1.1 死んだその日が誕生日
初投稿です。
よろしくお願いします。
「ITEッ」
ある日のことです。道を歩いていたら隕石がボクを直撃しました。
まだ14年しか生きていなかったのに特に何もないままあえなく人生終了……肉体はJCのタルタルステーキに、魂は異世界へと転生したのでした……。
──という前世の記憶を物心つくと同時に思い出しました。
脳の中に氷水を流し込まれたような感覚です。きわめて明晰に明瞭に、前世と現世の人格が一体となって覚醒すると同時に、初めてその世界がクッキリと目の中に飛び込んできたのです。
そこは深い森の中でした。
その時ボクは見上げても見上げきれない巨木の下にいました。
しかしその樹が特別に巨大というわけではなく、見渡す限りの森の木々のすべてが太く高く、青錆色の古い苔に葺かれた太い幹の半ばから大人がぶら下がってもビクともしそうにない太い枝が横に張り出していました。その枝の上にたなびく薄靄を朝日が透き通り、そのさらに上から見も知らぬ鳥の声が降ってくるのです。
『ボク』の記憶が、自我が目覚める今日までに見聞きした知識が、ここが世界で一番古い森オーマであることを教えてくれます。そしてまたボクが、ボクたちの言葉で"Arls"──美貌と知性に恵まれた、無限の寿命を持つ生命──人間の言葉でエルフと呼ばれる種族であることも。
……これはつまり『異世界転生』です! ボクは事故死によって地球の日本人から異世界のエルフへと転生を果たしたというわけです。
うわーすごいです、ボクは今モーレツに感動しています。サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいい話ですがまあそれはそれとして魂の実在だとか異世界転生なんてものも同様にまるっきり信じていなかったわけです。それがまさか自分の身にこんなことが起きるとは。人間一度は死んでみるものですね!
「リンス」
感動のあまりちょっと挙動不審になっていました。ボクを膝に抱いていたエルフの女性が上から覗き込んで「どうしたの?」と微笑みます。この世界でのボクの母、リーンです。
リーンは人間でいえばいいところ二十歳手前の姿の、ボクと同じ真珠色の髪の、前世を基準にすればたとえようもなく美しい女性です。長い髪から長い耳がのぞいています。自分の耳をくりくり触ってみました。うん、長いです。
記憶の中にあるボクの顔はやはりリーンとそっくりなのでした。
──あっという間に10年が経ちました。いやーすっかり慣れましたね。ぶっちゃけ前世より快適です。
例えば環境が最高です。このオーマの森のエルフたちは寿命の長さと知能の高さ、そして強力な魔法にものを言わせて技術や知識をびっくりするほど発展させています。空間子・時間子を発見して統一場理論を完成させているくらいです。最初の祖先がこの森に住みついてからと言うもの、その知見をもって先祖代々5万年も住環境を整備してきたのです。エルフ好みの自然の景観を残しつつ危険なものは一切排除されています。土壌中の菌ですら有害なものはすべて駆逐されているのです。森の中だと言うのにかぐわしい香りに満たされて、どこへ行っても不快な腐敗臭に出くわすことはありません。加えて気温や湿度まで快適な範囲に保たれています。それもやろうと思えば一定を保てるのに季節感を出すためあえて変動させる心憎さです。
衣食住に始まり芸術、文化、科学、エトセトラエトセトラ──言い出したらキリがありません。あらゆるものが高度に発展しています。
そして何より特筆すべきは住んでいる人々でしょう。さすがはエルフ、この世界においても美の化身であることは論をまちません。例えばボクの母のリーンです。リーンはエルフが真珠色と呼ぶ光沢のある髪を緩く波打たせて、髪型はちょくちょく変えていてどれが定番ということもありませんけど、最近はシニヨン風に緩くまとめるのがお気に入りみたいです。まとめ上げた髪の下からのぞく耳は長く、優美な曲線を描いています。顔の輪郭も描いたような眉も目鼻立ちも唇の形もすべてが理想的、スラリと細身で足が長く、まあどこから見てもたいそうな美貌の持ち主です。
リーンが「リンス」とボクを呼んだのでボクは「リーン」と呼び返しました。
