1-4 おちて、砕ける。①
昼休み。
私は、お弁当を持って、七也の席へと近寄る。
「どうしたの」と七也は首を傾げる。
「友達とは食べないの?」
「今日からしばらくは、七也と食べようかなって」
「……もしかして、昨日のことで気遣わせちゃってる?」
愚かにも、思い浮かんでくるのは、雨に濡れたあの人のことだった。
「昨日の、ことって?」
「……恋人らしいこと、あんまりしてないって話」
「ああ、そっちの話……」
「そっち?」
「ああ、いや、えっと。そういうわけじゃないよ」
頭の中に浮かんでくるあの人を打ち消すように、打ち消すように、私は言葉を紡ぐ。
「高校に入ってから、七也とお昼ご飯一緒に食べたことなかったし、そういう時間も大切かなって思えてさ」
「……そっか。じゃ、一緒に食べよ」
机を借りて、七也と向かい合うように座ると、ひゅーっとクラスの男子にからかわれたりしたけれど、飽きも早いもので、ものの数分もすれば、背景の一部みたいな扱いだ。クラス公認というのは、煩わしくないのが良い。余計な恋愛の駆け引きにも巻き困られずに済む。
「そういえば水葉、高校からお弁当手作りしてるんだっけ」
「うん。まあ、花嫁修業も兼ねてね」
「そ、それって……」
特段、深い意味を込めて言ったつもりはなかったのだけれど、七也はそわそわとした様子で私を見やる。
結婚、か。
正直なところ、まだ想像が出来ない。その相手が七也なのかどうかも、今のところは確信を持つことは出来ないけれど、なんとなくこのまま七也と一緒になるんじゃないかって、漠然とした予感があることも否定は出来ない。
「料理が出来といて損はないからね」
なんとなく、誤魔化すように私は卵焼きを掴む。
「ほら、食べてみてよ」
「た、食べさせてくれるの?」
「ん。あーんしてよ」
「ま、周りが見てるって! 赤の他人ならともかくさ!」
「……そうだね」
七也のお弁当箱に、掴んでいた卵焼きを入れる。
七也は「いただきます」と、その卵焼きを頬張った。
「うん、美味しいよ。さすが水葉だな。なんでもそつなくこなす」
やっぱり器用だね、と七也は言った。
○
お弁当を食べ終わって、七也と他愛もない話をしていた。
この時の時間は、本当に穏やかだった。
二度と訪れないなんて思えないぐらいに、ただ平穏だった。
だから、私はあの人が 近付いてきていることに全く気が付いていなくて、不意に、不本意に、不用意に、とんと肩を叩かれた。
見上げる。
その先は、太陽みたいに、眩しかった。
「やっと見つけた!」
躊躇いも、戸惑いもなく、彼女は私の手を取った。
「やっぱり、同じ高校だったんだね」
「あなたは、昨日の……」
「もう。待ってって言ったのに、君はぴゅーっと走り去っちゃうから参ったよ」
「や、その、ごめんなさい。呼び止めてたんですか?」
「だって、ほらこれ」
私から手をはなして、彼女は持っていた手提げ袋から、折り畳み傘を取り出した。
それは紛れもなく、昨日宙を舞った私の折り畳み傘だった。
「忘れ物して行っちゃうんだもん。焦ったよ」
「すみません、私、テンパっちゃってて」
「……」
奇妙な間。
黒い瞳が、私を見つめる。
「水葉、その人は……?」
七也の声で、我に返る。
あんまりこの人と話しているところを七也に見られたくない――私は、立ち上がってわき目もふらずに教室を飛び出す。「あ、ちょっと!」という焦った声が、背後から聞こえた。
「ちょっとちょっと! 折り畳み傘!」
廊下の行き止まり。私はすっかり息を切らしていた。心臓がばくばくと早鐘を打つのは、ご飯を食べて、準備運動もしないで走ったからだ。私は自分自身の体にそう言い聞かせる。
振り返る。
彼女は、私と相反して、息一つ切らしていない。
「君は、人見知りの猫かなにか?」
「う、すみません」
「面白いね、君。なんだか不器用でからかいがいがありそう」
彼女は、爽やかに笑う。
「名前、なんて言うの? みずは、が名前?」
「宮下水葉、です」
「宮下さん、か。いいね、なんだかしっくりくる感じ」
じゃあ、あなたの名前は?
喉元まで出かかったその言葉を、私は飲み込む。
名前を知ってしまえば、赤の他人ではいられなくなる。私の人生に、とても複雑で、修復することも叶わないような、目まぐるしく、変革とか改革とか、進化とも退化とも呼べてしまうような――決定的な一撃が、彼女によって、彼女の名前を知ることによって、彼女の人生に関わることによって、食らわされてしまうのではないかという予感が、いや確信が、私の中で渦巻いていた。
「加倉凉美だよ」
「……え?」
「え、って。君から聞いてきて、そんな素っ頓狂な声を出されても」
「私、声に出てました……?」
「疲れてるのかい?」
加倉凉美。
しっくりくる、ってどういう感覚なのだろうと思った矢先に、体感させられる。加倉凉美。なんてしっくりくる名前なのだろう。加倉凉美、加倉凉美。
「そんなに名前を呟かれると、なんだか照れるな」
「え、また声に出てました!?」
「ふ、くっくっく」
君はからかいがいがあるなあと、彼女はにまにましながら言う。
耳が熱い。思考も上手く出来ない。私は、私であるかと、自分でも疑いたくなるぐらいにらしくない。
不器用でからかいがいがある?
そんなの、私のキャラじゃなかったはずだ。
「あの、傘ありがとうございました!」
早く切り上げなければと、彼女の持っていた傘を取ろうとするけれど、ひょいとかわされてしまった。
「か、返して下さいよ!」
「ねね、連絡先教えてよ」
「嫌ですよ!」
「い、嫌なの!?」
よほど予想外だったのか、彼女の上擦った声が廊下に響く。
「自分で言うのもなんだけど、わざわざ傘を返しに来てあげたのに?」
「や、嫌というか、今スマホの調子悪くて!」
「嘘が下手!」
ど、彼女は、手に持っていた折り畳み傘を空に掲げる。
「じゃ、これが取れたら素直に引き下がるよ」
「小学生ですか!」
折り畳み傘を取ろうと、私は手を伸ばす。
届きそうで、届かない。
「っ!」
傘を取ろうとすれば、必然、彼女の体に触れてしまう。
柔らかい。いい匂いがする。シャンプーの香り?
短い髪なのに、どうしてこんなにふわっとした匂いをまとわせることが出来るのだろう。
ああ、何も考えずに、無邪気に傘を掲げるこの人が、憎らしい。
「返してよっ!」
飛び跳ねて、私はようやく傘の取っ手を掴む。
「ちょ、ちょっと!」
「へっ!?」
飛び跳ねた勢いを押しとどめることが出来ず、私は彼女の体に寄りかかってしまう。
いつかのように、折り畳み傘は宙に放り出されて。
「危ない!」
彼女は、私のことを庇うように抱きしめて、廊下へと倒れ込んだ。
○