旋灯奇談 第三話 バス亭
第三話 バス亭
大変だアアアアアー、と叫びたい気分。
バツ2の美里さんと、父親の違う三人の娘という朋来家。その女性ばかりの家に居候させてもらうに当たり、太市には三つの条件が課せられた。その一つが家事の分担。長女の万知からは週に三回の朝食の準備、次女の百会からは洗濯物のアイロン掛け、そして三女の千晶からは燃えるゴミ以外のゴミの処分、そしてラスト、母親の美里からはミニコミの事務所にしている六畳間の掃除といった具合である。
女性陣の顔色を窺いながらの居候生活だが……。
当初太市は、家事は体力勝負で乗り切れると考えていた。それが実際にやり始めて思い直す。なかなか難しいのだ、コレが。特に楽勝と見ていたアイロンかけが手強い。想像以上に面倒で時間を喰う上に、手を抜くと一目瞭然。料理のような創意工夫の楽しみもなければ、体を動かす掃除のように気持ちが晴れることもない。俯いてやるので気が内にこもる。それを毎日義務として繰り返す。刑罰で無益な労働を繰り返させられるシーシュポスの神話の主人公にでもなった気分で、この条件を出した次女の百絵が恨めしくなる。それでも悲しき居候、文句も言わず、去年の秋以降せっせと女性陣のシャツのしわ伸ばしに励んできた。それでも夏場のアイロン掛けには愚痴の一つも零したくなる。
季節は夏も盛りの七月後半。ネコが身もだえする猛暑日の昼下がり。
エアコンなどという気の利いたもののない昭和な木造屋の美里家は、天然サウナと化している。アイロンから立ち昇る熱気が顔をなぶり、額に滲む汗が目尻をなめる。
今月は怪異譚の原稿が早々に上がったからいい。これが締め切りを目前に控え、原稿が進まず悶々としている時なら、胃に穴が空いてしまうだろう。
とにかく太市は、唯一の気晴らしである冷えたビールを楽しみに、目の前の苦役に向き合っていた。その黙々とアイロンを動かす太市の腰で、ケータイの着信音が鳴る。
登録のナンバーに目を落とすと、スナック琴音のママさんからだ。
それで思い出す。今回は原稿が予想以上に早くアップしたので、美里さんのチェックを受ける前に、読者の意見を聞いてみることにした。感想を元に手直しをしようという算段で、ついては、かねがね本好きを公言している琴音のママに、試し読みをお願いしたのだ。
が、ママの妙に畏まった声に、嫌な予感が頭をかすめる。
「兎狩沢くんゴメンね、早く感想を伝えなきゃと思ってたんだけど、気になることがあって、それを確かめるのに時間がかかちゃったの」
前置きすると、ママさんが言い難そうにそのことを口にした。
「今回の話、古い号に載っていた話とそっくりなんだけど」
読み終えて何となく引っ掛かったママさんは、図書館に出向いて井戸端便りのバックナンバーに当たってみた。すると案の定、定期刊行の号にではなく、不定期に発行される号外の中に、お目当ての話が載っていた。
ママの声が頭の奥で遠い鐘のように鳴り響く。臨時の号に怪異譚の掲載はないものと思い込んでいた。だからチェックをしなかった。なんたること……。
丁重にお礼を述べて電話を切ると、美里さんの書類棚に走り、色あせたバックナンバーのファイルを引き出す。あった、九年前の秋の行楽シーズンの号外。
目を皿のようにして斜め読み。細かい展開に違いはあるが基本的には同じ話だ。
そう、これが冒頭の「大変ダァーッ!」の中身である。なにせ締め切りは明日。
どんでん返しの大チョンボ。
締め切りまで、あと二十六時間。
どうする、どうする。美里さんに今回は楽勝と太鼓判を押していたのに。
言い訳をして締め切りを延ばしてもらうか。しかし一日や二日延ばして原稿が仕上がる確証はない。なんせネタ探しからのやり直しだ。いっそ、シラッととぼけて、今ある原稿を渡してしまうか。しかし美里さんが内容の重複に気づかず、そのまま掲載をGOしたらどうなる。その可能性は大だ。美里さんがミニコミの制作を前任者から引き継いだのは四年前、掲載号のずっと後のことだ。美里さんは怪異譚に興味がない。だからこの仕事を僕に振った。そんな美里さんのこと、読んでいたとしても覚えていない可能性が高い。ということは、美里さんのチェックをスルー、そのまま掲載されて読者からクレームが……。
ああ、どうしよう。
焦る気持ちを落ち着けようと太市は冷蔵庫に走った。
『勝手に飲むべからず』と赤のマジックで大書きした缶ビール、エビスの五百ミリリットル缶を掴み出す。居候の極貧生活唯一の贅沢、原稿を美里さんのパソコンに転送したら、ゆっくり味わいながら呑もうと我慢して取っておいた一本だ。
ここはとにかくビールでも飲んで気持ちを落ち着けなければ。
全てはそれからだ。
そう思ってプルトップを引こうとした時、
「オー、兄貴、昼間っからいいもの呑んでるじゃん」
声の主は三人娘の末っ子、千晶だ。その千晶がビールの匂いを嗅ぎ付けたように、廊下のガラス戸の間から顔を突き出した。小学六年生の千晶は、美里さんの二度目の夫の連れ子で、美里さんと血の繋がりはない。ついでに言えば、血縁関係にあるのは、長女の万知さんだけ。なかなか複雑な関係の母娘たちだが、朋来家の女性陣四人には共通点がある。タイプは違うが、みな美人であるということ、そして武道おたくの大酒呑みということだ。まあ酒呑みという点は、自分もだが……。
小学生のくせに柔道初段の千晶が、股を割ったすり足で身を寄せてきた。
「ビール手にして、なに悲壮な顔をしてんだ。女にでも振られたか」
喋り方はまったく男、しかし顔はスカウトが集まってきそうな細面のかわいこちゃん。質してはいないが、性同一性障害の疑い濃厚である。
Tシャツ短パン姿の千晶が、素早い身のこなしで太市の手からビールを掻っ攫うと、プルトップを引き抜きざまに、グイ。
「あ、ああああ、ああああーっ」
クハーッと千晶がオヤジのような息を吐いた。
「こら、人のものを」
愕然とする太市を尻目に、千晶が手の甲で口元の泡を拭う。
と今度は、その小学生にしてオヤジギャルの千晶の背後を、タオルを手にした次女の百会がヌラッと横切る。こちらも美形。千晶が細身なら、こちらはぽっちゃり系か。気配を消したように歩く百会が、横半身のまま目の覚めるような動きで千晶の手からビールをもぎ取り、グググィーッ。
ブハーッと百会が酔いどれのような息を吐いた。
「んーいま一つやな、やっぱ呑むなら焼酎のお湯割りや、そやろ大阪のボケ」
なぜか最後は関西人を馬鹿にしたように大阪弁で吐き捨てる。そして太市をギッと睨みつけると、文句があるならこうしたるでとばかりに、ビールの缶を二本の指で押しつぶした。そう百会は空手をやっている。これを忘れてはいけない、
男まさりでも千晶はかわいい妹。比べて同い年の百絵は、なぜか太市を目の仇にしている。狭い家のなかで顔を合わせる度に、アホ、カス、ボケと罵倒の嵐。堪らず言い返すと、待ってましたとばかりに正拳突きを打ち込んでくる。立場の弱い居候、それに男として、女に力での反撃はし難い。それを見透かしたように遠慮会釈の無い攻撃を仕掛けてくる。いずれ目にものをと、折れた針を服に縫い込んだり、味噌汁に辛子を垂らし込んだりと、仕返しの四十八手を想い浮かべる太市に、百絵がほざく。
「美里さんから伝言や。コピー読ませてもろたけど、昔の号に同じ話があるよって、別の原稿準備するようにとや。どや聞こえてるか、このアホ、カス、ボケ」
言い忘れたが百会の出所は関西。え、しかし何やて、美里さんは知ってたってか?
