春風
1
雪が溶け出して草花が芽吹く頃のあるよく晴れた朝、ルナのもとに招待状が届いた。そのとき、ルナは家の庭先で母親が洗濯物を干すのを手伝っていた。ルナの家は二階建てで、壁はクリーム色のわりと新しい一軒家だ。庭は小さいが手入れが行き届いていて、プランターではチューリップがぐんぐん背を伸ばしている。
「わあ、来たわ。招待状よ。もうそろそろ来る頃だと思ってたのよ。」
ルナが顔をほころばせながら言った。
「今日は郵便まだ来てないわよ。」
母親はいぶかしそうだ。それもそのはず、封筒のようなものは見当たらない。ただ風が吹いて干した洗濯物が揺れただけだった。
「あら、風の郵便よ。毎年毎年驚かないでよ。野原が呼んでる。行かなくちゃ。」
「今年は野原ですか?こんな閑静な住宅街のどこに野原があるって言うの?去年は森、おととしは湖。今年こそは、こんな突拍子のないことを言いませんようにと願っていましたけど、やっぱりあなたは春になるとおかしくなるのね。」
「そんなことないわ。私は正気よ。ああ、お母さんには感じないのね。自然を慈しむ心を持った人にしか、風は招待状を送らないのよ。お母さんは庭の手入れはするけれど、あのチューリップさんたちを愛していないんだわ。ああ、そろそろ行かないと。お夕飯前には帰るわ。じゃあ、行ってきます。」
ルナは早口にそれだけ言うと掛け出した。母親はしばらく、しわくちゃのTシャツを持ったまま呆然と突っ立っていたが、あきれたようにため息を一つつくと、またTシャツのしわを伸ばし始めた。
ルナは南へゆっくり昇ろうとしている太陽を目指して、家が建ち並ぶバス通りを無我夢中で走っていた。こんなにいい天気なのに、せわしなく車が往来しているだけで人通りは少ない。ルナの長い栗色の髪が心地よい風になびいている。白いワンピースを着た天使はサンダルが脱げるのも、信号を無視して車にぶつかりそうになるのもかまわず、ひたすら疾走した。早く行かなくちゃ。みんなが待っている。この思いだけが彼女を動かしていた。
6つ目の横断歩道を渡ったときである。ふいに前の方から、暖かくて力強い風が吹き付けたかと思うと、ルナは風に包まれてふわりと宙に浮いた。
「あら、ブリーズさん久しぶり。迎えに来てくれたのね。ありがとう。今年の野原はどこなの?」
ルナが独り言のようにささやいた。
「またお会いできて嬉しいですよ。ルナ様はお変わりにならない。もちろん、いくらか背は伸びたようですが。今年は「幸福の野原」にパーティー会場をこしらえました。さあ、行きましょう。」
誰もいないはずなのに、ルナの周りで低い男の声がした。その声はスーと流れるようにルナの周りを駆け回る。そう、声の主はそよ風のワーム・ブリーズだった。ブリーズが話し終えたとたん、ルナは竜巻のような風の中にいた。
2
風がやむと、そこは一面草が生い茂り、色とりどりの花々が咲き乱れる野原だった。小鳥はさえずり、蝶は妖精のように優雅に舞い、ハチは蜜を求めて花から花へと飛び回っている。野原の中央には大樹が静かにそびえ、その奥には小川が流れていて、そのほとりでおばあさんと何人かの子供たちが木のテーブルを囲んでいる。ここに存在するすべての者が幸せそうでキラキラ輝いている、まるで楽園のような空間だ。
「さあルナ様、着きましたよ。」
ルナが隣を見ると、やせて背の高い紳士がお辞儀をしている。
「ブリーズさん、そんな、お辞儀なんていいのよ。さあ、顔を見せて。」
ブリーズはゆっくりと顔を上げた。ウェーブした黒髪の下から澄んだ鳶色の瞳がのぞいている。鼻はスーと高く、少し厚い唇は優しくほほえんでいる。服のいたるところから、半透明のリボンのようなものが伸びていて、風はないのに独りでに揺れていた。
「お元気そうでよかったわ。この野原、とても素敵ね。ブリーズさんが見つけたのでしょ?すごいわ。毎年、ここより素晴らしいところはないって思うの。でもその翌年にはもっと心が躍るようなところにあなたは連れて行ってくれるのよ。」
ルナは夢見心地で遠くを見つめながら言った。
