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31.春先の使者

 この冬はいつもより長かった。それでも年が明けてしばらくすると、少しずつ雪は解けていった。春が来たのだ。


「そろそろ、また畑の手入れをする時分だな。今年は何を植えようか。青空教室を始めるにはまだ少し寒いし、存分に家の仕事ができる」


 コンラートは浮き浮きとそんなことを言いながら、ちょくちょく窓の外を確認するようになった。冬の間中真っ白だった外の景色に、ちらほらと黒い土の地面が見え始めている。


「……あなたが帰ってきて、もうすぐ一年」


 私のそんなつぶやきに、コンラートがおや、と目を見張る。冬の間にすっかり大きくなったアデルは、彼の右肩に前足を、左肩に後ろ足を乗せていた。大きくなっても、肩の上が好きなことに変わりはなかった。


「そうか。もうそんなになるのだな。いや、まだそれだけ、か。もう何年も、君と過ごしているように思えていた」


 笑顔のコンラートとは裏腹に、私はどうにもゆううつなものを感じずにはいられなかった。二年前の春、ちょうどこんな日、コンラートの父が突然やってきた。そうして、私の幸せな日々は一度終わりを告げた。そのことを、思い出さずにはいられなかったのだ。


 けれどそんな思いをコンラートに話す気にはならなかった。過去のささいなことにとらわれて、勝手に落ち込んでいることを、彼に知られたくはなかったのだ。


 こういう時は、自分があまり表情豊かでなくて良かったと思う。私はいつも通りを装いながら、コンラートの言葉に耳を傾け続けた。


 その時、部屋の中でくつろいでいた猟犬たちが一斉に立ち上がった。玄関の方を見すえて、じっと身構える。楽しげに話していたコンラートが、その様子に首をかしげた。


「おや、誰か来たみたいだな」


 その頃には私の耳にも、雪の残る地面を踏みしめて歩く人の足音が聞こえてきていた。時々雪に足を滑らせているのか、やけにきびきびとしたその足音は、時折大きく乱れていた。


 やがて、玄関の扉が叩かれた。続いて、男性の声がする。ここにコンラート様はおられますか、と。


 聞き覚えのない声に、普段耳にしない丁寧な口調。私はとっさに何も言えなかった。コンラートがすっと玄関に歩み寄り、扉を開ける。彼の肩の上では、アデルが身をこわばらせていた。


「コンラートは私だ」


 その言葉に、扉の向こうにいた男性はあからさまにほっとした顔をした。身なりの良い、穏やかな雰囲気の中年の男性だ。


「ああ、お会いできてようございました。こちらに、バルドゥル様からの書状がございます。どうぞ、お受け取りください」


 男性はうやうやしくそう言いながら、上質な紙の書状をコンラートに差し出している。こちらに背を向けているせいでコンラートの表情は見えなかったが、その肩がぴくりとこわばったように思えた。




 外で待っているという男性を玄関の中で待たせて、私はコンラートと一緒に彼の部屋に引きこもった。


 なんでも男性は、コンラートの返事を持って帰らなくてはならないらしく、それまでひたすら外で待つつもりだったらしい。けれどまだ辺りは雪が残っているし、ずっと外にいたら凍えてしまう。


 だからコンラートが返事を書くまで、そこで待っていてもらうことにしたのだ。万が一にも男性が悪さをしたりしないように、猟犬たちが見張ってくれている。


「……バルドゥルが、今さら私を呼びつけるとはな……」


 コンラートは書状に目を通しながら、深々とため息をついていた。


「そのバルドゥルって、誰?」


 恐る恐る尋ねると、彼は柔らかく苦笑しながらこちらを向いた。


「一年前に、私がここに戻ってきた時に説明したことを覚えているだろうか。あの時私は、当主の座を従弟に押しつけてきたのだ」


「うん」


 その話ならしっかりと覚えている。わざわざここまでやってきた父親の手によって実家に連れ戻されたコンラートは、持ちかけられていた婚約の話をどうにか白紙に戻し、そして当主の座を従弟に譲って、身一つでここに戻ってきたのだ。


「その従弟が、バルドゥルだ。私は家を出る時、『もう私のことは忘れてくれ』と言い残しておいたのだが」


 コンラートは肩をすくめ、書状を見せてきた。普段使わない仰々しい文面のせいで分かりづらかったが、どうにか内容は理解できた。


「……祝いにきて欲しい、って言ってるの?」


「そうなのだ。このたび彼は、正式に我が伯爵家の当主に就任する。そのことを祝う席を設けるので、私にも出て欲しいと言っている。……良ければ君も一緒に、と」


 思いもかけない言葉に、しっぽを踏まれた猫のように飛び上がった。ぶるりと身震いして、首をぶんぶんと横に振る。こんな森の中で生まれ育った私が貴族の屋敷に足を踏み入れるなんて、考えただけで恐ろしい。


 それに、コンラートがそちらに行くというのも、実のところ気が進まなかった。彼は貴族としての暮らしを捨てて、私のところに来てくれた。けれどまた貴族の世界に触れたら、もう私のところに戻ってきてはくれないのではないかという恐怖が、心の片隅にほんのひとかけらだけ残っていたのだ。


「……バルドゥルさんって、どんな人なの」


 後ろめたい思いをごまかすように、そんなことを尋ねる。眉間にしわを寄せていたコンラートは、ぱっと明るく笑った。


「彼は私の一つ年下で、兄弟のように育ったのだ。頭の固い父上とは違い、中々ものの分かる男だ」


 そう語るコンラートの顔には、はっきりと喜びが浮かんでいた。その表情だけで、私は悟ることができた。彼とバルドゥルは、固い絆で結ばれているのだと。


「仲、いいんだね。だったら、お祝いに行ってあげて」


 だから、素直にそんな言葉を告げることができた。コンラートは、バルドゥルのお祝いに出るべきなのだと、そう思えたから。私は、ただコンラートが戻ることを信じて待っていよう。


 しかしコンラートは、すぐに返事をしなかった。また眉間に深いしわを刻んで、何事か考えている。


「……ゾフィー。君に、折り入って頼みがある」


 なんとなく嫌な予感を覚えつつ、小さくうなずく。彼はいつになく重々しい口調で、短く言った。


「君も、私と共に来て欲しい」


 今度は、私が返事に詰まる番だった。彼の望みなら、かなえたい。でも、貴族の屋敷に近づくのは、やっぱり怖い。


「君は私にとって、たった一人のかけがえのない女性なのだ。できることなら、その君をみなにも見てもらいたい。私はこんなにも素晴らしい女性のおかげで生まれ変わることができたのだと、バルドゥルに教えてやりたいんだ」


 その言葉に、ようやっと心が決まった。コンラートは、私の兄代わりであるテオに認めてもらうために、あんなにも一生懸命に頑張っていた。だったら私も、彼の弟のような存在であるバルドゥルに認めてもらうために、努力するべきだ。そう思ったから。


「……うん。正直怖いけど。頑張る。あなたのためだから」


 それを聞いてコンラートが見せた表情に、決意して良かったと思えた。彼は、感動のあまり泣きそうになりながら、それでも満面の笑みで私をしっかりと抱きしめてきたのだ。


「ありがとう、ゾフィー。大丈夫だ、何があっても私がついているから」


 そんな風に抱きしめられているのはとても恥ずかしかったし、玄関のところで待っている男性のことが気にかかって仕方なかったが、コンラートのしたいようにさせておくことにした。


 前よりもたくましくなったコンラートの体の感触にどぎまぎしながら、この先に待ち構えているものに思いをはせて、そっとため息をついた。

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