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33/40

33.針のむしろ

 次の日の朝、私は痛む頭を抱えながら目を覚ました。なんだかものすごく疲れる夢を見た気がする。寝具がふかふかすぎるのかもしれない。


 重い体を引きずって、大きな姿見の前に立つ。普段見ている鏡とは、大きさも映り方もまるで違う。こんなにはっきりと自分の顔を見るのは初めてで、どうにも落ち着かない。


 戸惑いながら、精いっぱい身なりを整えた。けれど豪華な部屋の中では、私の姿だけがやっぱりみすぼらしかった。


 そろそろと部屋を出て、辺りを見渡す。誰もいないことにほっとしながら、すぐ右隣のコンラートの部屋に向かう。そっと扉を叩くと、中から彼の声がした。


「ああ、ゾフィーか。そのまま入ってくれ」


 大急ぎで部屋に入ると、いつもと変わらないコンラートの笑顔があった。それだけのことで、情けなくなるくらい心のこわばりがほぐれていくのを感じていた。


「おはよう、ゾフィー。今日も可愛らしいな、君は」


「……おはよう」


 いまいち熟睡できなかった私とは裏腹に、彼はよく眠ることができたらしい。とてもすっきりとした顔をしている。そのことがちょっぴり恨めしい。八つ当たりでしかないのは分かっているけれど。


「今日は夕方まで時間があるし、朝食が済んだら屋敷を案内しよう」


 彼の一族と顔を合わせるのは、夕食の時だ。それまでは、ゆっくりと休んで旅の疲れを癒してくれと、そうバルドゥルから言われている。


 コンラートは、明らかに浮かれていた。生まれ育った屋敷、自分の大切なあれこれを、私に見せることができる。そのことが、嬉しくてたまらないのだろう。


「……うん」


 重くよどんだ気持ちをそっと押し隠して、小さくうなずく。彼の気持ちに、水を差したくなかったから。




 朝食とは思えないほど豪華で手の込んだ食事を二人でとって、それから一緒に屋敷の中を歩いた。時折すれ違う使用人たちが、何とも言えない目を向けてくる。


 本来この家を継ぐはずだったコンラートはここを飛び出し、今では平民として暮らしている。それもこれも、平民の女と一緒になるために。あれが、その女か。使用人たちは何も言わなかったけれど、その目はそんなことを語っているように思えてならなかった。


 ここにきてからずっと感じていた居心地の悪さが、さらに大きくふくらんでいく。しかしコンラートは彼らのそんな視線には気づいていないらしく、私の手を引いて楽しそうに話し続けている。


 ため息を押し殺して、コンラートの説明に耳を傾ける。屋敷のつくりに庭の花、彼の先祖の肖像画、代々伝わる家具、豪華な本に美しい字でつづられた家系図。


 それらの話に耳を澄ませながら、頭の片隅ではまったく違うことを考えていた。


 コンラートが貴族だということは知っていた。けれど、彼が生まれ育った世界が、ここまで違うものだなんて思いもしなかった。


 こんなにも恵まれた場所で育ち、過ちと勘違いの果てにここを飛び出し、そうしてカシアスの森で行き倒れた彼。


 私たちが出会ったあの日、彼は簡素なシチューを、まるでとびきりのごちそうであるかのようにおいしそうに食べていた。そしてそれからも、森の暮らしになじもうとずっと努力していた。


 きっとそれは、ここにはもう戻れないという決意の表れだったのだろう。けれど彼のその努力が並大抵のものではなかったのだと、今さらながらに思い知らされた気がした。


 だったら私も、こちらの世界についてきちんと知るべきだ。そう思うのに、どうしても理解が追いついていかない。しり込みせずにはいられない。そのことが、悔しい。


 ぐっと唇をかみしめて、もう一度コンラートの話に集中する。彼は私にここを案内できるのがよほど嬉しいのか、ずっと満面の笑みを浮かべていた。






 そうして、その日の夜。私はコンラートと共に、屋敷の一室にいた。


 牛の丸焼きを乗せたってまだ十分に余裕があるくらいに大きな食卓の、隅の方の席。私はそこで、ただひたすらに身を小さくしていた。目の前には見たこともないごちそうが並んでいるというのに、びっくりするくらいに食欲がなかった。


 コンラートとバルドゥルの親戚たちだという人々が、みな堂々と席につき、行儀良く言葉をかわしながら食事をとっていた。知らない顔だらけのその中に、一人だけ知った顔があった。以前コンラートを連れ戻しに来た、彼の父だ。


 けれどコンラートの父は、苦々しい顔でずっとこちらをにらみつけていた。その隣に座るコンラートの母らしき女性は、コンラートと良く似た顔を困惑でいっぱいにしていた。


 この二人は、私のことを歓迎していない。もっというなら、嫌っている。離れていても、それははっきりと見て取れた。


 それも仕方のない話だろう。私がいなければ、コンラートは素直にこの屋敷に戻り、この家を継いでいたのだろうから。


 ため息を押し殺しながら、目線を動かす。この席の主役であるバルドゥルの隣には、上品に着飾った女性が座っている。美しくて控えめで、つややかな暗い栗色の髪が目を引く若い女性だ。まるで本物のお姫様のようだと、そんなことを思った。