「ああ、ありがとうございます。ルナ様は本当にお変わりにならない。私にとってはそれが一番嬉しいのですよ。私たちのことを忘れないでいてくださった。それなのに私は疑ってしまいました。もしかして、ルナ様はもう招待状を受け取ってはくださらないのではないかと思ってしまいました。ルナ様くらいの年齢になると、たいていの人は自分のことが忙しくなり、「自然を慈しむ心」を忘れてしまいます。また、こんなおとぎ話のようなことは馬鹿馬鹿しい、恥ずかしいと思う人も多いのです。そういう人たちには、招待状を送っても届きません。向こうが心のポストをふさいでしまっていますから。しかし、ルナ様は違いました。ちゃんと純粋なまま、自然を愛してくださっていました。ああ、許してください。私はどんなに忘れてしまった人がいても、気づいてくれる人がいると信じていなければいけませんでした。」
ブリーズは悲しそうに話し、肩をすくめた。
「心配しなくていいのよ。確かに、忘れてしまう人もいるかもしれないわ。でも、あなたが呼べば、私は何歳になろうともいつでも飛んでいくわよ。それに、私はここに来れたことを誇りに思っているのよ。だって、こんなに素晴らしいんですもの。だから、ほら、元気出して。」
ルナはニコッと笑って、少し丸くなったブリーズの背中をポンポンとたたいた。それから、川辺を指さして話し続けた。
「あそこにいるのはメリーネおばあさまでしょ?ああ、おばあさまは余計だったかしら。あの方、気は若いから。それで、メリーネさんは私が知る限り、毎年いらしているわ。あんなに歳を取っても自然と友達なのよ。私もあんなおばあさんになりたいわ。」
「そうですね。全くその通りです。」
ブリーズの顔に笑顔が戻り、話す前よりも元気そうに見える。
その時、ルナの足下の方から声が聞こえた。
「ブリーズや。そろそろルナとお話してもいいかのう。」
その声は野原の真ん中で威厳たっぷりにたたずむ大樹、マリスのものだった。穏やかな声は根っこを通って大地を響かせながら、ルナたちのいるところまで伝わってくる。
「これはマリス。すみませんでした。ルナ様、私はもう一走りしてきます。そよ風を待っている者がいると思いますから。お帰りの時間になりましたら、お迎えに参ります。それでは、どうぞごゆっくり。」
一つ強い風が吹いたかと思うと、次の瞬間にはブリーズの姿はなく、ただ果てしなく続く野原が広がっているばかりだった。
3
ルナは大樹まで駆け寄り、そのしわの刻まれた穏やかな幹に腕を回して、そっとまぶたを閉じた。そうすると、いつも大きなものに守られているような安心感を感じるのだった。
「マリスさん、久しぶり。」
「ルナや、おかえり。また大きくなったのだね。」
「ただいま。私、背が伸びただけよ。中の心は何も変わっていないの。ここに来るのは初めてのはずなのに、マリスさんがいるとなんだか懐かしい場所にいるみたいに感じるわ。不思議ね。」
「そうかい、そうかい。」
「マリスさんもブリーズさんにここへ連れてきてもらったのでしょ?」
「そうじゃよ。ブリーズはいつもわしらに優しくしてくれる。今年も根っこの少し弱ったわしをいたわりながら、ここまで案内してくれてのう。」
「あら、マリスさんどこかお悪いの?」
「年を取っただけじゃよ。たいしたことはないんじゃ。」
「それならいいんだけれど。ところでマリスさんは今何歳なの?あっ、聞いて良かったかしら?」
「なあに、気にすることはない。わしは758歳じゃよ。」
「まあ、すごいわ。」
ルナは素直に感嘆した。
「ん?待てよ、757歳じゃったかなあ。おや?759歳じゃったかもしれん。細かいことは忘れてしまったみたいじゃな。」
マリスはそう言いながら、枝の先をよさよさと揺らして愉快そうに笑った。ルナも揺れる度に肩に触れる葉っぱがくすぐったくて一緒に笑った。
「と言うことは、マリスさんはだいたい750回は春に出会ってきたのよね。一番印象に残っている春はいつかしら?」
「そうじゃなあ、メリーネに初めて逢った春じゃろうか。」
「まあ、素敵。ロマンチックじゃないの。」
「そんなたいした話じゃないのだよ。」
「あら、私、毎年お二人に可愛がってもらっているけれど、お二人のこと実はあまりよく知らないのよ。そう言わないで聞かせてくれないこと?」
