も教えます! 北区の――」
「ちょっと待て! 大きな声出すな!」
先輩に手を引っ張られて、私たちは廊下に出る。
「ったく、強引な……」
「教えてくれるんですか。加倉先輩の家」
「……『宮下』は最近、涼美からよく聞く名前だ」
「へ、どうして?」
「知らねーよ。ケンカしたんじゃねえのか? 毎日毎日、宮下さんに謝りたいだの、でもどうしたら分からないだの、うじうじうじうじしっぱなしで、とうとう風邪なんか引きやがったわけだ」
「う」
「大層仲良しだったのかと思えば、なんだよ。連絡先も知らねえのか」
「知りません。私は、加倉先輩のことは、何も」
それは、加倉先輩も同じのはずだ。
見ず知らずの私の為に、心を痛める必要なんてないのに。
むしろ、私のことを無礼で不義理な奴だと罵っても良いぐらいだ。
「優しすぎるということ、以外は……」
「優しすぎる、ねえ」
「私、謝りたいんです。どうしても、今。そうじゃなきゃ、きっと後悔する」
「……まあ、お前が風邪の原因っぽいしな」
言いながら、先輩はスマホを取り出した。
「連絡先、教えろ」
「え、私のですか?」
「さすがに、何も知らん奴に家は教えられない。だから、お前の連絡先を私に教えろ。何があれば、この連絡先を使わせてもらう」
「良いんですか」
「本来なら、涼美に了解を取るべきなんだろうが……。これ以上、うじうじうだうだされても困る。面倒くさい」
「も、申し訳なさすぎる……」
「お前までうじうじするな! さっさとスマホを出せ!」
促されるままにスマホを取り出すと、案の定、割れた画面をイジられた。
「見にくくねえの、それ」
「案外、そうでもないんですよ」
「見にくいに決まってんだろ」
先輩のスマホに表示されたバーコードを読み込む。
名前は、佐々玲と言うらしい。
「直してない画面に、慣れちまっただけだろ」
早く直してこい、と佐々先輩は言う。
「直したら、なんで早く直さなかったのかって、バカらしくなるぞ」
「……そうなのかも知れませんね」
「そうだよ。んで今、涼美の家の住所送ったから」
「ありがとうございます!」
頭を下げて駆け出そうとすると、おいおいと呼び止められた。
「まさか、今から行くつもりか?」
「幸せの法則、ご存知ですか」
「はっ?」
「今でしょ!」
私は、駆け出す。
あっけにとられた様子の佐々先輩は、見なかったことにした。
☆
「なんだったの、あの子」
教室に戻ると、ゴシップ好きそうなクラスメイトが寄って来た。
「あー、あれは妹のダチだよ」
「涼ちゃんのファンじゃなくて?」
「だから、妹のダチだよ」
「そっかそっか」
なら安心、とクラスメイトは席へと戻っていく。
ファンだのなんだのと、いつも通りくだらないことだ。
同じクラスメイトなんだから、腹を割って話せばいいのに、回りくどい。
――宮下水葉は、今まで涼美に近付いてきたやつには、いないようなタイプだった。
連絡先も知らなかったようだが、単純な涼美のファンではなさそうだ。
それに――涼美があんなに気にかけるのも、珍しい。
「……」
スマホを取り出して、涼美とのメッセージ画面を映し出す。
途中までメッセージを打ち込んで――やっぱり送るのは、止めておいた。
「私も大概、面倒くせえよなあ……」
☆




