1-5 おちて、砕ける。②
反射的に、私は目を閉じていた。
目を開けたまま、転ぶ人はなかなかいないだろう。
数刻の闇。
その闇を晴らすと、彼女の、加倉涼美の顔が、互いの吐息がかかってしまうほど近くにあった。
はっ、と漏れる彼女の息が、頬に触れてくすぐったい。けれど、どうしてか、不快ではない。むしろ心地良くすらあった。彼女の体温を、全身で感じる。いつかのように、熱を帯びていたのは、きっと私の方だった。冷たくはないことは分かる。けれど、温いのか熱いのか、判別がつかない。どこまでが私の温度で、どこまでが彼女の温度なのだろう。曖昧な境界。私は、体を浮かさなければならないというのに、力も入らず、とけあうように彼女の体に身を預けてしまう。
ぱち、と音がしそうなぐらい、勢いよく彼女も目を開けた。
まるでその瞳は、宇宙のようだった。
きらきらと煌めいている。深淵のような闇の中で、美しく、美しく、輝く星々が見える。
「大丈夫、宮下さん」
ゾクゾクと、背筋の方から電気でも走ったみたいな感覚が抜ける。
非の打ち所がまるでない。彼女の一挙一動で、嗅覚も触覚も視覚も聴覚も支配されてしまう。
「怪我はない?」
息がうまくできなくて、言葉が出てこない。
「……近くで見ると、綺麗な顔してるね、宮下さん」
言いながら、彼女は私の頬に手を添える。
何を、言っているのか、この人は。
何を、しているのか、この人は。
心臓が、うるさい。
引力を、感じる。
触れたい。
触れて、とけてしまいたい。
「宮下さん……?」
「もう、しゃべらないで」
私は。
重力に引かれて、落ちていくみたいに。
彼女に、彼女の唇に、私は――。
「……っ!」
――予鈴が鳴って、私はピタリと動きを止める。
私は、私は今、何をしようとしていた?
「宮下さん? チャイム、鳴ったよ」
彼女の言葉で、私は飛び上がった。
「おお、怪我はなさそうでなによりだよ」
彼女は、あっけらかんとしていて、幸いにも私がしようとしていたことに気がついていないみたいだった。
「ね、教室戻る前に、連絡先教えてよ」
確信する。
私はもう二度と、彼女と関わってはいけない。
私が私でなくなってしまう。
私の人生が、変わってしまう。
私は私であり続けたい。
「ねー、みーやしたさーん」
「話しかけないで!」
私は、彼女の顔を見ないで叫ぶ。
見たら、言葉が出なくなりそうだったから。
「私に二度と、話しかけないで!」
叫んで、叫んで、私は走り抜ける。
これでいい。これでよかったのだ。
どうしてか、こぼれ落ちそうになる涙を拭いながら、私はそう自分に言い聞かせ続けた。
○
教室に戻ると、七也が「大丈夫?」と声をかけてきた。
「僕も追いかけたけど、ごめん。見つからなくって」
「うん。うん、大丈夫大丈夫」
「慌てて飛び出すから、水葉らしくないというか、心配したよ」
「私らしくない?」
「水葉、いつも落ち着いてるからさ。あの人となにかあったのかなって」
「……なんにもないよ」
ずっと一緒にいた七也には、やはり分かるのだろうか。
けれど、私らしいとは何なのだろう。私の、何が私らしい? 落ち着いていること? 器用であること?
じゃあ、彼女が言っていた、からかいがいのある不器用な私は、いったい何者だというのだろうか。
「授業始まっちゃうから、また後でね」
「うん」
席に戻ると、小波は子どもみたいにあどけない笑みを私に差し向けてきた。
「ミズっち、やっぱり分かりやす過ぎーじゃない?」
何も聞こえなかったふりをして、私は机に頭を伏せる。
『連絡先教えてよ』
私からは、もう聞けないな。
暗闇の中で、スマホを見る。
ああ、あの時に、おちて、砕けてしまったのだろう。
スマホの画面が、ひびだらけに、なっていた。
○