この村のエルフたちは何というか、人間関係が淡泊なのです。薄情とか冷たいと言うのではなく、距離感が淡きこと水のごとしなのです。リーンとの距離も他人行儀と言うほど遠くはありませんが母親にしてはとても近いとは言えません。あえて言えば姉みたいな感じです。そういうわけで呼び方も「お母さん」ではなく名前で「リーン」です。その方がしっくりくるのです。他の家庭を見ても母親を母と呼んでいるエルフはいません。
ちなみにボクはリーンの息子なのでリンスです。娘ならリーナとかですね。エルフの名前はいい加減です。
エルフ語には子音語幹という命名規則があります。ある単語から単語が──それが名詞であれ動詞であれ──派生するとき、子音が固定されて母音が変化することで新しい単語になるのです。これは名前においても同じで、ボクの名前リンス(アルファベット表記すればlins)は始祖レノア(lenoa)から始まるl-n-系の子孫であることがわかります。ボクたちは人口が少ないので(多分この森全体で3000人くらいのエルフがいるはずです)姓というものを持つには至りませんでしたが、家系図は持っているのです。
母親のことばかり言ってますけど父親はいないので言いようがありません。エルフが、あるいはこの世界が全体にそうなのかは知りませんけど、少なくともこの村は女系家族で父親は家庭に参加しないのです。こうなったのは多分男女比が1:2と極端で一夫一婦制だと女性があぶれちゃうからなのでしょう。この村では数が多いだけ女性の方が発言権が強くて文化でも何でも女性に偏りがちですから。女性たちは結婚しないことでうまい具合に男性をシェアしているわけです。
ボクの父親が誰なのかもボクは知りません。父親が誰なのか知っているのは女性だけです。なので家系も女系でしか伝わりません。
そう言えば人間たちがボクたちのことをエルフと呼んでいることは知っていますけど、人間たちの見た目はどんな感じなのでしょうか? またボクたちと同じような文化なのでしょうか、それとも独自の文明を築いているのでしょうか? リーンに聞いてみると「うーん、何と言うか……まあ、ゴブリンよりは私たちに近いかな?」と、何とも微妙な物言いが返ってきました。
資料に当たって調べてみたところ、この世界のヒト属には5つの現生種がいるようです。すなわち人間、獣人、ドワーフ、コビット、そしてエルフです。人間はこの中でもっとも数が多い種族で世界中に広がっています。言葉も文明も全然違うようです。獣人は人間の亜種です。ドワーフとコビットは違う大陸で進化した種族で、ヒト属とは言え見た目はずいぶん違います。
そしてボクたちエルフです。エルフの分子系統学ではボクたちエルフの祖先はおよそ35万年前に人間と分岐してその後独自の進化を遂げたと考えられています。中でもこのオーマの森のエルフたちが種として完成したのは3万年前です。これははっきりしています。というのも3万年前に生まれたエルフたちがまだ生きているからです。そしてそれ以前の祖先はとうの昔に寿命を迎えてこの世にいません。
それまでもエルフの寿命は伸び続ける一方だったようですが、ボクたちの3万年前の祖先、『最初の十人』と呼ばれるエルフたちはとうとう永遠の生命を手に入れました。この森のエルフたちは全員『最初の十人』の血を引いていて、成人を迎えると老化が完全に止まります。エルフは壊れた細胞を殺す能力が強く、また細胞内では絶えず分子時計がリセットされて細胞が初期化されています。おかげで成熟したエルフの老化率はゼロです。森の植物を食べ続けていたせいか多くのアルカロイドに抵抗を持ち、強力な免疫システムも持っています。
そして何より偉大なる魔法の使い手です。エルフの最大の特徴は超越的な魔力と卓越した魔法の技術でしょう。常時発動している回復魔法はちょっとした怪我からDNAの損傷までも修復し、消毒魔法はあらゆる毒素を分解し、防疫魔法はあらゆる細菌やウイルスの侵入を防ぎます。おまけに記憶や身体情報をリアルタイムでバックアップしていますので手足が吹っ飛ぶくらいの怪我ならデータを基にして瞬時に治せますし、魔力が充分なら全身が塵になっても再生できます。
