3.28 鐘楼の上、空の下、燃えさかる夜
「こ、これは我が家の権利書です。こちらでひとつ、何とか……」
「駄目です。不動産は拒否、もちろん不動産の債権も拒否します」
どうせもうここを立ち去りますのにそんなものをもらっても仕方ありません。
「現金か、あるいは他所に行っても即換金可能な物品のみ受け付けます。そんな紙切れ、さっさとお金に換えてくるがいいです」
商人どもは自宅やら何やらをボク以外の誰かに売るしかありませんでした。当然不動産価格は大暴落です。二束三文で家土地を売り払うこととなりました。
とはいえボクの借金とエリーの借金の証文を持っている銀行はそれで相殺してあげました。まあボクのちょっとした借金もエリーの家の中くらいの借金もこの取引の中ではスズメの涙ほどの少額でしたので、何の足しにもなりませんでしたけど。
そして三日後。子供の貯金箱の中身まではたいて、この町に存在するすべての貨幣はボクのものとなりました。
ボクは約束通り新市街地の倉庫に小麦を納めました。
北口から出るとそこに一般の市民たちが待ち受けていました。誰もが顔を赤くして怒り、あるいは目に涙をためてこちらを見ています。
目の前の男が叫びました。
「おい、あんた、小麦を持ってるって本当か?」
「持ってましたね」
「お、俺にも小麦をくれ! 子供が腹を空かせてるんだ!」
「もうありませんよ」
「な……!」
「ぜーんぶ小麦会社の連中にあげちゃいました。約束でしたからね」
本当のことを言うとあいつらには買いきれなくて結構残ってますけど。
男たちは目に見えて落胆しました。
「何でだよ……」
「貧乏人は死ねってのか?」
「俺たちが何をしたって言うんだ!」
「お前たちは何もしてませんよ」
「じゃあ何でだよ!」
「結局金か!」
「うーん……、どちらかというと社会貢献のためでしょうか。実はボクは以前欲しいものがあったのです。でもここの人はボクに意地悪して売ってくれなかったのですよ。ボクはそんな経緯もグッと飲み込んで、すべての麦をここの商人たちに譲り渡してやったのです。格安で。社会貢献のためですからね」
なにしろ相場のたった千倍×2なのです。格安も格安、自分の優しさに自分で驚いてしまいます。
「あの門の向こうに──」
ボクは町を隔てる高い壁の、その城門を指差しました。
「溢れるほどの麦があって、お前たちのところに届けられるのを待っています。新市街地の連中も鬼ではないでしょう。この食糧危機に際して、きっと安値でお前たちに売ってくれるものと信じていますよ」
フフ、心にもないことを言ってしまいました。
そしてボクはエリーを抱え上げて城壁の上に飛び上がり市民たちの前から消えました。そこからさらにジャンプ! 鐘楼のてっぺんへと飛び移ります。ここからなら町の様子がすべて見えますからね。
町は夕暮れ前の金色の気配に包み込まれています。倉庫街には男たちがいて何やら話し合っています。それ以外のところの人たちはトボトボ歩いていたり、あるいは途方にくれたように立ちすくんでいます。アリみたいですね。
北口の外で騒ぎが起こりました。手に手に棒や、農具や、大工道具など思い思いの得物を持った市民たちが血相を変えて門を守る兵士に迫っています。危険を感じたのでしょう、兵士の一人が槍を構え、もう一人が門を閉じようとしました。
それが市民たちの神経を逆なでしました。無数の棒に頭を砕かれて二人の兵士は倒れました。血を流して倒れ伏す兵士を踏みつけにして市民たちが新市街地へと殺到します
「「「「「うおおおおおおおお!!」」」」」
狂乱する市民たちの剣幕に恐れをなしたのでしょう。もはや残り数人となった他の兵士たちは自分の槍を投げ捨てて逃げ出しました。
市民たちは新市街地を走りました。たちまちのうちに倉庫街へと到着、斧を手にした男たちが倉庫の扉を激しく叩きつけています。倉庫の持ち主や番人たちは逃げ惑うばかりです。とうとう扉が破られ、引きずり出された小麦の袋に人々は殺到しました。奪い合い、引っ張り合われた袋の口が破れて小麦の粒が飛び散ります。それを見た市民たちは悲鳴をあげながらも地面の上の小麦を寄せ集めています。
倉庫だけではありません。暴徒と化した民衆たちの略奪の手は住宅にも向かいました。羨望や日頃の恨み、現在の飢え、そして狂奔によって頭がおかしくなった市民たちが手前の住宅から順番になだれ込みます。一つの住居が人でいっぱいになったとみるや隣の住居へと、一個の意志によって統率された生き物のように町中にはびこってゆきます。
