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4.それぞれの思い出話

 コンラートと暮らすようになってから二か月が過ぎた頃には、彼はもうすっかりここでの暮らしになじんでしまっていた。


 彼は家の中の仕事に加えて、畑仕事もしっかりとこなすようになっていた。そのせいで白かった肌は綺麗に日焼けして、細かった体にもしっかりと筋肉がついてきていた。


 出会った頃のひ弱さや、尊大なところはもう影も形もない。気づけば彼は、とてもさわやかな、好感の持てる青年になっていた。


 今日も、彼はせっせと畑を耕していた。そろそろ、秋野菜の種をまこうと思ったのだ。彼がクワを扱うのは初めてだったけれど、少し教えたらあっさりと覚えてしまった。


「自分が口にするものを自分で育てる、そのために汗水たらして働くというのもいいものだな」


 相変わらず大仰な口調でそんなことを言いながら、彼は汗と土ぼこりで汚れた顔を嬉しそうにほころばせている。


「……あなたは、いちいち妙なところに感動するのね」


「妙ではないさ。家事も畑仕事も、今までの暮らしでは決して触れることのない貴重な体験だ。しかも、生きているという実感まで得られる。なんと素晴らしいのだろう」


「そうなの? 私には貴族の暮らしなんて想像もつかない。全然違うんだろうなとは思うけど」


 雑草をむしる手を止めて彼の方を見ると、彼もクワを地面に下ろして腕で汗をぬぐった。


「ああ、何から何まで違っていたよ」


 そう答えた彼の顔には、今まで見たこともないような陰が差していた。その声も、いつもの軽やかなものではなく、静かで重苦しいものだった。いつもの明るく元気な姿とは全く違う姿に、重ねて尋ねずにはいられなかった。


「……よければ、聞かせてくれない? あなたの、昔のこと。貴族の暮らし、とか」


 その問いに、彼は驚くほど切なげな微笑みで答えてきた。その表情に私が戸惑っていると、彼は畑から出て、手招きしてくる。


「君に興味を持ってもらえるのは光栄だな。ゾフィー、ちょうどいい頃合いだし、休憩しながら話そう」


 私たちは二人一緒に、畑の近くに生えている木の根元に腰を下ろした。森を吹き抜けてくるひんやりとした風が、汗ばんだ肌を心地良く冷ましてくれる。


 コンラートは横に置かれた荷物の中から水筒を取り出すと、木の杯に水を注ぎ差し出してきた。私が杯を受け取ると、彼も自分の杯に水を満たした。うなずき合って、一気に杯をあおる。それから彼は、ため息を一つついて空を見上げた。


「……かつての私は、毎日を空虚に過ごしていたな。余りある時間をどうやってつぶすかが、一番の関心事だった。食べるため、生きていくために努力する必要なんてなかった。しかしその代わりに、ただひたすら暇で暇で仕方がなかったんだ」


「やっぱり、想像もつかない」


 暇で仕方がないという状況とは、いったいどういうものなのだろうか。晴れの日は畑仕事や狩りで忙しいし、雨の日も家の中の掃除や破れた服のつくろい、刃物の手入れなどすべきことは山のようにある。


 眉間にしわを寄せている私をちらりと見ると、彼は苦笑しながら話を続けた。


「そうだろう。あの頃は、友人を訪ねたり舞踏会に出席したり、そうすることでどうにか暇をつぶしていたんだ」


「……聞いてるだけでも退屈」


「ああ、君の言う通りだ。あの頃の私はずっと退屈していたんだよ。そんな風に退屈していたからこそ、私は婚約者がありながら他の女性に目を奪われるなどという失態を犯してしまったのだろうな」


「婚約者のこと、好きじゃなかったの?」


「好きとかどうとか以前に、彼女とはほとんど会ったことがなかったんだ。婚約の時に一度顔を合わせたっきりで。私は……それが寂しかったのかもしれない。だからといって、私がしたことは決して許されるものではないが」