「百会、それ、いつのことや」
百会がツンと鼻を立てた。
「そんな昔のこと覚えてるはずないやろ。先週や先週、こっちも期末試験で勉強忙しかったよってな」
なんと一週間前。このクソあま、黙ってたな。それに勉強が忙しいてか。嘘こけ、同じクラスの同級生として、断じて、お前が勉強をしているところなど見たことないわ。この空手狂いのパープー娘め。
怒りで手の指を震わせる太市に気づいた千晶が、百絵の肘を引いた。
「百絵ネェ、太市兄ィみたいなタイプは、虐めすぎたら食事に毒盛るで」
せや、その通りや、辛子は止めて、フグの肝食わしたる。
心の中で千晶に賛同の手を打つ太市を、百会がせせら笑った。
「ふん、その前に、わいの回し蹴りであの世に送ったる、もちろん地獄の方へや」
眼に残忍な光を浮かべた姉を見て、千晶が振り子の針のように指を振った。
「そら困る。家に手伝いいた方が便利ええもん」
「甘いで千晶、男は家庭のガン、ゴキブリや。早期に退治すんのに限る」
手にしたタオルを百会が首を絞めるように左右にねじった。
百絵が手にするとタオルも立派な凶器に早変わり。濡れたタオルをヌンチャクのように扱うのだ。同居を始めて一年、もちろんそれは分かっていたが、百絵の動きを読んで太市がスッと肩を引いた時には、百会のスナップを利かせた手首が、太市の脳天に鋼のようなタオルを振り落としていた。
まずった、やられる……と目を閉じるが、不思議と痛みが襲ってこない。
恐る恐る目を開けた太市の鼻先に、タオルを絡め取ったしなやかな指があった。
長女の万知である。万知の手が、白刃取りよろしくタオルを掴み止めていた。
「ほらほら百会、興奮するとまた白髪が増えるわよ」
タオルを掴んだのとは逆の手で、万知が百会のひっつめに纏めた髪を撫で下ろす。
長女の万知はラフな格好の妹たちとは違って、家にいても羽織袴の正装を崩さない。さすが二十四にして薙刀の師範、それに顔美人に声美人、おまけにプロポーションもモデル並。なによりいいのは、妹の二人と違って普通の人ということだ。
万知が柔らかな声で妹を諌めた。
「千晶に百会、二人とも太市君をからかい過ぎよ。太市君だって、お母さんに続いて、お父さんがいなくなって大変なんだから、優しくしてあげなければ」
姉の注進に百会が露骨に不快そうな顔をした。しかし表立っては反駁しない。忙しい美里に代わって実質この家を切り盛りしているのは、この長姉なのだ。
「まったく、男なんか家に入れて、美っちゃんの気が知れんわ」
ふてくされたようにぼやくと、百会は吊り上げた眉を降ろすことなく姉に背を向けた。そして自室のある二階へと階段を上がる。
それを困ったことと見やる万知が、気分を変えるように太市に笑顔を振り向けた。
「差し替えの原稿が必要なのよね、私に提供できるネタがあればいいんだけど」
唯一甘えることのできる長姉である。太市が猫なで声で擦り寄った。
「何でもいいんです。物干し場の洗濯物が盆踊りを踊ってたって、ほのぼの系のネタでもいいし、UFOに乗って火星に行ったとかの眉唾物でも、なんでもアリなんで……」
UFOと聞いて余計に首を傾げた万知の横で、千晶が手刀を横に捌いた。
「UFOなら、見たぜ、オレ」
「え、UFOを、どこで?」
身を乗り出す太市に、千晶が手刀を窓の外に向けた。
「ほら、角のコンビニ」
「コンビニ?」
「あそこにあるじゃん、焼きそばのUFO」
吹き出した万知が、妹の頭をコツンと叩いた。
「太市君が真面目に考えてる時に、千晶ったら」
姉に諭され、千晶が女の子のようにチロッと舌先を突き出した。普段は男よりも男っぽい千晶が、万知の前では、なぜかしおらしい。
「ごめんな姉さん。でも信じられないような体験なら、オレ、本当にしたことあるぜ。この家に来る前、二年生の時だけどさ」
「え、何、どんなこと、私、聞きたい」
万知が子供のように目を輝かせて妹の顔を覗き込む。
「いいのかな、こんな話、聞いても面白くないぜ」
「いいのいいの、ほら太市君も座って」
姉の柳のようにしなやかな腕に引き寄せられて、太市はソファーに腰を落とした。
ワクワク顔の万知と疑り深い目の太市を前に、千晶が自身の体験を語り始めた。
その千晶の話を聞くうちに、太市は安堵の息をついた。これで明日の締め切りが乗り切れると確信したのだ。
そう第三話は灯台下暗し、一緒に暮らしている妹、千晶の体験談である。
千晶が小学の二年生、まだ前の両親と暮らしていた時のこと。千晶はひと夏を房総半島の山の中にある叔母の家で過ごすことになった。
房総半島は、とりたてて特徴のない小山を寄せ集めたような場所だが、それでも国道から県道、林道とその懐に分け入ると、都会の喧騒を忘れさせてくれる森が残されている。その林閑とした緑に包まれた環境の中で、千晶の伯母は、知人の別荘を借りて染色の工房を開いていた。四十路目前の一人暮らしである。
実はこの時、千晶の両親は離婚の修羅場にあった。娘のことにまで気の回らない二人を見て、母の姉である伯母が千晶を自分の家に誘ったのだ。
ところが両親のいざこざなど、どこ吹く風、千晶は意気揚々と「きたぜーっ」と、伯母の家の扉を叩いた。将来は絶対に冒険家になるのだと息巻く男勝りの千晶にとって、別荘周辺の荒れた雑木林は格好の鍛錬の場。別荘に着くなり宿題などほったらして外に飛び出した。陽のあるうちは、ひたすら家の周りをうろつく毎日である。
そんな姪を、芸術家肌の伯母は好きにさせていた。
千晶にはケータイを持たせてある。非常時の連絡は当然として、GPSの機能を使えば、家にいながら千晶の位置を確認できる。心配なのは充電切れにしないこと。だから伯母は千晶が家を出ようとすると、機織の竿を動かす手を止め「ケータイはーっ!」と声をかける。
心得たように千晶が「まかシャーッ、行ってくるぜ、ミャーミャー」と、父親譲りのわけの分からない名古屋弁で返す。
斜面に張り付く小さな畑に、荒れた果樹園、トタン葺きの農家に、谷川、砂防ダム、杉の林に、ススキの藪に、ため池に、お墓に、廃屋に、もちろん雑木の林も……。
雑多なものの入り混じった中山間地は、大自然とは縁のない場所だが、人の生活圏にある分、何に出くわすか分からない面白さがある。あらかた別荘の周りを探索し終えた千晶は、次なるターゲットの照準を家の前を流れる谷川の源流探しに合わせた。谷川といっても水がチョロチョロと流れる溝のようなものだが、場所によっては倒木やでかい岩が視界を塞ぐように転がっている。小学生の千晶にとっては立派な大渓谷。その小川の流れる沢筋を、千晶は勇んで上流へと辿り始めた。
浮石がないか足元を確かめつつ前進。
午前中一番の収穫は、黄色い毛並みのテンに出くわしたことだ。テンというのはイタチを大きくしたような動物で、杉の倒木を乗り越えようとして、出会いがしらにバッタリと眼が合ってしまった。襟巻きにしたいほどの綺麗な毛並みで、家に帰って動物図鑑で調べると、毛並みの黄色いテンを、キテンというのだそうな。
冒険家になるための修行として、モバイルの類は絶対に使わないと決めていた。だからケータイはリュックの底に押し込んである。冒険家とは自分の体力と知恵でコンナンを乗り越えていく者のことだ。漢字の『困難』はまだ覚えていないので、頭のなかの困難は、まだカタカナ表記の『コンナン』。
コンナン出て来い、出てこいコンナン。
名探偵コナンのコナンは、コンナンのコナンと、意味不明の言葉遊びを呟きながら、沢筋の石を一つまた一つと乗り越えていく。
と、こんなん出てきて欲しないわと、思わず大阪弁で言いたくなるようなものに出くわす。岩から下りようと足を伸ばした先にヘビがいたのだ。そーっと足を引き上げ、後ろに後退。頭の中で危険を知らせる赤いネオンがピコピコと点滅する。
この緊張がたまらないと千晶は思う。この緊張こそが冒険だ。
でも冒険は無謀であってはならない。冒険家に必要なのは、無用な危険を事前に回避する思慮深さだ。とは父親の口癖だが、その父の言い回しを歌のようにリフレインしながら、沢筋の探索を一旦切り上げ、本日の目標を、昨日まで続けていた林道の地図作りに設定し直す。臨機応変もまた冒険家にとっての必修アイテム。
とまあこれも父の口癖なのだが……。
この数日、伯母の家周りを探索して気付いたことは、行きと帰りで風景がガラッと変わるということ。気をつけていても道の分岐点を見落としてしまう。対策として、ポイントとなる地点の木に黄色いビニールテープを巻きつけることにした。
テープを巻き、メモ帳にその場所々々の特徴を書き込みながら、前に進む。
薄暗い杉林から、伸び放題のウメの林、枯れ沢、シイタケのほだ木置き場と、めまぐるしく風景が入れ変わる。陰鬱とした竹林の縁に差しかかった。しなだれかかった竹に押しつぶされそうな廃屋を覗くと、畳を突き破って伸びた竹が家の中でとぐろを巻いている。目を細めるとそれが大蛇に見えてくる。逃げるようにその場を離れ、石垣沿いの開けた道に一時撤退。車の走る音が、斜面の上から聞こえてきた。
伯母の家の前を走る林道は、一キロほど先で県道に合流する。
その県道まで……と思い、車の音を頼りに雑木に挟まれた坂道を上がる。
目の前に、蔓草のクズで覆われた急勾配の斜面が現れた。
茂りに茂ったクズの葉っぱとツルの間に、雑多なゴミが見え隠れしている。廃材、鉄骨、古畳、タイヤにテレビに冷蔵庫。大きいものでは車も捨ててある。錆ついたワゴン車の中に人の顔を見つけたときは、思わず足が竦んだ。が良く見れば、それはマネキン人形で、何の問題もなかったのだけれど……。
去年遊びにきた時だ。いつもは陽気で穏やかな伯母が、不法に捨てられたゴミの話になると、目付きを鋭くした。首都圏近郊の山合いではゴミの不法投棄が絶えない。幹線道路からちょっと奥に入った県道や林道沿いの斜面が狙われるのだ。犯人は個人のこともあれば業者の場合もある。が一様に人目に付かない夜間にこっそりと捨てていく。違法な行為と分かってやっているのだ。ここ房総半島の山の中は不法投棄のメッカだった。
不愉快な気分になって、回れ右。ゴミの見えない場所へ。
林道をうろつくこと二時間、ヒノキの植林地の脇で湧き水の踊る沢を見つけた。水底の石をどけると、親指ほどの大きさのものがモゾモゾと動く。サワガニだ。アウトドアの解説書に、唐揚げにすると美味しいと書いてあった。
千晶はヨッシャーッと雄叫びを上げると、沢の石をめくり始めた。
生き物を捕まえることは、分かっていてもつい熱中してしまう。
『激ウマ!』という錦の幟が立てば更にだ。
千晶がサワガニを入れたビニール袋を手に顔を上げると、オレンジ色の夕日がヒノキの木立を真横から梳かすように差し込む時間になっていた。
慌てて沢を上がり来た道を引き返す。ところが気が急いていたのだろう、ビニール袋を木の枝に引っ掛け、中のサワガニを林道にばら撒いてしまう。
折しも雲で日が翳り林の中が暗くなる。そして気づく。前方の枯れ沢にかかった丸太の橋が、初めて見るものだということに……。
道を違えた!