ボクたちエルフ、この進化の神がいたずらした祝福された種族は元々生物的に強固である上に強大極まりない魔法の力で事実上の不老不死を実現しています。まさに究極生命体です。
まあ何もしなくても生きていけるからと言って本当に何もしないのも暇なので、少なからぬエルフが自分の趣味を追求しています。
例えば近所にカルスという男が住んでいます。カルスは異様と言えるほど食事にこだわるエルフです。本人によれば「最初に森の外を旅した時に何もかもがあまりにも不味かった反動でこうなった」と言うことですけど。
リーンは自分で料理をするようなタイプではありません。ボクたちは魔法で生物が活動するに足るエネルギーを得ることができますので、一日に三回食事しなければお腹が空いて動けなくなるということはありませんけど、気が向けばたいていの場合はカルスのところに食べに行くことになります。
「よく来たな。何か食べたいものはあるか?」
言いながらも既にカルスは空間から料理を取り出しています。聞くまでもなくボクの嗜好をすっかり把握していますからね。ボクの食べたいものが次から次へと食卓に並びました。
カルスの調理技術は大変に進んでいて、あらゆる料理の分子レベルでの『設計図』を持っています。例えば牛肉のステーキを焼いたとしましょう。牛も生物ですから当然不安定で、どんなに管理しても常に最高の肉質になるとは限りません。また焼き方だって料理人の腕次第です。気温や厨房設備に左右されるかもしれません。最高のお肉があったところで作る方が下手ならそれなりにしかならないわけです。ところがカルスは理想の肉質、理想の焼き加減をデータとして持っていて、瑕疵のない完璧な美味を分子的に合成できるのです。──お肉のないところから! 分子ガストロノミーの終着点の住人ですね。もっとも当人は手作りにこだわるタイプですのであまりやりたがりませんけど。
カルスは手作りであれば大量の家畜を飼っていますし、手作りでなければその辺の有機物からその物を合成できます。どちらにしても必要な魔力は無視できるほど微々たるもので、労力もお金もかからないためにカルスが対価を取ることはありません。では何のために料理を作っているのかと言うと、カルスは人に食べさせるのが好きなのです。ただ仲間に食べさせて喜ばれるのが好きと言う、純然たる趣味のために料理を作り続けています。
食事に代表されるように、何しろボクたちは強力な魔法のおかげで誰もが裕福で、何もしなくても特に暮らし向きに困るということがありません。例えばこの世に一枚しかない絵があったとします。ところが【複製】という魔法がありまして、分子配列から忠実にコピーできてしまうのです。そうしてできあがった絵は元の絵と区別することができません。まったく同一のものです。しかもそのコピーした時の状態を記録しておけば後でまたまったく同じものを再現できます。例えばこんな感じです。
「いい時計ですね。少しの間貸してくださいよ、壊れるまで」
「いいよ、はい【複製】はいあげる」
「壊れました」
「はい【復元】はいまたあげる」
──一事が万事この通りです。ここでは何一つ足りないということがありません。衣食住であれ何であれあらゆるものが不足なく行き届いています。この森ではありとあらゆるものが過剰に豊富で、生活のコストがすべてタダなのです。
汲めども尽きぬ無窮の魔力を背景に、例えば気温から衛生から何から常に快適に保たれた環境。例えば魔法で合成したきらびやかな布を暇に飽かせて身に着けた最高の技術で仕立てた服。例えば世界中の動植物をさらに品種改良した最高の食材を最高の技術で調理したここにしかない美味。あるいは物質、宇宙、神に関する深遠な知識、美しい同胞、快楽から美術、音楽、文学、さらには親愛の情まで──ここでは欲しいと思って手に入らないものはないと言い切れるでしょう。
生活は前世より便利ですし、母親は若くて美人ですし、何より自分自身がカワイイですし。前世のボクもなかなかの美少女だったのですけど今の姿にはとても及びません。ただ一つ難を言えば今生のボクは男の子と言うことくらいでしょうか。とはいえ政治的に正しいエルフであるボクにとって性別なんて取るに足りない些事ではありますけど。
この世に『完璧』と言うものがあるとすればそれはボクたちのことです。
