ガレット時々ルンバ
午後の日差しが、カーテンの隙間からフローリングに細い線を引いている。
奏多はぼんやりとその光を眺めていた。
久しぶりに部屋で過ごせる休日だ。
まずは溜まった洗濯物を片付け、ルンバを走らせ、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
全ての動作に無駄がない。
これぞ効率化の鬼、と自負しながら、奏多はソファに深く腰を下ろした。
視界の端に、先日貰ったフランス製クッキーの缶が置かれている。深い紺碧のマットな肌に、
浮き彫りになった緻密な紋章。その佇まいには、フランスの伝統が息づくような気品が漂っている。
だが、奏多の興味はそこにはない。
目当ては、この頑丈な鉄の壁に守られた中身、バターをふんだんに使った厚焼きのガレットだ。
男がこういう洒落た缶を大事に取っておく理由が、奏多には理解できない。
邪魔ならさっさと中身を食って、缶は不燃ゴミへ。これが効率的だ。
「うまそ♪」
奏多は儀式的な慎重さなど微塵も見せず、親指を蓋の隙間にねじ込んだ。
この手の海外製の缶は、往々にして蓋が固い。
物理的な支点も計算せず、ただ純粋な握力だけで奏多は蓋をこじ開けた。
パカッと景気のいい音がして、濃厚なバターの香りが部屋に広がる。
一枚掴んで口に放り込む。
ザクッとした歯ごたえと共に、暴力的なまでのバターの風味が広がる。
「うまっ」
思わず口角が緩んだ、その瞬間。
テーブルの上のスマホが、激しく振動した。
画面には祖父からのLINE通知。
そこには、満面の笑顔のスタンプが軍隊の整列のごとく画面を埋め尽くすほど連打されていた。
「……また間違えてるだろ、じいちゃん」
苦笑しながら二枚目のクッキーに手を伸ばそうとした時、通知音は即座にビデオ通話の着信音へと変わった。
相手は姉の結衣だ。
「はいはい、何?」
通話に出ると、画面の向こうで結衣が実家のリビングとおぼしき場所で呆れたような顔をしていた。
「おじいちゃんがさ、どうしても『びでおつうわってやつをやってみたい』ってきかなくてさー」
結衣の背後で、祖父がスマホの画面を不思議そうに、かつ嬉しそうに覗き込んでいるのが見えた。
奏多はクッキーを食べながらクスクス笑いながら言う。
「別にいいけどさ。そしたらじいちゃんに代わってよ」
「OK!……あ、ちょっと待って!」
画面の中の結衣の目が、急に鋭くなった。
彼女の視線は奏多の顔ではなく、その手元――正確には、テーブルの上に置かれたクッキー缶に注がれている。
「何その缶、めっちゃ可愛いじゃん! あんたが買ったの? どうせ中身しか興味ないんでしょ」
「ああ、まあ……クッキーはうまいけど」
「決まり! それ、使わないならちょうだい!!!」
結衣の容赦ないディレクション(略奪)が、完全オフの部屋に響き渡った
「別にかまわないけど。どうせオレは使わないし……」
そう答えた直後、画面の向こうで、祖父が「おーい!じいちゃんも映っとるか?」と突然スマホを覗き込んできた。
祖父の顔がドアップで画面を占領する。
その予想外のホラー映像並みのインパクトに、奏多の手元がわずかに狂った。
「ぅあ!」
均衡が崩れた。
手に持っていたガレットがテーブルの角に当たって砕け散る。
それだけならまだ良かった。
動揺した拍子に肘がまだ半分以上中身の残っているクッキー缶を直撃したのだ。
「あっ、ちょっ……!」
奏多の制止も虚しく、洒落たフランス製の缶は、重力に従って床へとダイブした。
カーペットのない、さっき掃除したばかりのフローリングに大量のクッキーが芸術的な放物線を描いて散らばっていく。
ザザー、と小気味よい音が部屋に響いた。
静まり返った部屋。
ビデオ通話の画面向こうで、結衣と祖父がポカンとしている。
奏多は床に散乱したクッキーの山を見て、フリーズした。
その時だ。
「……ピポパッ、ルンルン」
静寂を切り裂いて、部屋の隅から気の抜けた起動音が響いた。
奏多が「完璧な休日」のためにセットしていた、スケジュールタイマーだ。
「……嘘だろ」
奏多の視線の先で、ルンバがゆっくりと基地を離れた。
いつもなら頼もしいその円盤が、今日ばかりは死神の鎌に見える。
ルンバは、まるでそこに何があるかを事前に察知していたかのような迷いのない動きで、一直線にクッキーの散乱地帯へと進軍を開始した。
「待て! ストップ! ルンバ、ハウス!!」
奏多の声も虚しく、ルンバは最初のクッキー片に接触。
ザリザリッ、と、吸引力の限界に挑むような、聞いたこともない轟音を立て始めた。
「ああっ、ダメだ! 砕ける! 粉々になる!!」
ルンバの回転ブラシはクッキーを吸い込むのではなく、むしろ周囲に撒き散らす「散弾銃」と化していた。
砕けたクッキーの粉が、フローリングの上で円を描くように広がっていく。
しかも、ルンバ自身もクッキーの油分でタイヤが滑り、心なしかいつもよりテンション高めに、千鳥足で部屋中を暴れ回っている。
(え…………w)
スマホの画面の中では、結衣が「あはは!あんた何やってんのよ! ルンバとクッキーのコラボじゃん!」と爆笑しており、祖父は「すごいな!部屋に動く円盤がおるんか」と感心していた。
「もう!切るからな。じいちゃんによろしく!」