「仕方がないのう。わしがメリーネに出会ったのは、ちょうどメリーネがルナくらいの歳の頃じゃった。じゃから、60年以上前の話になるかのう。わしにとってはつい最近のことなのじゃが……。」
マリスはちらっと枝を傾けてメリーネのいる川辺を見やった。そして、彼女が子供たちと楽しげに語らい、こちらの話を聞いていなさそうなのを確認してから、幹に触れているルナにしか聞こえないような小さな声で、ほのかにまだ暖かい記憶を語り始めた。
4
「あれは今日みたいにうららかな、でも毎年5日くらいは必ずやって来るような平凡で穏やかな日じゃった。わしは、住宅街の外れにある小さな神社の社の脇にぼんやり立っとった。もちろん、今住んどる神社だよ。じゃが、あの頃はまだ空を流れていく雲なんかをただ眺めてただけじゃった。その辺にただ生えてる木と同じじゃったのだよ。わしの木陰に何があって誰がいるのか全然気にしとらなかった。じゃから、メリーネがわしに近づいてきて、抱きついたのも気づいとらなかった。関心がなかったのじゃよ。じゃから、メリーネが「こんにちは。」と言ったとき、それがわしに向けられたものだと気づくまでにかなり時間がかかってしまってな。なにしろ、何百年と突っ立っとったわしに話しかけてくれたのはメリーネが初めてじゃったから。だんだんメリーネの手のぬくもりが幹に伝わってきて、そうじゃよ、今ルナのぬくもりを感じとるみたいにじゃ、見下ろしたら、わしの幹にしがみつく少女がおった。メリーネは大きな瞳でわしを見上げながら、もう一度「こんにちは。」と言って。わしの心が震えたんじゃ、ぞくぞくっとな。わしは震えが止まらないまま、恐る恐る「こんにちは。」と言い返してみたのじゃよ。そしたら、メリーネは一瞬驚いて目をまん丸くしてから、くしゃっと笑ったのじゃ。あの時のメリーネの笑顔は本当に天使のようじゃった。奇跡じゃと思ったよ。ただ木も心を持っていて語り合うことができるって知らなかっただけなのじゃがね。何も知らなかったわしに語らう楽しさと温かな心を教えてくれたのがメリーネなのじゃよ。」
ルナは目を閉じたまま、うっとりとマリスの話に聞き入っている。マリスも夢見心地で、60年以上前の「あの頃」に戻っているかのような雰囲気がする。
「それからの日々は心に宝物を一つ一つ詰め込んでいくみたいで、楽しかったのう。メリーネは毎日学校が終わると、わしのところまで飛んできて、わしの幹によじ登ってのう、いろんな話を聞かせてくれたんじゃ。神社の近くに引っ越してきたこと、転校したばかりでクラスになじめていないこと、恥ずかしがり屋で友達をつくるのが苦手なこと、人間よりも花や木が好きなこと、お父さんはいなくてお母さんはお仕事が忙しくて、一人で留守番するのが寂しいこと、メリーネは何でもわしに話してくれた。わしはメリーネが笑ってくれると嬉しくて、メリーネが寂しそうなときはわしも寂しくて、誰かといると心がつながるんだってことも知ったんじゃ。そうしたら、その次の春じゃったろうか、わしの心に招待状が届いたのじゃよ。もちろん、メリーネにも。初めてブリーズがわしらを招待したのは、「歓喜の泉」だった。わしは泉のそばに根を下ろして、メリーネが花たちと戯れるのを見つめとった。すると、いきなりメリーネが顔を輝かせて、ものすごい速さで走ってきて、「マリス!」って叫んだんじゃ。「名前ずっと考えてたの。ずっとよ、ずっと。そしたら今ひらめいたの。マリスってどう?木さんの名前、マリスってどう?小さな鈴が鳴ったみたいで耳ざわりがいい名前だと思わない?ねえ、マリス。」ってな。わしは嬉しすぎて樹液がこぼれそうじゃった。メリーネは、わしには美しすぎる名前まで付けてくれたんじゃ。こうして、わしは他のその辺にただつまらなそうに突っ立っとる街路樹とは違う、特別な「マリス」になったんじゃよ。」
相変わらず、ルナはうっとりと夢見心地でマリスの話に聞き惚れていた。
「マリスさんは素敵な恋をしているのね。60年以上もずっと。うらやましいわ。」
ルナの言葉を聞いたマリスは少し葉っぱを上気させた。
5
「恋の話はいつになってもいいものね。」