そう思って辺りを見回すが、見える範囲に黄色いテープはない。沢筋を吹き降りてくる風が、夏とは思えないほどの冷たさで首筋をなでる。
その瞬間、千晶は走り出した気持ちを抑えて目を閉じた。そして深呼吸を一つ。
山歩きに出掛けるときは、いつも父と一緒だった。歩きながら父が聞かせてくれた話が、千晶の頭の中にはファイルされている。それを検索して引っ張り出す。
父さん語録『山道で迷った時は、下よりも上を目ざせ』をキャッチ。下りの沢筋は滑り易いことも含めて危険がいっぱい。面倒でも上に上ること。人の生活圏なら、尾根筋まで登れば、必ずどこかで道に行き当たる。
その言に従い、傍らのヒノキの斜面を上へ。
すると低い尾根筋の向こう側、斜面の下に黄色い色が見えた。目印のテープだ。
やれやれと胸を撫で下ろし、水筒の水を一口。とカップの水を飲み干す千晶の耳に、「ズン」という、地面に何かを打ちつけたような音が聞こえた。
「ズン……」、数秒の間を置いて、また、「ズン……」
自然の草木が立てる音とは明らかに違う。
どこからだろうと耳を澄ます。確信は持てないが、丸木橋のあった沢、その対岸の斜面の上からのようだ。山向こうに何か音の元となるものがあるのだろうか。
そう思って耳を澄ます千晶の目の前で、林の中に差し込んでいた夕日がプツリと途切れた。先程よりも濃い影が辺りを覆う。
「あーっ駄目だ、日が沈む!」
声に出して叫ぶと、千晶は眼下の黄色いテープ目差して山道を走りだした。
駆け下りながら呟く。「よし、明日の冒険は、あの音の源探しだ!」
飴玉、水筒、おにぎり、軍手。方位計に虫除けスプレー。大きめのビニール袋は、雨が降った時の傘代わりで、袋の中央を破って頭を突き出し、すっぽりと体に被せれば野宿の際の寝袋にもなる。あとは帰りが遅くなった時のための懐中電灯。もちろん伯母さんを安心させるためにケータイもだ。
伯母の「ケータイはーっ?」に、「まかしゃーっ!」と答えて、いざ出陣。
迷彩模様のリュックを背負って山道を上がる。頭の中のテーマソングは、トトロのテーマ。ん、子供っぽいな。副耳の夏はこれからだ、で行こう。
そして手には国土地理院発行の地図のコピーと、自作のマップ。そこには徒歩での所用時間と目印が書き込まれている。きょうの目的は、昨日見た丸木橋の対岸の斜面を上がってみること。その先に音の原因となるものがあるかどうか、それを確かめる。
丸木橋まで伯母の家から二十五分かかった。
橋を渡ると、道はヒノキの林の中を直登するルートと、沢沿いを上がるルートの二手に分かれる。躊躇なく直登のコースを選ぶ。急な道を登ること数分、ヒノキの林が途切れ、行く手にクズの葉で覆われたヤブが立ちふさがった。
迂回するしかないかと首を回す千晶に、生い茂ったクズの下、藪を左右に押し広げたような穴が目に留まった。獣道だ。
シャツの袖を下ろし帽子を目深に被り直すと、千晶は腰を低くしてその獣の踏み分け道に体を押し入れた。いざゆかん、ヤブを征服するのだ。
自分で自分を鼓舞して潜り込み、直にそこがただのヤブではなく、自動車の廃棄場であることに気づいた。クズがびっしりと上から覆い被さっていたので分からなかったが、ペシャンコになった車がサンドイッチのように積み重なっている。どの車も錆びてボロボロ。その錆の谷間を、獣道は迷路のように奥へと続いている。
枯れ下がった蔓のカーテンを掻き分け、先へ先へ。
「コンナン出て来い!」と、いつもの呪文を口に突き進む。
しかしその「コンナン」という声がどんどん先細りに小さくなる。
もしこんなところでイノシシにでも出くわしたら、どこへ逃げればいいんだろう。
さすがにヤバイかも……、そう思って引き返そうとした時、ふいに目の前が明るくなった。スクラップ置き場を抜けたのだ。
目の前に、木漏れの日の射し込む明るい雑木林が広がっていた。
「コンナン終了!」
ガッツポーズで宣言すると、千晶は日差しの断片が足元に踊る山道を、スキップするように軽い足取りで歩き出した。
なだらかな上りの道が斜面を巻いて山の裏側に向かっている。
しばらく行くと林が途切れ、平坦な場所に出た。一面にススキの原っぱが広がっている。
折からの風にススキの葉先が波打ち、そのうねりが右に左に流れる。突然現れた人の子供にススキの原が驚いているようだ。そのざわつくススキの葉群から、丸くて平べったいものがヒョコッ、ヒョコッと突き出ている。逆光ということもあって、直ぐにはそれが何であるか分からなかった。
手をかざして眺めること数秒、千晶は「ワーッ」と歓声を上げた。
それはバス停の標識だった。停留所の名前を書いた丸い金属板をポールの先に取り付けた、アレだ。どうやらここはバス停の標識の廃棄場らしい。
大人の背丈ほどもあるススキが邪魔をして手前の十本ほどしか見えないが、どうやら奥の方にも並んでいる。千晶は全体が見渡せる場所はないかと首を振った。
通ったばかりの雑木林の背後に、むき出しの岩が並ぶ稜線が覗いている。中央に鎮座した岩の形から地区の人が唐茄子山と呼ぶ岩山だ。翻って原っぱを挟んで反対側には、中腹がリンゴの皮でも剥くように削られ、緑が頂上に追い詰められた小山がある。緑色の筒型の帽子を被った山。勝手に名前を付けていいなら、筒帽山か。
おそらくこのススキの原っぱは、あの山の斜面を削り取った土砂で谷を埋めて作ったものだ。頭を巡らす千晶の目が一点を捉えた。
雑木林から食み出すように一本のクヌギが枝葉を広げている。うまい具合にその幹が原っぱ側に大きく傾いている。あれなら子供の自分でも登れる。
一旦後ろに下がると、千晶は雑木林の中を通ってクヌギの傍に抜け出した。古いクヌギの木らしく、ボコボコとした瘤が幹に張り付いている。それを足がかりに太い幹をよじ登ると、千晶は横に張り出した大枝の一本に腰を下ろした。
眼下のススキの原っぱに目を落とす。
結構広い。サッカーのグランド一つ半分くらいはある。
しかし上から見て分かった。山際から這い出したクズが、原っぱをバス停の標識ごと覆いつくそうとしている。クズ、恐るべし。
その触手のようなクズの蔓に肩をブルンと震わせると、千晶はススキの中から突き出た標識を数え始めた。十、二十、あっというまに四十。そこまで数えた時、千晶は自分のいる所からさほど遠くないところに、筋状にススキの生えてない場所があることに気づいた。筋は大きく弧を描いて、最後、飛び地のように先端に丸い空き地を置いている。形はまるでクエスチョンマーク。まるで古代遺跡の解説本で見たミステリーサークルのようだ。
誘われるように千晶はクヌギの木を下りた。
あの不思議なマークが何であるかを確かめるのだ。
ところが勇んで下りたものの、目の前には背丈を越えるススキの壁が通せんぼをしている。縦横かつ頑固かつしぶとく絡み合った草の壁を抜けるのは、容易くない。
それでも突撃あるのみ、気持ちを鼓舞して壁に突入。
ススキのジャングルを掻き分け掻き分け、全身をちぎれたススキの枯葉まみれにして、やっとの思いでクエスチョンマークの一部、筋状の空き地に抜け出た。
と、そこは一メートルほどの幅でススキが刈り取られた通路だった。
左右に首を振る。秘密の通路は、ゆったりとカーブ描いて左右に続いている。飛び地のように丸い空き地があったのは、左側。目指すはそこだ。
最後、通路の奥、天井がススキの葉で塞がったトンネルのような細い穴を横半身になって抜けると、クエスチョンマークの点の部分、ススキの原にぽっかりと空いた空間に抜け出た。ススキの壁に囲まれた直径四メートルほどの円い空間だ。
そこにバス停の標識が立っていた。
全部で五本、うち四本は中途半端にクズの蔓が絡みついている。つい今しがたまで誰かがここで蔓と格闘していたように、標識の時刻表にカマが引っ掛けてあった。
誰が? とカマに手を伸ばしかけた時、背後でガサッとススキの葉が揺れた。
振り向くと、ススキの茂みから日に焼けた丸い顔が覗いていた。歳は千晶と同じくらい。ダボダボの作業ズボンに、上は大人用のワイシャツをワンピースのように着流し、長すぎる袖をクルクルッと丸めて手首のところを紐で縛ってある。
「ヨイショ」と、女の子が錆びた鉄パイプを、後ろのヤブから引きずり出した。
折りたたみ式のパイプ椅子だ。
「私の背じゃ届かないから」と、少女が蔓の絡みついた標識を見上げた。
バス停の標識は二メートル近い。少女は標識の横にパイプの椅子を広げて腰を下ろすと、クリクリとした目を千晶に向けた。
慌てて千晶が帽子を取って挨拶をする。