でも、もう略奪するようなものなんて残ってないのです。全部お金に換えて、小麦と小麦を買う権利とに換えてしまっています。
そして奪うものがないと気づいた暴徒たちの怒りは人へと向かいました。
ひときわ大きな家──あれがキール家とやらでしょうか?──から引きずり出された老人が木の枝からさかさまに吊るされて、周り中から薪ざっぱでフルスイングされています。隣の木では老婆が、その隣の木では中年女性が、そのまた隣では若い男、子供、ペットまで……並んで木から吊るされて殴打されています。どうも一家全員が捕まってリンチされているみたいです。あそこまでされるとは、普段からよほど恨みを買っていたのでしょうね。
東西南北どちらを見ても似たようなものです。集団から棒で殴られて頭を抱えて逃げ回る男がいます。血を流して倒れる男が踏みつけられています。家族で殴り合いをさせられている一家があります。首に縄を掛けられて引きずりまわされている男が見えます。あ、逃げていた女が横から来た男に捕まりました。後ろの男も追いつきます。……あー、あれは確か、最初にエリーにレストランを案内してもらったときに隣の席にいた女です。女は欲望に目をギラつかせた男たちに手近な家へと引きずり込まれてしまいました。
玄関から中へと消えゆく一瞬、女と塔の上のエリーとは確かに視線が結び合わされました。女の顔は恐怖と絶望に歪んでいました。エリーは紅潮しています。歓喜へと向かう寸前の表情です。
雄たけびを上げる暴徒たち、奪われる男たちの絶叫、襲われる女たちの悲鳴、家や倉庫の扉を破る斧の音、押し倒された荷箱の崩れる音……。
瀟洒な町を暴力と破壊の騒音が支配していました。
キリューさん、聞こえますか?
ボクからお前への鎮魂曲です。
……すっかり日も暮れた頃、西側の正門近くの民家からポッと火の手が上がりました。これだけ混乱してると失火のひとつもあるかもしれませんね。
でも何の動きもありません。誰も消防隊を呼んでいないのです。そうでなくても街の機能が死んでます、消火活動なんてできっこありません。たちまちのうちに大きくなった火は折からの西風にあおられて街を舐めつくそうとチロリチロリと舌を伸ばしました。
壊れた入り口から、あるいは開けっ放しの窓から火の粉が飛び込んで、家から家へと類焼しています。無事なのは窓のないこの鐘楼くらいです。
新市街地の正門は川に面していますので当然橋が架かっています。アーチ構造の石橋で火事にも強いのです。そこまでたどり着くことができれば無事逃げられるでしょう。
でも、橋の上には誰の姿も見えません。出火元はその正門近くの民家ですし、たちまちのうちに倉庫街に火が回っています。開きっぱなしの門から吹き込む風は火の勢いをさらに煽り、大火へと育てたのです。人々はその劫火の向こうに安息の地があるなんて夢にも思わず遠ざかるばかりです。
梁が焼け落ちて内側へと崩れ落ちる建物の轟音が、逃げ惑う人々の悲鳴が町のあちこちから響きます。暴行を受けたセレブたちは打ち捨てられ、狭い北門に殺到した人々が団子状になって詰まっています。
ボクはその様子をぼーっと見ていました。
今日にいたるまでの展開はほとんど最初の計画通りでした。でもこの火災は違います。完全に予想外でした。
ボクは想定を超えた展開に静かな感動を覚えていました。
『反応』は持続しません──お酒や麻薬による酩酊は脳内で行われるただの化学反応にすぎません。お酒でも麻薬でも、人はその反応を得るために何度も繰り返すことになります。『感動』とは違うのです。人体は化学反応の集積物と言われればそれはそうかもしれませんけど、ボクとしては麻薬の酩酊感と体験の感動とは分けて考えたいわけです。
感動は一生のものです。ボクはこの景色をきっと無限の寿命の果てにも忘れないでしょう。
きっとエリーもそうでしょう。ボクの隣で鐘楼の上に立ち尽くして、エリーは身じろぎもしないで新市街地の様子を眺めていました。
ずいぶん時間が経ちました。ようやくボクを見てほほえんだエリーが手を差し出しました。
「踊ろう!」
「チークしかできませんよ」
「じゃあ教えてあげる」
やれやれです、せっかくですから好意に甘えることとしましょうか。ボクはその手を取りました。
燃え盛る炎に照らされて、喧騒を伴奏にエリーが口ずさむメロディに合わせて、その夜ボクはワルツを一曲覚えました。女性パートですけどね。