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3.26 収穫祭

 誰もが異変に気づいていました。昨年と打って変わって夏の気温が低く、河の水も冷たいのです。

 昨年はボクの魔法のおかげで年間を通して好天に恵まれ、あらゆる作物が大豊作でした。しかしそれは今年の日照量を前借りしたものだったのです。そういう魔法を使いました。

 今年は春になっても太陽の光は何となく頼りなく、気温も上がらず、既に大麦の収穫は不作に終わりました。小麦はさらに悲惨なこととなるでしょう。だって六月に収穫を迎える大麦と違って、小麦の成長はそれからの二か月が本番なのですから。


 そしてさらに、鳥がいません。

 去年会社を始めてから今年畳むまでの十五か月の間に、この街を中心とした農地全域でおよそ二十万羽のスズメと三万羽のツグミ、他にもセキレイやらエナガやらメジロやらシジュウカラやら……とにかくありとあらゆる小鳥や、雉や鳩やカラスのような中型の鳥までもが一羽も残さない勢いで駆除されました。生息地も開発が進んで営巣できず、世代交代ができませんでした。地域絶滅に迫る勢いです。


 以前エリーに何で鳥を売るのかと聞かれたときに説明したものでした。鳥は麦だけではなく、というよりも麦以上に虫を食べているのだと。麦の害虫を食べているのだと。もし鳥がいなくなれば大凶作がやってくるのだと。


 その通りのことが起きました。


 小麦の害虫は未曽有の大発生をしました。

 本来それらの害虫は小鳥たちが食べていたのでした。でもその鳥がもういないのです。天敵のいなくなったヨトウやアブラムシ、ウンカやヨコバイやカメムシやハダニやイナゴやその他あらゆる麦の害虫がおよそ信じられない勢いで増殖しました。


 害虫が見渡すかぎりの麦へと無数にたかっています。遠目にも麦の茎が黒く見えるほどです。農夫が涙目で棒を振って追い立てると虫たちは雲か霞か煤けた煙のようにわっと立ち上がって、またすぐ近くの麦に憑りつくというありさまです。


 それは大地を焼き尽くす黒い炎でした。ひと夏に三回も沸き起こった虫の津波は静かな湖に起きた波紋のように周辺へと広がってゆきました。


 また虫はただ麦を食べ枯らしただけでは済ませませんでした。成虫も幼虫も麦の汁を吸うと共に伝染病を媒介し、麦畑は黒く萎びてゆきました。


 麦が枯れたあとには雑草がはびこりました。その草の種もまた本来鳥たちが食べるはずだったのです。地平線のずっとずっと向こうまで広がっていた麦畑は瞬く間に原野へと戻ってゆきました。


 去年の今頃には天にも地にも満ちていた豊穣の気配は今やどこにもありません。ただ悪夢にも似た不毛の原野と灰色の飢えの予感が見渡す限り広がっているだけです。




「やあやあ皆様方、ごきげんよう。今日は約束通り小麦の買い付けにきましたよ!」

「……」

 穀物トレーダーたちは真っ青になっていました。


 ボクとエリーは昨年彼らとかわした契約を行使しにきました。『小麦一グラインを二プライドル五十アントで買う』という契約を、です。平年の相場の一・一倍くらいですね。彼ら全員の分を合わせるとおおよそ一千トンほど買い取ることになっています。

 ところが、売るだけの小麦を彼らは手に入れることができませんでした。今年の収穫量はこのスズナーン地方全体で数トンくらいでしょうか。契約量と比べたらほぼゼロと言っていいでしょう。


 この世界では売買契約は契約の神に誓って交わします。ボクとこいつらももちろんそうしてます。この契約を破ると『ギルドカード・市民カードなどの人権を保証するものが停止される』『現在進行中の他の契約が停止される』『新たな契約を結ぶことができなくなる』などのペナルティを受けます。要するに商売も、それどころか生活もできなくなってしまうのです。ぶっちゃけ破滅です。