「ぼくさ、そこの沢を下ったところの、織物をしている伯母さんちにいるんだ。夏休みの間だけだけどね。初めての場所で探検してたらここに出た。ススキを刈ったの、君だよね」
舌足らずな喋り方になった千晶に、少女はクヌギの木とは逆の方向に目を投げた。
「わたしんちは、あっちの谷を下ったとこ。いま、お婆ちゃんと一緒に住んでる」
額の汗を手で拭うと、少女が不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、お兄ちゃんて呼べばいいの、それともお姉ちゃん?」
初対面の人は、まず九割方、千晶を男の子だと思って話しかけてくる。千晶としては別にそれで構わないのだが、問われて嘘を付くほどのことでもない。
「女だよ、でも呼ぶときはチアキでいい」
「そう、じゃ私は、キララって呼んで」
少女の名前は、星野輝美。夜空に輝く星のような名だから、学校の友だちは、キララとあだなで呼ぶ。歳は千晶の一つ下で、小学二年生。星座はおとめ座。両親は共に市内のホテルに勤めている。家は谷沿いの町にあるが、仕事の忙しい時は、お婆ちゃんの家に預けられる。小学校は谷下の農協前からバスに乗って三つ目の停留所。学校は複式学級で、生徒は全部で六十人、などなど。
この場所を見つけたのは、春にワラビ採りをしていてだ。
お婆ちゃんの話では、二十年ほど前に、町方の建築会社が突然この谷間にゴミを捨て始めた。捨てては山肌を削った土を上から被せることを繰り返し、谷が埋まってしまうと、最後、お墓に墓標でも立てるようにバス停の標識を並べて、どこかに行ってしまった。
何が埋まっているか分からないから、埋め戻しの跡へは行っちゃだめよと、お婆ちゃんは口煩い。でも長い夏休みなのに、近所に遊ぶ友だちもいないし、暇だからと、キララはここに来て、ススキに埋もれたバス停の標識の発掘を始めた。バス停の名前を探って、どこから持ち込まれた標識か調べようというのだ。
ススキを刈った後がクエスチョンマークに見えたことを話すと、キララが目を丸くして驚いた。ススキのジャングルに入ると方角が分からなくなる。なにせススキはキララの背よりも遥かに高い。だから当てずっぽうに道を切り開いていったのだが、それが偶然にも『?』のマークになっていたらしい。
これまでにススキの中から掘り出した標識は五本。ところが、どれもペンキが剥げて錆付き、名前が読み取れない名無しの権兵衛状態。名前を調べて、由来を辿ろうと考えていたキララにとっては、がっかりすることだった。
それでもせっかく掘り出したのだから、何かこの標識を使って遊べないかと、名前の消えてしまった標識をじっと見ているうちに、はたと手を打った。名前がないなら、そこに新しい名前を書くのはどうかと思ったのだ。
ペンキを塗り直して上の円盤部分に新しいバス停の名前を書き込む。捨てられてススキに埋もれていた標識だ。べつに叱られたりはしないだろう。
キララが名前のごとく瞳をキラキラ輝かせて、目の前の標識を見上げた。
「わたし、世界のどこにもない、自分だけのバス停を作るの」
草に埋もれた標識を掘り起こし、錆を落して、ペンキを塗って、そこに新しい名前を書き込もうというのだ。思わず千晶は「ボクも手伝うよ」と口にしていた。
伯母の家に預けられてちょうど一週間、野外探検以外のことをやってもいいかなと、考え始めていたところだった。
唐突な申し出に目を丸くしたキララだが、千晶が力を込めて手を握ると、はにかみながら小さく頷き返した。
翌日から二人は作業を始めた。
まずは三十本を目標に、ススキのヤブから標識を掘り出すことに。ススキを鎌で刈り取り、絡まるツルをひっぺがし、こびりついたゴミをヘラや金ブラシでこそげ落とす。先端の丸い金属板には、仕上げに紙やすりをかけるつもりだ。
標識の清掃作業とは関係ないが、一つ笑えることがあった。
初日。キララは作業の道具を赤いランドセルに詰めてやってきた。山の中の原っぱに赤いランドセルを背負ったキララが現れると、なんだかタヌキが女の子にでも化けているように見える。そのことをキララに話すと、キララが心外とばかりにほっぺたを膨らませた。
三日間、汗をかきつつ作業を続けて、目標の三十本に到達。ススキを刈り払ったのは、ほんの一画なので、まだかなりの数の標識が埋もれているはずだ。でもキリがないので発掘作業は、ここで一旦休止。夏の青空に向かってスックと聳え立つバス停の標識は、汚れも錆も落されて、まるで伸びをしているように見える。
標識のポールに傘をくくりつけ、できた日陰に行楽用のビニールシートを敷いて、座って足を伸ばす。風通しが良くなったのと、蚊取り線香を三本も立てたおかげで、やぶ蚊もほとんど寄ってこない。
団扇で互いに風を送りながら、持参した氷入りのレモネードで乾杯。
甘くてキリッと締まった酸味が、千晶にあることを思い出させた。
作業に熱中して忘れていたが、自分がここに来た理由は、地面を打つような不思議な音を聞いたからだ。千晶がそのことを口にしようとすると、先にキララが「バス停の名前、どうしようかな」と口を開いた。
明日は試しに、各自一本、標識の丸い部分に停留所の名を書いてみることにしていた。その名前を決めなければならない。新しいバス停、どこにもないバス停、自分だけのバス停。せっかく苦労してススキの原っぱから掘り出したのだから、素敵な名前を書き込みたい。それは千晶も考えていたことだ。
「候補はあるけど、これっていうのがね、キララはどう?」
逆に問い返され、困ったようにキララが俯いた。そして恥ずかしげに告白した。
実は自分は漢字が苦手で、覚えた漢字も少なければ、書いても間違ってばかり。だからなるべく、ひらがなとカタカナばかりの名前にしたいのだけど、思いつく名前には、どれも漢字が入っていて、困っているというのだ。
「こんなことなら、漢字の練習帳、もっとちゃんとやっておけばよかった」
キララの悩みを吹き飛ばすように、千晶がアハハハと声を上げた。
「漢字はボクが教えてあげるよ。もちろん難しい漢字は駄目だけどさ」
千晶が『コンナン』という言葉を引き合いに出した。そして漢字なんか自分がそれを本当に必要となった時に覚えればいいのさと、励ますようにキララの肩を叩いた。
日が傾き始めるまで作業を続け、夕日を浴びて朱に輝く標識を背に帰途につく。
千晶は口笛を吹いていた。
自分は冒険や探検にしか興味がないと思い込んでいた、ところが他にも自分の心を浮き立たせてくれるものがあった。それが嬉しい。伯母がやっている質面倒臭そうな機織り、あれだって案外やってみれば楽しいことなのかもしれない。
車のスクラップ置き場ではなく、新たに見つけた雑木林の急な坂道をダッシュ一番で駆け下りる。丸木橋を跳ね渡り、歩き慣れた杉林の小道へ。
今度伯母さんの手伝いをしてみようか。やるとしたら、まずはどの工程がいいだろう。染めの材料に使う野草集めだろうか。それともやっぱり、バタコンバタコンと動かす織りの作業だろうか。
そんなことを考えながらスキップを踏む千晶が、ピタリと足を止めた。
ズン……、またあの音だ。
前に聞いた時と同じように、丸木橋の対岸、唐茄子山の尾根を越えて聞こえてくる。
千晶が軽く頬を手で打った。
「あー、音のことをキララに聞くの忘れた」
千晶は自分の頭をポクポク叩くと、後はその問題を置き去りにするように山道を走り出した。しばらく雨の降っていない山道は乾いて、運動靴に踏みつけられた杉の小枝が、パキパキと軽快な音を立てて折れる。
わざと足音を立てながら、千晶の心は、ペンキを塗った真っ白な標識が青い夏空に聳え立つイメージに移っていた。
何て名前にしよう。「大出血スーパー前」がいいかな、それとも「犬のお巡りさん派出所前」、「ウサギ美味しい丘公園前」でもいいか。千晶は思いつくままにバス停の名前を口にしながら走る。その山道を駆け抜ける千晶の後方で、相変わらず「ズン」という奇妙な音が鳴り響いていた。
翌日、二人はペンキを塗る道具と共に、あるものを持参した。
それは千晶が発案したことだ。
標識の円盤部分は二人の背丈よりも遥かに高いところにある。そこに字を書くとなると、パイプ椅子に乗って、さらに背伸びをしてということになる。そんな体勢でまともな字が書けるはずがない。標識を倒して書くこともできるが、土台に重いコンクリを使った標識だ。小学生の力では、倒すことはできても、もう一度立てるのが難しい。どうしようと考え、千晶は学芸会の時に担任の先生が看板に文字を描いていた様子を思い出した。文字の形を切り抜いた型紙の上から、スプレー式の塗料を吹き付けるやり方だ。あれなら身長は関係ない。幸い伯母の工房には、DIYの資材がギッチリ取り揃えてある。スプレー式のペンキの缶もあった。ならと型紙方式を採用、各自バス停の名前を切り抜いた型紙を用意してくることにしたのだ。