──さらに5年が経ちました。この頃のボクは完璧に見えた生活の中にも重大な問題が潜んでいることに気づいていました。
木陰に椅子を据えて一人のエルフが座っています。ルナリアという若い姿の女性、実際には7000歳を過ぎたエルフです。一応ボクのご先祖様に当たります。
ルナリアはじっと座って、身じろぎもしません。ピンで留められた標本の虫のように動きません。目の前で手を振ってみます。
「……」
やっぱり動きません。
またアリシアというエルフがいます。
「こんにちはアリシア、今日もいい天気ですね!」
「……そうね」
緩慢にこちらを向いたアリシアは緩慢に答えました。
アリシアはまだ3000歳ですがすでに反応が鈍いです。見た目は若いのですがたたずまいが老成していると言うか落ち着きすぎていると言うかはっきり言えば耄碌していると言うか……何と言うか若者らしさが微塵もねーのですよ。死にかけのカカシみたいな老人が肌だけ貼り替えたような違和感があります。
ボクたちエルフの肉体には本質的に寿命がありません。しかしですね……体は完成していても、心はそうはいかなかったのです。千年だの万年だのといった歳月は心ある生き物には長すぎたのです。
年経たエルフたちは体は健康でも精神は寿命を迎えてしまいました。心は立ったまま死んだ松の古木のように枯れ切って、もはや新しい出来事に心を動かされることはなく、唯一の感動は何もかもが新鮮だった若き日の思い出だけ……。ほとんどの時間を寝て過ごして、夢の世界で楽しかった過去の記憶を追体験(夢の神ニーニルの魔法にそういうのがあります)して、時折り起き出しては食事してトイレに行ってお風呂に入って、そしてまた夢の世界に入り浸る……。
3000人いるエルフの内の半分くらいがこの体たらくです。
もう無邪気に不老不死を喜ぶことはできません。心が動かなくなったら体が生きていても哲学的には死体ですよ。まさに生きる屍です。あー嫌ですね、ああはなりたくありません。
そして体が生きているせいでまた違う世界に転生することもできないのです。これではこの体はまるで魂の牢獄です。
ボクはその日秘密の小部屋を訪れました。ボクの直系の最初の祖先、レノアが眠る部屋です。
窓も扉も何もない部屋です。天井に魔法の明かりを灯すと部屋の真ん中のベッドが照らし出されました。そしてそれ以外には何もありません。そのベッドに横たわっているのがレノアです。
見た目はせいぜい10代後半の、中身は3万歳のババアに馬乗りになります。すやすや眠っています。これが本当に百年単位で眠りっぱなしの姿なのでしょうか? 肌も髪も若々しくて、傷も汚れもなく、目やにひとつ溜まっていません。何もしないで横になっている限りボクたちは魔法による代謝代替の魔力消費量より自然回復量の方が多いので、飢えることも傷つくこともないのです。本人の衛生はもちろん部屋の中の気温や湿度、酸素濃度まで魔法で一定に保たれています。
まぶたをこじ開けてやると焦点の定まらない瞳孔が天井の向こうを覗いていました。
パチン。頬を平手打ちしても何の反応もありません。
「お前生きてて楽しいですか?」
パチン。
「長い長い生の結末がこれって、虚しくないですか?」
パチン。
「お前の人生に救いはあるのですか?」
手のひらが頬に触れようとするたびに白い光が弾けました。眠っていながらも勝手に防御魔法が発動しているのです。ボクの指がレノアに触れることはなく、叩いた跡すら残りません。
「……」
バカバカしくなりました。ボクは部屋を後にしました。
何しろこの森は既に完成されているので、何かに興味を持たない限り何もすることがありません。日々を食べて寝て遊んですごすだけ……勤労だの奉仕だのといった言葉とは無縁の高等遊民です。人生に目的のないエルフたちがやってることって言ったら夜は寝床で運動会、朝は昼までグーグーグーですからね。そりゃボケますよ。
一方でヒントもあります。例えばアリシアの母親のリーシアは魔法で構築された情報共有ツールの管理人をやっています。エルフ版のインターネットですね。
「ああああどいつもこいつも好き勝手! 越えちゃいけないライン考えてよ!」
今日も元気に頭を掻きむしっています。
