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ことの始まり

プロローグ


 頭に激痛を感じ、私は床に倒れた。

 あの人が、無表情に倒れた私を見つめている。

 薄れゆく意識の中で、私は、これまでの短い生涯を振り返っていた。

 一体、私の何がいけなかったのだろうかと・・・。



一.十年前


「他に好きな人が出来た。」


 新一から、そう告げられた時、ああ、空が落ちてくる、と実際ゆかりは感じた。


「嘘。」


 そう言った途端、一気に涙があふれ出てきた。

 仙台の大学を卒業して就職と同時に神戸工場に配属された。一つ年上で工学部の修士一年だった恋人の新一とは、遠距離になった。ゆかりが入社式に向かう日の朝、新一は仙台駅までゆかりを見送りに来て、淡いグリーンのアルバムをくれた。遠距離になっても俺は絶対に大丈夫、寂しくなったらこのアルバムを開いて、と新一はいつもの笑顔で見送ってくれた。


 最近、毎日あった電話の頻度が少しずつ減り、たまの電話でも、会話がそっけないとは感じていた。しかし、入社一年目でなにかと忙しく、それほど気にはしていなかった。何かがおかしい、そう思い始めた矢先の出来事だった。よくある話だ。

 新一は、ただうつむいている。


 よくある話、と言っても、その時にゆかりが受けたショックはとても大きかった。大学で中国語を履修していた時に、担当の教授が言ったものだ。「毛沢東が死んだと聞いた時、空が落ちてくるかと思った、そのくらいの衝撃だった」と。


 随分おおげさな比喩をする教授だ、と嘲笑をこめて覚えていたのだが、新一からその告白を受けた時のゆかりの心境は、まさにそのようなものだった。がーんと頭をなぐられたような衝撃があり、すべての現実感が失われるような気持ちがした。今起きていることが現実であるとはどうしても信じられなかった。

嘘、いやだ、別れたくない、仕事なんか辞めて大阪に帰る、泣きながら、ゆかりはそう叫んでいた。初めから、数年後には新一と結婚して辞めると思って入社した会社だった。すべて終わりだ、という気がした。まさに青天の霹靂、身をもって感じていた。


 これまで、喧嘩の度に別れを切り出していたのは必ずゆかりのほうだった。もうあなたとはやっていけない、他の人を探す、そう泣いて言うゆかりに対して、新一はいつも、絶対に別れたくない、悪いところがあれば直すからと言って必死に止めてくれた。


 その新一が、今、淡々と心変わりを告白している。


 新一との関係は、この世のなによりもゆるぎないものであると信じていた。それが今、とても簡単に崩れようとしている。そのことが信じられず、そしてそれが現実だとすれば、なんて恐ろしいことが世の中には起こるのだろう、とゆかりは思った。空が落ちてくる、それよりもあり得ないと思えたことだった。


「仙台に帰る、私、仙台に帰る。」


 ゆかりはすっかり取り乱して叫んでいた。


「仕事なんて別にしたくて来たわけじゃない、嫌だ、会社も辞めて帰る、新ちゃんのところに帰る。」


 本当に会社なんて辞めても構わないと思った。二、三年勤めて、新一が仕事に慣れたら結婚して辞めてしまおうと思って選んだ会社だった。新一を失ったら、何を目標にして生きていけばいいのかわからない。


「・・・ごめん、でも、その人のことが、好きなんだ。」


「私の知ってる人?」


 必死の思いで自我を保ちながら、ゆかりは震える声で尋ねた。聞きたい、でも聞きたくない。聞いてしまったら、今までの自分にはもう戻れないような気がした。新一が自分以外の女性に、恋をするはずがない、となんの根拠もなく信じ切っていた、ほんの数カ月前の自分には。


「聞きたくない。」


「八戸さんなんだ。」


 ゆかりは言葉を失った。それは、新一の研究室の教授の秘書をしている女性の名前だった。三人の子持ちの三十台半ばの女だった。


「・・・馬鹿じゃないの、マザコン?」


 自分をこんなにも苦しめている女が、三十過ぎの子持ちの女だと思うと、ゆかりの中に猛烈な怒りが生まれた。馬鹿にするんじゃないわよ、そう思った。


「言うと思った。」


 新一が、半ばあきれたような様子で言ったこともゆかりの怒りに拍車をかけた。なぜ自分がそんな言われ方をしなければならないのか。明らかに三十女をかばうような言い方だ。お前は年齢や彼女が子持ちであることでしか彼女を判断していないが、彼女は素晴らしい女性だ、とでも言いたそうな様子だった。


「好きだからって、どうするのよ。離婚してもらって、再婚でもするわけ?それとも、だらだらと不倫の関係でも続けるわけ?」


「そんなこと、考えてもいないよ。ただ、俺が勝手に好きになっただけ。」


 三十女が猛烈に憎らしかった。自分は夫と三人の子どもに囲まれて、パート程度に教授の秘書なんてして安穏と暮らしているのに、自分から新一を奪おうとする。見知らぬ土地で慣れない仕事に苦労している私を尻目に、近くでのほほんと生きている三十女にうつつを抜かしていた新一にも、とても腹が立っていた。


 泣いてすがったが、新一の心はもう自分にはない、という気持ちが揺るぎないものになりつつあった。過ぎゆく時間が恐ろしかった。あと三十分で、新一は仙台に帰ってしまう。その後には、恐ろしいほどに不安な時間がやってくる。けれども、彼の気持ちを取り戻す方法が、わからない。


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