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テラリウムにさよならを

作者: うらし

きっと全部終わってから、神様が箒を持って後片付けを始めるのだろう。

 或る日の夕方、地球に穴が開いた。


 終わる日というのはいつだって唐突に訪れるようになっているもので、高校生に残されているはずの輝かしい未来も、文明開化から着実に整備されていたインフラも、隣の人がローンで買って自慢していた外車も、嫌いだった先生も、みんなみんな、地面から落ちた。


 それはまるで、先週学校で落ちて壊れた水槽のようだった。地球の底からはいろんな生き物が流れ出て、皆の持ち物や思い出もそれぞれに自由落下を始めていた。もちろん、あの日地面に広がる水たまりの中で魚たちが弱っていくのを止められなかったように、私たちも、もうどうにもならないのだと思う。

 きっと全部終わってから、神様が箒を持って後片付けを始めるのだろう。


 落ち始めて何百メートルだろうか。落下している現実を受け止め、ゆっくりと閉じていた目を開く。まだ視界の端には茜空が映り、さっきまで寝転がっていたベッドや、家の前の道路に立っていた電柱も私と肩を並べて落下していた。それは、目を閉じていた時の体感時間が実際よりもずっと長かったことを示していた。

 眠りに落ちる直前のような浮遊感を全身で感じながら、手入れを忘れたまま部屋の隅に置いてあったテラリウムの事を思う。きっともう、中の植物は枯れているだろう。あの植物の神様だった私が、いま私の神様に手入れを忘れられようとしている。あーあ。


 しばらく落ちてみてわかったことだけれど、『地球は青かった』は本当だった。遠近感がわからなくなるようなふわふわとした空間を、青い地球の破片が流れてゆく。昔見た映画の流れ星のように、緩やかな弧を描いて飛んでいく。海だった青色と一緒に落ちる破片の他に、比較的建物を残したままの大きな破片や、粉々になった地面の欠片が見えた。上も下も地球もない宇宙に浮かぶ私たちも、流れ星のひとつだ。その全部が、夕陽を受けてほんのり朱色に染まっていた。


 欲しくもない宇宙旅行の片道切符が渡された私の手元に、片方だけのビーチサンダルが流れてきた。どうせなら、しばらく食べてないお母さんの手料理とかが流れてきてほしかった。

 夏にふさわしいイルカ柄を眺めていると、来週受けるはずだった救命講習も、せっかく覚えた数学の方程式も、早めに始めたテスト勉強も全て役に立たなくなったことに気づいて、無性にやるせなくなった。

 恨みを込めるようにサンダルを振りかぶって投げる。勢い余って私の体もくるりと回った。ぐるぐるする視界の中で、ビーチサンダルが太陽に向かって飛んでいくのが見えた。きっと鉄腕ロボットの最終回みたいに、地球の終わりをうまく救ってくれるだろう。


 ただ一つ、『地面から落ちて』、女子高校生らしく可愛く言い直すなら『宇宙に浮き上がって』幸いだったのは、自宅でそれが起こったことだ。放課後充分に時間がたった頃だったから、隣の家に住む幼馴染の彼も家に帰っていて、帰宅部二人は仲良く宇宙へ浮き上がっていた。


 最初は、彼も近くにいるなんて思いもしなかった。浮き上がってしばらくすると、周りのものの浮き上がるスピードに少しずつ差が出来て、おかげで少しすっきりした視界の中で彼を見つけたのは数分前の事だ。彼も同じように私を見つけたようで、安心したような顔をしていた。距離にして数十メートルだろうか、少し声を張って話せば、二つの家を隔てていた塀の欠片や、ストックしていた歯ブラシの隙間を縫って言葉を届けることが出来た。未曽有の事態に何と声を掛けるべきか知らなかったので、ティーンエイジらしく何にもならないような話題を選ぶ。


