8.ささやかな幸せ
宿場町での一件から始まったささいなすれ違いを経て、私たちはまた前と同じように二人で暮らしていた。
といっても、全てが元通りという訳でもなかった。コンラートと私との距離は、ほんの少しだけ近づいていた。
彼は私を愛していると言ってくれたけれど、私は彼のことをどう思っているのか、未だに分からなかった。そんなこともあって、私はひとまず今まで通りにふるまっていた。
私は、彼のことを大切に思っている、そのことは間違いない。けれどこれは愛と呼んでもいいものなのだろうか。そもそも、愛とはどういうものなのだろうか。
私はずっと、この家で父さんと二人で暮らしてきた。外の人間とは、最小限のかかわりしかしてこなかった。そんな私には、好いた惚れたという話はまるで別の世界のことのように思えていたのだった。
父さんが亡くなってからは、ずっと一人で暮らして、一人で生涯を終える。そんなつもりでいた私の頭は、降ってわいたこの状況に全くついていけなかった。
「愛してるって、どういうことなんだろう……」
考えても考えても答えが出ない。毎日のようにうんうんとうなりながら考え込む私に、コンラートは今まで以上に穏やかに笑いかけてきた。あの日の告白以来、彼は謎の余裕をただよわせているように見える。
「ゾフィー、愛というのは難しく考えずとも、自然と理解できるようになるものなのだ。気がつくと胸の内に宿っている、そんな感情だよ」
「……だったら、待つしかないの?」
「ああ、そうさ。そんなに必死にならずに、君はどっしりと構えていればいい。私は君が振り向いてくれるのを、気長に待っているから」
「……一目惚れの達人は、言うことが違うね」
私がこんなに悩んでいるのに、彼はどこまでも自然体だ。そのことちょっぴり憎らしくて、つい皮肉めいたことを言ってしまう。コンラートは目を見張ると、見る見るうちにうなだれた。さっきまでの余裕が嘘のようにしおれてしまっている。
「ごめん、言い過ぎた」
「いや、過去に私が一目惚れで多くの人を傷つけたのは事実だ。そこにもってきてまた一目惚れなどと私が主張したのだから、君が不安になるのも当然だろうな。……本当に、私は駄目な男だな」
彼はうつむいたままそう言うと、急に顔を上げた。そこにはまた、元の笑顔が戻ってきていた。
「……うむ、どれほど言葉を重ねても、君の不安を消すことはできないだろう。だから私は、行いをもって誠意を示してみせよう。だからどうか、しっかりと見ていてくれ、ゾフィー」
この妙に前向きなところは、初めて会った時から変わらない。彼は女性に弱くて惚れっぽくて、おまけに少々意志が弱いところもある。けれど同時に、彼はこんな誠実さも備えているのだ。正直不安は残るが、もう少し彼のことを信じてみてもいいかもしれない。
普段あまり使わない顔の筋肉を意識して動かし、精いっぱいの笑顔を彼に向けてみた。その努力はちゃんと報われて、彼はまた飛び切りの笑顔を返してくれたのだった。
そうやって彼への答えを保留したまま、表面上は何事もなかったかのように過ごし続けていた。そんなある日、彼は木を彫って作った何かを見せてきた。とても楽しそうに、けれどほんの少し自信なさげに。
「……これは何?」
彼が手にしているのは、表面に格子状の模様が刻まれた木の板と、その上に乗せられた親指ほどの大きさの何かだった。その何かは一つ一つ違った形をしていて、細工物としても中々に見事だ。いつの間にか、彼はすっかり木工細工にも慣れてしまっていたらしい。
「これは昔私がよく遊んだゲームでね。この盤の上にこの駒を並べて、二人で交互に駒を動かして勝負するものなのだよ。……私はたくさんのことを君から学んだ。何か、代わりに君に教えられることはないかと考えて、これを作ってみたのだ」
彼が駒と呼んだものを一つつまみ上げて眺めながら、無言でうなずく。駒には色々種類があるようだった。とすると、きっとそのゲームとやらの遊び方は複雑なものなのだろう。私に覚えられるだろうか。
そんな思いが顔に出ていたのか、彼はためらいがちに言葉を続けた。
「もう冬も近づいてきているし、長い冬の間には暇になることもきっとあるだろう。そんな時に役に立つかもしれないと、そう思ったのだが……」
「そうなんだ。あなたの気持ちは嬉しい。だったら、遊び方を教えてくれる? ……うまく覚えられる自信はないけど」
ゲームとやらに興味は持てなかったけれど、彼の気遣いは嬉しかった。だから素直にそう答えることにした。ぶっきらぼうにならないように、頑張って笑顔を作りながら。
私は感情を表すのは苦手だけれど、そんな自分を変えていきたいとも思っている。こんな風に思うようになったのも、たぶんコンラートのおかげなのだろう。
「もちろんだ、君が望む限り何度でも教えよう。……私のわがままに付き合ってくれて、ありがとう」
そうやって礼を言うコンラートの顔には、どこか切なそうな笑みが浮かんでいた。いつものものとは雰囲気の違うその微笑みに、心臓が一つ大きく跳ねた。
コンラートが根気良く教えてくれたおかげで、本格的に冬が来る頃には私もそのゲームで遊べるようになっていた。
貴族の間で流行しているというこのゲームはかなり頭を使うもので、最初のころはかなり苦戦したのだが、やがて彼相手にもそれなりに戦えるようになった。彼によれば、私は中々に筋がいいらしい。
今日は大雪で、外で作業をするのは無理だ。そういう訳で私たちはゲームで戦いながら、他愛のないお喋りに花を咲かせていた。といっても、ほとんど彼が喋っていたのだが。
「こうしていると、昔を思い出すな。父上と母上は息災だろうか」
「やっぱり、故郷が気になる?」
「気にならないと言ったら嘘になるな。しかし私は既に家を追い出された身、戻ることはかなわない。……それに」
彼は駒を一つ動かすと、その手をそのまま伸ばし、私の前髪にそっと触れてきた。
「今の私にとっては、君のそばにいられることが何よりの幸せなのだ。私が失った全てのものよりも、君の存在の方がずっと大きい」
「……私、そんなにすごくない」
「謙遜することはない。君は初めて会った時から、とても素晴らしい女性だ。どんな令嬢よりも生き生きとして美しく、気高くて強い」
「ほめても何も出ないって、いつも言ってるよね」
優しく微笑みながら賛美の言葉を大盤ぶるまいしてくる彼に、照れ隠しの言葉を投げかける。彼はさらに嬉しそうに笑って、明るい水色の目を細めてこちらを見つめた。
彼の思いにこたえることにまだためらいを感じながらも、この時私は確かに幸福を感じていた。こんな幸せな暮らしがずっと続けばいいと、心からそう思っていた。