9.終わりを告げる声
冬が終わり、春がやってきた。雪もすっかり解けて、黒い土が顔をのぞかせている。私たちは家の外に出て、何も植えられていない畑を一緒に眺めていた。
「そろそろ、畑に手を入れて種をまかないと」
「よし、耕すのはいつも通り私に任せてくれ。君は種をまいてくれればいい。二人でやれば、すぐに終わるだろう」
「うん。それが終わったら、昨日のゲームの続きがしたい」
私たちは昨日遅くまでゲームで戦っていたのだが、決着がつかないまま寝てしまったのだ。ゲーム盤は居間の片隅にあるサイドテーブルに置いたままにしてあるから、いつでも勝負を再開できる。
「それはいい。今は少し私が不利だが、必ず逆転してみせよう。見ているがいい、私の見事な勝ちっぷりを」
「楽しみにしてる。でも私も負けない」
そうやって二人で笑い合っていた時、遠くからいくつもの足音が聞こえてきた。その足音は、どんどん大きくなっている。妙にそろったその足音に、なぜか背筋が寒くなった。
やがて、森の小道からいくつもの人影が姿を現した。先頭は、恐ろしく豪華な服をまとった中年の男性だ。きっと彼は貴族だろう。そして彼に付き従う、兵士のような男性が四人。
私の足元で猟犬たちがうなり声をあげている。男性たちの雰囲気は、どことなく不穏なものだった。彼らは、こんなところに何をしに来たのだろうか。
緊張しながら見守る私たちの前で、貴族の男性は不機嫌そうに顔をしかめた後、大きな声で言い放った。
「ようやく見つけたぞ、コンラート! 屋敷を出ていったきり、どこをほっつき歩いているかと思えば、よりによってこんなぼろ家に転がり込んでいたとはな!」
「父上。いったい何の御用でしょうか」
コンラートが、いつになく堅苦しい声で答えている。それでは、この貴族はコンラートの父なのか。
彼とあまり似ていない彼の父は、こんなところからは一刻も早く立ち去りたいという気持ちを少しも隠さずに、コンラートに向き直った。
「わしは『少し頭を冷やしてこい』と言ったのだぞ。こういう場合、普通はどこか友人の家にでも居候して、ほとぼりが冷めるのを待つものだろう。それがお前ときたら」
コンラートの父は怒りで真っ赤になりながら、どんどん声を張り上げていった。
「お前が突然行方をくらましてしまったせいで、どれだけ探したと思っているんだ! この近くの宿場町でお前に似た男を見かけたという話を聞いた時は、わしは自分の耳を疑ったぞ。手間をかけさせよって、この馬鹿息子が! さあ、帰るぞ」
帰るぞ。その言葉に、心が冷たくなるのを感じた。彼の父は、こんなところまで彼を連れ戻しにきたというのか。
凍りついたように立ち尽くす私の隣で、コンラートは不気味なほど落ち着き払って言葉を返した。
「父上、私はもう戻りません。私は己の罪と不明を恥じ、新しい自分として生きることを決めたのです」
「ふざけるのは大概にしろ! お前にはもう、新しい縁談が持ち上がっている。さっさと妻をめとって、わしの後を継げ」
「いいえ、その命令は聞けません。私はここで、真実の愛を見つけたのです」
「真実の愛だと!? ふん、お前は以前もそんなことを言っていたが、馬鹿馬鹿しいほどあっさりと振られておったな。忘れたとは言わせんぞ。……今度の相手は、その小娘か」
彼の父が、まるで射貫くような目でこちらを見てくる。何もやましいことなどしていないのに、気後れしてしまいそうになった。
いや、やましいことならあるかもしれない。私の存在は、コンラートをここに縛り付けてしまっている。私はそのことに喜びを感じているけれど、果たして今の状況は彼のためになっているのだろうか。
宿場町の一件から、私は幾度となく自問自答を繰り返していた。彼は本当に、ここにいていいのだろうかと。しかしそのたびに、彼の言葉がそんな悩みを打ち消してくれた。自分はここにいたいのだ、ここ以外に帰る場所などないのだと、彼はいつもそう言っていた。
けれど今、彼の目の前には別の道がある。彼とつりあった身分の女性と結婚して、伯爵家の当主として生きるという道が。
迷って迷って、ついに心を決める。笑みを浮かべて、口を開いた。
「……コンラート、家に戻って。それがあなたのため」
「ゾフィー!」
「ほう、ずいぶんとわきまえた小娘ではないか。そこのところは評価してやろう」
悲鳴のような声を上げるコンラートと、偉そうに笑う彼の父。私はコンラートに向き直り、ゆっくりと思いを、言葉をつづっていった。
「あなたといられて幸せだった。でもあなたには、帰らなくてはいけない場所がある。だから、ここでお別れ」
いつも表情を作るのに悪戦苦闘していたというのに、今は驚くほど自然に笑えていた。彼と離れたくない。ずっとここにいて欲しい。そんな風に心は叫んでいるのに、どういう訳かその嵐のような思いはこれっぽっちも表に出てこなかった。
コンラートは何かを言おうとしているのか唇を震わせながら、私の両肩をしっかりとつかんでいた。その手もはっきりと震えていて、まるで私にすがっているかのようだった。
彼は悲痛な顔で私をまっすぐに見つめてくる。決意が揺らぎそうになるのを感じながら、それでも静かに彼の目を見つめ返した。
私の大好きな明るい水色の目には、見たこともないほど辛そうな色が浮かんでいた。胸の中の嵐はさらに勢いを増していたけれど、私はわずかに微笑んだまま黙って立っていた。
誰も何も言わないまま、時間だけが過ぎた。やがて彼はのろのろとうつむき、私の肩にかけていた手を力なく下ろした。そのまま私に背を向けて、ゆっくりと離れていく。彼の父と兵士たちは、彼を取り囲むようにして歩き出した。
立ち去っていく彼らの姿を、何も言わずに見送る。まさに彼らの姿が木々の向こうに消えそうになるその時、コンラートが不意に立ち止まった。くるりと振り返り、声を張り上げる。
「ゾフィー、私は必ずここに戻ってくる! だから、待っていてくれ! 必ず、必ず戻ってくるから!」
彼はまっすぐにこちらを見つめている。これだけ離れたところからであっても、その目に迷いがないことははっきりと見て取れた。
「私は君に出会って、君と一緒に暮らして、ようやく変われたんだ! 君が、私を変えてくれたんだ! そのことを証明してみせる、だからどうか、私のことを信じてくれ!」
目頭が熱くなるのを感じながら、ぐっと唇をかみしめた。彼にだけ伝わるように、かすかに首を縦に振る。きっと彼の父や周囲の兵士たちには、私がほんの少し目線を下げたようにしか見えなかっただろう。
けれどコンラートは、私の返事をちゃんと受け取ってくれた。彼は泣きそうな笑顔を浮かべると、名残惜しそうにまた背を向けた。
彼らの気配が完全に消えてしまうまで、私は彼らが去っていった方を見つめ続けていた。