リーシアは3600歳ですけど気分が断然若いです。会話も動作もキビキビと若さに満ち溢れて、リーンと並んでいても違和感がありません。アリシアとは大違いです。
「このホワイトホーラーがさァ! 銀河中心のブラックホールとリンクしててさァ!」
「そんなことより働けです」
クリスというアイテムオタクは1200歳になってもまだ中二武器の開発に余念がありません。ボクと会話をしていてもどっちが年下かわからないくらい子供っぽいです。
そうです。やりたいことがあれば、それに意欲的に取り組んでいれば、常に外界からの刺激にさらされ続けていれば、心も年を取らないのです。
いつまでも若々しくあるために、それではボクは何をするべきでしょうか? ……実はボクには生まれ変わったと知ったときからやりたいことがあるのです。
そう、冒険です。
広い世界を見てみたいのです。
この森の外には広大な世界が──前世の単位で言えば一周4万km、面積1億4400万平方キロメートルの大地が広がっているのです。
生まれ変わったと知った日から夢中になって調べて来た世界を実際に見て触れて、世界の果てまで思う存分味わい尽くしてみたいじゃないですか。
カリンはボクより50歳だけ年上の一番年の近いエルフです。50歳差が一番近いと言っても少子化になったわけではなく元々出生数が少ないのです。何しろ誰も死なないのですからみんな超のん気です。ちなみにカレンの娘なのでカリンです。適当すぎます。
年が近くて話もしやすいので相談してみました。
「ここって何の刺激もないじゃないですか」
「そう?私は毎日楽しいよ」
「そりゃ今は良くてもそのうち飽きますよ。このまま永久に同じ顔ぶれを見ながら死んでないだけの人生を送ってたら、さすがのボクもボケちゃいそうです……」
「アハハ、それって五千年後? 一万年後? リンスったらそんな先のことを心配してるの? まだ20年も生きてないのに、おじいちゃんみたい!」
「フン、ほっとくです。それでですね、実は森の外に出てみようかと思うのですけど、どう思います?」
「えー、さすがにまだ早いんじゃない?」
「カリンは外に出てみたいと思ったことはないのですか?」
「うーん、ここの暮らしに飽きたら世界旅行でもしてみようかなって思うけど、まだこの森でやってないことがたくさんあるし。リンスこそなんでそんなに外に出たがるの?」
「飽きたくないからですよ」
今度はカルスに聞いてみました。
「森の外に出てみたいのですけど」
そう言うとカルスはつまらなそうな顔をして手を振りました。
「やめとけやめとけ。人間たちは頭が悪すぎて話が通じないからな。知的な会話のひとつもできやしない……面白くもなんともないぞ。何よりメシが不味い」
そしてカルスは森の外を旅行中いかに食事で苦労したかを力説してくれました。うーん、そんなことを言われても……口唇期の赤ちゃんじゃあるまいしボクは食べることにそこまで依存してませんので、多少ごはんがまずくても我慢しますよ? それよりも生活にハリを持たせることの方が重要です。
アイレーニアというエルフはリーンのいとこで仲が良く、よく一緒に遊んでいます。アイレーニアもまた昔森の外にいたことがあると言うので聞いてみました。
「そうね、一言でいうと不便だったわね。道路だってまともに整備されてなかったんだから。最悪だったのは衛生関係ね。とにかく不潔で……。外にいる間はほとんど衛生設備の普及活動をしてたような気がするわ。最後は諦めて帰ってきたけど」
それから延々と窓から汚物を投げ捨てる猿以下の畜生共、上水と下水の区別もつかないドブネズミの仲間、衛生観念もない虫けら同然のたかがじじいの浮浪者などと人間の悪口を聞かされました。
家に帰るとリーンがゴロゴロしていたのでボクはその隣に寝そべりました。
「あらあら、ご機嫌斜めね」
「んー……みんなつれないのです……」
ボクは外に出てみたいと言うとみんなそれとなく止めてくるのだとリーンに愚痴をこぼしました。
「リンスったらそんなに家出したいの?私と一緒にいるのは嫌?」
「家出って……リーンだって外にいたそうじゃないですか」
