32.全く違う世界
バルドゥルの書状が届いてから一週間後、私はコンラートと一緒に迎えの馬車にゆられていた。目的の屋敷までは、馬車でまる半日かかるらしい。
彼がかつて暮らしていた屋敷は、思ったよりずっと近くにあるようだった。かつて私が住むカシアスの森に転がり込んできた時のコンラートは、土ぼこりにまみれてぼろぼろだった。だからてっきり、もっとずっと遠くからやってきたのだろうと思っていたのだけれど。
行きに一日、帰りに一日、あちらに滞在するのが丸三日。その間の猟犬たちとアデルの世話は、テオが請け負ってくれた。
そうして私とコンラートは手持ちの一番いい服に着替えて、森の外にやってきた馬車に乗り込んだのだった。
正確には、コンラートが着ているのは一番いい服ではない。彼が持っている中で一番上等なのは、彼が私の家に帰ってきた時に、彼が実家から着てきた服だ。でもその服は、たんすの一番奥にしまい込まれたままになっていた。
「これは私が君と共にあの森で暮らしながら、自分の力で手に入れた一番いい服だ。何を恥じることがあろうか」
そう言って、コンラートは胸を張っていた。けれど私は、不安でいっぱいだった。
「……やっぱり私、場違いだと思う」
今乗っている馬車は、これまで見たことがないくらい豪華なものだった。コンラートによれば、この馬車は伯爵家の人間が日常的に使っているものらしく、そこまで上等なものでもないのだそうだ。しかし私には、恐ろしくきらびやかなものだとしか思えなかった。身の置き所がないように思えてしまう。
たかが馬車一つでこんな風に思わされるのなら、屋敷に足を踏み入れたらどんな気持ちになるのだろう。コンラートの親戚たちに会って、祝いの席に顔を出して。
弟のように可愛がっていたバルドゥルに、私を会わせたい。そんなコンラートの願いをかなえるためとはいえ、この五日間は大変なものになりそうだった。
その日の夕方、私たちは目的の屋敷にたどり着いた。コンラートが生まれ育ち、そしてこのたびバルドゥルが継ぐことになる、伯爵家の当主が代々住まう屋敷。
夕日の名残に照らされた屋敷は、やけに荘厳にそびえ立っていた。その様を見ていたら、こちらを威嚇しているイノシシをなぜか思い出してしまった。何とはなしに身構えてしまう。腰にいつもの山刀がさがっていないのが、どうにも落ち着かなかった。
コンラートはそんな私の戸惑いに気づいていないのか、優雅な仕草でこちらに手を差し出してきた。ちょうど、彼が王子様を演じていた、あの劇の時と同じように。
無言でその手を取り、いかめしい屋敷に向き直る。私の覚悟が決まるより先に、コンラートが歩き出した。
そうして私は、生まれて初めて、貴族の屋敷に足を踏み入れたのだった。自分でもおかしくなるくらい、おっかなびっくり。
屋敷の中も、外側に負けず劣らず豪華で、威圧感にあふれるものだった。妙に古めかしいのに、傷んだ感じが全くない。
私たちが屋敷の大きな扉をくぐってすぐに、黒い細身の服をまとった壮年の男性が、きびきびとした動きで近づいてきた。
一瞬この男性がバルドゥルかと思ったが、目の前の彼はコンラートよりも年上だ。ならばほかの親戚なのだろうか。首をかしげている私に、彼は執事だよ、とコンラートが小声でささやいてきた。
ここに来る前に、彼の親戚たちや、使用人の種類について大まかに説明してもらった。執事というのは、使用人の一種だ。けれど目の前の男性は、私には貴族としか思えなかった。品があって優雅で、知性も感じられる。それなのに、使用人だなんて。
呆然とする私に、執事の男性は品よく微笑みかけてきた。それから私たちに向かってうやうやしく頭を下げる。
「コンラート様、お久しゅうございます」
「ああ、久しぶりだな。私はここに戻ってくる気はなかったのだが、バルドゥルの祝いの席とあらば、出ない訳にもいくまい」
たいそう親しげに、そして気楽に、コンラートは執事と言葉を交わしている。自分が屋敷とはまったくそぐわない貧相ななりをしていることなど、気に留めている様子もない。
それから執事の案内で、私たちは屋敷の奥へと進んでいった。広い屋敷の中には人の気配がなく、しんと静まり返っている。森の静けさとは違う、どことなく不気味な雰囲気だ。
「バルドゥル様、コンラート様をお連れいたしました」