突然、ルナは後ろから肩をたたかれた。驚いて振り向くと、メリーネが微笑をたたえて立っていた。白髪交じりの髪の毛をお下げにして、快活な顔にいたずら好きそうな目が輝いている。おばあさん、いや、おばさん、お姉さん?何と形容したらよいのか分からない人だ。
「メリーネ、おまえ聞いとったのか?」
マリスの声はひどく動揺して、幹がみるみる赤く染まっていく。そして、その姿を見てメリーネは口に手を当てて、ケラケラ笑い出した。
「私に聞こえないと思ったんでしょ?残念。マリスの声って意外とよく響くんだから。根っこを伝って聞こえてくるしね。マリスにひそひそ話は無理なの。それにしても、ずいぶん楽しそうに話してたじゃないの。やっぱり、かわいい女の子相手だと楽しくなっちゃうのかなあ?」
「それは……その……。」
さっきまで威厳ありげだったマリスの枝がうなだれてずいぶん小さく見える。穴があったら入りたいとでも言わんばかりである。
「また、そうやって黙り込んで。」
メリーネはわざとらしくため息をついた。
「すまん。つい……。」
「ん?声が小さすぎて聞こえない。もう一回。」
「今、ひそひそ話も聞こえるって言っとったくせに。」
今度はマリスが憤慨する番だった。
ルナはしばらく呆然と話の成り行きを見守っていたが、結局仲が良いのだと分かり、ほほえましく思えてくる。そんなルナにメリーネは思い出したように声をかけた。
「あれ?さっき私、ルナちゃんにタッチしたよね?ルナちゃんが鬼。ほら、だるまさんが転んだ。」
おそらく70歳くらいのメリーネは勝手にだるまさんが転んだゲームを始めていた。確かに、一本の樹木と、広い野原と、メリーネとルナとメリーネが連れてきた子供が4人ほど、だるまさんが転んだをするには最適なシチュエーションである。メリーネは早速すがすがしいほどの快走を見せ、川辺の子供たちのところまで行き、みんなでルナが「だるまさんが……」と唱えるのを待っている。
「メリーネさんは永遠に天真爛漫な女の子なのね。」
ルナがマリスにささやくと、マリスは遠慮がちにクスリと笑った。
6
幸福な時間ほど過ぎていくのが早い。空はピンクとオレンジと黄色の幻想的なグラデーションに染まっていく。だるまさんが転んだゲームを終えて、蝶やハチたちも参加した盛大なティータイムを楽しんでいたルナのもとに再びブリーズが現れた。
「大変名残惜しいですが、ルナ様、そろそろお帰りのお時間です。お支度を。」
ブリーズは深々と頭を下げる。
「ブリーズさん、だから頭なんて下げなくていいのよ。もうそんな時間なのね。早すぎるわ。まだ、お話していないお花たちがたくさんいるのに。」
「やりたいことが2つか3つくらい残っているときにお帰りになるくらいがちょうど良いのではありませんか?それが次の楽しみになりますから。」
「そうかもしれないわね。」
ルナはしぶしぶ席を立った。
「でも、せめてみんなに挨拶だけはしてきていいかしら?また来年の春に会えると思うのだけれど、私このまま帰ったらきっと後悔すると思うの。」
「分かりました。お待ちしています。」
「ブリーズさん、ありがとう。」
ルナは草花と同じ目線になろうとして、めいっぱいかがみ込みながら、「こんにちは。」と「また来ますから。」をひたすら繰り返して野原を一周した。それから、マリスのところへ行くと、木陰の下にメリーネと子供たちが集まっていた。
「今日はありがとうございました。」
ルナはぺこりと頭を下げた。
「信じておればまた逢える。」
いつの間にか威厳を取り戻したマリスの声が、みんなの心に確かに響く。みんなは強く頷いた。
そして、待ちかねてマリスのところまで来ていたブリーズと、ルナは手をつないだ。一瞬のうちに野原は消え、竜巻の中を通り過ぎて、ルナは裸足でバス通りの歩道に立っていた。
「行きに脱げてしまったサンダルです。回収しておきました。今日は「幸福の野原」にお越しくださり、ありがとうございました。また来年お目にかかれると信じています。それでは。」
ブリーズはそれだけ言うと、風になって夕日の中へと走り去っていった。
「信じていればまた会える。」
ルナは心の中でそうつぶやき、足下のサンダルをはいて、母親の待つ家へと急いだ。