5-4 あふれて、こぼれる。④
お風呂場を出ると、着替え用の先輩のシャツが置いてあった。丁寧にからだを拭いて、シャツを着る。たかだか布切れ一枚なのだけれど、照れくささとか、罪悪感とか、心地よさみたいなものを感じてしまう。ああ、私はまだ、どこまでも落ちて行けてしまうのだろうな。
「シャワー上がりましたよ」
先輩はなにをしているわけでもなく、ベッドの上で仰向けになっていた。
「んー、やっぱり宮下にはちょっと大きかったね」
上体を起こして、先輩は言う。
「……あざといね」
「……何がです?」
「ほら、彼シャツとか萌え袖とか、そういう文化があるでしょ。なんとなく理解は出来たよ」
「つまり、どういうことなんです?」
「可愛いってことだよ、宮下」
熱を逃がすように、私はゆっくり息を吐く。
この人には、照れとか恥ずかしいとか、そういう感情はないのだろうか。だけれど、臆面も飾り気もない、真っ直ぐなその言葉が私の心を撫でて、撫で回して、ざわつかせる。きっと先輩は思ったことを言っているだけなのに、その言葉には真意が隠されているのだと、期待して願ってしまう。
「……変なこと言わないで下さい」
「変、かな?」
「変ですよ」
「ふーん、そっかそっか」
先輩は、立ち上がる。
「あ、ベッド使っていいよ。暖めておいたからさ」
「私は床で寝ますって」
「もう。頑固だな、宮下」
そう言って、先輩はお風呂場へと入っていった。
……頑固なのは、お互い様だ。
床に敷かれた布団に足を入れる。
冬の空気が存分に染み込んでいて、入れた足が弾かれる。
「……」
ベッドに腰掛けて、手を入れる。暖かい。足を入れて、暖かくて、気付けば私はすっかりベッドで仰向けになっていた。先輩の匂いがする。安心する。いけないことだと分かっているのに、あと五分だけ。シャワーの音が聞こえなくなるまで……。
からだは、どこまでも沈んでいくような気がした。
暗闇の中で、私のからだは重量に引かれて落ち続けていく。
無限に、際限なく、永遠に。
私のからだが通った跡は真っ白になって、その真っ白の空間にイルミネーションが灯る。先輩と見たかった光景だ。でも、ここには誰もいない。私は一人ぼっちだ。
どうして、寂しいという気持ちがあるのだろう。この気持ちは、生きていく上で必要なのだろうか。だって、良いことなんて一つもない。気分が落ち込むだけ。恋という気持ちも同じで。人が子孫を残し、生き残ってゆくというのなら、恋心などなく機械的に子どもを産んでいけばいい。もし世界でたった二人取り残されて、それが恋とか愛とかいう感情によって未来が閉ざされてしまうとしたら、生存戦略としてこれほど誤っているものはないように思える。
でも、もしこの気持ちが消えてしまったら。
私は、幸せになれるのだろうか?
先輩に恋をしない方が幸せ?
それとも普通のふりをして生きる方が幸せ?
――七也。
いや、それは最低だよ、私。
布団の温もりと、答えの出ない問いかけに、意識が蝕まれてゆく。
このままベッドで寝てしまっては、先輩に迷惑をかけてしまう。でも、まだシャワーの音が聞こえている。サーッという水の音。まだ、大丈夫、あと五分は大丈夫だろう。意識はある。時間を数えられる。1、2、3、……60秒を、あと4回。なんと長い。あと4分もある。大丈夫。ここは先輩の家なのだから。迷惑をかけてはいけない。そう、迷惑をかけては――。
――。
「――!」
暗闇の中、眠っているのか、眠っていないのか、自分でも分からない時間があった。そう。私はすっかり微睡んでしまっていた。そのことに気が付いた瞬間、私の意識は快晴に晒されたかのように晴れ渡って、それと同時に後頭部を思い切り殴られたかのような勢いで、上体を跳ね上がらせた。
その時、左手に何かが当たったことに気が付いた。
私はまた、頭をガンとハンマーで殴られたような心地がした。
隣には、私の隣には、先輩がいて、先輩が横になって、眠っていた。
お腹の底から、じんわりと何かが染み出したような、しかしそれは正直に言ってしまえば、喜びから来るものだった。一番最適な言葉があるとすれば、幸福だった。そうだ。幸せなときに、じんわりとなる。私の中で何かが分泌されている。
「ん……あれ、起きたの、宮下?」
寝ぼけた声で、先輩は言う。
どうやら、私が跳ね起きた衝撃で目を覚ましてしまったようだ。
「ご、ごめんなさい、先輩! 結局、私ベッドで……!」
「別に私もベッドで寝てるから良いよ」
「それもそう、いや、そもそもどうして先輩がおおお同じベッドに!?」
「ごめんごめん、お布団の温もりには勝てなかった」
無邪気にそんなことを言う先輩。
冬の寒さに、布団の温もりに、感謝をすべきなのか。