まずは下地となる白のペンキをたっぷり塗りたくる。
ペンキは真夏の強烈な陽射しを浴びて、あっという間に乾く。
お互い最後の最後まで、書き込むバス停の名前は秘密にしている。
「見ちゃ駄目」と牽制しつつ、向い合った標識にガムテープで型紙を貼り付け、好みのスプレーを吹き付ける。千晶はオレンジ色、キララは明るいブルーだ。
そこまでやって、レモネードで小休止。
ジャンケンでどちらの型紙を先に剥がすか決める。結果は千晶が先だった。
「ハイ、目をつぶってーっ!」
両手で目を覆ったキララの耳に、千晶がオレンジ色に染まった型紙を剥がすペリペリという小気味のいい音が届く。胸が高鳴る。
「もーいーかーい」とキララ、「ヨッシャーッ!」と千晶。
キララが指先を開くように手を離す。と、「大根マンション前」という鮮やかなオレンジ色の文字が目に飛び込んできた。
「なに、それーっ」と、首を前に突き出すキララに、千晶がエッヘンと身をのけぞらせて解説する。
大根マンションとは、いま千晶が住んでいるマンションに付けられたあだ名だ。
千晶が生まれる前のこと、『ど根性大根』という呼び名が流行った。人の往来も激しい道路際のコンクリート、その割れ目に育った大根に付けられたあだ名で、物珍しさだけでなく、どことなく健気で、必死で、図太そうな大根の姿を一目見ようと、人が押しかけ、その場所は時ならぬ観光名所となった。
微笑ましくも愉快な出来事を期待する向きもあって、それ以降毎年のように、どこかで『ど根性何がし』のニュースが流れるようになった、その中の幾つかは、悪戯好きが作為的に種を蒔いたものかもしれないが、それもご愛嬌。
そんな都会ならではの珍事が、千晶の住むマンションの前でも起こった。
マンション入り口の敷石の間から、桜島大根のような、それはそれは見事な太い大根が育ったのだ。それ以来、千晶のマンションは、地域の人から大根マンションと呼ばれるようになった。なぜか『ど根性』という言葉は抜けてしまったのだけれど……。
マンション住人の小奇麗なオバチャマたちは憤慨していたが、千晶はその呼び名を気に入っていた。大根マンション前などというバス停、日本のどこにもないだろう。
キララが弾けるように大笑いをした。
「うん、間違いなく田舎にはない。大根畑がいっぱいある田舎で、そんな名前をつけたら、どこが停留所かわかんなくなるもん」
変な感心の仕方だが、確かにそうだ。
次はキララの番。コホンと咳払いをして、キララが標識の型紙を剥がす。
千晶が瞑っていた目を開けると、白い円盤の中に、
『 す い へ い せ ん 』という、セルリアンブルーのひらがなが並んでいた。
「海の上の水平線だよね」と、確かめるように聞く千晶に、キララが「モチ」と頷く。
『 す い へ い せ ん 』
じっと見ていると、横並びの文字が白い円盤の中で一本の線に見えてくる。
千晶が両腕を組んでウム……と唸った。
どこにもないバス停であることは違いない。いやそれだけではない。これは、どこかにあるかもしれない、そしてどこかにあって欲しいと思えるバス停だ。
少なくとも自分はそう思う。
真っ青な空と海の境にポツンと浮かぶバス停。アニメの千と千尋の物語では、電車が水面を走っていた。もし海の上すれすれに道路が走り、それが水平線の彼方にまで伸びていたら、水平線という名前のバス停だってあり得るだろう。いや探せば、本当にそう見えるバス停だってあるのかもしれない。
千晶はガクッと首をうなだれた。「大根マンション前」以外でも、自分の考えた名前は、「大盛小盛食堂前」とか「起死回生病院前」といった、冗談のような受け狙いの名前ばかりだったからだ。それと比べて……、
「どうしたの、ちあき」
覗きこむキララに、千晶が苛立ったように髪の毛をかき回した。
「自分のイメージの貧弱さに落ち込んだんだよ」
分からないとばかりに、キララが小首を傾げる。
「イメージって?」
「脳みその新鮮さ、うーん違う、心がどこを見てるかってこと」
なんとなく口にして、そうなのだと千晶は自分でごちた。
自分が見ていたのは、足元の手の届きそうなところに生えている大根だ。比べてキララが見ていたのは、手の届かない、遥か遠いところに横たわる水平線……。
きっと大根は、日々現実に追われて生きている大人たちの視線だ。
夢を追い駆ける仕事がしたくて冒険家にナルナルと息巻いている自分が、本当のところは夢などなくて、世知辛い足元しか見ることのできない大人子供だったのではないかと思えてくる。
「キララさ、よく、すいへいせんなんて名前、思いついたよな」
尊敬の眼差しで見詰める千晶に、キララがはにかんだ。
「ひらがなを並べているうちに、なんとなく、だったんだけど……」
その日は標識を十本白く塗り上げたところで作業終了。ペンキの缶がカラになったのだ。明日は新しい名前を四つ書き込もうと約束して、早めに作業を切り上げた。
日没にはまだ時間があったので、千晶は例の沢でサワガニ捕りをすることにした。ところが熱中しているうちに、あっという間に日の翳る時間になってしまう。
慌てて山道を駆け下る千晶の耳に、またあの「ズン」という音が聞こえてきた。
ズン……、少し間を置いて、またズン……。
夕食の時、千晶はこの周辺に大きな音を立てる工場のようなものがあるかと、伯母に尋ねた。そしてあの奇妙な音のことも。
伯母はしばし首をひねっていたが、この別荘に一番近い人家は、山向こうの一人暮らしのお婆さんの家だけで、あとは沢を下った先の川沿いに集中。大きな音を立てるとしたら、その川沿いの製材所くらいだ。それよりも、山の中では遠くの音が斜面に跳ね返りながら近くで鳴っているように聞こえることがある。海辺で催される花火大会の音がそうで、もしかしたら、その音かもしれないわね、と。
サワガニの唐揚げを頬張りながら、千晶は伯母の話に相槌を打った。後ろではテレビのニュースが、南方洋上の台風が進路を日本列島に向けたことを告げている。
その夜遅く東京にいる母親から電話があった。声に疲れが滲んでいた。
次の日は朝から雨模様。外に出るのを諦め、久しぶりに夏休みの宿題と対面する。
「たまにやる宿題って、新鮮で面白いでしょ」と、伯母が少し伸びた千晶のショートカットの髪をツンと上に引っ張る。
明けて翌日午後。千晶はヌルヌルズルズル状態の斜面を長靴を履いて登った。
雨上がりのムッとする湿気が山を包んでいる。
滑って転んでお尻と膝を泥んこにしながら、ススキの原っぱへ。雨に洗われた標識たち、中でもペンキを塗り直したものは、まるでこれから道路端に設置される新品の標識のように、お日様の光を真正直に反射している。
残りの標識に白いペンキを塗りながら、キララを待つ。
ところがその日、キララは姿を見せなかった。
翌日もキララは来ない。昨日と同じくペンキを塗りながら待つが、なんだか張り合いが湧いてこない。待ちくたびれた千晶は、キララの家に行って見ることにした。
ススキの原っぱを抜けて、夏草に覆われた林に入る。遠目には分からなくても、獣道のように人の通った跡が残っている。キララが通った道なら、キララ道だ。
所々に二股の枝が地面に刺してあった。千晶が黄色いビニールテープを目印に使ったように、キララは二股の枝を道標にしたようだ。その枝を頼りに、林道から古い石垣の残る山道へ。斜面が急で足を滑らしそうになる。
目の前をヤマドリが赤い尾羽を引きながら横切った。
荒れた杉林の間を抜けて谷川を見下ろす道を下る。雨の直後はしぶきを上げて流れる水も、二日もすれば、そうめんでも流したくなるショボい流れに戻る。
その谷川沿いの道を下ると、沢に寄り添うような細長い畑が続き、その畑の先に茅葺きの屋根をトタンで覆った家が現れた。
玄関先まで足を運ぶが、夏だというのに雨戸が引かれている。留守らしい。
念のために呼び鈴に手を伸ばした千晶がその手を止めた。家の横、坂道の上に視線を感じたのだ。見ると石垣の上にモコモコした毛並みの子犬が座っている。
つぶらな黒い瞳が物言いたげに千晶を見ている。
「キララちゃん、おばあちゃんとお出掛けかな」
優しい口調で話しかけ手招きをしてみる。しかし柴犬らしい子犬は、愛くるしい目を二三度瞬いただけで動こうとしない。ただじっと千晶を見つめるだけだ。
千晶は軽く手を振ると、「キララちゃんに言って、また来るからって」
そう話しかけると、千晶は振り向くことなく家の前を離れた。