アイレーニアから聞いたのですが、なんでもリーンは60歳の時に森を出て100歳の時に帰ってきたそうです。今170歳くらいだったはずですのでそんなに前の話じゃないですね。
「外の世界はどうでしたか? 面白かったですか? それともつまらなかったですか?」
「そうねえ……森の外は変わったことがいっぱいあって面白かったけど、嫌なことも多かったわ」
そしてリーンはボクの鼻の頭を指先でチョンと押さえて微笑みました。
「ここは代り映えしないけどたまには新しい出会いもあるのよ。あなたと私みたいに」
それはそうかもしれませんけど……でも、そんなの百年に一度くらいしかないじゃないですか……。
みんなにいろいろ言われても、でもやはり知識と体験とは違うのです。百聞よりも一見です。そりゃまあ世界中を冒険した結果メーテルリンクの青い鳥のように「やっぱり故郷が一番ですよね」ってなる可能性は大いにあります。でも、実際に体験してみなければそれを言うこともできないじゃないですか。
せっかく生まれ変わったのにその世界を見ないまま千年……二千年……頭がおかしくなって夢の世界に逃げるまで退屈な日々を送るなんて……そんなの耐えられそうにありません。ここは危険なことがない代わりに刺激的なことも何一つありません。気象まで完璧にコントロールされたこの森の梢の下は荒れ狂う嵐の夜でも無風状態なのです。これじゃ『ショーシャンクの空に』の真似もできませんよ!
ボクがこうしてただぼんやりと日々を送っている間にも世界のどこかで楽しい事件が起こっているかと思うと、悔しくって夜しか眠れません。
やりたいことはいっぱいあるのです。
まずは定番の冒険者になってみたいですね。魔王とかいたら倒してみたいです。あるいは逆に世界の破壊者になってみるのもいいかもしれません。町から町へと渡り歩く行商人とか、凄腕の宝飾職人とか、大都市で評判の料理人になるのも楽しそうです。
見渡す限りの春の野原を走り回ってみたいです。
嵐の海で逆巻く波に揺すられて沈没しそうな船に乗ってみたいです。
世界で一番深い洞窟の奥の奥まで踏破してみたいです。
無計画に増築された古都の路地裏で迷子になってみたいです。
古代の遺跡に隠された秘密の宝物を探してみたいです。
吹雪の雪原で遭難して凍えながらさまよってみたいです。
ドラゴンを乗り回して雲の上から地上を眺めてみたいです。
8000mの未踏峰を冬期単独無酸素で登頂してみたいです。
砂漠の真ん中でビーチチェアに寝そべってトロピカルドリンクを飲んでみたいです。
世界が終わるところまで歩いて行ってみたいのです!
──あ、想像してたら何だかワクワクしてきました。ムクムクと冒険心が沸き立ってきました。全身の細胞がムズムズと蠢きはじめました。
こうなったらもう居ても立っても居られません。あこがれは止められないって言いますしね!
思い立ったが吉日です。ボクはその日のうちに旅立つことにしました。
リーンやカルスやカリンや、普段親しくしているみんなが村はずれまで見送りに来てくれました。
「思い切りの良さがすごい」
カリンが呆れたように首を振りました。
「いってらっしゃい放浪息子。嫌になったらいつでも帰って来なさいね」
リーンはそっとボクの手を握りました。
「ムカついたらこれを使え! 人間の町くらいなら一発で壊滅だ」
クリスがくれたのは周囲の酸素を破壊する薬剤でした。
「人類を滅ぼすつもりになったら言ってね。手伝うから」
と言ったのはカリンの母親のカレンです。
「やめてくれ、世界にはまだ俺が知らない料理があるかもしれないんだから」
カルスが嫌そうな顔をしました。ちなみにカレンはカルスの母親でもあります。
そしてカルスは「気を付けて行ってこい」と言いました。
「南西にまっすぐ行けばアリノスという村がある。夕方には着くだろうから今日はそこで泊めてもらうといい。さらにアリノスから南南東に下ると湖のほとりにイーデーズという町がある。そこがこの辺りの人間の町では一番大きい。そこを冒険の出発点にするといいだろう」
カルスの指さした方角に向かってボクは歩き出しました。
みんなが手を振っています。でももう振り返ることはしません。今日からはリーンの息子でも地球人の転生者でもない、ただのリンスです。
この無限の寿命を使って世界を遊び尽くしてやります。