 一応、違約金を払って契約を破棄できるようにもしてあります。ただしその金額は小麦一グライン分について十メリダ、通常の百倍なのですけど。


 それにこいつらはボク以外にも多くの顧客を抱えています。その顧客に卸す小麦もまた確保しなければなりません。

 しかしその小麦がもうどこにもないのです。


 ──いえ、実はひとつだけ買えるところがありました。

 ボクです。去年からこっち買い占め続けた小麦がまだ結構残ってます。


「そうなのです。そういうわけでボクは小麦を持っているのですよ」


 そのことを伝えるとトレーダーたちには起死回生の光が見えたのでしょう、興奮で顔を真っ赤にしました。

「売ってくれ!」

「そうだ! いくらでも出すぞ!」

「売ってあげたいのはやまやまなのですが……問題があるのです。まず、お前たちはボクに対して麦を売るという契約を履行していません。それから、お前たちはボクから麦を買う権利を持っていません」

 赤い顔が再び青くなりました。歩行者信号でしょうか。


 だって、こいつらが契約を結んでいる相手は農家ですからね。ボクではありません。そしてボクが同意しなければこいつらは新たな契約を結ぶことができません。でもその前の契約をちゃんと履行していない相手を信用できるでしょうか? ボクにはこいつらと契約する理由がないのです。


「ところが……お前たちに耳寄りなお話があります。ボクが持っている小麦を買う権利は売買できるのです」

 ちゃんと契約書にそう書いてあります。

「つまりボクから麦を買う権利を買い取って、その権利でボクから麦を買えばいいのです。そうすればお前たちはボクに対して小麦を用意する必要がなくなり、なおかつ小麦を手にすることができるのです。おお、一石二鳥とはこのことですね!」

「なるほど!」

「よし、では交渉しよう。いくらだ?」

「うーん……交渉といってもですね、契約書に明記してあるのですよ。『小麦を買う権利を譲渡する場合は小麦一グライン分の権利につき一メリダとする』と」

 これは平年の相場の十倍の金額です。たったの十倍です。この食糧危機に際してこんな安値で権利を譲ってあげるとはボクの優しさは慈母にもまさろうというものです。なのにトレーダーたちは顔色を真っ白にしています。何故でしょう? 答え合わせしちゃいましょう。


「実際の小麦の売買価格については、権利の取引後に交渉しましょうね」


 一同「少し相談させてほしい」というのでひとまず帰りました。


 その夜のことです。ボクたちの借家は兵士たちに囲まれていました。【走査】の魔法に引っかかった人数は百人です。……えー、たった百人ですか? もう少し来ると思ったのですけど。

「おやおや、こんな夜更けに何のご用ですか?」

 窓から顔を出して問いかけると兵士たちの隊長らしき男が号令をかけました。

「捕まえろ!」

 兵士たちがボクに殺到しました。やれやれ、まるで強盗です。ボクは合法的な商取引しかしてませんのに。公権力なら何をしてもいいと思っているのでしょうか。


 よろしい、主文は後回しです。まずはこいつらに戦い方をレクチャーしてやることにしましょうか。ヴィレル・ボカージュのミハエル・ヴィットマンのように。




 翌朝、新市街地の真ん中に新しいオブジェが追加されていました。

 そいつは頑丈なガラスでできた箱でした。箱はガラスの蓋で閉じられて、真ん中の穴から人間の頭がニュッと突き出ています。

 その顔は昨夜ボクたちの家に押し込んで来た兵士たちの隊長のものです。首から上はそのままです。傷一つついていません。

 透明なガラスの箱の中は体組織を生きたまま保存できるダム・ディー培養液で満たされています。そしてその液体の中にむき出しの内臓と、血管と、神経とがゆらゆらとクラゲのようにたゆたっているのが見えるのでした。

 手とか足とか、全身の骨と筋肉と脂肪と皮膚はありません。呼吸筋とそれを支えるだけの骨を残して、あとは全部魔法で溶かして捨てちゃいました。

 その口の形はずっと『こ』『ろ』『し』『て』と繰り返しています。でも実際に口から出たのは──


「ほう」


 これだけでした。発声にかかわる筋肉がありませんからね。息が漏れるだけです。まあ栄養剤が切れるまで、もう少しの我慢です。


 現代アート第三弾・母体回帰296です。原始の海へと帰る人をイメージしてみました。これはこれから新市街地と住人たちがたどる運命を暗示しています。

 他の兵士たちは悪魔召喚の素体にしちゃいました。九十九体の悪魔コイコイが町中のエルフたちを守っています。従業員を人質にとったりなんてできないように。

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