遠回りになるが、千晶は気分転換を兼ねて県道を歩いて帰ることにした。
初めての道に初めてみる景色で、もやもやとした気持ちが少し軽くなる。
そして夕刻、テクテクと歩く千晶に、ズンという音が山の峰を越えて聞こえてきた。遠回りをしている分、いつもより音が小さい。距離があるからだろう。聞こえてくる方角はと、千晶は両耳に手をあてがい耳を澄ませた。
翌日、伯母は朝一番で東京に出掛けた。急いた車のエンジンの音からして急用らしい。帰りは夜の十時を過ぎるとのこと。冷蔵庫に三食分の食事が用意されていた。
日中だらだらと家の中で本を読んで過ごし、日が傾くのを待って外に出る。
背中のザックには、懐中電灯に虫除けスプレー、それに温たかいミルクティー入りの水筒が入っている。
迷走中の台風が進路をこちらに向けたらしく、風が強い。
杉林の先端を風がなぶり、枝葉の屑が雨のように落ちてくる。
ススキの原っぱに着くと、千晶は迷わずクヌギによじ上った。
大きな枝が三叉に分かれている場所に腰を落ち着ける。そこなら幹を背もたれにして、葉群れの間から原っぱの全体が見渡せる。千晶は目の前の眺めにヨシと頷くと、一息入れるように水筒のミルクティーを喉に流し込んだ。
日が蔭るにつれて風が強さを増してきた。体が冷えるといけないと思いウインドブレーカーを羽織るが、台風から吹き込む南風は、肌がじんわり汗ばむほどに暑い。
そして日没。太い幹に抱かれたような心地良さと、ぬるま湯のような風に、千晶はウトウトと居眠りを始めた。そんな夢うつつの千晶の耳に、眠気を覚ますような「ズン」という音が飛び込んできた。
弾かれたように千晶は背を起こした。
すでに辺りは真っ暗、雲があるので星明りの差さない闇夜だ。今日は十三夜なのに残念と思いつつ、墨を流したような闇に目を凝らす。クヌギの梢がザワザワと揺れ動く音が、不気味を通り越して煩い。
「ズン……」と、また地響きのような音。
昨日県道で聴いた音と、丸木橋の付近で何度か耳にした音、その二つの音の聞こえてくる方向の交わる点は、唐茄子山の背後、つまりこの原っぱだ。
また「ズン……」と鳴る。今までにない腹に響く音だ。
手を伸ばせば届きそうな所から、音と同時に地面の揺れが伝わってくる。
「ズン……」、少し間を置いて、また「ズン……」
闇を見透かすが、いじらしいほど何も見えない。しかし地面を打ちつける音は続いている。それも鳴る間隔を狭めながら……。
「ズン、ズン……」と二度続けざまに音が鳴った直後、雲が途切れたらしく、その夜初めての月が顔を覗かせ、闇に閉ざされた山あいを明るく照らし出す。
その瞬間、千晶は目を見開いた。
バス停の標識が動いていた。なんと標識が飛び跳ねている。
ザワザワと波打つススキの原っぱの中ほど、千晶とキララがススキを刈り払った空き地で、バス停の標識たちが、ヒョイと跳びあがってはドテンと落ちる動作を繰り返していた。落ちる際の地面を打つ音が、腹に響くズンという音だ。
今しも右の一本が跳びあがり、「ズン」とコンクリートの土台を地面に打ちつけたかと思えば、呼応するように左の一本が跳びあがって地面を打ち鳴らす。
誰かが標識を持ち上げている様子はない。
信じられない思いで目を凝らす千晶の前で、月が翳り、また辺りが闇に戻った。
「あーっ、もー、雲のやつ」
千晶の嘆きとは関係なく、「ズン」という音は連続するようになっていた。小学生たちがバラバラと準備体操のジャンプを繰り返しているような賑やかさだ。
やがてそれが太鼓の乱れ打ちへと変わっていく。
その激しく地面を叩く音に混じって、どこからともなく「恐れるな、上下に跳んでるだけでは、ここを離れられないぞ」と声がかかる。
その掛け声に合わせるように、無数の大地を打つ音がまとまり始める。
単純に上に飛び跳ねているのではない気配が伝わってくる。
今度は何が……、そう思って必死に目を凝らすが、悲しいかな音はすれど何も見えない。「神様お願い、ちょっとだけ」と、千晶が少女っぽい声を吐くと、直後、雲間が割れて月明かりが目の前の光景を照らし出した。
なんと標識たちが飛び跳ねながら円を描いて回っていた。まるで盆踊りだ。
込みあげてくる笑いを抑え、良く見ようと体を前のめりに突き出す。とその千晶の首筋に何かが飛びつく。刺すような痛みに、とっさに千晶はその黒っぽい何かを手で払い除けた。が慌てて腕を振り回したせいで、体重のバランスが崩れ、お尻がズリッと滑る。
地面に向かって体が傾いていくなか、千晶は「行こう、理想の地へ」という地鳴りのような声を聞いていた。
翌朝、千晶は軒先を打つ雨音で目を覚ました。ベッドに寝ていた。
様子を見に来た伯母が話しかけてきた。
「もう千晶ったら、玄関のドアに凭れかかったまま寝てるんだもん。いったいどうしたっていうの。鍵は持ってるんだから、中に入れば良かったのに」
帰宅の時間がずれ込みそうなので、伯母は千晶のケータイに電話を入れた。ところが何度掛けても繋がらない。心配になって予定を変更、慌てて戻ってきたのだという。
それが夜の九時頃のことだ。
「ほっぺたを叩いても起きないのよ」
怒っているようで、その実、伯母の目は千晶を気遣っている。伯母が千晶の額に掛かった前髪をそっとたくし上げた。昨夜はそこがぷっくりと赤く腫れていたのだが、今はほんの少し赤味が残るだけ。伯母は安堵の息を付くと、体を起こそうとする千晶を指先で軽くベッドに押し倒した。
「一眠りしなさい、町でおいしいクロワッサンを買ってきたの、朝ごはんの準備ができたら呼んであげるから」
伯母が鼻歌を歌いながら部屋を出て行く。千晶の耳に雨音が戻ってきた。
雨垂れの音にキッチンからの大音量のテレビの音が被さる。台風が紀伊半島の南方を北上中と、天気予報のお姉さんが伝えている。
窓の外では、激しい雨に木々の葉がなすすべもなく打ち据えられている。その雨脚の行方を目で追いながら、千晶は昨夜のことを考えていた。
あれは夢の中のことだったのだろうか。それとも……。
首筋に手を当てると引っかき傷らしきものが指先に触れた。あの時、手で払った瞬間、月明かりに大きなカブトムシが照らしだされた。つまりこれはカブトムシの足の爪で引っかかれた跡だ。ならやはり木に登ったのは本当のことだ。
でも、木から落ちてその後は……。
自分はどうやって家に帰ってきたのだろう。誰かが運んでくれたのだろうか。
激しくなる一方の雨脚をぼんやりと眺める千晶の耳に、「朝ごはんを食べにおいでーっ!」という、伯母の快活な声が届いた。
夏らしい迷走台風、それも雨台風は、カタツムリのようにゆったりとした足取りで、千晶と伯母を丸二日の間、雨の中に閉じ込めた。
そして三日目。台風一過の青天が、濡れて水滴を滴らせる木立の上に広がる。
家の前の谷川は、ゴーゴーと流れ落ちる滝に変わっていた。
標識がどうなっているか確かめに行きたかった。しかし車でさえも押し流しそうな激しい流れからすると、山道も水路と化しているはず。伯母が言うには、丸一日たてば、元のチョロチョロとした流れに戻るということなので、それを信じて今日は外出を控え、溜まっている夏休みの宿題を片付けることにした。
そして台風の吹き返しが屋根の上の枝葉を大きく揺らす夜。
宿題に飽きて居間に顔を出すと、伯母が写真の整理をしていた。プリントされた昔の写真をパソコンに取り込んでいる。テーブルを埋め尽くした写真のほとんどは、伯母が若い頃に留学していた南欧の風景写真で、日本のものは、ほんの一握りだ。
中の一枚に千晶が手を伸ばした。
赤いランドセルを背負った少女が道端のバス停に佇んでいる。
千晶には、ひと目でそれが誰か分かった。キララだ。
驚きを抑えて「この写真の女の子は?」と伯母に尋ねる。
思い入れのある写真なのだろう、直に答えが返ってきた。
「ああ、それは下の谷筋の子で、いつもバスを待ってた子よ」
伯母の話では、この猿筌地区唯一の小学生で川下の分校にバスで通っていたという。真面目な子で、お世話になっているからと、いつもバス停のベンチや標識を雑巾で磨いていた。背中の赤いランドセルが、過疎の山中に咲いた一輪の花のようで、伯母は頼んで何枚か写真に撮らせてもらった。千晶が手にしているのは、その一枚だ。
伯母がさも残念な口ぶりで続けた。
昨年、少女は親の仕事の都合で都会の学校に引っ越した。ところが引っ越し先の学校でクラスメートと馴染めず引きこもりになってしまう。そしてこの春、気もそぞろに道を歩いているところを車に跳ねられてしまったのだ、と。
「跳ねられて、それで……」