奏多は半ばやけくそ気味に言い放つと、結衣の爆笑と祖父ののんびりした相槌が響くスマホの画面を叩くようにオフにした。
静まり返った部屋に、なおもルンバがクッキーを粉砕する「ガリガリッ」という乾いた音だけが虚しく響いている。
「……おい、お前。もういい。戻れよ」
奏多は観念したように溜息をつくと、強制停止ボタンを押して暴走する円盤を黙らせた。
手元に残されたのは、粉々になったガレットの残骸と、タイヤにクッキーの油分を纏わせて誇らしげに佇むルンバ。
「完璧な休日」は、この瞬間、完全に崩壊した。
奏多はクローゼットからハンディクリーナーを引っ張り出してきた。
「ったく……ひどいもんだな。完全プライベートの時間がこれかよ。効率悪すぎだろ」
ぶつぶつと独り言をこぼしながら、膝をついて丁寧にクッキーの破片を吸い取っていく。
視界で捉えるフローリングの溝に入り込んだ粉は、想像以上に厄介だった。
ようやく床のザラつきが消えたところで、奏多は作業を止めた。
次は、戦犯であるルンバの番だ。
キッチンから除菌シートを取り出すと、奏多はルンバの横にどっかと座り込んだ。
「お前も、余計なことすんなって」
そう言いながら、奏多の手つきは意外なほど優しかった。
裏返しにして、タイヤの隙間に詰まったクッキーの粉を丁寧に掻き出し、サイドブラシの絡まりを解いていく。
その姿は、泥だらけで散歩から帰ってきた愛犬の足を、玄関先で一本ずつ丁寧に拭いてやる飼い主のそれによく似ていた。
「よし、完璧だ」
奏多は満足げに腰に手を当て、フローリングを見渡した。
フランス製クッキーが散弾銃のごとく撒き散らされたリビングは、今やチリひとつ落ちていない。いや、正確には「ようやく元通りになった」だけなのだが、彼の中ではこのリカバリーこそが効率化の真髄だった。
足元では、クッキーの粉まみれになっていたルンバが、奏多の手によってピカピカに拭き上げられ、誇らしげに黒光りしている。
「綺麗になったな。ほら、帰って休め」
ポン、と軽く頭を叩いてやると、ルンバは静かに旋回し、自らの定位置であるドックへと収まった。
ようやく訪れた、真の休日。奏多はキッチンへ向かい、お気に入りの豆でコーヒーを淹れる。香ばしい香りが立ち上る中、ふと、テレビ棚の脚の隙間に目が留まった。
(……ん?)
影の中に、場違いな「白」が見える。
近づいて確認すると、それは粉砕の運命を免れ、奇跡的に形状を保ったままのクッキー最後の一枚だった。
「お、ラッキー。効率化の神様は、俺を見捨ててなかったってわけだ」
コーヒーの供に最高じゃないか。奏多が口角を上げ、その一枚に指を伸ばそうとした、その時だった。
「ピロッ!」
背後で、聞き覚えのある電子音が鳴り響く。
反射的に振り向くと、ドックで眠っていたはずの黒い円盤が、緑のランプを点灯させてスルスルと這い出してくるではないか。
「あ、待て待て!それは俺のだって!」
ルンバは無言だ。しかし、そのセンサーは確実に、棚の隙間の「獲物」を捉えている。
奏多は慌てて床に膝をつき、手を伸ばす。対するルンバは、最短距離を計算し尽くしたかのような淀みない動きで距離を詰めてくる。
「おい、お前はさっき散々食っただろ!これは俺の……わ、ちょっと!」
サイドブラシが奏多の指先にカサカサと触れる。吸引モーターの回転数が上がり、「キュイーン!」と一段高い音がリビングに響く。
這いつくばる男子と自動掃除機。
リビングの片隅で、最後の一枚を巡る熾烈なデッドヒートが繰り広げられた。
間一髪。
ルンバのバンパーが棚に当たる直前、奏多の指先がクッキーを掠め取り、頭上へと掲げた。
「危ねぇ、俺の勝ちw」
勝利の余韻に浸りながらクッキーを口に運ぼうとする。だが、ふと足元を見ると、ルンバがその場で小さく左右にタイヤを動かしていた。
まるで、獲物を取り逃がして地団駄を踏んでいる小型犬のようにも見える。
センサーがじっと、奏多の持つクッキーを見上げている(気がする)。
「…………そんなに見るなよ。お前、機械だろ」
無機質な機械を相手に、奏多はなぜか猛烈な罪悪感に襲われた。
散々暴走して手間をかけさせた相手だが、一緒に掃除(という名の格闘)を乗り越えた戦友でもある。
「……わかったよ。半分こだ」
奏多はクッキーをパキッと割り、半分を自分の口へ放り込んだ。
そして残りの半分を、わざと指先で細かく砕く。
「はい、これお前の分。特別だぞ」
パラパラと床に撒かれたクッキーの破片。
ルンバは待ってましたと言わんばかりに前進し、誇らしげな吸引音を立ててそれを吸い込んでいった。
やがて満足したのか、ルンバは再び「ピロッ」と短く鳴き、今度こそ静かにドックへと戻っていった。
「何やってんだろ俺w」
静寂が戻った部屋で、奏多は苦笑しながらコーヒーを啜る。
だが、最後の一口を飲み干したところで、彼は自分の重大なミスに気づいた。
「あ…………」
ルンバの車輪。
さっきピカピカに拭き上げたばかりの車輪が、いま吸い込んだクッキーの油分で、またしてもベタベタのテカテカになっている。
結局、奏多は再びウェットティッシュの束を手に取り、ぶつぶつ文句を言いながら愛機の車輪をメンテナンスし始めるのだった。
彼の効率的な休日はまだまだ終わりそうにない。