執事が扉に向かってそう呼びかけると、中から返事があった。それに続いて、執事が扉を開け、私たちを中に通す。
そのとたん、柔らかな声に出迎えられた。
「兄さん、来てくれて嬉しいよ」
「久しぶりだな、バルドゥル。元気そうで何よりだ」
扉の向こう、ひときわ豪華な部屋の奥。そこに立っていたのは、穏やかな笑みを浮かべた若い男性だった。彼こそが、今回私たちを呼んだバルドゥルらしい。
彼がまとっているのは、とても上等な服だ。あの劇の時にコンラートが着たものと、形だけは良く似ている。けれど素材も装飾も、こちらのほうが遥かに上だ。狩人でしかない私にも、そのことは一目で分かった。
柔らかな栗色の髪に、コンラートと同じ水色の目。少し目じりの下がった、整った柔和な顔。バルドゥルは両手を広げ、満面の笑みをコンラートに向けていた。
コンラートはバルドゥルに笑い返すと、私とバルドゥルを交互に見た。
「バルドゥル、彼女がゾフィーだ。ゾフィー、彼がバルドゥル。彼は私の従弟にして、この家の次期当主だよ」
緊張してしまって、言葉がうまく出てこない。仕方なく、無言で小さく頭を下げた。
そろそろと顔を上げて、もう一度バルドゥルを見る。コンラートと同じくらいの年の、やはり見事な美形だ。顔はとても穏やかに笑っているのに、その目はやけに冷静で、私をじっと観察しているようにも思えた。
「初めまして、ゾフィーさん。私はバルドゥル。君の話は、コンラート兄さんからずっと聞いていたよ」
コンラートのものより穏やかな、控えめな声だ。けれどその口調は良く似ている。貴族だからなのか、あるいは二人が従兄弟だからなのか。
それからも、バルドゥルはあれこれと話しかけてくれた。けれど、ちっとも頭に入らなかった。部屋の雰囲気とバルドゥルの視線に気おされて、私はすっかり縮こまってしまっていたのだ。コンラートはにこにこと笑いながら、そんな私たちを見守っていた。
「……疲れた」
ようやくバルドゥルとの話も終わって、これから三日間の宿となる客間に案内された。コンラートと二人きりになった私は、大きく息を吐きながら椅子に腰を下ろした。
あきれるくらい美しい布が張られた椅子は、私の体をふんわりと受け止めていた。雲の上に座ったら、こんな感じかもしれない。
壁には白いしっくいが塗られ、床には美しいじゅうたん。大きな家具も置かれた小物も、何から何までがあきれるほど豪華だった。
「やはり慣れない馬車は、大変だったろうか。それともバルドゥルとうまが合わなかったのだろうか。なんだか、君の様子がおかしいように思えるのだが」
向かいの椅子に座ったコンラートは、いたって真面目に私のことを心配してくれていた。確かに馬車は不慣れだが、疲れ果てるほどのものではなかった。バルドゥルの目つきは気になったけれど、彼は悪い人ではないと思った。
だから私を疲れさせているのは、きっとこの屋敷そのものだ。何もかもが豪華なここにいると、ここは私のいるべき場所ではないのだと、そう思えてしまうのだ。
けれどそのことを、コンラートに告げる気にはなれなかった。彼にとってこの屋敷は、大切な故郷だから。
「大丈夫。あと三日、ちゃんと頑張れる」
明日が一族の顔合わせの食事会で、明後日は一日自由。最終日の夜に、身内だけの舞踏会だ。正直今から気が重いけれど、そうも言っていられない。
コンラートは私を選んで、この屋敷を、伯爵家の人間としての地位を捨てた。私にそれだけの価値があるのだと、彼の一族に少しでもそう思ってもらいたい。私のためではなく、彼のために。
私が馬鹿にされるのは仕方がない。けれど、コンラートが私のせいで白い目で見られるのは嫌だった。だから私は、これからの三日間を頑張らなくてはならない。
こっそりと決意しながら小さくうなずく私に、コンラートはほっとしたように笑いかけた。
「そうか。……どうかここを自分の家だと思って、くつろいでくれると嬉しい。それでは、私は自分の客間に戻る。すぐ隣だから、何かあったら遠慮なく訪ねてきてくれ」
そう言うと、コンラートはするりと部屋から出ていった。どことなく、浮き足立った様子だった。
「ここを自分の家だと、って……絶対に無理」
柔らかな椅子の上で身を縮めて、ひとりため息をついた。先行きが、ちょっぴり不安だった。