声を低めて聞く千晶に、伯母は静かに首を振った。
伯母の見立てどおり、翌日の午後には谷川の水はすっかり減って、元の心細い流れに戻った。さっそくススキの原っぱに出かけることに。
予想していたことだが、標識は消えていた。それも一本残らず。刈り残したススキの葉が、吹き荒れた風で寝癖の付いた髪のように乱れたまま地面に貼りついている。でもここにバス停の標識があったことは間違いない。標識の土台の抜けた跡が、いかにもここに標識が立っていましたと言わんばかりに、あちこちに残っているのだ。それに、じっくりと見渡せば、原っぱから外に向かって、大きな踏み跡が列をなして続いている。標識たちが飛び跳ねながら移動した跡、きっとそうだ。
その跳ね跡を辿って、千晶はキララ道から林道に出た。さらに県道へ。
残念ながらアスファルトで舗装された二車線の道は、すでにカラッと乾いて夏の陽光を眩しく反射、標識たちの通った跡は読み取れない。念のためにと道なりにしばらく歩くも、千晶の期待するような跡は何も発見できなかった。
その夜、ぼんやりとテレビを見ていた千晶に、東京の父から電話が掛かってきた。
「父さんと母さんは別れることになった、夏が開けたら、母さんが新しい住まいを用意してくれるから、そちらに行って、母さんと一緒に暮らしなさい」
一方的に喋ると、質問されることを恐れるように父はプツンと電話を切った。
受話器を手にしたままじっとしている千晶の肩に、伯母が手を添えた。
「私も小学生のときに親が離婚したから……、親って勝手なんだよね」
真面目で几帳面な伯母が、宿題もせずに遊び呆ける姪に何も言わないのは、仲違いをしている親を持った少女への気遣いだろう。そのことは十分承知している。
でも……。
夏休みが明けたら自分がどうなってしまうのか、それを考えることが怖かったから、ひたすら外を走りまわり、キララと標識の再生に熱中した。熱中した振りをしていた。机に向かったって勉強に集中できるはずがなかった。
結論は出た。自分は母さんと一緒に暮らす。そして学校も変わると。
できれば自分は、父さんと一緒に暮らすことを期待していたけれど……。
伯母が何か言いかけたのを制して、千晶は背筋を伸ばした。
「ねっ伯母さん、明日、バスに乗って出かけたいんだけど」
伯母が心配そうに千晶の顔を覗き込んだ。
「どこへ、観光なら車を出すよ」
「ありがとう、でもボク、一人で行きたい」
千晶が赤い丸印のついた地図を伯母に差し出した。
翌朝、千晶は猿筌地区のバス停にいた。
キララが赤いランドセルを背負って立っていたバス停だ。不本意ながら、ここまでは伯母の車で送ってもらった。なにせ伯母の家からここまで、千晶の足だと歩いて一時間もっとかかる。そんな悠長なことをやっていては、今日中に目的地に行って帰ってくることができない。目差すは半島の突端の岬で、そこへ行くにはバスを乗り継がなければならない。
千晶が一人でバス停に立っていると、道を行く農家の人が、どこへ行くの、誰んとこの子、何時のバス、と次々に声を掛けてくれる。軽トラを止めたおばさんが、温かいうちにお食べと、饅頭を手の平に乗せてくれた。有無を言わぬ強引さに唖然とするが、でも蒸かしたての饅頭のぬくもりが嬉しい。きっと毎日ここでバスを待っていたキララも、同じように地区の人から声を掛けられ、色んなものを受け取ったことだろう。
昨夜伯母が話していた。
自分たちの村からどんどん子供がいなくなってしまうことに、地域のお年寄りたちは言い知れぬ寂しさを感じている。そのことを地元で生まれ育ったキララの両親は、痛いほど分かっていた。だからキララの両親は、不便を承知で一人娘を出身地の祖母の家に残し、仕事の合間にキララに会いに戻ってくるという生活を選んだ。もちろん夫妻も田舎の暮らしに愛着を持っていたから選んだ暮らし方なのだが……。
谷沿いに並ぶ家や畑から、バス停に佇むキララの赤いランドセルがよく見えたという。キララの快活な笑い声、キララの軽やかな足音、キララの……、
人の気配が絶えていく山合の集落に暮らす人たちにとって、その赤い色は希望の灯であったに違いない。
二時間に一本というバスが定刻にやってきた。山の中とはいえ日本よねえと、外国暮らしの経験豊富な伯母なら、絶対におどけて口にするだろう。
三つ目のバス停が地区の小学校前。キララが通っていた学校だ。町といっても川沿いに一ダースの家と、郵便局と、閉鎖されたガソリンスタンドがあるだけ。その小さな町を過ぎると、山間のうねうねとした道を小さな集落をたどるようにバスは走る。
昨日歩いた県道同様、初めて見る景色はどこも新鮮だ。
千晶は貰った饅頭を食べるのも忘れて、窓の外の風景に目を侍らせた。
バスに揺られて三十五分、幹線道路沿いのターミナルに到着。待合室で二十分ほど待って、海岸線の国道を走るバスに乗り換える。ちょうど一番前の席が空いていた。景色を見るには一等席。今はまだ家並みで隠れているが、開けた場所に出れば、左側に太平洋が見えるはずだ。
千晶が今までに見たことがある海は東京湾だけで、水平線の広がる大海原は想像の世界にしかない。昨夜の父さんの電話以降、心が酸欠の水槽に閉じ込められたように息苦しい。それを大海原を見晴らすことで蹴散らしたかった。
それに、ある思惑も……。
ぼんやりと考え事をしているうちに、窓の外に海が広がった。崖と崖の間に挟まれたサンドイッチの具のように狭い海だが、確かに水平線が覗いている。東京湾のどんよりとした色とは違う深くて濃い藍色の海。なにより呑み込まれてしまいそうなほどの圧倒的な水の量。これこそが海だ。
海の一番の定義は、とにかく陸よりも広い場所ということ。
台風の余波だろう白波が立っている。でも、その荒々しさもいい。
しかし、じっくり目を凝らす暇もなく、道が陸側に折れて海は視界から消えた。
残念と思いつつ千晶は心配していなかった。頭の中には国道の路線が入っている。この後、道は何度も海岸と山側を出たり入ったりする。千晶の予想通り、太平洋はモグラ叩きのモグラのように、何度も顔を覗かせることになった。ただ見渡す限りの大海原といった風にはいかない。海岸べりにも、家や林や小さな岬や何やかやと、視界を遮るものが一杯ある。それでも千晶は飽きもせずに、窓の外の風景に目を凝らした。
いくつバス停を過ぎたろう。
椅子の背に体を預けたまま、千晶は首を揺らせていた。
両親のことや休み明けの転校のことを考えて、昨夜はほとんど眠れなかった。
うつらうつらする千晶の頭の中を、打ち寄せる波のように何度も様々な想いが去来する。両親は性格的に正反対の人だ。父は天気が爽やかだからといっては会社を休み、買い物でも衝動買いが当たり前の、けじめのない浪費家だ。比べて母は、人との待ち合わせに十分前に着いていないと安心できない神経質な人で、買い物でも一円でも安いものをと走り回る堅実家。よくもこんなに考え方の違う二人が一緒に暮しているなと、幼稚園のころから思っていた。
割れ鍋と閉じ蓋には違いないが、隙間だらけの鍋と蓋だ。
日々の暮らしを思えば父のような人物は問題大有りなのだろうけど、でも自分は父の大らかさが好きだ。いつも夢を追いかけている姿も。
だから自分は父と一緒に暮らすことを望んでいた。
それが意に反して、定規で測ったような生活をしたがる母さんと暮らすことになった。果たしてあの堅物の母さんと上手くやっていけるだろうか。さっさと喧嘩して、父さんの元に逃げ出すのが正解だろうか。でもきっと優しすぎる父さんは、母さんにはお前が必要なんだよとか言って、自分を帰そうとするだろう。
そんな時、自分はどうすればいいのだろう。父さんの手を掴み、駄々を捏ねて、離れないようにすればいいのか。でもそれは父さんを悲しませるということだ。父さんは、必死の想いで自分を断念したはずなのだから……。
「きみ」という、運転手の声で目を開けた。顔を起こすとバスは止まっていた。フロントガラスの前方に海と空が広がっている。バスに乗る際、運転手さんに「一番見晴らしのいい場所で下ろして下さい」とお願いしておいた。それをしっかり覚えてくれていたようだ。
千晶が立ち上がろうとすると、運転手さんが慌てて手を振った。
「ああ違う違う、展望台のある停留所はまだだけど、この先、いい眺めが続くから」
気を効かせして起こしてくれたようだ。
「ありがとう」と言って腰を下ろしかけた千晶の眼に、バス停の少し先、路肩の石の上のものが目に留まった。
「ここで降ります」
とっさに千晶は運転手に下車を告げていた。
先に降りた地元のおばさんたちが、人家のある方行に道を引き返していく。
