35.迷いは晴れて
窓の外、外壁の彫刻に足をかけて、コンラートが立っていた。というより、外壁にへばりついていた。思わず叫びそうになり、とっさに口を押さえる。ここは二階だ。うっかり彼を驚かせてしまって、足を滑らしたら大ごとになる。
「入って。そこは危ない」
そう小声で呼びかけて、そろそろと後ろに下がる。じきに、コンラートが身軽に窓から飛び込んできた。あの森での暮らしで鍛えられたからなのか、危なげない動きだった。
「……どうしてそんなところから来たの」
「どうしても、君に会いたかったんだ。今夜のうちに。だから隣の部屋の窓から、壁の装飾を足場にしてここまでやってきた。やってみれば、案外できるものだな」
「……私は、会いたくなかった」
さっき、彼が扉の向こうからいなくなって寂しかった。こうして、彼の顔を見られて嬉しかった。けれど私の口は、まるで違う言葉を吐き出してしまっていた。
薄暗い室内で、コンラートは穏やかに微笑んでいる。彼は目を伏せると、静かに語り始めた。
「……実は、さっきバルドゥルに説教されてしまった」
黙りこくったままの私に、彼は一歩近づく。
「それが『兄さんは昔から向こう見ずで無鉄砲で、おまけに思い込みも激しかったけれど、愛した人を守れないほど浅はかだとは思わなかったよ』と言われてしまってな」
ものすごい言われようだ。しかしコンラートは、思いっきり罵倒されたこと自体は気にしていないようだった。
「『久しぶりの実家に浮かれるのは分かるけれど、大切な人のことくらいきちんと見てやれないのか。私でもすぐに分かるくらい、彼女は落ち込んでいたのに』とも言っていたな。まったく、返す言葉もない」
どうしてバルドゥルは、そんな言葉をコンラートに叩きつけたのだろうか。私には、コンラートのことを思うのなら身を引いてくれ、と言ったくせに。
「……君は、晩餐会の時のことを気にしているのだろうか。帰る場所がないと思っていたから、私は君と共にいることにしたのだという、バルドゥルのあの言葉を」
確かに、その通りだった。馬車に乗ってこの屋敷に来てからずっと、私は居心地の悪い思いをしていた。夕食の時なんて、ものの味が分からないくらいに緊張していた。
けれどそれら全てを合わせたよりも、バルドゥルの言葉が痛かった。コンラートが彼の言葉に動揺していたことが辛かった。
「私は、あの言葉をすぐに否定することができなかった。一人さまよっていたあの時、もしも帰るところがあるのだと知っていたなら、私はいったいどんな道を選んだのだろうかと、考えてしまった」
コンラートが顔を伏せる。薄暗い部屋の中で、彼の表情はうかがい知れなかった。
「……バルドゥルの言う通り、私たちの関係は今とは違っていたかもしれない」
彼らしくもない、弱々しい声だった。しかし彼は、勢い良く顔を上げた。その表情は、とても凛々しく引き締まっていた。
「だがそれでも、私には断言できる。どんな形で出会ったとしても、私は君のことを大切に思い、愛するようになっただろうと」
「どうして、そんなことが言えるの」
あまりに堂々とした物言いに、逆に不安をかきたてられる。彼は胸を張って、間髪入れずに答えた。
「理由は簡単だ。今の私が、君のことを愛しているからだ。他の何と引き換えにしてでも、君と共にありたいと、そう思えるくらいに」
「それ、理由になってない。めちゃくちゃ」
「いいや、なっているさ。私が君に心奪われないなど、ありえない。もし今私が記憶を失ったとしても、またすぐに君と恋に落ちる」
やけに自信たっぷりな、それでいてまるで根拠のない彼の言葉に、笑いが込み上げてきた。ああ、いつものコンラートだ。そんなことを、思わずにはいられなかった。
「……うん」
この屋敷に来てからずっと感じていた、胸の重たさがすっと消えていった。
「私、あなたと離れたくない」
自然と、そんな言葉が口をついて出た。コンラートは目を真ん丸にして、固まっている。ほのかな明かりでもはっきりと分かるくらい、彼の顔は真っ赤になっている。
「あなたの将来のことを思うのなら、私はあなたと離れたほうがいい。それは分かってる。でも、離れたくない」
思いのままに口走る私に、コンラートが戸惑い顔で口をはさむ。
「どうして私と離れたほうがいいなどと、そんな悲しいことを言うのだ」
「……バルドゥルさんに言われた」
告げ口をしているような後ろめたさを感じながら、小声で答える。コンラートは目をつり上げて、くるりと入口の扉に向かう。
「君にそんなことを吹き込むとは、バルドゥルめ! ひとこと言ってやらなければならないようだな」
「待って」
とっさに彼の腕にしがみつき、止める。そうでもしないと、彼はすぐにでも部屋を飛び出していきそうだったから。
「バルドゥルさんは悪くない。彼は、あなたのことを大切に思ってた」
「……君が彼の肩を持つというのも、なんだか釈然としないが……」
「とにかく、落ち着いて。それに、あなたはバルドゥルさんに言われて、私のところに来た。そうでしょう」
「そうだ。私は、彼に説教されてここに……おや?」
ふと何かに気づいたらしく、コンラートが動きを止める。
「彼は君に、身を引くように言った。しかし彼は、君をもっと大切にしろと私を叱りつけた」
「……バルドゥルさん、言ってることがおかしい」
「確かにな。……ああ、そういうことか」
コンラートが一人で納得したように、静かに言った。じっと彼の顔を見つめて続きを待つ。
「バルドゥルは、私とは兄弟のようにして育ったのだ。昔からいつも、兄さん、兄さんと言いながら私の後を追いかけてきたものだ」
そう語る彼の目は、とても優しく細められていた。
「きっと彼は、私の幸せを第一に願ってくれているのだろう。そして、私の伴侶が本当に君でいいのか、確信が持てなくて揺れているのだと、そう思う」
確かにそれなら、バルドゥルのあの態度も分かる気がする。彼は私にきつい言葉を浴びせてはいたが、その間中、どことなく切なげな目をしていたのだ。
ともかくもバルドゥルのおかげで、こうしてコンラートと話すことができた。もしコンラートがあんな無茶をしてまでこの部屋にこなかったら、きっと私はこれからもあの重たいわだかまりを抱え続けることになっていただろう。バルドゥルには、感謝しなくては。
「……そうだ」
私がほっと息を吐いていたその時、不意にコンラートがつぶやいた。何かを思いついたような、そんな声だ。
「ならば、彼に見せてやろうではないか。私には君しかいない、君には私しかいない。私たちは、運命で結ばれた二人なのだということを。そうすればバルドゥルも、きっと安心して私たちを祝福してくれる」
「恥ずかしい」
コンラートのくすぐったい言葉に、つい反射的に口をはさんでしまう。けれど彼は、楽しげに微笑んでいた。
「そもそも、何をするの」
「……それが、うまく思いつかなくてだな。済まないが、君の知恵を貸してくれ」
照れくさそうに目線をそらすコンラートに、小さく笑いかけてうなずく。恥ずかしくて口にはできなかったが、私には確信があった。きっと二人なら、いい案を思いつくことができる、と。バルドゥルを安心させてやれるだけの絆を、見せてやることができるだろうと。
眉間にしわを寄せて考え込んでいるコンラートの横顔を見つめ、そっと手を胸に当てた。いつもよりほんの少し、鼓動が速い。その速さに、どうしようもなく幸せを感じていた。