39.懐かしの我が家
次の日の朝一番に、私とコンラートは屋敷を発った。見送ってくれたのはバルドゥルとルイーゼの二人だけだった。けれど二人は、心からの笑顔を私たちに向けてくれていた。私も頑張って、精いっぱいの笑みを返しながら馬車に乗り込んだ。
行きの時とは打って変わった、くつろいだ空気が馬車の中には流れていた。コンラートの一族との和解とはいかないまでも、そこに続く道筋がほんの少しだけ、見えたような気がしたから。
それに何といっても、やっと家に戻れる。住み慣れた、とても大切な場所へ。
「……みんな、元気かな」
馬車の外には、まだ見慣れない風景が広がっている。そのことにほんの少し心細さを覚えながら、ぽつりとつぶやいた。
「大丈夫だ。テオはしっかりと世話をしてくれている。彼は約束をきちんと守る男だからな」
「うん」
朗らかに答えてくれるコンラート。その笑顔がまぶしくて、嬉しい。
「しかし、今日の夕飯はどうしたものか。おそらく到着するのは夕暮れ時になるだろうし、あまり手の込んだものは作れそうにないな」
コンラートのそんな言葉に、思わず身を乗り出した。
屋敷に滞在している間、今まで見たこともないような豪華な料理ばかりが出てきた。確かにそれらはおいしかった。でもやっぱり、私はこう思うのだ。あのカシアスの森の家で、コンラートと一緒に食べるいつものご飯が一番だ、と。
「なんでもいい。あなたの料理が食べたい。お願い」
私にしては珍しく、その言葉には力がこもっていた。そのせいなのか、コンラートがふにゃりと笑っている。
「ほかならぬ君の願いとあっては、かなえない訳にはいかないな。……確かまだ塩漬け肉があるから、煮たベリーを添えて……芋を蒸して、漬物を合わせて……」
コンラートはうきうきと、そんなことをつぶやき始めた。その表情も態度も、もうすっかりいつも通りだ。けれどほんの少しだけ、すっきりしたような顔をしているようにも見える。
あの屋敷でバルドゥルたちと再会して、そしてバルドゥルとルイーゼと和解できた。コンラートはおそらく、ずっとあの二人のことが気にかかっていたのだろう。自分のせいで当主の座を継ぐことになった従弟と、自分が断ってしまった縁談相手。
そしてその気がかりを、ようやく解消することができた。正直、どうしてバルドゥルたちが私たちのことを認めてくれたのか、今でもよく分かっていない。
それでも、コンラートが晴れやかな顔をしているのは純粋に嬉しかった。少しでも私が彼の力になれていたのならいいな、とそんなことをこっそりと思った。
やがて、馬車が止まった。カシアスの森の、私たちの家に通じる小道の前で。
御者に礼を言って、馬車を降りる。森の小道を二人並んで歩く。
「ああ」
森の小道を半ばほどまで来た時、コンラートが感慨深げにつぶやいて足を止めた。
「……私たちが初めて出会ったのは、ここだったな」
「うん」
「あれから、もう三年近くになるのだな。思えば、色々なことがあった」
「そうね」
コンラートが平民の暮らしになじんでいって、そんな彼と一度は別れようとして。でも彼は戻ってきて、私に愛を告げた。
彼の思いにどうこたえたものかと戸惑っているうちに、彼の父親がコンラートを連れて行ってしまった。また一人になった私は、どうしようもない寂しさを抱えながら、元通りの静かな日々を過ごしていた。
けれど、彼はまた私のもとに来てくれた。必ず戻ってくるという約束を、きちんと守ってくれたのだ。
それからの日々は、夢のようだった。コンラートと一緒に色々なことを体験して、笑い合って。毎日が信じられないくらいきらきらと輝いていた。
今回貴族の世界をちらりとのぞいたことで、あの日々がどれだけ幸せな、そして奇跡のようなものなのかを、つくづく思い知った。
コンラートが過ごしていたのは、私の世界とは遥かに異なるところだった。私が想像していたよりもずっとたくさんのものを捨てて、彼は私のところへ戻ってきてくれたのだ。
「……ありがとう」
頭の中ではたくさんの言葉がめぐっているのに、結局口をついて出てきたのはそんな言葉だけだった。それが悔しくて唇をかんでいると、コンラートがそっと手を握ってきた。
「礼を言うのは私のほうだ。ありがとう、ゾフィー」
いつもよく喋る彼のそんな短い言葉には、たくさんの思いが詰まっているように思えた。何か言葉を返そうと口を開きかけて、やっぱり閉ざす。たぶん、言葉にしようとしてもうまく伝わらない。そんな気がしたのだ。
返事の代わりに、彼の手をしっかりとにぎりしめた。初めて会った時は柔らかくてほっそりとしていた手は、今ではすっかり皮が固くなり、がっしりとしている。働く者の手、男らしい立派な手だ。
その変化を嬉しいと思ってしまう自分がちょっと図々しいのかなと思いながらも、顔には出さずに歩き続けた。
そうやって手をつないで歩いているうちに、行く手の木々の向こうが明るくなってきた。もうすぐ森が途切れ、私たちの家のある小さな草地に出る。
あとちょっとだ。自然と胸が高鳴る。その時、向こうが急に騒がしくなった。
扉の開く音、テオの叫び声、猟犬たちのほえる声。思わず立ち止まった私たちめがけて、六頭の猟犬たちが一斉に駆け寄ってきた。
「おお、私たちの家族が出迎えに来てくれたぞ」
心底嬉しそうにコンラートが言う。そうこうしているうちにも、猟犬たちは私たちの目の前まで迫っていた。
「出迎えありがと……うわっ!?」
コンラートがすっとんきょうな声を上げて尻餅をつく。突進してきた猟犬たちの体当たりをまともに食らってしまったのだ。
ほんの数日留守にしていただけなのに、猟犬たちは大はしゃぎだった。彼らはコンラートを地面に押し倒すと、顔と言わず手と言わず、盛大になめ回し始めたのだ。
「こら、くすぐったいぞ、止めてくれ」
あっという間に犬たちの唾液でべとべとになっていくコンラートを見ながら、私は懐かしい思いでいっぱいになっていた。そう言えば、初めて会った時もこんなことがあった。
笑いつつも助けを求めてくるコンラート、盛大にしっぽを振り続けながらコンラートを囲む猟犬たち。
ああ、幸せだな。そう思ったその時、耳元でにゃあという声がした。いつの間にか背後から忍び寄っていたアデルが、ひとっとびで私の肩に飛び乗っていたのだ。
「おかえり、ゾフィー、コンラート。こいつらさっきからずっと、そわそわしてたんだぜ。お前たちの足音が聞こえてたのかもな。しかし、にぎやかだな」
のんびりと歩み寄ってきたテオが、地面に転がったままのコンラートを見て、おかしそうにつぶやいた。
「うん。うちはにぎやか」
そう答えた拍子に、自分の顔が勝手に動いていた。どうやら私はひとりでに、大きな笑みを浮かべているらしい。こちらを見たテオが、驚いたように目を見開いた。
「……そうか。良かったな」
なおも大騒ぎを続けているコンラートたちを見やって、私とテオ、それにアデルはみんなで笑い合っていた。