そして老人は走馬灯をみる
まだ十歳の僕に二十歳の自分の事なんてわかりっこない。
せめて想像できるとしたら近い将来についてだけ。
とりあえず中学生になったら僕は何かスポーツを始めているに違いない。
類い希なる才能に目覚めた結果、みんなのヒーローになっていること間違いなしだ。
そして高校生になったら身長は百八十センチメートルくらいになっている。
もちろん恋人もいてチュウくらいはしているはずだ。
まあかなり控えめに言ってみたがこれくらいは余裕だろうね。
現実はそれほど甘くはない。と大学生になった今の僕は思う。
元々の内向的な性格がたたり読書にのめり込んだ十代を過ごしたせいなのか。
はたまたSF研究会なんて怪しげなサークルに所属してしまったせいなのか。
そもそも成長期にうっかり乗り過ごした百六十三センチメートルの身長のせいなのか。
とにかく二十歳の僕はヒーローになるどころか未だに恋人にすら縁がない。
アホの飯嶋のやつが「二十歳になっても心の清い童貞のままなら魔法が使えるようになるよ」とか言っていたので忘年会で試しにルーラを唱えてみた。
みんな大爆笑。やったぜ。
そうして次の瞬間、薄汚い路地裏にいる僕。
……どうやらかなり飲み過ぎたらしい。二日酔いで頭痛がするし、野良犬におしっこをひっかけられてしまった。
僕は無性に悲しくなってフラれた後のやけ酒なんて二度とすまいと思った。
ああ。ついに三十路になってしまった。
最近よくため息をつく。
「何故十代の時にもっと勉強していなかったのだろう」とか「二十代を酒とSFで無駄に過ごしてしまった」とか、過去への後悔ばかりがよし押せてくる。
もしタイムマシンがあって昔の自分へ忠告できるなら昔の僕に説教してやりたい。
目の前に迫った将来のことを考えることをせず、自堕落に生きていたあの頃の自分が許せない。
「身長なんて気にせず頑張ってスポーツを始めろ」とか。
「くだらない本なんか読んでいる暇があったら就職に有利な資格とれよ」とか。
「飯嶋みたいな愚か者たちと絡まずにもっとまともな友人を作れ」とか。
「三十になっても魔法は使えねえよ」とかとか。
色々と文句を言ってやりたかった。
残業が終わってへとへとになって帰宅すると留守電のランプが点灯していた。
再生すると飯嶋の声。
「俺、仕事辞めて小説家になるわ、わはははは。じゃっ」というふざけたメッセージが吹き込まれていた。
もう勝手にしてくれ。
人を好きになったことは何度もあった。
雨の日の教室、ひとり窓際で退屈そうに頬杖をついていたあの子とか。
放課後の図書館、机に大量の百科事典を積んで一心不乱に何かを調べていた眼鏡のあの子とか。
バイト先の遊園地で「将来ここの社員になるんだ」といつも嬉しそうに夢を語っていたソバカスのあの子とか。
でも、それでも。
こんなに心から人を好きになったことはなかったと思う。
君に出会えて、僕は人生に初めて感謝することができた。
久しぶりに飯嶋から来た年賀葉書。
「結婚式いけなくてごめんな」の一行のみ。
馬鹿野郎。結婚なんて二年も前の話じゃないかよ。
あいつらしいと僕は苦笑する。
小説稼業が軌道に乗って忙しいとは聞いていたけど、たまには顔くらい見せやがれ。
思い切ってマイホームを購入してみた。
僕ももう四十になる。
息子も来年は中学生になることだし、いい加減、賃貸では狭くなってきたのだ。
家内は「こんな御時世に一戸建てなんて」と心配していたが、ささやかな人生のなかにもこういう決断だってあっていいと僕は思う。
大丈夫ローンのほうは定年までには終わっているさ。
先日、実家に寄った際、昔の部屋を整理していたら大量のSFの文庫を見つけた。
『マルドウックスクランブル』『祈りの海』『新世界より』『老ヴォールの惑星』『あなたの人生の物語』『ねじまき少女』など懐かしいタイトルを見ては大学生活の思い出に浸った。
当時はSFと馬鹿騒ぎだけの、ろくでもない青春だと悲観していたけれど、今思えば輝かしい青春時代だったと胸を張れる。
SFも悪友も仕事の役には立たなかったけれど、それらは人生を豊かにしてくれた。
あいつの死に際に、そう言ってやればよかったんだと、気がついて僕は久しぶりに泣いた。
それから僕の旋毛はいつの間にか禿げになって。
老眼にもなって。
親父がいなくなって。
腰が曲がってきて。
お袋もいなくなって。
初孫ができて。
まともに読書もできないくらいに目が悪くなって。
そして大好きな妻を見送って。
そうやってめまぐるしいくらいの速度で季節が過ぎていくなかで、僕はふとあの頃のことと思い出す。
大学時代、飯嶋やSF研究会のメンバーたちと騒いだ日のことを。
もしかして今ならあの時の呪文が使えるかもしれない。
もし唱えたならば、一瞬でもあの頃に戻れるだろうか。
ありふれた一軒家。日当たりのいい縁側のある和室。
そこには布団が敷かれており、間もなく息と引き取ろうとする一人の老人が横になっていた。
彼を囲んで心配そうな顔をする息子や、孫ら、親族たちとは違って、彼自身はとてもおだやかな表情をしていた。
今わの際、彼の微かに開かれた唇からは「ルーラ」という小さな言葉が漏れた。