 彼は独り言のようにつぶやくと、もう一度空を見上げた。明るい水色の目は、どこか遠くを見ているようだった。彼は何を考えているのだろう。それが気になったけれど、黙ったままその横顔を眺める。


「つくづく、愚かなことをしたものだと思う。私は一時の気の迷いで婚約者を傷つけてしまった。彼女が私を門前払いにしたのも当然だな。父上が怒って私を追い出したのも」


 悲しげに目を閉じて、彼はゆっくりと首を振った。彼の淡い金髪は、木陰だというのにきらきらと輝いている。


 思わず見とれていると、彼はまた目を開けて、こちらに向き直った。今まで見たこともないくらい真剣な顔をしている。胸がことりと、一つ大きく脈打った。


「私はもうあのような間違いを犯したくない。だから私は、今度こそまっとうな人間として生きていくと、そう心に誓ったんだ。……君と出会えたおかげで、そう思えるようになった」


 それは私と出会ったからではなく、彼が平民の暮らしを知ったからだというのが正しいだろう。そう思ったけれど、あえて彼の勘違いを正さなかった。彼が私のおかげだと思ってくれていることが、ちょっとだけ嬉しく感じられたから。


 彼は黙って私を見つめていたが、やがてにっこりと笑った。張りつめていた空気が、一気にやわらぐ。


「ゾフィー、よければ君の話も聞かせてもらえないかな」


 どうやら、今度は私の番らしい。彼に見とれてしまったのをごまかすように目をそらし、昔を思い出しながらぽつぽつと話していく。


「……私の母さんは、私が赤子の頃に亡くなった。私はこの家で、男手一つで育てられたの」


 コンラートの熱心な視線を浴びながら、私は思い出を語り続けた。言葉にするととても短いけれど、大切な温かい日々の記憶を。


「父さんは、私に生きるための全てを教えてくれた。家事に畑仕事、猟犬の世話から狩りの仕方まで。それと、読み書きも少しだけ。だから私は、一人でもここでやっていけているの」


 ほうと息を吐いて、空を見上げる。木の梢を透かして見える空は、雲ひとつなく青々と澄み切っていた。


「私たち親子は、二人で暮らしてた。時々毛皮の取引や、必要なものを買いに行く以外は、ずっとこの森で。父さんは寡黙な人だったけど、とても優しかった。贅沢なんてできなかったけど、幸せだった」


「そうか、君の父上は本当に素晴らしい人だったのだな。かなうのなら、一度お会いしたかった。そして礼を言いたかった。君をこんな立派な女性に育ててくれてありがとう、と」


 そう答えたコンラートの声に、いたわるような響きがこもる。ちらりとそちらを見やると、彼はとても優しい目をしていた。今はもういない父さんの目に、少しだけ似ていた。


「そう言ってもらえて、父さんもきっと喜んでる。……父さんは、二年前に獣に負わされた手傷から悪いものが入って、そのまま息を引き取ったの。森のもう少し奥に、両親の墓がある」


「だったら今から、墓参りに行かないか。ぜひ、君のご両親にあいさつしたい」


 私たちが初めて会った日と同じ言葉を、彼はまた口にした。けれどそれは、あの時よりもずっと優しく思いやり深い口調だった。


 小さくうなずくと、彼はすっくと立ち上がった。それから座ったままの私に手を差し出してくる。


 その手を取って、ゆっくりと立ち上がった。かつてはとても柔らかかった彼の手は、すっかり皮が厚くなって固くなっていた。貴族の手ではなく、汗を流して働く者の手だった。


 そのことにわずかな申し訳なさと不思議な誇らしさを感じながら、私は墓に向かう小道に向かって歩き出した。すぐ後ろを、コンラートが軽やかな足取りでついてくる。


 この小道を私以外の人間が歩くことは、めったにない。不思議とくすぐったいような気持ちを覚えながら、彼の先を歩き続けた。

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