7.すれ違いを経て
たった一人で家に帰りつくと、猟犬たちが心配そうに出迎えてくれた。その頭を順になでてやったが、彼らは尾を垂らしたまま小さくきゅうんと鳴くだけだった。
背負っていた荷物をどさりと床に放り出し、椅子に腰かける。ずっと一人で住んでいたはずの家が、ひどくうつろで寒々しいもののように感じられた。この家は、こんなに広かっただろうか。
何もする気が起きなかったので、そのまま机に突っ伏した。今頃コンラートはどうしているのだろうか。私が彼を置いていったことに気づくだろうか。私のことを探してくれるだろうか。ここに戻ってこようとするだろうか。それとも、もう戻ってはこないのだろうか。
彼は妙なところで律儀だし、きっと戻ってくるに違いない。いやしかし、彼は一目惚れの末に婚約者を捨てるような愚かなところもある。そのことについては大いに反省しているようだったけれど、ああいうのは繰り返すものだと聞いたことがある。
それに、彼を誘惑していた女性たちはみなとても魅力的だった。化粧っ気もなく獣臭い私なんかより、よっぽどいい女だった。彼が鼻の下を伸ばしたくなるのも無理はない。それこそ、また一目惚れしたとしても驚かない。
これでいい。もとより私と彼では、住む世界があまりにも違いすぎたのだ。彼はきっとこれから、たくさんの人に囲まれて生きていく。私はまた元通り、一人この森で生きていく。それが、お互いのためだ。
言い訳のように、そんな言葉を繰り返す。なぜか鼻の奥がつんとしてきて、思わず唇をかみしめた。胸が痛くてたまらない。
気をまぎらわせるには動いていた方がいいと分かっていても、やはり何かをしようとはこれっぽっちも思えなかった。いつも二人で食事をとっていた大きな机に、ただ一人突っ伏していた。
気がつくと、もう夜になっていた。どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。開けっ放しになっていた窓から差し込む月の光だけが、家の中を頼りなく照らしていた。
すっかりこわばってしまった体をほぐしながら立ち上がり、のろのろと明かりをともす。家の中は悲しくなるほど静まり返っていて、猟犬たちは私を気遣うように足元に集まっていた。
「ごめん、ご飯が遅れたね」
ほんの少しだけ期待していた。目が覚めたら、いつものように彼がすぐそこで笑っているのではないかと。けれどそんな思いはあっさりと裏切られて、力なく目を伏せる。
猟犬たちの食事を用意し、皿を床に並べる。しかし彼らは皿には目もくれず、ずっと私にまとわりついたままだった。悲しげに、鼻を小さく鳴らしている。
くずれおちるように床に座り込み、猟犬たちの温かい体をぎゅっと抱きしめる。慣れ親しんだその匂いと手触りが、少しだけ心を慰めてくれた。
どれくらいそうしていただろうか、ぴったりとくっついていた猟犬たちの体がぴくりと動くのが感じられた。猟犬たちは私の腕をすり抜けて、そのまま玄関の方に走っていく。
もしかして、と期待に胸が高鳴った。思わず震えそうになる自分の体を抱きしめるようにしながら、猟犬たちのところまで歩み寄る。そうしてみんなで一緒に、玄関の扉を見つめた。
人の気配が近づいてくる。この数か月ですっかりなじんでしまった懐かしい足音が聞こえてくる。暗いせいか、ほんの少し足取りがおぼつかないようだ。
そして息をのむ私の目の前で、玄関の扉がゆっくりと開いた。まばゆい月明かりを背に、コンラートが立っていた。形のいい眉を、心配そうにひそめながら。
「ああ、戻っていたのだな、良かった。宿場町のどこにも君がいないから心配したんだ」
心底ほっとした表情で彼が近づいてくる。泣きたくなるほど安心している自分に気づきながらも、どういう訳か私の口からは思ってもみない言葉がこぼれ落ちていた。
「……あの女性たちと話、してるんじゃなかったの」
自分でも驚くほど冷たいその声に、自分で戸惑ってしまった。しかし彼はひたすらに申し訳なさそうな顔で、思い切り頭を下げてくる。
「しまった、君に見られていたのか。彼女たちの誘いを断り切れなかったのは私の落ち度だ。本当に済まない」
「……もう、帰ってこないかと思ってた。少なくとも今日は」
「そんなことはない。私の帰る場所は、君がいるこの家だ。君が私のことを嫌いになったのでない限り、私は必ずここに戻ってくる」
「でも、ここはあなたに向いた場所じゃない。獣臭いし危ないし、私しかいない。あなたはもっと平和で、人の多い場所で生きるべき。ここから出ていくべき」
憎らしくなるほど堂々と言い切った彼に、ついに隠していた言葉をぶちまける。いつになく感情的になってしまっていた私の勢いは、それでもまだ止まることがなかった。
「私とあなたは、住む世界が違う。いつかきっと私たちはすれ違う。だったらその前に、あなたを大切に思えているうちに、幸せなまま終わりにしたいの」
最後のほうは涙声になってしまっていた。そしてコンラートは、私が最後まで言い終わる前に動きだしていた。彼は大股で近づいてきたかと思うと、いきなり私を抱きしめてきたのだ。お日様の匂いによく似た温かな匂いがする。
「私は君と別れたくない。君さえ許してくれるなら、いつまでも君のそばにいたいんだ」
どういう訳か、そのまま彼に抱きついてしまいたいとそんな考えがわき起こる。そんな気持ちを無視して、きっぱりと言い返した。
「恩返しのことなら、もう気にしないで。あなたは自由になれば」
「違う」
私の言葉を、コンラートが途中でさえぎる。そして彼は、私を抱きしめている腕にさらに力を込めた。
「私は……君のことを、愛してしまったんだ。きっと、一目惚れだったのだと思う。だから恩返しだなんだと理由をつけて、どうにかしてここに、君のそばに留まろうとしていたんだ」
「……それ、貴族の息子が狩人の娘に言うような言葉じゃないと思う」
思いもかけない彼の言葉に、頭が真っ白になる。とっさに返せたのは、そんな言葉だけだった。けれどコンラートはたじろぐことなく、さらに力強く言い放つ。
「私はもう貴族ではないのだ。そうして全てを無くした私に、君は何の見返りも求めることなくただ親切にしてくれた。生きる術を教えてくれた。私にとって、君以上の女性なんていないさ」
「……だったら、一つ約束して。私以外を見ないって。決して私を一人にしないって」
どうして、私はこんなことを言っているのだろう。あまりにも自分勝手だ。きっとコンラートもあきれたに違いない。苦しくなって、そっと唇をかむ。
しかし彼は腕をゆるめ、正面から私の顔を見つめた。その顔に、今までで一番大きく素晴らしい笑みが浮かぶ。
「ああ、約束しよう。何があっても、君を悲しませるようなことはしないと。ゾフィー、私はずっと、君と共にある」
底抜けに穏やかなその声に、ついにこらえていたものがあふれ出した。彼に泣き顔を見られたくなくてうつむくと、彼はもう一度私をしっかりと抱きしめてくれた。慰めようとしてくれているのか、私の背中を優しくさすってくれている。
涙が、とめどなくあふれ続ける。父さん以外の誰かに、こんな風に抱き留めてもらったのは初めてだった。今までに感じたことのない不思議な幸せを感じながら、私はただ泣き続けた。