「ねえ、私たち落ちてるね」

「恋に?」

 おどけた様子で彼は言う。きっと本当はそんな余裕はないのだろうけれど、私を安心させるためにそう言ってくれたのだろう。

「ばーか」

 馬鹿みたいな掛け合いも、本当はもっとしたかった。物心ついた頃から傍にいた彼に恋をしていることに気づいた私は、高校入学を期に勇気を出して告白した。付き合うことが決まって地球がひっくり返るくらいに喜んだから、本当に地球がひっくり返ってしまったのかもしれない。あーあ。


 私の部屋の押し入れの扉が、二人の間を泳いでいく。その後を追いかけるように、見覚えのあるガラスケースがふわふわと浮かんでいた。あれはそう、あの日のテラリウムだ。ギリギリまで腕を伸ばすと、ケースの角が指に引っかかる。姿勢が安定しない中、一人でしばらく格闘してそれを抱き寄せる。

 自分勝手なもので、もう世の中が全部ダメになってから、自分でダメにしたそれを慈しむ気になるものなのだ。枯れた植物の寂しそうな姿が他人事に思えなくて、細かい傷のついたガラスケースを抱きしめる。遅かれ早かれ、植物も私も同じ運命をたどるのだ。あーあ。

 ただ、私はこの植物よりちょっと長生きして、ちょっとだけ恋が成就した。なんとなく後ろめたい気分がして、心の中で植物にゴメンネとつぶやく。植物は謝罪の言葉では育たないので、ガラスケースの中で変わらず静かに佇んでいた。


 落ち始めて数時間は経過しただろうか。家に帰ったときに腕時計を外してしまったから、正確な時間は分からない。体格のいい彼と小柄な私の間には、徐々に落ちる速度に差が出来始めていた。二人の間には、先ほどよりも沢山の瓦礫や日用品が浮かんでいた。声が届く前に消えてしまわないように、大きく息を吸い込んでから声を出す。


「ずっとこのまま落ちられたなら、それでも幸せだったのに」

「恋に?」

 彼は泣きそうな顔で言う。彼の方が早く落ちていくという事がどういうことかわかっているはずなのに、それでも無理に微笑もうとしているのがわかる。彼は強がりで、優しい。結末は決まっているのに、これ以上好きにさせないでほしかった。

「ええ、そうね」

 普段通りの声色になるよう努めたけれど、涙が止まらない。顎を伝って私からこぼれた気持ちが、宇宙空間に軌跡を描く。もう薄らとしか届かない夕陽を受けて、柔らかな朱色が伸びていく。

「だからダイエットしないほうがいいって言っただろ?」

「そうね、本当に」

 声が震える。そうしたなら、彼ともっと長い時間いられたのに。涙が流れて軽くなった分だけ、彼との距離が早く開いていってしまう。彼が遠ざかってしまったからか、それとも私の目が潤んでいるからだろうか、彼の表情は、もう窺えない。


 落ちていく先を見る。私たちより先にいたはずの人や、物たちはもう見えない。きっと、神様のゴミ箱がその先にあるのだろう。腕の中に残るテラリウムのガラスだけが、現実味を感じさせた。彼もテラリウムもなかったなら、これは夢の出来事だと信じていただろう。


 彼が、真っ黒な宇宙を背に私に声を飛ばす。叫ぶようなその声は、ギリギリ私の耳に届く。

「ここから見る地球は、キミと同じくらい綺麗だ、見てみなよ」

 自分の最後を見せたくないから、振り返らせるためにそういったのだと予想がつく。背中側に広がる、花火のように弾けて広がる地球の青色は、きっと言葉にならないくらい綺麗だろう。それでも、振り返らなかった。

 私は、地球よりも素敵な彼が後ろにいないことを知っている。そして、もうすぐ前からも居なくなることを知っている。

 せめて前を見たまま、笑顔で口を動かす。涙で焼けて声が出なかったけれど、きっと届いたと思う。彼がさっきまでいたはずの何もない場所をじっと眺めて、これまでを思い出すように目を閉じる。あーあ。

「さよなら」

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