34.戸惑い、悲しみ、拒絶
いつの間にか夕食は終わり、気がつけば私は自分の客間にいた。何を食べたか覚えていないけれど、お腹はきちんといっぱいになっていた。
ふらふらと窓辺の椅子に歩み寄り、腰を下ろした。窓の外の夜空を、ぼんやりと眺める。
今日は、これで終わりだ。あと二日、あと二日乗り切れば。そうすれば、全部終わる。猟犬たちとアデルの待つ、静かな森の中の家に戻れる。
ため息をついて両手で顔を覆ったその時、入口の扉が控えめに叩かれる音がした。どうぞ、と答えるとゆっくりと扉が開き、誰かが入ってくる。
「先ほどは、済まなかった」
思いもかけない声に、勢い良く顔を上げる。てっきりコンラートがやってきたとばかり思っていたのに、訪ねてきたのはバルドゥルだった。
「君が居心地の悪い思いをしていたのは分かっていた。でも私は、どうしても兄さんの思いを確かめたかったんだ」
コンラートと同じ明るい水色の目で、彼は静かにこちらを見つめている。
「……先ほどの晩餐会で私が口にした言葉は、全て本心からのものだ。今からでも兄さんは、こちらでやり直せるのではないかと、私はそう考えている」
そう言って、彼は目をそらした。窓の外を見つめながら、ぽつぽつとつぶやく。
「兄さんの幸せを思うなら、何としてもこちらに連れ戻したほうがいいのだろうと思う。けれど兄さんは昔から思い込みが強いから、自分から戻ってくるとは決して言わないだろう」
彼はそこで口をつぐみ、目を伏せた。
「……ゾフィーさん。兄さんのことを思うなら、どうか身を引いてはくれないだろうか。その後の君の生活については、私が援助しよう。決して君に苦労はかけないと、約束する」
言っていることこそ厳しいが、彼は私のことも案じてくれているようだった。そして何よりも、コンラートのことを。
けれど私は、どうしてもうなずくことができなかった。彼の言う通りだと思ってしまったのに、それでもコンラートと離れたくないという気持ちが勝ってしまったから。
「……でき、ません」
震える声で、どうにかそれだけを答えた。泣き出しそうになるのをこらえながらうつむいていると、やがてバルドゥルは静かに部屋を出て行った。困らせて済まなかった、と言い残して。
そろそろと椅子から立ち上がり、部屋の扉に飛びついて鍵をかける。今は、ただ一人になりたかった。そのまま扉のすぐ前の床に、力なくへたり込む。
豪華な寝台も、立派な椅子も、私には似つかわしくない。早く、家に帰りたい。こんな柔らかなじゅうたんが敷かれた石の床ではなくて、でこぼこした木の床を踏みしめたい。
猟犬たちを抱きしめて、アデルを肩に乗せて、のんびりと過ごしたい。上品で礼儀正しい会話ではなくて、今日あったことと、明日の予定を和やかに話していたい。コンラートと、二人で。
どうして、コンラートは私をこんなところに連れてこようと思ったのだろうか。ここでは私は、あまりにも場違いだ。彼はそのことを分かっていたはずなのに。
きっと彼は、私がここの人たちにすんなりと認められる、受け入れられると思っていたのだろう。彼にはそういう、純粋なところがある。世間知らずとも言うけれど。
彼のそんなところもまた、私にとっては愛おしいものだった。物事を現実的に、そしてちょっぴり後ろ向きに考えがちな私には、彼のそんな無邪気さがとてもまぶしかった。
けれど今は、そんな彼のことがうらめしかった。やり場のない思いを抱えて、私はただ床に座り込んでいた。
どれだけそうしていたのか、また扉が控えめに叩かれた。またバルドゥルかな、と思ったその時、扉の向こうから声がした。
「ゾフィー、まだ起きているだろうか。起きているなら、話がしたい」
夕食の時とは打って変わった沈んだ声で、コンラートがそう呼びかけてくる。
けれど、返事をする気になれなかった。今、彼の顔を見たら、何を口走ってしまうか分からなかった。それに、一人になりたかった。せめて、胸の中に渦巻く様々な思いを整理できるまでは。
扉に背中を預けたまま、独り言のようにつぶやいた。
「ごめん。一人にして」
それっきり口を閉ざして黙り込む。扉の向こうから、戸惑ったような沈黙が伝わってきた。
一人にしてと言ったくせに、一人ではないことが嬉しい。そんな風に感じてしまうことが浅ましく思えて、余計に苦しくなって。
ひざを抱えてうずくまっていると、やがて遠ざかっていく足音が聞こえた。ようやっとコンラートが帰っていったらしい。
一人になれたことに、ほっとした。同時に、悲しさがこみあげてきた。彼を拒んでおきながら、彼にそばにいて欲しかった。
私は、コンラートのことをとても大切に思っている。自分自身の幸せよりも、彼の幸せを優先させたいと思うくらいに。だから、バルドゥルの言葉に揺らいでしまった。コンラートのことを思うなら、私は身を引くべきなのだと、そう思えてしまった。
でも、コンラートと離れるのは嫌だった。だから、彼の言葉を聞きたかった。
カシアスの森のあの家で、彼は毎日のように私に告げていた。君が大切だ、愛している、と。今こそ、その言葉を聞きたかった。私は彼と一緒にいていいのだと、そう確信したかった。
でも、コンラートはここにはいない。だって、私が追い返してしまったから。
「……こんな時なのに、素直になれないなんて……ほんと、私って馬鹿だ……」
そんな言葉が、ひとりでに口からこぼれ出る。ひざをしっかりと抱えて、小さくなる。
寂しくて、たまらなかった。心細くて、泣きそうになった。
父さんを亡くしてから、コンラートに出会うまでの二年間。コンラートがこの屋敷に連れ戻されてから、また私のところに戻ってくるまでの一年間。
その間私は、ぼんやりとした寂しさを感じていた。けれど今私が感じている寂しさは、それらとは比べものにならないほど鋭く心を切り裂いていた。
立ち上がって、コンラートのところに向かおう。そう思ったのに、動くことができなかった。あんな風につれなくしてしまったから、彼は幻滅したかもしれない。もしかしたら、怒っているかもしれない。それを確かめるのが、怖かった。
「ごめん、コンラート……」
届くはずもないそんな言葉を口の中だけでつぶやきながら、何も考えずにただ丸まっていた。
部屋はとても静かだ。自分が呼吸する音以外に、何も聞こえない。
しかしその静けさは、唐突に破られた。窓のほうで、こんこんという音が聞こえてきたのだ。空耳だろうかと、顔を上げて首をかしげる。じきに、また同じ音がした。
あれはいったい何の音だろう。窓に歩み寄って、そっと開ける。身を乗り出して、辺りをうかがった。そうして私は、予想もしなかったものを目にすることになった。
屋敷の外壁、そこに施された彫刻のでっぱりを足掛かりにして、コンラートが壁に張りついていたのだ。彼の淡い金の髪が、かすかな星明りを受けてきらきらと輝いていた。