千晶はそれとは逆、水平線の広がる方向に足を踏み出した。そして二十歩ほど進んで足を止める。路肩の石の上に薄茶色の子犬が座っていた。
黒い瞳でじっと千晶を見ている。キララの家の裏、石垣の上にいた子犬だ。
視線を受け止めるように千晶が頷くと、子犬は短い尾を振りながら国道を渡りだした。道の向こう側はゴツゴツとした岩の急斜面で、黒っぽい岩を囲うように細い草が密生、その岩と草に隠れるようにして、上に登る細い道が覗いている。
子犬は振り向きもせずに急な坂道に入った。
慌てて千晶も道を渡って子犬の後を追う。
体の前に手を着きそうな急な登り道が、岩の間に続いていた。右に左に飛び跳ねながら上っていく子犬を、息を切らせながら追う。
下の道路が完全に見えなくなる場所まで来て、子犬が足を止めた。
岩の間に木が混じるようになっていた。海からの風に煽られた木々の枝は、どれも一方向にそっくり返っている。追いついた千晶の前で、子犬が地面に鼻づらを擦りつけて首を振る。横から別の道が合流していた。
そのもう一本の道に、大きな木槌で叩いたような跡がいくつも残っていた。
木槌の跡は上に向かって続いている。
千晶は子犬の頭を撫でると、ニッと笑った。
斜面が更に勾配を増す。その急斜面を黙々と登ること十分。草も木も消え周囲が岩だけになってきた。頂上が近づいてきたようだ。しかしその分、風当たりが強い。下の方では感じられなかった風が、なぶるように吹きつけている。
と、斜面の上から「ズン」という懐かしい響きが聞こえてきた。
合わせて「頑張れ、もう一息だぞ」と、大勢の声。
見上げると、岩の上に丸い円盤状のものが揺れていた。白いペンキを塗ったバス停の標識だ。一つ二つ……、丸い標識が十個は覗いている。
岩の間を這うようにして上がると、目の前に赤いランドセルが見えた。キララだ。
キララは岩の間に挟かって動けなくなった標識を、必死で上に引っ張り上げようとしていた。見れば、あの「大根マンション前」の標識だ。
急いでキララの元に這い寄ると、千晶は標識の土台の下に手を突っ込み、思い切り踏ん張った。さらにもうひと踏ん張り。瞬間、何かが外れたように手が軽くなる。
「大根マンション前」の文字が宙に浮かび、標識がフワリと岩の上に飛び乗った。
心配そうに見守っていたほかの標識たちが、一斉にポールを左右に揺らす。
ほっとしたように肩で息を付く千晶と、舌を出して荒い息をつく子犬に、「終点だよ、私たちも上に上がろう」と、キララが声を掛けた。
頷き、目の前の岩の張り出しをよじ登る。
一気に視界が広がった。
眼下だけでなく、右も左も、海、海、海。空の青さまでが海に思える。
頂上に上り詰めて分かった。そこは小さな岬の突端だった。剥きだしの岩に囲まれた岬の頂上に、ちょっとした草地が広がり、そこにあの打ち捨てられていた標識たちが勢ぞろいをしていた。キララと千晶がペンキを塗り直した標識もあれば、先端の円盤が取れてポールだけになったもの、つるが絡み付いたままのものもある。
「落ち零れたやつはいないなーっ!」
「全員いるぞーっ!」
標識たちが、互いに声を掛け合っている。
心底嬉しそうに、キララが千晶の手を握り締めてきた。
「ありがとう、最後の最後に、あの標識が岩に挟かっちゃって、どうしようと思ってたの。千晶が力を貸してくれなかったら抜け出せなかったわ」
数日ぶりに見るキララの顔は、以前にも益して明るい。何かをやり遂げた充実感だろう、まるで目の中に星があるように瞳が輝いている。
しばらくの間、標識たちは、自分たちの居場所を確かめるように飛び跳ねていたが、やがてそれぞれの立ち位置が決まったのだろう、ポールを天に伸ばして動かなくなった。静けさが戻ると共に、海からの風が戻ってきた。
岩の突端に千晶はキララと並んで腰掛けた。間に挟かるように子犬も腰を落とす。両手を広げれば、世界が自分の手の中に飛び込んできそうなほどの開放感。船の舳先に立った時のように、視界の後ろまでが海という錯覚を覚える。
「よくここがわかったわね」
髪を風になびかせながら尋ねるキララに、千晶が微笑んだ。
「あれさ、キララが書いた停留所の名前『すいへいせん』だったじゃん。それに、こっそりクヌギの木に登って、標識たちが飛び跳ねるのを見たんだ。ヘマをして枝から落っこちたけど、落ちる寸前に、標識たちが大声で『相応しい場所に行くぞーっ』って合唱するのを聞いたからさ」
広がる水平線に目を向け、千晶は思う。
標識たちにペンキを塗りながら、自分だけのバス停、自分だけが気に入るバス停の名前を考えた。でもキララが付けた『すいへいせん』という名前を見て、ハッとした。『すいへいせん』という名前、これはきっとキララが、あのさび付いた標識たちに喜んでもらおうと思ってつけた名前だ。そうに違いない。
ずーっとバス停の標識として働いてきて、最後が山間の見通しの悪い、足元にゴミが埋まったようなススキの原っぱじゃ悲しすぎる。せめて『すいへいせん』と書けば、ゴミの上でも何かが変わるのでは、そうキララは考えた。
でもキララは、思うだけじゃなかった。
千晶はキララの表情を窺った。
「キララが、皆をここまで案内してきたんだろう」
確信を持った千晶の問いかけに、キララが首を振った。
「違うよ、キララは付いてきただけ。わたし、あの人たちのことを好きだったから」
キララは背後の標識たちを一瞥すると、直ぐに視線を前方の水平線に戻した。
それは、あの水平線こそが彼らをここに導いたのだとでも言いたげな素振りだった。
千晶はキララに話しかけるのをやめ、自分も海と空の広がりに視線を委ねた。
台風の去った真夏の洋上に、湧き上がるように雲が昇り始めている。生き物のように盛り上がっていく積乱雲の上に、飛行機雲が糸を引く。
時間がゆったりと流れる。
千晶が持参したレモネードをキララに勧めた。水筒の蓋のカップを交互に口に運びながら、世界を覆い尽くすような海の広がりを飽きもせずに眺める。飛行機雲が空に融け、また別の新たな飛行機雲が白いペンを当てたように伸びていく。
一時間、二時間。地球の運行にしたがって天が回る。
その世界の動きを体に感じながら、千晶が一人語りのように呟いた。
分かったよ。なぜバス停の標識たちが、ここに来たのかということが。
この岬の上に立てば分かる。
左右の視界を超えて水平線の広がるこの場所に立てば……。
ここは、朝日が昇って、夕日が沈む、それを眺めることのできる場所だ。この岬の突端に立つということ、それは地球の運行に沿って東の水平線から上る朝日を迎え、そして西の水平線に沈んでいく夕日を見送るということだ。ここは宇宙を旅する地球の運行を感じる場所だ。
バス停の標識たちは道路端に立ち、来る日も来る日も、バスの到来を待ち、出発するバスを見送り続けた。その者たちとって、こここそが隠棲の場所に相応しい。
吹き付ける潮風に錆び付き朽ち果てるまで、標識たちは日が昇り日が沈んでいく様を見続けるだろう。
後ろを振り返る。どの標識たちも、安堵の想いに浸っているようだ。
千晶が時間を気にするように腕時計に目を落した。
「行くの」
「うん、帰りのバスがあるから。ねえ、キララにはここに来れば会える?」
キララが寂しそうに微笑んだ。
「私の役目は終わったみたい。でもありがとう。最後に、友だちができて嬉しかった。それにピコも来てくれたし……」
子犬がキララに体を擦りつけるるようにして尾を振っていた。
「ピコって、その子犬のこと?」
「うん、幼稚園の時に飼ってた犬、私と同じで車にぶつかって死んじゃったけど]
話すキララと、そして子犬の体が透けてきた。
キララと子犬の体が輪郭だけになり、その向こうに西の水平線が見えてくる。
立ち上がった千晶は、その淡い輪郭だけとなったキララの手を握り締めた。
「ボクだって、ありがとうだ。キララのおかげで素敵な夏が過ごせた。キララに会えなくても、ボク、またここに来るから、絶対に」
風が千晶の目尻に脹らむ涙を払う。悲しいときは体を吹き飛ばすほどの風が嬉しい。
風に煽られながら、千晶は「また来るから、絶対に!」と叫んだ。
すでにキララの体は風に変わっていた。横にいるピコの薄茶色の体も……。
涙を拭う千晶の目に、標識にぶら下げられた赤いランドセルが目に入った。それがさよならをするように風に揺れる。千晶は涙を拭うと、唇をかみ締め標識たちに一礼、後は、もう後ろを見ずに、むき出しの岩の斜面を駆け下った。
その後ろ岬の丘の上では、標識たちが、間断なく吹き付ける遠い世界からの風を体に受け止めながら、優しいまなざしを水平線に向けていた。