「しかしルイーゼ、まさか君がバルドゥルと婚約するとは思わなかったな」


 コンラートがやけに朗らかに、その女性に声をかけた。ルイーゼと呼ばれた彼女は、ほんの少し首をかしげて上品に笑う。鈴を転がすような、澄んだ笑い声がこちらまで届いてきた。


「コンラート様に捨てられたわたくしを、バルドゥル様が拾ってくださったんですの」


「その件については済まなかった。だがあの時、私はゾフィー以外の女性と添うことなど考えられなかったのだ」


 冗談めかして語るルイーゼに、済まなそうに頭を下げるコンラート。二人はとても和やかに話し続けている。


 その話の内容からすると、どうやら彼女は『コンラートが家を出ていた間に、父親がまとめようとしていた婚約話』のお相手のようだった。コンラートが必死に頼み込んで白紙に戻してもらったとは聞いていたけれど、こんなに綺麗な人だったのか。


 そんなことを考えながら二人を交互に見ていると、ルイーゼがこちらを見て微笑んだ。


「そちらの方が、ゾフィーさんですのね。初めまして、わたくしはルイーゼ。バルドゥル様やコンラート様とは遠縁にあたる、男爵家の娘ですわ」


「は、はい。ゾフィーです」


 ルイーゼはとてもおっとりと、優雅に声をかけてくる。もっと気のきいた言葉を返したいとは思いつつ、何もいい言葉が浮かばなかった。


 無言でまごまごしていると、今度はバルドゥルまでもが会話に加わってきた。


「それにしても、兄さんがルイーゼを袖にしてまで平民の女性を選ぶなんて、思いもしなかったな。……また前みたいに、気の迷いなのでは?」


 バルドゥルがやはり穏やかに、とんでもないことを言い始める。食卓の全員の目が、彼に集まった。それからちらちらと、私のほうを見る。あまり好意的とは言えない視線にいたたまれなくなって、そっと身をすくめた。


「兄さんは前の時だって、『真実の愛を見つけた』とか何とか言って、無理やり婚約を破棄してしまっただろう? 私たちがみんなで止めたのに、聞く耳も持たずに」


「……あの時のことは、愚かだったと思う。だが、今回は違うのだ。私にとって彼女は、まぎれもない運命の相手だ」


 コンラートは真剣な顔で、まっすぐにバルドゥルを見つめている。バルドゥルは困ったように笑うと、少しためらいながら言葉を返した。


「それは、兄さんがもうここには戻れないと勘違いしていたから、そう思ったんじゃないかな」


「どういうことだ、バルドゥル」


「もう戻れない。どこにも行く当てがない。兄さんはそんな風に絶望していたから、その時たまたま出会った彼女に、救いを求めてしまったのかもしれない」


 困惑するコンラートに、バルドゥルはたたみかける。淡々と、しかし容赦なく。


「兄さんは、もしここに戻ってこられると知っていたなら、それでも彼女に愛を誓っただろうか?」


「ああ、もちろんだ」


 自信たっぷりに、コンラートが答える。みな、大いにあきれつつも納得しているようだった。


 でも私は、気づいてしまった。ほんの一瞬、他の誰も気づかないほどの短い間、コンラートがためらったことに。


 きっとバルドゥルの問いは、コンラートにとっては思いもかけないものだったのだろう。そしてコンラートは、一瞬だけ考えてしまったに違いない。もしも違う形で私と出会っていたなら、今の自分があったのだろうか、と。


 そう思ったら、胸がちくりと痛んだ。彼が私を愛してくれている、そのことを疑ってはいないけれど、どういう訳か悲しくてたまらなかった。


 逃げ出したい。ここから、いなくなりたい。あの日、宿場町で女たちに囲まれているコンラートを見た時と似た感情が、どんどんわき上がってくる。私はここにいるべきではないという思いと、こんなところにいたくない、何も見たくない、聞きたくないという思い。


 けれどそんなことをしたら、コンラートが恥をかいてしまう。いや、私がいることで彼は既に恥をかいているのかもしれないけれど。


 向かいに座るルイーゼを見習い、行儀の良い微笑みを必死に浮かべる。そんな私の上を、和やかに談笑する声がすべっていった。

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― 新着の感想 ―
[一言] コンラートにがっかり
[一言] 彼の親類縁者の反応は予想通りですが、彼自身がこんなにも無神経だったとは! 彼女は違う未来を選ぶ方が穏やかに過ごせたようです。 そもそもこの未来は彼女が選んだのではなく、彼が押し掛けてきた未来…
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