38.みんなの思い
「……兄さん、少しいいだろうか」
扉の向こうから聞こえてきたのは、バルドゥルの声だった。コンラートは迷うことなく、ああ、入ってくれと声をかける。
静かに入ってきたバルドゥルは、舞踏会の時のままの豪華な装いだった。その後ろには、同じく着飾ったままのルイーゼも付き従っている。
「おや、二人ともどうしたんだ」
コンラートもすぐに立ち上がり、進み出て二人を迎え入れる。いつも通りの、朗らかな笑顔を浮かべて。
一方のバルドゥルは、どことなく物憂げな表情だった。ルイーゼは、いつもと同じように上品に微笑んでいる。けれど前よりも、ほんの少しだけ親しげな雰囲気をただよわせているように見えた。
「……今のうちに、話しておきたいことがあるんだ」
こちらと目を合わせずに、バルドゥルがつぶやく。
「私には、兄さんたちの世界は理解できない。そこがどんなところなのか、まるで実感がわかない」
唐突に何を言い出すのだろう、と首をかしげた拍子に、コンラートと目が合った。彼も戸惑った顔をしていた。
「先ほど見せてもらった踊りも、見事だとは思った。とても華やかで、目を見張るほど美しかった。しかし、同時にこうも思った。生きる世界が、まるで違うのだな、と」
さっきの踊りを認めてもらえたからか、安堵の思いが広がっていく。そんな私の胸の内とは裏腹に、バルドゥルはさらに眉をひそめた。まるで、泣き出しそうな顔だ。
「……そして、兄さんは、本当にそちらの世界の住人となってしまったのだ、と……」
そのあまりに悲痛な様子に、私とルイーゼはそろって目を見張った。声をかけることをためらわせるような雰囲気を漂わせているバルドゥルに、コンラートが歩み寄る。
「ああ。私のいる場所は、ゾフィーのそばだけなのだ。たとえそこが、どんな世界であってもだ。もし自分がここに戻れることを知っていたなら、などという仮定に意味はない。なぜなら」
コンラートは胸を張り、私に向かって手を差し伸べる。いつもと同じ、こちらまで笑顔になるような底抜けに明るい笑みを浮かべていた。
「私は彼女に初めて出会った時、思ったのだ。この人のそばにいたい、と。その時の私は、自分がさまよったあげくに行き倒れたことすら、忘れていたよ」
穏やかなコンラートの声を最後に、部屋の中が静まり返る。やがて、バルドゥルの弱々しい声が聞こえてきた。
「その言葉を聞くことができて良かったよ、兄さん。少し、寂しいけれど」
「寂しがることなどないだろう。私たちが住んでいるカシアスの森は、ここからそう遠くはないぞ。住む世界こそ違えど、望めばすぐに行き来できる距離だ」
まるで子供のようにきょとんと目を見張るバルドゥルに、コンラートはひときわ明るく笑いかける。
「君も一度遊びにくるといい。私特製のシチューをごちそうするよ。村のみなにもたいそう人気なのだ。祭りの時にふるまったら、あっという間になくなってしまったくらいだ」
その言葉に、ずっと静かにたたずんでいたルイーゼが目を見張った。
「まあ、コンラート様はお料理をなさるんですか?」
「そうなのだ。ゾフィーに恩を返したくて、ゾフィーに喜んでもらいたくて、一生懸命に覚えた」
自信満々に答えるコンラートを、ルイーゼは驚いた顔でじっと見つめた。それから彼女はくすりと笑い、切なそうな目をする。
「……本当に、コンラート様はゾフィーさんのことを愛していらっしゃるのね」
肩をすくめて、ルイーゼがつぶやいた。他の誰とも目を合わせずに、彼女は独り言のように語り始める。
「実はわたくし、少しだけ怒っておりましたの。婚約者を捨ててしまわれた不実な方のもとに嫁いでくれと、格上の伯爵家の方々がよってたかって頭を下げてきて。仕方なく同意したら、今度はその本人が、話はなかったことにしてくれと言い出して」
それは、コンラートが父親の手によってここに連れ戻された時のことだろう。彼はかつて婚約者を捨て、色々あったあげくに私のところに転がりこんだ。そして私の家に現れた彼の父は、コンラートに新たな縁談が持ち上がっていると、そう言ったのだ。
あの時の、胸をちくりと刺すような痛みは、今でもまだ覚えている。
