5-3 あふれて、こぼれる。③
「お邪魔、します……」
暗闇。おずおずと玄関に足を踏み入れる。
匂いがする。以前、部屋に入ったときと同じ、先輩の部屋の匂い。
当たり前と言えば当たり前なのだけれど、なんだか匂いを感じるだけでも胸のあたりがじわじわとして落ち着かない。
ぱちりと明かりがついて、先輩の部屋が露わになる。
以前と同じく、急な来訪にも関わらず、無駄なものは一切置かれておらず、綺麗に片付いている。
「ごめんね、相変わらず殺風景で」
「そんなこと。むしろ感心してます。無駄なものが一切なくて」
「そう言ってくれるとありがたいよ」
言いながら、先輩は押し入れから毛布を出す。
「あー、申し訳ないことに、あんまり厚手の毛布がないや」
「良いですよ、こうして横になれる場所があるだけでも」
「宮下、ベッドで寝ていいよ」
「いやいや、それはダメです」
私は風が吹くぐらいに、勢いよく首を横に振る。
「また、先輩に風邪でもひかれたら困ります」
「私だって、宮下に風邪をひかれたら困るんだけど」
「……」
お互いに黙り込んでしまう。
恐らく、先輩と私は同じことを考えている。後はどちらが先に声に出すか、というところだけれど……。
「と、とりあえずシャワーでも浴びる?」
「は、はい?」
声が滑る。
いや、深い意味はないことは分かっているのだけれど。
「ほら、汗かいたでしょ。冬場でも、モコモコして歩くと暑いし」
「まあ、はい、それなりに……」
「寒いけど、我慢してね。シャンプーとかメイク落としとか、洗面台にあるやつ適当に使っていいから」
「でも私、着替えが……」
「用意しとくよ。ちょっと大きいかも知れないけどさ」
なんて、あれよあれよと私は一人、お風呂場へと投げ込まれるような形となった。
部屋と同じで、整然としている。無駄なものは一切ない。物欲はあまりない、というよりかは、そういった余裕がないのだろうと思われた。高校生がマンションを借りて一人暮らしなんて、私の高校でもほとんどいない。先輩は、アルバイトをしているのだろうか。そもそも、どうして一人暮らしをしているのだろうか。私は先輩のことを、まだほとんど何も分かっていない。
それでも、どうしたって惹かれてしまう。
理屈ではない何かが、私を惹きつける。
プライベートな空間。ましてや、お風呂場なんて。
否が応でも、想像してしまう。もし先輩と付き合うことになれば、そういうこととも、向き合わなきゃならなくなる。
恋人らしいことだって、あんまりしてないし――七也の言っていたことが、頭のなかで反響する。
三大欲求はごぞーんじ?――小波の声もした。
好きだという気持ちが、私のなかで解かされる。
相手に触れたいと思う気持ち。この気持ちが好きの根源のような気がする。私は先輩に触れたい。折り畳み傘を取り戻そうとして、ふいに先輩を押し倒してしまったあの時、私のからだと思考は、そんな欲求に飲み込まれていた。
そして、それは今も。
でも、好きという気持ちは、もっと綺麗なものなのではないかとも思う。私の、欲求を。からだの奥底の。むずがゆさのようなもの。それを満たすようなものを、好きという気持ちだとラベリングして言いものなのだろうか。
本来、生き物が発露すべき性を人間は隠している。えっちぃことは、遺伝子を残すために重要なことなのにねい――また、小波の声がした。
生き物としては、正しいことなのかも知れない。
でも、私の場合、相手は女だ。
それはきっと、生き物としては正しくない。
熱い、熱いシャワーを浴びる。
触れたいという気持ち。触れてはいけないという気持ち。私の本能と理性が戦っているな、となんだか第三者的に自分の思考を分析する。
触れてしまえば、私たちの関係は変わる。二度と言葉を交わすこともなくなってしまうかも知れないし、想いが通じ合うのかも知れない。触れなければ、きっと良き先輩と後輩のままでいられる。何も満たされることもないままに。半永久的な友情を手にして。
「難しいな……」
独り言が流されて、排水溝に飲み込まれる。
でも、一つだけ確かなことがある。
私のなかに綺麗な好きなんて、ない。
「拗れてるな」
みんなそんなものだよう、と小波は言った。
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