「しかもその理由が、平民のお嬢さんと一緒になりたいから、だなんて。わたくしをどれだけ振り回せば気が済むのかって、悔しかったですわ」
彼女がそう思うのも当然だろう。申し訳なさに、そっとうつむく。
「……でも、今日のお二人の舞を見ていて分かりました。確かにこのお二人を引き裂いてしまうのは、酷なことなのだと」
彼女もまた、私たちの舞を通じて、私たちの思いを感じ取ってくれたようだった。そのことにほっとしていると、ルイーゼはくすりと笑って肩をすくめた。
「それに、コンラート様に袖にされたおかげで、こうしてバルドゥル様と婚約することができましたし?」
上品な雰囲気からは想像もつかないくらいお茶目な、そして幸せそうな顔でルイーゼは小さく舌を出してみせる。そんな彼女に、バルドゥルが寄り添った。
「実はその点については、私も兄さんに感謝しているんだ」
二人はとても幸せそうに視線を交わすと、そっと手を取り合った。
「兄さんのしたことをわびるために、私は彼女と会った。そうして私は、彼女に惚れ込んでしまったのだ。……兄さんが言うところの『真実の愛』かな?」
「バルドゥル様、あなたはわたくしを捨てないでくださいましね?」
「ああ、もちろんだ」
そんなことを言いながら、二人はくすくすと笑い合う。そして同時に、私たちの方へ向き直った。
「……とまあ、そういう訳だから、彼女のことも心配はいらない。兄さんの分も、いや兄さんよりももっと、彼女のことを幸せにしてみせよう」
晴れやかに笑う二人に、コンラートもほっとしたような笑顔で答える。
「二人とも、どうか末永く幸せに。……ありがとう、バルドゥル。ルイーゼのことは、やはり心の片隅に引っかかっていたのだ。平民として生きると決めた以上、私は彼女に何もできない。だからこそ、よけいに心残りだったのだ」
彼の声ににじむ安堵の響きに、つられるようにして口元に笑みが浮かぶ。部屋になごやかな空気が流れ始めたその時、コンラートが不意にうめいた。
「バルドゥルとルイーゼは、私たちのことを認めてくれた。それはとても嬉しいことだ。だがそれだけに、どうしてもな……」
「伯父上のことかな、兄さん?」
「ああ、そうだ。こうなると、父上にも認められたいという欲が出てしまう。だが父上は昔から頭が固かったし、やはり難しいか」
「そんなことはないよ、兄さん」
ため息をつくコンラートを、バルドゥルが力強く否定する。
「伯父上も、あれから考え込んでいるようだった。兄さんの言葉を、行いを見て、思うところがあったようだった。それに何より、ゾフィーさんの言葉に感銘を受けていたようだ」
舞踏会の時のこと、あの時のコンラートの父のことが自然と思い出される。どこへなりと言ってしまえというあの叫び声、苦しんでいるような、静かなあのまなざし。
「今すぐに、というのは無理だろう。だが、あきらめることなく兄さんが歩み寄っていけば、少しずつでも伯父上の気持ちも変わっていくのではないか。私には、そう思えるんだ」
バルドゥルが言い、コンラートがうなずく。二人とも、柔らかな笑みを浮かべていた。
「そうか。ならば私も、あきらめてはいけないな。身分も立場も違う私とゾフィーがこうして共にあるように、私たちと父上も、いつか分かり合える。そう、信じよう」
そうやって朗らかに話し合う二人を、ルイーゼが優しく見守っていた。私と目が合うと、彼女は小首をかしげて微笑む。初めて顔を合わせた時、彼女のことをお姫様のようだと思った。でも今は、彼女のことを友達のようにも思い始めていた。
「だったらそのためにも、またここに遊びに来ないか、兄さん。そうやって少しずつ伯父上と顔を合わせていけばいいと思うし」
バルドゥルが不意に言葉を切り、ためらいがちに口を開く。照れたような言葉が、少し遅れて耳に届いてきた。
「それに私は、また兄さんやゾフィーさんに会いたいと思っているんだ。今の二人が過ごす未知の世界を、もっと知りたい」
「ああ、ぜひ寄らせてもらおう。……ゾフィー、君もそれでいいだろうか」
コンラートとバルドゥルが、そろってこちらを見ている。良く似た雰囲気の水色の目は、とても優しい色を浮かべていた。
その水色に向かって、私は無言でうなずいた。胸の中に、ほわほわとした温かな気持ちが浮かんでくるのを、感じながら。